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2012年4月

排除型の人間が語る小中連携のレベル

 排除するのが好きな人は,自分が排除したい人間を,「排除したがる人間」として捉え,排除する。

 私の記事を読んで,思い込みが強すぎるのか,完全に勘違いして,相手を排除しようとしています。

 私は,小学校から,中学生を排除しろ,と書いた覚えはありません。

 禁止などしなくても,ふつうの中学生なら,

 「小学校に遊びにいく暇などない」

 ということが,どうやら伝わらないらしい。

 なぜわざわざ小学校にまで行って,ものを壊そうとするのか。

 その理由を理解しようとしていない。

 小学校と中学校との間の垣根というのは,

 教師がつくってしまう面があるのは,あの記事で紹介されている通りですが,

 子ども自身が自らの成長の証として作ろうとする,

 そういうものでもあることを理解しようとしなければ,

 小中一貫校の教師などはつとまりませんよ。

 **************

 あちらの記事では,「小中一貫が子どもを荒廃へ導く」という言葉が,どのくらいの責任感をもって語られているのでしょうか。

 ダメ教師をもっとダメにする校長の一言とは,「制度が悪い。

 こうした,当事者でなくてすむ立場からの無責任な一言が,実は,最も教師らしい一言であることが,教育現場の悲劇なのです。

 当事者意識の欠如が,子どもの大人不信につながり,大人になってもそれでいいのだ,と受け止めた子どもは,同じような大人になっていく

*****************

 小中連携は,子どものためではなく,教員の意識改革のためだ。

 こういう「裏の事情」があることを,恥ずかしげもなく紹介してくれた方の度胸には感服いたします。

 行政が何もしなくても,お互いの役割を最大限発揮するために,必要な連携がとれている学校は,いくらでもあるのです。

 しかし,連携どころではない学校が多いのも確かなこと。

 ご紹介いただいている小学校には,「組織」としての行動原則がなく,

 校長に言われて初めて動き出す,そういう教師たちの姿が垣間見えました。

 教頭は何をしていた?

 生活指導主任は何をしていた?

 そんなことは,どうでもいいです。

 小中連携事業などはなくても,小学校と中学校の生活指導主任レベルの交流などは何十年も前からあったでしょう。

 その成果は何も見えない。

 記事からわかることは,

 「小中連携」とよんでいることは,事業としてのものではなく,ただの

 「仲良し集団」をつくるためだけの,大昔からやられていることに過ぎない,ということ。

 「仲良し集団」をつくりましょう,というのは,今,全国各地で取り組みが進められている「小中連携」のことではありません。勘違いする人がでてくると,困ります
 
 dolceさん流に解説すると,「集合の概念」が誤っている。

 こういうピンボケというか恐ろしく時代錯誤の人たちが多い地域で,

 小中連携を計画上にあげていくとき,行政がねらうのは,

 小学校の改革

 中学校の改革

 であり,それを同時に実現させることがねらい,ということになってしまうのです。

 あちらの地域ではどうかわかりませんが,

 中学校側としては,学校文化が異なる複数の小学校から子どもが進学してくると,そこで「文化間の衝突」が起こり,事前の情報が入ってこないと本当に混乱しますから,

 小小連携ができていることも重要になります。

 となりの小学校で何をしているか,知らないはずがない立場の人が,学校には4人ずついますが,それがだれのことだか,わからない人すらいるでしょう。

 集まっているだけで,帰ってから何もしていない学校ばかりだから。

******************

 小学校と中学校の関係で,

 子どもが遊びに行ける,行けない,などは,どちらでもよいのです。

 子どもと子どもとの交流がある,ない,それも,どちらでもよいのです。

 その前に,それぞれの学校で,もっとやるべきことはないのか?と自らに問うべきなのです。

 今は,それができないから,

 小中連携(一貫)を突破口に,自校の改革をしようとする動きになってしまう。

 「心を通わせよう」と本気で思っているのなら,

 それはまず,学校の中で,本気で行うべきなのです。
 
 まずは,それぞれの学校の中で,です。

 私の想像では,小学校で本当に「心の通う」教育を受けていた子どもなら,中学校に卒業した後,好んで小学校に遊びに行くことはありません。たとえ,中学校で「心が通い合う」経験で満たされなかったとしても。

 小学校の教師の中には,この理由がわからない人がいるかもしれませんが。

 「心」の問題に逃げ込もうとする教員たちによって,教育から何が奪われているか

 早く,気がつかなければなりません。

 手遅れにならないうちに。

 「心が通い合う」状況になる前に,どんな状況があることが必要か。

 そういう状況から逃げている子どもや教師たちによって,子どもの何が失われているか

 ちょくちょく実家に戻ってくる娘を見て,目を細めている父親に,地域の教育を担う力があるのですか?

********************

 NHKスベシャルで,「現代型うつ」の原因と対策が扱われていました。

 従来型の,責任感の強い,まじめな人がかかりやすい抑うつ症状ではなく,
 
 「自己中心的

 「精神的に幼い

 「すぐ人のせいにする

 「失敗を極度におそれる

 「つねに『いい子』であることを要求されてきた
 
 「人とぶつかり合った経験がなかった

 人たちが,たった「一言」で気持ちが折れて,職場に行けなくなる病気。

  ・・・・・「弱い人間」が「強くなれない」構造的な仕組みを解明していかなければなりません。

 小中連携を,本当に子どものために実施するためには,

 まずは,「きれいごと」にこだわるのはやめましょう。

 「あいつは話が通じない」「もう話さない」「心がない

 なんて態度がとれる人間に,本当の「心の通い合い」を語る資格があるのかどうか,

 小学生に話し合わせてみたらいかがでしょう?

