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排除型の人間が語る小中連携のレベル

 排除するのが好きな人は,自分が排除したい人間を,「排除したがる人間」として捉え,排除する。

 私の記事を読んで,思い込みが強すぎるのか,完全に勘違いして,相手を排除しようとしています。

 私は,小学校から,中学生を排除しろ,と書いた覚えはありません。

 禁止などしなくても,ふつうの中学生なら,

 「小学校に遊びにいく暇などない」

 ということが,どうやら伝わらないらしい。

 なぜわざわざ小学校にまで行って,ものを壊そうとするのか。

 その理由を理解しようとしていない。

 小学校と中学校との間の垣根というのは,

 教師がつくってしまう面があるのは,あの記事で紹介されている通りですが,

 子ども自身が自らの成長の証として作ろうとする,

 そういうものでもあることを理解しようとしなければ,

 小中一貫校の教師などはつとまりませんよ。

 **************

 あちらの記事では,「小中一貫が子どもを荒廃へ導く」という言葉が,どのくらいの責任感をもって語られているのでしょうか。

 ダメ教師をもっとダメにする校長の一言とは,「制度が悪い。

 こうした,当事者でなくてすむ立場からの無責任な一言が,実は,最も教師らしい一言であることが,教育現場の悲劇なのです。

 当事者意識の欠如が,子どもの大人不信につながり,大人になってもそれでいいのだ,と受け止めた子どもは,同じような大人になっていく

*****************

 小中連携は,子どものためではなく,教員の意識改革のためだ。

 こういう「裏の事情」があることを,恥ずかしげもなく紹介してくれた方の度胸には感服いたします。

 行政が何もしなくても,お互いの役割を最大限発揮するために,必要な連携がとれている学校は,いくらでもあるのです。

 しかし,連携どころではない学校が多いのも確かなこと。

 ご紹介いただいている小学校には,「組織」としての行動原則がなく,

 校長に言われて初めて動き出す,そういう教師たちの姿が垣間見えました。

 教頭は何をしていた?

 生活指導主任は何をしていた?

 そんなことは,どうでもいいです。

 小中連携事業などはなくても,小学校と中学校の生活指導主任レベルの交流などは何十年も前からあったでしょう。

 その成果は何も見えない。

 記事からわかることは,

 「小中連携」とよんでいることは,事業としてのものではなく,ただの

 「仲良し集団」をつくるためだけの,大昔からやられていることに過ぎない,ということ。

 「仲良し集団」をつくりましょう,というのは,今,全国各地で取り組みが進められている「小中連携」のことではありません。勘違いする人がでてくると,困ります
 
 dolceさん流に解説すると,「集合の概念」が誤っている。

 こういうピンボケというか恐ろしく時代錯誤の人たちが多い地域で,

 小中連携を計画上にあげていくとき,行政がねらうのは,

 小学校の改革

 中学校の改革

 であり,それを同時に実現させることがねらい,ということになってしまうのです。

 あちらの地域ではどうかわかりませんが,

 中学校側としては,学校文化が異なる複数の小学校から子どもが進学してくると,そこで「文化間の衝突」が起こり,事前の情報が入ってこないと本当に混乱しますから,

 小小連携ができていることも重要になります。

 となりの小学校で何をしているか,知らないはずがない立場の人が,学校には4人ずついますが,それがだれのことだか,わからない人すらいるでしょう。

 集まっているだけで,帰ってから何もしていない学校ばかりだから。

******************

 小学校と中学校の関係で,

 子どもが遊びに行ける,行けない,などは,どちらでもよいのです。

 子どもと子どもとの交流がある,ない,それも,どちらでもよいのです。

 その前に,それぞれの学校で,もっとやるべきことはないのか?と自らに問うべきなのです。

 今は,それができないから,

 小中連携(一貫)を突破口に,自校の改革をしようとする動きになってしまう。

 「心を通わせよう」と本気で思っているのなら,

 それはまず,学校の中で,本気で行うべきなのです。
 
 まずは,それぞれの学校の中で,です。

 私の想像では,小学校で本当に「心の通う」教育を受けていた子どもなら,中学校に卒業した後,好んで小学校に遊びに行くことはありません。たとえ,中学校で「心が通い合う」経験で満たされなかったとしても。

 小学校の教師の中には,この理由がわからない人がいるかもしれませんが。

 「心」の問題に逃げ込もうとする教員たちによって,教育から何が奪われているか

 早く,気がつかなければなりません。

 手遅れにならないうちに。

 「心が通い合う」状況になる前に,どんな状況があることが必要か。

 そういう状況から逃げている子どもや教師たちによって,子どもの何が失われているか

 ちょくちょく実家に戻ってくる娘を見て,目を細めている父親に,地域の教育を担う力があるのですか?

