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「汚言」で飾る人の教育観

 匿名さん,コメントありがとうございます。

**********************

dolceさんに説得型のセッションを試みても難しいと思いますよ。
難しいのは心理的障壁を形成してしまう癖があるということではないかなと思います。
その障壁を実感されていると思います。

そういう人を見捨てないでどうしたらその心理障壁をなくせるのか、どうしてそういう障壁を築くのか、そういう障壁を築いて生き延びてきた経緯があるということは想像ですが、十分可能性があります。

障壁を解いても大丈夫だという潜在意識をどこかで作ってあげるという方法が考えられますが、多分ネット上でそれは難しいでしょう。

**********************

 >dolceさんに説得型のセッションを試みても難しいと思いますよ。

 私もそれは重々承知の上です。

 「下手な切り返しだなあ」とお思いの方も多いでしょう。

 それも,このブログのねらいの一つです。

 一つ一つのやりとりから,

 ここではこう書いた方がよいのではないか。

 ここでそれを書いたら逆効果なのではないか。

 ここの表現によって,端的に「教育への姿勢」が示されている・・・・

 などのように,ご自分の見解をもっていただくのがよいかと。
 
 失敗を「他の可能性」を探る手がかりとする,というスタンスの表れとお考えください。

 dolceさんは「他人の心が読めるのか」とさかんに記していらっしゃいますが,

 「反応のパターン」がこれだけ集積してくれば,それもある程度,可能になるでしょう。

 ずーっとその人が書いている文章を読んでいれば,ある程度,その人の「心」も読めるようになってくる,あるいは,読めるような気になってくるから,共感がもてるようになったり,反発したり,次はこうくるのではないかと予想できたりするわけですね。

 コミュニケーションの基本は,相手の考えていることへの想像力をもつことでしょう。

 しかし,コミュニケーションを図る上で,自分の心に「障壁」をつくらないと生きていけない人がいます。

 「強がり」にしか見えない哀れな「汚言」が最後のよりどころになっている人もいます。私は,それを奪い去るはたらきかけはしないでおこうと思います。

 自分がされたら嫌だと思うことを人にしてしまう子どもへの,格好の教材がdolceさんの言葉です。

 「これじゃ子どもの喧嘩だな」という印象は,すでに多くの方がもたれていることでしょうね。

 同じパターンの繰り返しから,反応の「周期」を探ったりするのも,興味深い作業となります。

 コメントがあちらのブログに入れられるとやりやすいのですが,「はい」と同意してもらう質問を繰り返した上で,最後に教育の根幹にかかわるものを問い,自らの矛盾に正対してもらう,そんな手法も考えました。

 ただ,dolceさんの場合は,納得した=同意した言葉には何のリアクションもとらないというスタンスですので,会話が途中で止まってしまうのです。

 エンドレスに,「対応がめんどくさそうな」課題を提示してくる。

 「攻撃が最大の防御」という姿勢で貫徹されている。

 相手に対して「頭のおかしい人」と表現する人間に,まともなコミュニケーションを図ろうとする気持ちがないことだけは,明らかでしょう。

 「教育失敗学の先生なら,そういう言葉を使う人に対して,どうして

 『教育をする立場の人間としての資質に欠ける』

 という批判をしないのか?」

 と思われている人もいるかもしれません。

 「採用試験に合格した指導力のある教師より・・・・」という言葉には,

 「資質に欠ける人間が合格してしまう」ことへの憤りが含まれていることは,容易にご想像いただけるでしょう。

 しかし,勉強が苦手な生徒に対して,

 「お前は勉強ができないな」という非難の仕方を教師はしないものです。

 私がdolceさんの本質を直接的に表現してしまえば,そういう非難の仕方をする教師を容認していることになってしまいます。

 「指導」とは,

 目標を指し示して,そこへと導くこと

 です。

 適切な目標を指し示すことができる力

 そこへと適切に導くことができる力

 が,「指導力」です。

 「指導力不足」という言葉に敏感に反応する人が,どのような自覚をもった人かは容易に想像できます。

 自分を守るための,心の障壁は自然に形作られます。

 心に障壁をもって他を攻撃する人がいた場合に,

 「障壁を壊す」「障壁を取り除く」という方法ではなく,

 「障壁」はそのままでいいから,

 障壁の上に自らの意思で立ってもらって,見通しのよい,見渡しのきく,そういう場所から言葉を発してもらうことができるようになることを目指していこうと思います。

 自らの非の部分には全く言及せず,相手の弱そうなところを繰り返しついていくクレーマー。

 対応が長時間にわたるクレーマーの共通点です。

 子どもへの教育の本質からどんどん離れていくことで,浮いているご自分に時々気づいてくれることが,今のところ,せめてもの救いです。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より