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「おかしくなった小学校」の実態を教えてください!

 toshiさんは,相変わらず焦点ボケで,お答えがしにくいのですが,

 私が見ているのはごくごく単純なことです。

 「心からの叫び」は,15歳の思春期の子どもを形容するくらいにとどめておきましょう。

 大人なら,叫ぶ内容を冷静に判断して言葉にしてください。


 与えられた条件を最大限に生かして,指導力を発揮できているかどうか。

 自分の指導力を棚上げして,環境のせいにしたり条件のせいにする人間たちが,

 50代すぎの教師には特に多いでしょう。

 簡単な話。文句を言っている暇があるなら,やるべきことがいくらでもある

 何も知らない「おやぢ」さんよりはましですが,文章全体から漂ってくるのは,「部外者のにおい」なのです。

 どうも,「当事者意識」が感じられない。

 だから,ほとんど読む価値を感じなかったのです。


 小学校教師の中に,定時で帰るための技術を本にしている人がいます。

 小学校をさっさと出て,その足で,自分が育てた子どもが汗を流している中学校に出かけて,一緒に参加したり,帰り際に教科の話をしたり,・・・・そんな教師を増やそうとするのであれば,私も賛成。 

 でも,そういう人が地域の学校に自然に増えていくとは思えない。

 小学校教師は,15歳の子どもたちには寄り添わない(寄り添えない)

 ここが最も残念なところなのですね。
  
 実態が分かっていないので,「迷惑な養護教諭」みたいな騒ぎ方をする。

 しかし,小中一貫校になると,いろいろな可能性が生まれてきます

 中学校にも自由に出入りできるようになると,どこでどのような苦しみ方をしているかが次第に見えてくるでしょう。

 そこで初めて,見えてくるものがある。

 できれば,どの段階にその「苦しみ」の芽があったかに気づいていただきたい。

 教師の方には,「小学校段階で,ここまでの力はどうやっても身に付けさせないといけない」という自覚が芽生えてくる。

 中学校側が,必ず出てくる問題の芽を早めに摘んでしまおうとして,小学校教員からみれば,「強い指導」に出ていくことはあるでしょう。

 中学校でいう「初期指導」だけでは不十分になってくると,どうしても「事前指導」が必要になってくる。

 おそらく,そういったところで小中の軋轢が生じていることが予想されます。

>小学校に中学校の教員が来るようになってから、小学校がおかしくなったと言っているのだよ。

 「小学校が」という発想でいる以上,その教員ができる仕事は「ただの小学校教師」の仕事でしょう。

 なぜ,「ただの小学校教師」から脱皮することができないのか。

 私のような者だけでなく,小学校の「学級王国」という「無法地帯」に接したことがある大人は少なくないでしょう。授業参観なのに,自習。授業中なのに,携帯ゲームに夢中。遊び道具は,持ち込み放題。チャイムが鳴っても,授業が始まらない(まだ外で遊んでいる)。教師に気づかれないでいじめをする手段の巧妙化・・・・。

 そのような「無法地帯」が「小学校」内にあることを放置し,自分は自分,そのクラスはそのクラス,という態度で好き勝手できるのは,「出口の力を保障する」という責任感をもたずにすんでいるのが最大の理由です。

 「出口の力まで責任を負わなければならない教師」になることで,小学校教師の何が変わるのか。

 それとも,あくまでも責任を回避して,「小学校」に埋没していくのか。

 中学校の方の問題は,今までどんぶりからこぼれ落ちるくらい書いてきましたが,まだまだ必要ですか。
 
 具体的に,小学校教師が一貫校ではやっていけない理由を教えていただけますでしょうか。

 できるだけ焦点化を図っていただきたいと思います。

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コメント

自分で演奏ができる人(dolceさんの言葉を使うと,実践がある人)の言葉もいいのですが,こういう人の言葉って,けっこう人によって違ったりするのですね。

私は野球をやっていたのですが,ゴロの取り方一つとっても,バッティングフォーム一つとっても,みんながみんな,同じことを言うとは限りません。

元広島の衣笠選手は,コーチはみんな好き勝手なことを言うので,かえって調子をくずしてしまった,と言っていました。

そういう「玄人」の助言は,「素人」には通じなかったりする。

だから,実践していた人,というのが,必ずしもよい教育実践ができるとは限らないのです。

あと,私は以前も申し上げた通り,dolceさんのブログには書き込みができません。

dolceさんの問題は,今では「私の主治医は左巻き」さんが担当?してくださっています。

kurazohさん、こんちは

何かでかでかと張り出されて恥ずかし、(:。。)

