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自分の子どもの担任になろうとは思わない

 小学校の教員には,公私の境目がない人が多い。

 と書くと,そんな馬鹿な,と思う人がいる一方で,どきっとする人もいるでしょうね。

 それでいいのだ,という人もいれば,だからだめなんだ,という人もいるでしょう。

 小学校で教師と児童が「お友達感覚で話している」ことが「異常であること」を,なかなか理解してもらえない人がいるものです。

 同じ学年なのに,やっていることがまるで違う学級があるのは,中学校からすれば理解できません。

 組織の動きではなくて,個人の動きが中心になるのですね。

 小学校教師のブログを読むと,恐ろしい文言に出会います。

 たとえば,「クラスを手放すとき」のような。

 担任していた学級を私物化していた証拠です。

 本人は,責任をもって学級を経営してきたつもりなのでしょうが,少なくとも「あなたのものではない」のです。

 「私共(わたくしども)空間」というのは私の造語ですが,小学校の「学級王国」が,その代表的なものです。

 とにかく,独特のルールなりしきたりが決められ,子どもはそれに従って動かされているわけですからね。

 頭のいい子は,担任の考えていることを予想して,望んでいる通りに動く行動パターンを身につけますから,行動原理が似てきます。いつの間にか,気の毒に,「私のクラスの担任の言っていることは正しい」と信じ込んでいく。

 ちょっと斜に構える子どもは,本質的な理解をしているのに(本質的な理解をしているからこそ),担任から嫌われ,評価されない。

 「クラスを手放す」ときに,わざわざ「次の担任の先生の言うことをよく聞くんですよ」と話しかけてくれる人もいる。

 こういう「風通しの悪い」空間からやってきた子どもたちは,中学校の教師にはとてもよくわかります。


 公私混同の極め付けは,「自分の学級に自分の子どもも入れたい」と思うような感覚ですか。

 もし,本気でそんなことを思っている人がいたとしたら,という前提で,思ったことを述べていきます。

*******************

 監督の息子が同じチームにいるというやりにくさは,想像がつかないことでしょうか。

 担任の子どもが,自分のクラスにいたら,どうですか?

 気を使いますよね。周りの子どもは。

 子ども集団には,子ども集団だけでもっておきたい秘密もある。

 それは,当然,担任の子どもとは共有できません。

 そして,一番気の毒なのは,子ども本人でしょう。

 自分の子どもには評価を甘くつけるのではないか,という「しけた疑義」が寄せられることにはふれるまでもありません。
 
 そんなことより,子どもにかかるプレッシャーが半端ではないことを想像することはできないのでしょうか。

 極小規模の学校では,学校の存続のためにわざと子どもが多い教員をとって,児童数を確保する,なんてことをしますが,そういうケースではなく,一般の学校で,親が自分の担任って・・・・・。

 学校でも,家に帰っても,親と一緒にいなければならないことって・・・・。

 先日,5歳の娘が,私が教師であることを改めて知って,「パパが先生なんてできるの?」と心配してくれました。

 私が現場でどういう先生なのかは,娘には知ってほしくないですね・・・・。

 「あんな担任よりは,自分が担任になったほうがまし」という気持ちはわからないではないですが・・・。

 ああ,この言い回しは・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より