********************

 NHKスベシャルで,「現代型うつ」の原因と対策が扱われていました。

 従来型の,責任感の強い,まじめな人がかかりやすい抑うつ症状ではなく,
 
 「自己中心的

 「精神的に幼い

 「すぐ人のせいにする

 「失敗を極度におそれる

 「つねに『いい子』であることを要求されてきた
 
 「人とぶつかり合った経験がなかった

 人たちが,たった「一言」で気持ちが折れて,職場に行けなくなる病気。

  ・・・・・「弱い人間」が「強くなれない」構造的な仕組みを解明していかなければなりません。

 小中連携を,本当に子どものために実施するためには,

 まずは,「きれいごと」にこだわるのはやめましょう。

 「あいつは話が通じない」「もう話さない」「心がない

 なんて態度がとれる人間に,本当の「心の通い合い」を語る資格があるのかどうか,

 小学生に話し合わせてみたらいかがでしょう?

********************

 また,

>片方ではコンピテンシーの先生のところで働きたいと言い、片方では教育の窓の先生のところで働きたいと言う。

 なんて言葉を記してくれたカルロスさんへ。

 心の交流に感動するのは,人間として当然のことですが,どうか,もっと小学校教育の意味を掘り下げてお考えになってみてください。

 そして,今の子どもたちにとって本当に必要なものは何かを,もっと管理職に対してぶつけてみてください。

 できれば,地域の中学校の管理職にも。できれば,地域の親や保護者に対しても。

 「尾木ママの世代の大人が,最もコミュニケーション能力を欠いているように思える」という社会学者の言葉。

 世代は異なりますが,私自身も,これをしっかり受け止めなければなりません。

 一部の小学校の教師の視野は狭いです。間違いなく。そして,心の許容範囲も,想像以上に狭く,「排他的」です。

 本当はもっと強く書きたいことがありますが,もう一つの記事でも書いた通り,刺激が強すぎるでしょうから,やめておきます。

 中学校の教師になら普通に言えることでも,小学校の教師には無理であることを,リアルな関係の中でも痛感しているくらいですから,無理はしません。これ以上に刺激が強い言葉があるのか,と思われるかもしれませんが,小学校という職場に慣れきった人たちには,逆効果にしかならないようです。

 中学校教師は,泥臭くてすみません。

 中学校では,「排除型」の人間にもしつこくからんでいかないと,子どもが犠牲になるのです。

 掛け違いのボタンをはずす作業に1年間もかかることがあるのです。

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コメント

小中一貫というのが、なにか良いことずくめであるかのように考えている教師が多いのに、とても危機感を覚えます。

元々、小学校と中学校はなぜ別々になったのか、そこの配慮が完全に抜けてしまっているということにあります。

当然ながら、子供の体格の差、と第二次性徴の問題があり、ともすると少年による性犯罪の温床にもなりかねないという危険性があります。

教師の性犯罪ですら一般職業の15倍という発生率という統計があり、これは圧倒的な力の差があるからこそ生じる問題だといえるのです。

http://www.youtube.com/watch?v=oB3aGlHnedM
↑こういう副読本の内容も信じられないです。小学校教師の意識というのがどれほど子供を無視して現状から乖離したものになっているという証拠のようなもの。

もし、小学校教師が進歩するとしたら、大学の工学部とかで線形代数や複素解析を短期間でも講義を行ってもらって、小テストで、いかに小学校レベルのきそがおろそかになっているかを実感させることなら多少期待できます(大学生は大変迷惑ですが)。平均の意味がわからない大学生、分数の足し算が出来ない大学生そういう未完成かつ手抜き教育(実際には教育から逸脱している)をやっているという認識をまずさせなければ成りません。

中学校と一緒に授業をやってどれほどの効果があるのか大変疑問です。
それよりも上記のリンクにあるような不倫・離婚の勧めという指導を教員同士で実践してしまうのではという懸念があります。

小学校教師は考え方もその心の育ちも中学生レベルの人が多く、閉鎖的な空間となっていますから、小中一貫が教師の出会いの場と化する可能性が高いでしょう。
リンクの小学校むけ副読本に従えばということではありますが、、、

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より