********************

 また,

>片方ではコンピテンシーの先生のところで働きたいと言い、片方では教育の窓の先生のところで働きたいと言う。

 なんて言葉を記してくれたカルロスさんへ。

 心の交流に感動するのは,人間として当然のことですが,どうか,もっと小学校教育の意味を掘り下げてお考えになってみてください。

 そして,今の子どもたちにとって本当に必要なものは何かを,もっと管理職に対してぶつけてみてください。

 できれば,地域の中学校の管理職にも。できれば,地域の親や保護者に対しても。

 「尾木ママの世代の大人が,最もコミュニケーション能力を欠いているように思える」という社会学者の言葉。

 世代は異なりますが,私自身も,これをしっかり受け止めなければなりません。

 一部の小学校の教師の視野は狭いです。間違いなく。そして,心の許容範囲も,想像以上に狭く,「排他的」です。

 本当はもっと強く書きたいことがありますが,もう一つの記事でも書いた通り,刺激が強すぎるでしょうから,やめておきます。

 中学校の教師になら普通に言えることでも,小学校の教師には無理であることを,リアルな関係の中でも痛感しているくらいですから,無理はしません。これ以上に刺激が強い言葉があるのか,と思われるかもしれませんが,小学校という職場に慣れきった人たちには,逆効果にしかならないようです。

 中学校教師は,泥臭くてすみません。

 中学校では,「排除型」の人間にもしつこくからんでいかないと,子どもが犠牲になるのです。

 掛け違いのボタンをはずす作業に1年間もかかることがあるのです。

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NHKスペシャル「職場を襲う“新型うつ”」での尾木ママの説明の誤りを正します

[新型うつ] ブログ村キーワード

 新しい学力観による教育が,「新型うつ」を生んだ。

 本当でしょうか???

 関心・意欲・態度の面が,「最重視された」から???

 尾木ママは,このときはまだ現役の教師だったのでは?

 「関心・意欲・態度」という観点が指導要録では一番最初に書かれる項目になっていますが,これは,「最重視すべき」という意味ではない,ということは,当たり前のことでは???
 
 授業で挙手をするということが,「関心・意欲・態度」でよい評価をとるための手段ではないことは,繰り返し注意を促されているはずです。

 学習の表面的な態度のことを,この評価の観点で見ようとしているわけではないのです。

 私が以前から繰り返し述べている,観点別学習状況の評価の課題は,尾木ママのような大学教師がいることだけでも十分すぎるほどわかるでしょう??? ただ,この話はここではおいておきます。

 さらに,尾木ママの驚きの説明は,

 100点の子どもの評定が「4」になり,80点の子どもの評定が「5」になることがよく見られる???

 それは,「関心・意欲・態度」の評価のせい???

 違いますよ。

 評定は,関心・意欲・態度だけではなく,思考・判断・表現,知識・理解,技能など様々な角度から子どもの学力を捉えて行うのであって,ただ知識を問うだけのテストを行っていれば,説明のような事態になるかもしれませんが,テストをしっかり工夫して作っている学校では,

 テストで80点しかとれない子どもが,「十分満足できる状況のうちでも,特に程度の高い生徒」=「5」がとれるかどうかは疑問です。

 100点をとっても,「4」だった,ということは,たとえば宿題のレポートを出していないなどの理由で,ごくまれにあるかもしれませんが,それならもうちょっとまともなテストをつくるべきでしょう。

 それだけではありません。

 「関心・意欲・態度」が評定のもとになる評価の対象となったことで,

 「高い評価狙いの子どもが増えて」,それが・・・・・・・

 どうして「新型うつ」の原因になるのでしょう???

 発言の意図というか,ねらいがよくわかりません。

 どうしてNHKは,こういう発言をノーチェックでオンエアしてしまうのでしょう???

 番組全体から類推するに,

 「現代型うつ」「新型うつ」は,

 精神的に幼く,自己中心的で,人との葛藤の経験が少なく,親の過保護のもと,常に「いい子」「完璧な子」として大切に育てられた経験をもった子どもが発症しやすい,ということを言いたいようで,

 そういう人間を,評価のあり方を通して学校がつくり出している,ということを訴えたかったのでしょうか。

 もし,尾木ママの言うことが正しかったとしたら,それはそれで,私の主張と一致してきます。

 が,おそらく原因は全く別のところにあるのだと思います。

 この場で私なりに考える,新型のうつ病の原因を書くことはやめておきます。

 最近,このブログを読んでくださっている,ある方にとってはあまりにも刺激的すぎる話になるでしょうから。

 とにもかくにも,最近の尾木ママの利用のされ方は,本人にとっても,かなり酷です。教育界にとってもマイナスです。明らかな「間違い」なわけですから。

 たとえ「絵」にはならなくても,もう少し「本当のこと」が語れる教育評論家はいないのでしょうか。

*****************

 追記

 ある方のブログに私が書いた感想の一部ですが,

>NHKの番組づくりには,「うつ」と言ったもの勝ちで困っている,という企業にかなり寄りかかったかたちでディレクターが制作したために,患者側にとってはつらい内容になったのでは?と感じています。

 番組中の「ドラマ」では,「相手も悩んでいる」「相手が悪いという思い込みが強すぎる」などの臨床心理士の言葉で覚醒する「患者」が登場しますが,そんなに簡単に治るのは「病気」なのでしょうか?

 従来型の「うつ」は,「自罰的」で,新型の「うつ」は「多罰的」というのなら,

 「自己責任追及型うつ」と,「自己責任放棄型うつ」とでも表現するべき?

 とにかく,薬が効かないタイプの「うつ病」を単純に「新型」と形容することには抵抗を覚えます。

 **************

 尾木ママは「自己肯定感」が育っていないのが原因,と言っていたように思いますが,今回紹介されていたうつ病は,「自己限定肯定型」の人間が発症しているものでは?

 親の教育姿勢ももちろんあるでしょうが,学校教育で「自己肯定感」が空洞化している,というのもどうでしょう?

 「関心・意欲・態度」は,学習では評価の観点になっていますが,「自己肯定感」をはぐくむ教育活動は,生徒会活動や行事,部活動といった「特別活動等」の場面でも十二分に実施されてきたはずです。

 自己評価を低くする,というのは,日本独特の「へりくだり」重視圧力によるもので,国際比較でどうこういう対象としては不適切でしょう。文化が異なるということはわかるデータですが。

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指導主事と管理職,教育長との関係 ~教育と組織~

 おそらく小学校には,

 「組織で教員を育てる

 という発想に乏しいのでしょうね。

 多くの教員は,校長や教頭に「育てられている」という実感を持てずに,仕事をされているのでしょう。

 校内研究,校内研修という「公的なもの」はさかんでも,日常的にはどうなんでしょう。

 お互いに授業をみることができない,というのもネックなのでしょうが。

 中学校の場合は,組織で動かないとどうにもならないので,普通に生活を送ることで,組織に育てられ,自分がやがて育てる側にまわる・・・・ことが「よい学校」ではうまく循環しています(学校規模が小さくなるほど,これが難しくなります)。

 テストの問題も,試験監督に入れば自然とみることができますから,授業でどういう工夫をしているのかも,問題をみればだいたいわかります。

 小規模の学校では,

 わざわざ主幹や副校長という立場をつくらなくても,その機能を果たせていたとしたら,作るまでもない,という発言を私もしたことがあるかもしれません。

 ただ,役が人間をつくる,という考え方もあります。

 子どもも,そうでしょう?

