ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« dolceさんが紹介してくれた中学校教師の「ひどい一言」 | トップページ | NHKスペシャル「職場を襲う“新型うつ”」での尾木ママの説明の誤りを正します »

指導主事と管理職,教育長との関係 ~教育と組織~

 おそらく小学校には,

 「組織で教員を育てる

 という発想に乏しいのでしょうね。

 多くの教員は,校長や教頭に「育てられている」という実感を持てずに,仕事をされているのでしょう。

 校内研究,校内研修という「公的なもの」はさかんでも,日常的にはどうなんでしょう。

 お互いに授業をみることができない,というのもネックなのでしょうが。

 中学校の場合は,組織で動かないとどうにもならないので,普通に生活を送ることで,組織に育てられ,自分がやがて育てる側にまわる・・・・ことが「よい学校」ではうまく循環しています(学校規模が小さくなるほど,これが難しくなります)。

 テストの問題も,試験監督に入れば自然とみることができますから,授業でどういう工夫をしているのかも,問題をみればだいたいわかります。

 小規模の学校では,

 わざわざ主幹や副校長という立場をつくらなくても,その機能を果たせていたとしたら,作るまでもない,という発言を私もしたことがあるかもしれません。

 ただ,役が人間をつくる,という考え方もあります。

 子どもも,そうでしょう?

 (学級委員や児童会役員を選出しない小学校もあるようですが)

 その「役になる」ことで,自覚的な行動を「堂々と」(これは,教員に気に入られるため,などではなく,役として,という意味です)とることが,小学生にもできるようになる

 学校も同じような面があるのではないでしょうか。

 ちょっと誤解を招きそうなのは,校長や副校長になるには,主幹になってからではないといけないため,主幹になる目的が管理職になることだと思われるかもしれないこと。

 教師によっては,そんなつもりはなく,主幹になっている人をたくさん知っています。

 そして仕方なく,というか,周囲に説得されて,管理職をめざすようになった人,管理職になった人も,たくさん知っています。

 さておき,そういう役の人が生まれるおかげで,

 その人が,という評価の仕方ではなく,

 その役としての仕事が,という評価の仕方ができるようになります。

 これなら,マイナスの評価をするにしても,抵抗感が和らぐでしょう。

 組織とは,このように,

 人間と仕事とを切り離してみることができる仕組みであり,だからこそ,

 思う存分,批判を加えることができるのです。

 私は,管理職候補者として,指導主事の仕事をしていました。

 (ただ,学校現場に行くことなく,ずっと教育委員会に残されそうな感じだったことが,自治体を去ることの理由の一部になっていたかもしれません。)

 管理職候補者としての研修が充実していましたから,また,指導主事として小・中・高たくさんの管理職と仕事をしていましたから,管理職のコンピテンシーも想定にありますが,実は基本的には,教員のコンピテンシーと変わるところはありません。

 その方が,教員も管理職を評価しやすくなるでしょう。

 教育長との関係について。

 教育長が,校長の評定を絶対評価ではなく,相対評価で出すことを悩んでいるときに,ヒントを申し上げたことがありました。

 それを教育長が採用したかどうかはわかりません(その評価結果を知る立場にはいませんでしたから)が,たまたま一番下の評価になってしまった校長がどんなに力があった人かをPRすることで,教育長の評価への信頼性が高まり,自治体への期待が増す,という私の言葉には納得してくれたようでした。

 ただ,そういう自治体へは,課題のある人が送られてくることになる場合があるのは,公立の場合,仕方がないことですね。

 能力は高いのに,うまくそれが発揮できていない校長を,「うまく育ててほしい」と言われて嫌な気がする教育長か,そうでないかを,知る立場にいる指導主事という存在は,こわいものでしょう・・・・?

 教員は,ときに,管理職的な発想をしてみることも大事でしょう。

 なぜなら,子どもの教育を管理する中心であり,学校を背負っているのは,教員一人一人なのですから。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 経営ブログ 仕事術へ

« dolceさんが紹介してくれた中学校教師の「ひどい一言」 | トップページ | NHKスペシャル「職場を襲う“新型うつ”」での尾木ママの説明の誤りを正します »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

学校評価」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

大量採用の時代の教員は,同世代の人たちと切磋琢磨し合って,指導力を向上させるきっかけがあったと考えられます。

もし,そういう状況があったとしても,もともともっている能力や資質だけに左右されるとなると,やはり採用時の倍率がものを言うようになってしまう。

今の問題は,大量採用でありながら,小規模校が増えてしまっているために,切磋琢磨できる環境がないことです。

20年後の学校現場は,どうなっているでしょう・・・・?

私が思うに、学校という組織は、組合のためにあると考えている人が多いといえるのではないかな?ということです。

研修会は、組合に加入させるためのものであるという認識を持った管理職すらいるようですし、なぜ研修をしても進歩しないのかということです。
研修=何かする、ということだけで具体的な課題や目標、そういうことを明確にしないまま、手法だけ(短冊作って切り貼りしたりとか)そもそもそういうのは労働者としての研修であって人材育成とはほど遠い。

進歩する人は、自分で目標を持って自主的に夏休みとか自費で遠方(自治体と関係ないレベル)まで出かけて成果の発表をするのですが、ほんとに少数派です。

管理職はなにも考えないでただのメッセンジャーとしてしか機能していないケースがほとんど全部のように思います。

年功序列という事が生み出した無能な管理職の大量生産に問題があると考えてもおかしくないでしょう。

指導力不足、子供の親との不倫などをする問題教師が中間管理職になるケースも本来、組織をメチャメチャにしてしまう要因でもあるといえるでしょう。そしてその問題教師はほとぼりが冷めた頃、組合推薦で校長に、、、まさに悪夢ですね。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 指導主事と管理職,教育長との関係 ~教育と組織~:

« dolceさんが紹介してくれた中学校教師の「ひどい一言」 | トップページ | NHKスペシャル「職場を襲う“新型うつ”」での尾木ママの説明の誤りを正します »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より