「汚言」で飾る人の教育観
匿名さん,コメントありがとうございます。
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dolceさんに説得型のセッションを試みても難しいと思いますよ。
難しいのは心理的障壁を形成してしまう癖があるということではないかなと思います。
その障壁を実感されていると思います。
そういう人を見捨てないでどうしたらその心理障壁をなくせるのか、どうしてそういう障壁を築くのか、そういう障壁を築いて生き延びてきた経緯があるということは想像ですが、十分可能性があります。
障壁を解いても大丈夫だという潜在意識をどこかで作ってあげるという方法が考えられますが、多分ネット上でそれは難しいでしょう。
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>dolceさんに説得型のセッションを試みても難しいと思いますよ。
私もそれは重々承知の上です。
「下手な切り返しだなあ」とお思いの方も多いでしょう。
それも,このブログのねらいの一つです。
一つ一つのやりとりから,
ここではこう書いた方がよいのではないか。
ここでそれを書いたら逆効果なのではないか。
ここの表現によって,端的に「教育への姿勢」が示されている・・・・
などのように,ご自分の見解をもっていただくのがよいかと。
失敗を「他の可能性」を探る手がかりとする,というスタンスの表れとお考えください。
dolceさんは「他人の心が読めるのか」とさかんに記していらっしゃいますが,
「反応のパターン」がこれだけ集積してくれば,それもある程度,可能になるでしょう。
ずーっとその人が書いている文章を読んでいれば,ある程度,その人の「心」も読めるようになってくる,あるいは,読めるような気になってくるから,共感がもてるようになったり,反発したり,次はこうくるのではないかと予想できたりするわけですね。
コミュニケーションの基本は,相手の考えていることへの想像力をもつことでしょう。
しかし,コミュニケーションを図る上で,自分の心に「障壁」をつくらないと生きていけない人がいます。
「強がり」にしか見えない哀れな「汚言」が最後のよりどころになっている人もいます。私は,それを奪い去るはたらきかけはしないでおこうと思います。
自分がされたら嫌だと思うことを人にしてしまう子どもへの,格好の教材がdolceさんの言葉です。
「これじゃ子どもの喧嘩だな」という印象は,すでに多くの方がもたれていることでしょうね。
同じパターンの繰り返しから,反応の「周期」を探ったりするのも,興味深い作業となります。
コメントがあちらのブログに入れられるとやりやすいのですが,「はい」と同意してもらう質問を繰り返した上で,最後に教育の根幹にかかわるものを問い,自らの矛盾に正対してもらう,そんな手法も考えました。
ただ,dolceさんの場合は,納得した=同意した言葉には何のリアクションもとらないというスタンスですので,会話が途中で止まってしまうのです。
エンドレスに,「対応がめんどくさそうな」課題を提示してくる。
「攻撃が最大の防御」という姿勢で貫徹されている。
相手に対して「頭のおかしい人」と表現する人間に,まともなコミュニケーションを図ろうとする気持ちがないことだけは,明らかでしょう。
「教育失敗学の先生なら,そういう言葉を使う人に対して,どうして
『教育をする立場の人間としての資質に欠ける』
という批判をしないのか?」
と思われている人もいるかもしれません。
「採用試験に合格した指導力のある教師より・・・・」という言葉には,
「資質に欠ける人間が合格してしまう」ことへの憤りが含まれていることは,容易にご想像いただけるでしょう。
しかし,勉強が苦手な生徒に対して,
「お前は勉強ができないな」という非難の仕方を教師はしないものです。
私がdolceさんの本質を直接的に表現してしまえば,そういう非難の仕方をする教師を容認していることになってしまいます。
「指導」とは,
目標を指し示して,そこへと導くこと
です。
適切な目標を指し示すことができる力
そこへと適切に導くことができる力
が,「指導力」です。
「指導力不足」という言葉に敏感に反応する人が,どのような自覚をもった人かは容易に想像できます。
自分を守るための,心の障壁は自然に形作られます。
心に障壁をもって他を攻撃する人がいた場合に,
「障壁を壊す」「障壁を取り除く」という方法ではなく,
「障壁」はそのままでいいから,
障壁の上に自らの意思で立ってもらって,見通しのよい,見渡しのきく,そういう場所から言葉を発してもらうことができるようになることを目指していこうと思います。
自らの非の部分には全く言及せず,相手の弱そうなところを繰り返しついていくクレーマー。
対応が長時間にわたるクレーマーの共通点です。
子どもへの教育の本質からどんどん離れていくことで,浮いているご自分に時々気づいてくれることが,今のところ,せめてもの救いです。
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