 (学級委員や児童会役員を選出しない小学校もあるようですが)

 その「役になる」ことで,自覚的な行動を「堂々と」(これは,教員に気に入られるため,などではなく,役として,という意味です)とることが,小学生にもできるようになる

 学校も同じような面があるのではないでしょうか。

 ちょっと誤解を招きそうなのは,校長や副校長になるには,主幹になってからではないといけないため,主幹になる目的が管理職になることだと思われるかもしれないこと。

 教師によっては,そんなつもりはなく,主幹になっている人をたくさん知っています。

 そして仕方なく,というか,周囲に説得されて,管理職をめざすようになった人,管理職になった人も,たくさん知っています。

 さておき,そういう役の人が生まれるおかげで,

 その人が,という評価の仕方ではなく,

 その役としての仕事が,という評価の仕方ができるようになります。

 これなら,マイナスの評価をするにしても,抵抗感が和らぐでしょう。

 組織とは,このように,

 人間と仕事とを切り離してみることができる仕組みであり,だからこそ,

 思う存分,批判を加えることができるのです。

 私は,管理職候補者として,指導主事の仕事をしていました。

 (ただ,学校現場に行くことなく,ずっと教育委員会に残されそうな感じだったことが,自治体を去ることの理由の一部になっていたかもしれません。)

 管理職候補者としての研修が充実していましたから,また,指導主事として小・中・高たくさんの管理職と仕事をしていましたから,管理職のコンピテンシーも想定にありますが,実は基本的には,教員のコンピテンシーと変わるところはありません。

 その方が,教員も管理職を評価しやすくなるでしょう。

 教育長との関係について。

 教育長が,校長の評定を絶対評価ではなく,相対評価で出すことを悩んでいるときに,ヒントを申し上げたことがありました。

 それを教育長が採用したかどうかはわかりません(その評価結果を知る立場にはいませんでしたから)が,たまたま一番下の評価になってしまった校長がどんなに力があった人かをPRすることで,教育長の評価への信頼性が高まり,自治体への期待が増す,という私の言葉には納得してくれたようでした。

 ただ,そういう自治体へは,課題のある人が送られてくることになる場合があるのは,公立の場合,仕方がないことですね。

 能力は高いのに,うまくそれが発揮できていない校長を,「うまく育ててほしい」と言われて嫌な気がする教育長か,そうでないかを,知る立場にいる指導主事という存在は,こわいものでしょう・・・・?

 教員は,ときに,管理職的な発想をしてみることも大事でしょう。

 なぜなら,子どもの教育を管理する中心であり,学校を背負っているのは,教員一人一人なのですから。

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dolceさんが紹介してくれた中学校教師の「ひどい一言」

 dolceさんは「思い出の夏~また夏がやってくる」という記事の中で,ご自分の勤務していた小学校の良さをPRするために,こんなことを紹介されています。

>教師と児童との取り組みは、当然のように効果に反映した。

>それは、子どもが卒業して中学校へ行くと、小学校で培ったパワーが中学校に相当な影響を与えたことでわかった。

>しばしば、中学校の先生から話があった。

>例えば、授業中に「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」ということがあったという。
>それは、あまりにも早く出来てしまうので、待たせることがあったという。

 小学校の教師の感覚というのは,こういう「中学校の先生からの話」は,

 「うれしいこと」になるのですね。

 しかし,中学校の教師は,ふつう,

 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね

 などという指示は出しません。

 出身小学校で子どもをくくり,区別する,ということはしません。

 これは,小中連携をしっかりやってきた中学校の教師ほど,気をつけていることです。

 「課題ができた子は,待っててね」でよいのです。それが,全員,特定の小学校出身者であっても,子どもが知るべき情報ではないのです。

 万が一,ほかの小学校が「崩壊学校」であったとしたら,

 中学校の教師によって,私たちは「差別される」という強烈な印象を与えられることでしょう。

 学校間格差を子どもに直接的に伝えるような行為を中学校の教師が「当たり前のように」「空気のように自然に」しているのであったら,小中連携のあり方は失敗に終わっているとしか考えられない一言です。

 そもそも,特定の小学校の出身者だけが,「あまりにも早く出来る」課題とは何のことをさしているのでしょう?

 それは,その小学校の出身者だけがもつ,特定の能力を,その他の小学校の出身者に対して認識させるための課題なのでしょうか?

 中学生というのは,教師の一言にとても敏感に反応する子どもたちなのです。

 そういう子ども理解がないことを象徴的に示す言葉が,

 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね

 という言葉です。

 この言葉は,dolceさんが中学校の教師から聞いたという話だそうですから,

 事実としてそういうことがあったというわけではなく,

 そういう話を聞いたらdolceさんという小学校教師は喜ぶのだと想像した教師が,

 dolceさんを喜ばせるために話した「つくり話」であると信じたい気持ちでいっぱいです。

 「教育に情熱をかける教師」が,思わずもらしてしまいそうな,しかし,あまり語ってほしくない言葉。

 それが,中学校における,

 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね

 の一言です。

 独善的な美談は,読んでも何の参考にもなりません。

 残念なことに,私の,このタイトルのブログには,最適の話なのですが。

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カルロスさんの痛打と自打球 ~学校文化に欠けているもの~