>そのうち,突っ込みどころ満載の記事がまた登場するでしょう。
>もうその役割は真愚さんにお任せしてもいいのかもしれませんが・・・・。

え、そりゃー止めとこ。
ひょっとすると儂、dolceさんに怒られてるかもしれんから、近寄るまいかと思ってるところ。
突っ込み役はkurazohさんにお任せしますよ。
どうせ突っ込むならあちらに乗り込んで突っ込むのが良かろうかと思うのですがしないでしょう?。
叱られてるなら近寄っても大丈夫かなと思うけれど、怒られると近寄りたくはないな。。。

dolceさんは,またボロを出してしまいました。

dolceさんの言う実践は,記事を読んでわかったのですが,これは「自分はできる」という意味で,「子どもにできるようにさせる」という意味ではないようです。

教育実践という意味ではなかった。

匿名のブログなのに,いきなり自分の演奏している姿をアップするなど,考えられないことをしたのは,「俺はできるぞ」ということを示したかっただけなのですね。

そのうち,突っ込みどころ満載の記事がまた登場するでしょう。

もうその役割は真愚さんにお任せしてもいいのかもしれませんが・・・・。

「教育の窓・ある退職校長の想い」に,けっこう強い姿勢で制度を批判する記事がありました。私は教育関係者のダメさ加減を具体的に指摘しているつもりですが,こういう焦点が定まっていない批判というか不平不満を読むと,なんだかスルーできなくなるんですね。

「おやぢ」の方は偽情報を垂れ流してるし,責任をもたないですむ世代には何とか学習能力をもってほしいと訴えていきたいです。

脳には臨界期という時期があってその時期に身につけておかなければ生涯修得するのが難しくなる知識というのがあるようです。

その時期こそが小学校時代にあるようで、その時期を逃して修得しようとしてもなかなか身につかないということらしいです。

ゆとり教育というのが発案者「寺脇研」による日本への破壊活動では無いかと疑いたくなる側面があります。とにかく、理科と数学(算数)をメチャクチャにしようという陰謀です。

算数が脳の臨界期にまともに達成できていないと、論理的に物事を話したり説明したりすることがとても難しくなります。

これは何をもたらしたかというと、「学力格差社会」です。
ゆとり教育によって破壊された学力を補うことが出来る裕福な家庭だけが学力を身につけたともいえるのです。

小学校の教師にしてみれば週休完全2日制と、苦手な理科の指導から(教育学部は理科の実験とかまともにやっていないか全くやっていない)解放され大喜びしたわけです。

原発事故があっても放射能、や放射線についてまともに教えられない小学校教師が大多数を占めています。どう見ても危険な原発を安全だと言い張るのには子供の頃から知識を丸ごと皆無にしておくためだったのかなとも思えます。

私の子が小学校の時JCOの臨界事故がありました、本当のことを教えるとすごく怖かったみたいで、実のところ失敗なのかもしれませんが、政府の言う大嘘は信じては駄目、そういうときは最低50Km以上は離れた場所に避難しなければ安全とはいえない。中性子線が飛んでくるということを教えました。放射能の場合は放射性物質だから風向きで避難地域が動的に変わります。そういうことも教えたつもりです。

ゆとり教育を受けたので大学に進学したとき、特に小学校で数学(算数)の問題を決められたやり方でしか回答してはならなかったことがすごくマイナスだったと言っています。

大学進学後、いきなり回答方法の枠を外され相当苦労したようです。自分のやり方でレポート提出しても大丈夫なのかということでそうとう恐怖心がでたみたいなのです。

あれ、kurazohさんがバトルしてるのはdolceさんだけかと思ったら
toshiさんともしてるの?。
忙しい事ですね。
誰?。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より