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NHKスペシャル「職場を襲う“新型うつ”」での尾木ママの説明の誤りを正します

[新型うつ] ブログ村キーワード

 新しい学力観による教育が,「新型うつ」を生んだ。

 本当でしょうか???

 関心・意欲・態度の面が,「最重視された」から???

 尾木ママは,このときはまだ現役の教師だったのでは?

 「関心・意欲・態度」という観点が指導要録では一番最初に書かれる項目になっていますが,これは,「最重視すべき」という意味ではない,ということは,当たり前のことでは???
 
 授業で挙手をするということが,「関心・意欲・態度」でよい評価をとるための手段ではないことは,繰り返し注意を促されているはずです。

 学習の表面的な態度のことを,この評価の観点で見ようとしているわけではないのです。

 私が以前から繰り返し述べている,観点別学習状況の評価の課題は,尾木ママのような大学教師がいることだけでも十分すぎるほどわかるでしょう??? ただ,この話はここではおいておきます。

 さらに,尾木ママの驚きの説明は,

 100点の子どもの評定が「4」になり,80点の子どもの評定が「5」になることがよく見られる???

 それは,「関心・意欲・態度」の評価のせい???

 違いますよ。

 評定は,関心・意欲・態度だけではなく,思考・判断・表現,知識・理解,技能など様々な角度から子どもの学力を捉えて行うのであって,ただ知識を問うだけのテストを行っていれば,説明のような事態になるかもしれませんが,テストをしっかり工夫して作っている学校では,

 テストで80点しかとれない子どもが,「十分満足できる状況のうちでも,特に程度の高い生徒」=「5」がとれるかどうかは疑問です。

 100点をとっても,「4」だった,ということは,たとえば宿題のレポートを出していないなどの理由で,ごくまれにあるかもしれませんが,それならもうちょっとまともなテストをつくるべきでしょう。

 それだけではありません。

 「関心・意欲・態度」が評定のもとになる評価の対象となったことで,

 「高い評価狙いの子どもが増えて」,それが・・・・・・・

 どうして「新型うつ」の原因になるのでしょう???

 発言の意図というか,ねらいがよくわかりません。

 どうしてNHKは,こういう発言をノーチェックでオンエアしてしまうのでしょう???

 番組全体から類推するに,

 「現代型うつ」「新型うつ」は,

 精神的に幼く,自己中心的で,人との葛藤の経験が少なく,親の過保護のもと,常に「いい子」「完璧な子」として大切に育てられた経験をもった子どもが発症しやすい,ということを言いたいようで,

 そういう人間を,評価のあり方を通して学校がつくり出している,ということを訴えたかったのでしょうか。

 もし,尾木ママの言うことが正しかったとしたら,それはそれで,私の主張と一致してきます。

 が,おそらく原因は全く別のところにあるのだと思います。

 この場で私なりに考える,新型のうつ病の原因を書くことはやめておきます。

 最近,このブログを読んでくださっている,ある方にとってはあまりにも刺激的すぎる話になるでしょうから。

 とにもかくにも,最近の尾木ママの利用のされ方は,本人にとっても,かなり酷です。教育界にとってもマイナスです。明らかな「間違い」なわけですから。

 たとえ「絵」にはならなくても,もう少し「本当のこと」が語れる教育評論家はいないのでしょうか。

*****************

 追記

 ある方のブログに私が書いた感想の一部ですが,

>NHKの番組づくりには,「うつ」と言ったもの勝ちで困っている,という企業にかなり寄りかかったかたちでディレクターが制作したために,患者側にとってはつらい内容になったのでは?と感じています。

 番組中の「ドラマ」では,「相手も悩んでいる」「相手が悪いという思い込みが強すぎる」などの臨床心理士の言葉で覚醒する「患者」が登場しますが,そんなに簡単に治るのは「病気」なのでしょうか?

 従来型の「うつ」は,「自罰的」で,新型の「うつ」は「多罰的」というのなら,

 「自己責任追及型うつ」と,「自己責任放棄型うつ」とでも表現するべき?

 とにかく,薬が効かないタイプの「うつ病」を単純に「新型」と形容することには抵抗を覚えます。

 **************

 尾木ママは「自己肯定感」が育っていないのが原因,と言っていたように思いますが,今回紹介されていたうつ病は,「自己限定肯定型」の人間が発症しているものでは?

 親の教育姿勢ももちろんあるでしょうが,学校教育で「自己肯定感」が空洞化している,というのもどうでしょう?

 「関心・意欲・態度」は,学習では評価の観点になっていますが,「自己肯定感」をはぐくむ教育活動は,生徒会活動や行事,部活動といった「特別活動等」の場面でも十二分に実施されてきたはずです。

 自己評価を低くする,というのは,日本独特の「へりくだり」重視圧力によるもので,国際比較でどうこういう対象としては不適切でしょう。文化が異なるということはわかるデータですが。

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コメント

匿名さん

いつもコメントありがとうございます。
子離れができないのは,小学校の教員も同じ。

「心の通い合い」が大事だ,なんて言っていますが,
隣のクラスの子どもと「心の通い合い」ができている担任ってどのくらいいるでしょう。

子どもをスポイルする親と同じような特性が,小学校教員にないことを祈るのみです。

番組の中では取り上げられなかったのですが、親が子供を独立させないように、何も達成させないように無意識に子供の成果をつぶしているというケースがあると思います。

子供が独立してしまうと、見捨てられると無意識に考えて子供を手放さないのです。
本来なら子供が立派に成長し独り立ち出来るようにするのが親のつとめなのですが、子供がなんでも親の言うことを聞くよい子だった場合、いつの間にか親にとって都合の良い召使いのような存在でそれを手放したくないということから生じる依存関係にあるのではと考えられます。

どういう人がなりやすいかという重要な着目すべき点だと思います。

その番組見ましたよ、一応訂正?かどうかは解らないけれど、親が何でもかんでもレールを引いてその上を走らせようとしている、失敗を経験させない、などが騰げられていたと思います。

本当なら子供の時に、子供だから許される小さな失敗を経験して、子供なりに同じ失敗をしない事を考えさせるというのが正常な人格形成につながるのだと思うのです。

しかし、家でも学校でも失敗は強烈な罪悪で、失敗するぐらいなら最初からかかわらないようにさせているということなのでしょう。要するに子供を全く信用しない大人が作り出した現代病です。

子供を信用しない大人は、自分は子供に愛情を注いでいると勘違い、全てをコントロールしないと自分自身が安心できない人なのです。

問題と向き合わないということが全ての解決策だと子供が小さい時からすり込んでしまっているのです。

この問題は、現代鬱になった人だけの問題では無く、親、学校、あるいはその周りの人が適切なコミュニケーションを断絶し(不安を出すと怒られる、良い顔をしてなけならぬ、等)問題と向き合わないことだけが解決だと思い込まされている、本人も周りも気がつかないと全く何も改善しません。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
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    「孟嘗君 2」より
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    「孟嘗君 2」より
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    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より