 小学校の教師は,全人的な教育という崇高な志のもと,日々の実践を送っているので,中学校の教師とは違って,

 「こんな人間は許せない

 という気持ちの表れ方も,とても極端なものになりがちなのではないでしょうか。
 
 だから,「お前は何々だという病気の可能性があるぞ」という言い方を,平気でできてしまう。

 全人的なことを目指している人は,不思議と,全人的な否定の仕方をする
 
 AさんがBと言ったことはおかしい,という考え方ではなく,

 BといったAさんはおかしい,ということになる。

 だから,人間を全否定の方向に持っていく。

 全否定した人間の言うことは,表面的には聞くかもしれませんが,たとえそれが「正しいこと」であっても,心が聞こうとすることを閉ざしてしまう。

 それを私は教員だった時に,「指導主事VS小中学校の教師」との関係性の中に感じました。

 指導主事時代は,「全否定されないように」努力したつもりですが,じゃまな「看板」をはずすわけにはいかず,苦労したこともありました。
 
 たとえば,学校の自己評価の公開と外部評価の積極的な導入です。

 カルロスさんの自打球とは,こうした学校の取り組みが,法律が整備されて10年もたっているのになされていないことを公開してしまったこと。

 カルロスさんの痛打とは,「全否定型人間の具体的すぎる紹介」をされたこと。

 「人間全否定型」は,日本人には多いと言われています。

 ある特定の能力が高くても,一部の面で欠けていると,欠けている方が必要以上にクローズアップされて,人間として評価されない

 欧米では,その逆で,

 ある特定の欠けている面があっても,特定の能力が高いということで評価され,尊敬もされる

 どちらの社会が過ごしやすいかは,一概には言えませんが,日本人がはまり込みやすい落とし穴は,

 「人間全否定型」人間は,

 「人間全肯定型」人間になりやすい,ということです。

 歴史が証明しています。

 カルロスさんのような,

 「バカな管理職」「おかしな校長」という言い方では,今の問題は解決されないと思います。

 問題を積極的な姿勢で解決しようとする意欲が感じられません。

 こういう態度がいつでもどこでも徹底している人のことを,「当事者意識のない人間」として,私はくくっています。

 管理職が馬鹿だから,・・・・

 校長が,おかしいから・・・・

 こういう言葉を,自己弁護のために使っているという自覚のない人間は何人いても,

 学校は変わりません。

 もし,「管理職のバカな判断」「校長としてのおかしな行動」という言い方なら,その判断のどこか課題で,どうしたらよかったのか,という話に発展していきます。

 カルロスさんは,具体的なことを紹介していただいている(dolceさんの記事への批判ほどは具体的ではないですが)ので,少なくとも,「当事者意識のない人」ではありません。

 ただ,おそらく,学校文化がまだ「学校評価ができる文化」になっていないのでしょう。

 その原因は,多くの教員たちが,「全否定型」人間という自覚がないためではないか,ということについて,一考していただけるとよいと思います。

 「全肯定型」「全否定型」人間の語法や行動特性は想像されやすいかもしれません。

 課題もあります。

 そこに風穴をあけようとしたのが,

 「教師のコンピテンシーモデル」です。

 これは,たとえば21あるすべての項目でAランク,Sランクであることを求めるものではありません。目標にするのはかまわないのですが。

 長所はどこにあり,克服すべき課題はどこにあるのか

 そういう活用のされ方で十分です。

 「全能型」教師を現場は求めているのではありません

 さまざまある長所を互いが活用し合い,さまざまある「課題」を互いが補い合って,組織として動くのが学校です。

 そのためには,360度評価が必要です。
 
 上司から,同僚から,子どもから,保護者から,専門家から。

 もちろん,評価されることに耐えられない人がいることはわかります。

 いつも子どもを評価しておきながら,評価されるのを最も嫌うのが教師という人間です。

 子どもに「自分を知れ」と指導しておきなら,自分を知らないのが教師です。

 小学校では「一人が担っている責任」があまりにも重すぎるために,評価の発想に乏しいのでしょう。残念なことです。

 私はカルロスさんが痛打を浴びせた方が,指導力や人間関係を構築するのに課題がある人だとは思いますが,だからと言って,すぐに教員として不適格な人だとは思っていません。

 「おかしい」ことを書く人だとは思いますが,「頭のおかしい」人だとは思いません。

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管理されるのが嫌いな人は,実は管理するのが好きな人

 管理されるのが嫌いな人は,実は管理するのが好きな人でもあるのですね。

 心当たりはありませんか?

 そういう人向けの情報をここに掲載しようと思います。

 校長をコントロールする方法です。

 カルロスさん向けの記事というわけではありませんので,念のため,おことわりしておきます。

 校長は学校を管理するのが仕事です。

 だから管理職とよばれるのです。
 
 一番大切なのは,教員の管理です。
 
 なぜなら,それが子どもを様々な面で管理することにつながるからです。

 「管理する」という言葉が,肌に合わない人には,こう質問してみましょう。

 「あなたは子どもの健康や安全を管理できていますか」

 「あなたは自分の生活習慣をしっかり管理できていますか」

 「あなたは教育課程をきちんと管理できていますか」

 「あなたは個人情報が入っているパソコンや記憶媒体を管理していますか」

 
 公務員の仕事で,「管理」は基本中の基本であり,そういう資質があるかないかは,その人の机の上や棚の整理の仕方を見ればわかります。

 
 さて,話を戻して,校長は教員を管理する仕事がありますが,多くの一般教員は,校長の仕事を知りません。

 校長をコントロールするためには,まずその仕事を知ることです。

 次にすることは,その仕事に校長がどれだけ本気で取り組んでいるかを,部下として評価することです。

 中には,本気にならないでほしいこともあるかもしれませんが,その仕事の目標を実現するために,何をどのようにしているかを知ることです。

 校長の仕事を部下として評価していくことで,管理されるのが嫌な人たちは,あることに気づいていきます。

 そうすれば,校長をコントロール下におくことができます。

 学校を管理しているのは,実は校長ではなく,自分たち教員であることの自覚が高まることで,「管理」という言葉への抵抗感がなくなり,あらためて,「自分を知る」ことになる。

 一番大事な情報は,結局,書きませんでしたが,教育現場が最も大事にすべきものがそこにあるので,やはりそうすることにしました。

 教員に最も足りないもの。

 それが,自分がコントロールされているという認識ではなく,自分がコントロールしている・・・・いえ,コントロールできていないという認識です。

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dolceさん流のネガティブキャンペーンに応えて

 Aさんが正しいと思っていることが,Bさんから見ると,正しいようには見えない。

 だから,Bさんは,それは正しくない,とAさんに向けて表現する。

 こういう文化が日本的でないということは,小学校の教師なら支持するでしょうか。
 
 Bさんは愚痴や嫌味を言っているわけではなく,自分の考えを表現したまでなのです。

 これを嫌味と受け取るは,あくまでもAさんの側の事情なのですね。

 相互不理解。簡単に言えば,そういうことです。

 dolceさんは,高コンテキスト社会では生きてこなかった方のようで,文字化されたものだけをごらんになっています。

 高コンテキスト社会の側からdolceさんのブログを読むと,

 「こんな本ばかり読んでいる人だから,よほど人間関係のことで苦労してきたんだなあ

 と想像されてしまうわけです。特にそのことを気にかける様子がないのが,逆に気にかかってしまう人なのですね。


 小学校では,「それは間違っている」というような語法がないのが,私の経験上,肌感覚で理解できました。

 それを面と向かって話す文化はないのですが,陰口をたたく文化は,立派にある。

 職員室の「魔の会話」

 これこそが純日本風の「ムラ社会的職場環境」です。

 これが私の最も嫌うところでした。

そして,小学校教師の中には,こういう職場環境への不満が我慢の限界にきている人も,少なくないはずだ・・・・・というのが,私がこういう記事を「嫌味」としてではなく「警句」として書いている理由でもあります。

私が,小学校の内部になぜ詳しいか。

 ただ,子どもから耳にしたこと,ばかりが情報源ではありません。

 家内が小学校の教師だから?・・・違います。職業は違うけど,情報を知り得る立場ではありますが。

 私の父が,PTAなどの仕事をしながら,校長の言うことを聞かない教師たちの懐柔役で,小さい時から

 「教師だけにはなるな」と言われてきたこと,内部の話を聞かされてきたこと? いえいえ。

 教育長や校長たちの愚痴をたくさん聞いていたから? 違います。

 では,どうして・・?

 一番大きかったのは,初任者の指導を通して,一年間,学校を見てきたからでしょうね。

 あとは,初任者研修で,小学校の教師と一緒に研修ができたからでしょう。

 それはまた別の機会に。


 dolceさんは,人を名指しで批判することがありません。

 これが,小学校流の礼儀なのでしょう。

 しかし,だれがその相手なのかは明白です。

 コメント欄には「心理的近親者」しかいないわけですから。

 陰口の仕方そのものが,その人らしさを全面的に明らかにしている・・・・・人を非難する行為そのものが,自分が非難される結果に結びついている。これが,ミラー現象です。

 もっと,堂々と反論すればよいのに。

 
 中学校にある「面と向かって批判する」文化は,小学校からは「野蛮」に思えるでしょうね。

 中学校に実際にいたひどい先生は,生徒の前で別の先生の問題点を指摘していました。

 民間人から教員になった人なので,抵抗感がなかったのかもしれません。

 子どもはおもしろがって聞いていたようです。

 中学生にもなると,わざわざ先生から教えてもらわなくても,だれがどんな問題を抱えているのかは「文字化」はできなくても,「感覚」で理解しています。「文字化」できる生徒も,当然,表現しないのがマナーです。

 批判された生徒が,どこからか聞きつけて,「全面戦争」になることもありますが,それが,なぜか「いい方向」「いい意味」での競い合いに発展していく可能性もある。

 どちらのグループ,派閥に属するか,という選択をせまられることもある。

 なかなか,神経を使う職場です。

 だからこそ,鍛えられる。

 教育論議がさかんにできる中学校は,今,どのくらいあるでしょうか。

 話がそれました。

 中学校には,どうしようもない人がいる分,バランスがとれている。

 しかし,小学校では,どうしようもない人がいると,それだけで救われない子どもたちがいることになる。

 小学校は,とても厳しい職場です。

 だから,職場内では,厳しさが忘れられるような話題だけが好まれ,やがて,「裸の王様」になっていく。

 ミラー現象という語法は高コンテキスト文化に支えられたものなので,これからはもう少しやさしめの,「相互不干渉原則に基づく学級王国の,「裸の王様」たち,と表現することにしましょうか・・・・。

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いたましい出来事をネタに本を出版する小学校教師

 書名をあげることはしませんが,

 いたましい教師の自殺の話を枕に,

 「こんな教師になりましょう」

 という個人の能力(指導力)向上を訴えるハウツー本が,現役の教師によって出版されています。

 これが,中学校の私からは理解できない小学校教師との「ズレ」です。

 小学校教師の自殺のニュースに接したとき,

 人それぞれの感想の持ち方はあってよいと思います。

 しかし,たとえば同じ小学校という職場で生きている教師たちには,

 「この問題は行政の責任だ」

 「理不尽な要求をする保護者が増えてきた」

 という反応以上に,小学校という職場の特殊性に対する自己反省が出てこないと,同じようなことは繰り返されると予想します。

 カルロスさんが私のコンピテンシーに疑念を抱かれたのは,

 前に書きましたように,

 「オレガオレガ」という教師を増やすことにつながらないか,ということへの不安(不満)からでしょうが,

 そう考えてしまうこと自体に,小学校の問題性がはらまれているのです。

 小学校では,個人の能力が高ければ,確かに個々の子どもにとっては豊かで実りある学校生活が送れるかもしれません。
 
 しかし,中学校では,いくら個人の能力が高くても,教師間の連携がとれていなければ,成功するものも成功しなくなるのです。

 おそらく,自殺者が出た小学校の教員たちは,「当事者」として,自分たちの責任を痛切に感じてくれたものと信じたいですが,

 全国すべての小学校のすべての教師たち(いちいちこう書くのも面倒なのですが,誤解を避けるため書いておきます)が,同じような問題が起こった場合の「当事者意識」を強く抱くことができるかというと,

 現役の小学校教師が,個人名で,指導力向上にかかわる本を出版している,という実態ひとつとってみても,私は信じることはできない,という思いを抱いてしまうのです。
 
 問題の学級があったとしても,「そんなクラスもあったなあ」なんていう書き方ができる人間がいることからみても,私には他クラス=他国=「学級王国」への不干渉の原則が,小学校を貫いているとしか考えられないのです。

 相互不干渉という小学校の文化は,隣のクラスの教師と共有すべきことがらを,

 個人名で,全国の教師に発信する,という文化を生むのです。
 
 隣のクラスの教師から学ぶべきこと,学べることを,学ばずに,有名校だったり,どこか知らない学校の有名な教師から学ぼうとするのです。

 中学校では,「学年会」にかける時間が非常に長くあります。小学校ではどうでしょうか。

 1学年1学級なら,こういう会議自体が存在しません。

 1学年2学級なら,2人による会議。3学級なら,3人。

 小学校によっては,研究組織として,低学年・中学年・高学年の部会があるかもしれませんが。

 さすがに校内研究の時間がない小学校は皆無だと思いますが,教員間の情報交換,指導力向上のために協働する時間が足りない小学校で,問題は起こっているのがふつうでしょう。

 本の話では,私の感覚では,指導力向上にかかわるノウハウ物をもし出版するとしたら,

 少なくともグループとして,あるいは「学校名」で,出版するのが「筋」だと考えます。

 出版社に聞くと,「個人名でないと売れない」という事情があると説明しますが,

 そうすると,悪循環を固定化する役割を担っているのが出版社,ということになります。
  
 「俺が集めた情報を,俺が先輩から吸収した指導法を,俺が俺の名前で出すのが何が悪い」

 相互不干渉の小学校では,こういう態度の教師に何も言わないのが礼儀なのでしょう。

 自分の仕事が終わったから,定時で帰る。そして執筆活動をする。

 そういう教師のいる小学校に,自分の指導力への不安を抱えて,一人職員室で悩んでいる教師がいないことを祈ります。

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すばらしい「思い出話」に水を差すようで恐縮ですが・・・・

 相手からは拒絶宣言されたので,「あるブログ」としておきましょう。

 子どもの交流を描いた「小中連携」の記事が「再掲」されていました。

 こういう「微笑ましい話」の「ウラ」を読むのがこのブログの宿命なので,お許しください。

 まず,「小中連携」には,管理職間の連携が欠かせないことは,言うまでもないこと。

 ただ,管理職どうしは,お互いの入学式・卒業式に参列しているので,顔見知りであることは当然,教育委員会で顔を合わせることもたまにはあるでしょう。

 大事なのは,子どもどうしだけでなく,教員同士の連携なのです。

 これが,上手くいかないのがふつう。

 いい小学校からは,進学の連絡会で必要十分な情報が上がってきますが,「問題隠蔽体質」「問題を問題としてとらえない体質」のある小学校からは,「それを伝えないで,他に何を伝えるというの?」という話が入学して,クラス編成も終わり,1週間くらいたって,やっとわかったりするのです。

 さて,そのブログで紹介されていた「微笑ましい話」というのは,

 小学校の卒業生=中学生が小学校の校庭に遊びに来て,仲良く小学生とサッカーをしていたという話

 これ,一般の中学校の教師が読んだら,どういう反応が普通なのか,書き手は分かっていないらしい。

 あと,都市部の場合は,一般の保護者が読んだから,どういうふうに思うか,想像はできているのでしょうか?

 私の知っている範囲では,都市部でも郊外でも,

 たとえ卒業生でも,中学生が無断で小学校の敷地内に入り,小学生と遊ぶ,というのは,あり得ません

 しかも,10人以上という人数で。小学校の放課後に。

 驚いたのは,小学校の校長が,中学校の校長に電話をすると,校長は喜んでくれて,全校朝礼で話をすると・・・・・。

 ・・・・これが「小中連携」?

 中学生と小学生が戯れている姿を,職員室から眺めている教員たちというのは,これは何十年か前の地方が舞台の小説の話では?

 中学校の教師としては,下校後,小学校に遊びに行く中学生がいるという情報を聞いたら,まずは特別の配慮をしながら見守っていく必要があると考えます。

 さらに驚くのは,「まちに迷惑をかけている」中学生も小学校に侵入し,・・・・ここからは引用します・・・・

>職員室のものを勝手にさわったり,教員の机の引き出しを開けたりするが,注意するとやめるし(以下略)

 まずは,卒業した子どもが,職員室に勝手に侵入できる小学校であることが問題。

 そして,小学校が「居心地が良い理由」というのが,ストレートにわかる事例です。

 唐突ですが,さびしさを紛らわすように万引きを繰り返す高齢者を見て,この教師たちはどうやって「心を耕そう」と考えてくれるのか,聞いてみたいものです。

 決定的にずれている感覚は,「居心地の良さ」の意味の違いにあるようです。

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誤解?されているカルロスさんへ ~中学校とはどういうところか~

 カルロスさんはいつから本ブログを訪問されているか分かりませんが,私のスタンスは基本的に変化しておりません。

 小学校の課題にふれているのは今に始まったことではなく,過去の記事を「小学校」で検索してみても,かなりの数に上っており,かつ,刺激的なタイトルが多いのが分かります。

 中学校としては,小学校を卒業してきた「被害者」を受け入れ続けている立場として,どこに問題があるかを考えていただきたいというのが,私が送り続けているメッセージです。

 すべての小学校や小学校教師が,すべての子どもを「被害者」にしているとは思いませんが,そういう前提に立つことで,初めて見えてくる問題もあります。

 小中連携などでは見えてこない,小中一貫になって初めて分かる課題があることはご説明しましたが,小学校の教師は「いい面」ばかりに目を向けるあまり,「これくらいはいいや」といって小さな問題の芽を摘まないことが多く,それが中学校で肥大化していることに気づくチャンスはなかなかないのです。

 私の勤務していた中学校に入学してくる小学校の多くでは,「ゲーム等,遊び道具が持ち込み可」でした。算数が苦手でできない子どもは,ゲームをやって時間をつぶしていたそうです。

 4年生くらいからその習慣は続いていたようで,中学校3年間,数学で苦しんだのは言うまでもありません。

 これはほんの1事例に過ぎません。

 1人の担任教師に,40人のほとんどの教科の指導に責任を持たせるのは,あまりに危険というのが私の20年以上にわたる経験からの実感です。

 さて,私はカルロスさんにメッセージがある場合は,このブログのようにご本人名をあげて記事を書くことにしております。

 カルロスさんが記事に書かれたことは,toshiさん方面の「逃避系」「差別系」を批判したことを誤解されてのことと存じます。

 精神疾患については,私も教育委員会の立場で保護者対応,学校対応に苦慮したことがありますが,直接的に子どもに被害が及ぶような場合は,とにかく子どもの側を守るべきだというのが私の立場です。

 直接的な被害はない場合も,子どもは大人の様子から非常に敏感に感じ取っていて,不安な中,毎日を過ごすことがあります。

 精神疾患になるリスクをコントロールする手段をもつのが「組織として優れた学校」であり,それで救われたはずの命もあったように思います。

 コンピテンシーというと,小学校教師の場合は,個人の能力を測る尺度としてのイメージが強いようなのですが,中学校では,組織力にうまくつながっていかないと,学年経営,学校経営が成り立ちません。

 その違いがよく理解できていない小学校教師の事例を紹介してくれたブログで,議論をしたかったのですが,逃げられて終わりになってしまいました。

 そのあたりの憤りは文章に出ていたかもしれませんね。

*******************

 カルロスさんには,ご理解いただけたようで,幸いです。

 ただ,理解すればするほど,苦しみで満ちていくものが,教育現場というものです。

 同時に,かけがえのない子どもたちの心からの笑顔に接することができるのも,教育現場というものです。

 小学校の教師には,中学生の複雑な表情をお見せできないのが残念でなりません。

 成長中に壁にぶつかっている人間の姿が,大人と子どもとの間で交錯するのが中学校という教育現場です。

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小中一貫校には,大切な時期に大切な人と出会える12歳児がいる

 小学校教師は,自意識が過剰です。

 それは,たくさんの子どもの教育の責任を自分一人で背負う習性と関係が深いでしょう。

 それだけ,心理的な負担も大きいはずです。

 だから,精神疾患にかかりやすい,のかどうかは,分りません。

 一人の人生を,自分一人による年間数百時間の授業が左右する可能性がある・・・・

 そんなに重たく考える必要はない,という考え方の人もいるでしょう。


 さて,唐突かもしれませんが,普通の小学校の6年生は,気の毒のような気がします。

 自分たちが最高学年で,異年齢集団では常に兄・姉としてふるまうことを要求される。

 しかし,この年代の子どもにとって,本当に必要なのは,自分より年少の子どもたちとのふれあいだけなのでしょうか。

 けっして,そうではない。

 12歳児にとって,最も重要なのは,自分よりほんの少し年上の,思春期の真っ最中である,お兄さん・お姉さんとのふれあいが,決定的に大事である

 ・・・・・・なんてことが証明されたら,小中一貫校は全国にどんどん増えていくでしょう。

 小中一貫校を,「小学校+中学校」と考えてはいけません。

 1年生~9年生がいる,「小中一貫校」なのです。

 小中一貫校の必要性を,あくまでも教師の側の都合から見て「よい」「悪い」と判断するのは一面的すぎます。

 子どもたちにとって,必要なことを考えてみたい。

 特に,高学年の5・6年生にとって,現在の「小学校」は,本当に自分たちの「居場所」になっているのかどうか

 「居場所」になっていることは確かだとしても,本当に「自分たちの成長にとって最適」な教育環境であるのかどうか

 こういうことを追究しようとする意欲を,ぜひとも小学校の先生方にはもっていていただきたいと思います。

 私自身としては,常に中途半端な扱いを受ける「小学校6年生」たちが,いろんな意味で成長の芽を摘まれてきている,と見ています。

 1年生~5年生のめんどうをみる,という意味での「お兄さん・お姉さん」扱いでは,6年生たちは,なぜ成長したといえないのか。これは,自分たちや,私が知っている生徒たちがそうだから,としか言いようがありません。

 たまたま,6年生のときに,中学生とまじって活動できていた子どもたちが,中学校3年生になったときのたくましさを見て,

 本当に大切な時期に,本当に目標とすべき人とふれ合うことの重要さ

 を実感しました。

 後ろ向き専門で,6年生を「利用」してきた小学校教師たちには,何の関心もないことかもしれませんが。

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気に入った仲間同士でつるむ大人集団

 さまざまな学級文化をもった「元小学生」が集まってくる中学校では,

 「新しい人間関係づくり」の実現をめざして,非常に多くの時間を費やして,指導します。

 ときには,いつも「元の仲間」とつるみ,教室を離れて廊下でわいわいやっている連中を教室に戻させます。

 「小学生気分」が抜けない子どもたちは,学校による組織的な取り組みやよほどの偶然のきっかけがない限り,「幅の広い新しい人間関係づくり」ができないために,少人数の塊を維持しようとします。

 これは小学校の教師の姿そのままとも言えるでしょう。

 小学校の教師は,日常的に何人といっしょに仕事をしているという自覚があるでしょうか。

 研究校などでは,3種類,4種類の会議が連続する,という一日を体験することができるかもしれませんが,孤立して自ら命を絶つ若い教師がいたように,ごくごく狭い世間,人にとっては王国にひきこもって,教室から外に出ず,子どもだけと毎日を過ごしているような人がいます。

 こういう人間の生き方を子どもはまねてはいけません。

 中学校に入ると,生徒たちは,とても多くの先生方の名前を覚えなければならない,「社会」の現実を知るようになります。

 中学校という「社会」の広さは,「学校」という場では本当にごくごく限られているのですが,中学1年生の4月には,教科の部屋がどこにあるのか分からずに迷うような,そういう広がりのある場所になります。

 部活動の試合で外に出れば,どの学校の先生か分からない人に,挨拶ができていないと叱られたりもします。

 小学校教師にとっても,「小中一貫校」に入ると,担当によっては「9年生」の生徒を相手にしなければいけないようになり,とても視野が広くなっていくはずなのですが,

 あくまでも「小学校」という枠にこだわり続け,

 子どもに正対しようとしない,というより,自分の果たすべき役割を自覚するに至らない,そういう教師がいることがわかりました。

 小学校教師の「小学校」というせまい領域の付き合いと,まだ思春期の多重的な問題が発生しない,のどかな子どもとの付き合いになれきって,広い世界に足を踏み出そうとしない,

 そういう生き方があたかも推奨されているかのような教育ブログは,子どもにとっては何のプラスにもなりません。
 
 情意の問題でみんな片づけられてしまうような,責任能力のない大人の社会が成立するのは,幼稚園か小学校くらいでしょう。それも,公立の学校のみです。

 こういう状況から抜け出さなければならないという自覚をもってほしい相手は言うまでもないのですが,それを邪魔するのが好きな人がいるようです。

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名古屋人の勤勉性と「放課」

 そういえば以前にも愛知県での「放課」の意味を教えてもらったことがあったのを思い出しました。

 「放課」の一般的な意味は,「課業から放たれる」だから,「放課後」ととらえるのですが,

 愛知県の場合は,明治6年の「愛知県義校規則」で,放課後ではないが授業ではない時間のことを「放課」とよんでいたのが起源となり,「休み時間」など,授業と授業の間の時間を「放課」というのだ,ということでした。

 私自身は授業と授業の間の時間は,子どもに

 「休む時間ではなく,その授業の片づけと,次の授業の準備のための時間」(教室移動の時間,体育だと着替えの時間)

 と言っているのですが,子どもの側は「友達とのおしゃべりが自由にできる時間」と認識しているので,どの立場でも実態と言葉とが全く一致していないという,めずらしいものだと感じています。

 高齢化が進んでいますから,「先生が休む時間」というなら,それはそれで正しいと思いますが・・・・。


 ところで,一昨日はある用事で昼前に名古屋駅におりました。

 新幹線に乗るので,早めの食事をとろうとしたら,目星をつけたところは,みんな開店前でした。

 そして,どこでも,「開店前の朝礼(名称は不明)」をやっていました。

 多くの店で,開店前に「挨拶練習」「今日の目標の確認」など業務にかかわることが伝達されたりしているようですが,私が感じたのは,どの店をみても,店員さんがみんなかなりの緊張感をもって臨んでいた,ということです。

 こういう仕事への勤勉さが,「休み時間」という言葉の使用を許さないでいるのか?と思ってしまいました。

 「休み時間」というと,何だか緊張感も緩みそうなイメージですが,「放課」だと少し違いますね。

 なんだか,「何かをしている」感じ。

 「休み」という「何もしないでいる」というイメージはない。


 あと,蛇足ですが,こういう店員さんの朝礼?だけでなく,食事をする店のつくりは,みんな,非常に中がよく見えるようになっているのが,気になりました。そして,「相席」になるような机が,広いスペースなのにたくさんつくられている。

 名古屋人,愛知県人というのは,自分が何かしているのを人から見られたりするのに何の抵抗感ももなたい気質があるのでしょうか。

 もしそうだとすると,dolceさんのあの演奏姿というのも,うなずけるのですが・・・・。

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中学校における子どもたちの「再起動」

 腹話術をマスターするなどして,7歳の子どもの気も引かなければ朝礼で話ができないような小学校の校長とは違って,中学校の校長になると,半分「大人」を相手に語りかけることができるようになります。

 多くの人にとって,「校長の話など退屈そのもの」などと思い返されるかもしれませんが,

 ときどき「当たり」がでることもあります。

 ある生徒が,「小学校のとき,大好きだった先生がいたが,その先生の授業で発言すると,『またあいつか』などという声が上がるようになり,それ以来,こわくて授業で挙手することができなくなってしまった。でも,入学式や始業式のとき,校長先生や副校長先生が・・・・・・・・とおっしゃってくれたので,私は気持ちを切り替えて,授業にのぞむことができるようになった」と心境を語ってくれました。

 ・・・・・・・・・・にあてはまる話の内容を想像することはできますか?

 中学校は,小学校のときに受けた心の傷を癒すところでもあります。

 「寄り添われていた」のに,「気づかれていなかった」心の痛み。

 その傷のことを,オープンにできる新しい教育の環境。

 もちろん,中学校でも,多くの心を傷を受けていくかもしれません。

 しかし,中学校という新しい環境は,「再生」のチャンスであふれていることに気づかせられたら,失敗をこわがらない子どもを育てることができるでしょう。

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dolceさんの指導力への疑問

 dolceさんの記事からにじみでているのは,

 「指導力」とは

 「問われたらその答えを教えてあげることだ

 程度にしか考えておられないことです。

「問い」と「答え」は常にセットになっていなければならない,という発想にとらわれている

 ペーパーテストは記憶力をはかるもの,という認識と,相似形なのです。

 「指導力」に対する想像力がはたらかないから,

 「ある」と「ない」という選択肢しか思い浮かべられず

 「どの程度あるのか」「どの程度ないのか」という発想ができない。

 これが,ご本人の言葉を借りれば,

>「指導力のない教師」「指導力のある教師」って、話がこの段階でストップというのは、どうしてもCPU(脳)のビットが少ないので、そこから先へは進まない

 ストップしているのがご自分であることに気づいておられない。

 「指導力のない教師」「指導力のある教師」という分け方をするのが,

 「2ビット人間」って言うんでしたっけ?
 
 

>「指導力」以上に細分化できない人は、大丈夫か?

 まず「指導力」のレベルを細分化しようとしない人が,大丈夫か?ですね。

 驚いたのは,

 「いかに、粘り強く練習をするかです」という答えと,

 「毎日、音階練習をすることです」という答えが,全く違うものであるという認識でいることです。

>本当に実践を積み重ね、充実してきた人の言葉は平易である

>名実ともに偉い人の言葉は簡単

かもしれませんが,

 言葉がわかりやすいことと,その言葉を直接子どもに伝えて,楽器の演奏を上手にさせようとすることとは別の問題です。

 繰り返しになりますが,指導とは,何かの答えを与えることだ,という発想でいらっしゃる。

 実践を積み重ねてきた人にはわかりやすい言葉でも,習い始めの子どもには,「毎日,音階練習することで楽器が上手になる」という意味の言葉と,「毎日,練習すれば楽器が上手になる」という意味の言葉と,どのくらいの違いがあるというのでしょう?

 「毎日,粘り強く練習することだよ」と答えれば,「どんな練習?」と聞いてくるに決まっています。その答えが「音階練習」なんですよね。
 
 楽器の練習で,音階練習をしないということがあるのか,音階練習ではない練習とは,どのようなものなのか知らないのでこういう感想になるのですが。

*****************

 なぜ,dolceさんには,「問い返し」という発想がないのでしょう?

 どうしたら楽器の演奏が上手になれますか?

 と聞かれたら,

 「こうしろ」と言いたくなってしまう教師。
 
 「こうしろ」と言って,その通りに子どもができて,実際に上手になったら,

 その教師は「指導力がある」と言われるかもしれない。

 でも,ここで,

 「どうすれば上手になると思う?

 と逆に聞き返すことで,相手の意欲,意識,能力の実際,目的,問いの意図などがわかっていく
  
 そして,その中に,答えが隠されているかもしれないことに気づかせる

 この,「気づかせる」ことができる教師は,

 「すぐに教えたがる」教師よりも,優れている面があるのです。


 それが,「自分の頭で考える人間を育てる」教師の姿です。


  「指導力のある教師」のイメージが貧困であるなら,

 教師の言葉をそのまま実行してできるようになった生徒A」と,教師の言葉からヒントを得て自分で考えた方法で努力して,「できるようになった生徒B」の違いを考えてみてください。

 生徒Aは,その後も,答えを聞きに,教師のもとにくるかもしれません。自分の頭では考えずに。

 生徒Bは,その後も,ヒントを聞きに,教師のもとにくるかもしれません。自分の頭で考えるために。

 
 「すぐに教えたがる」教師たちは,「すぐに答えを知りたがる」人間でもあることが多いのでしょう。

 「すぐに答えを知りたがる」教師たちがとびつきたくなるようなタイトルの本が,たくさん出版されていませんか?
 
 たいていは読んでがっかりすることになるのでしょうが・・・・・。

 答えを教えることだけが「指導」ではないのです。
 
 そういう意味では,教科書の「指導書」は,「指導力のない人のための本」なのかもしれません

*****************

 dolceさんは,塾の講師の方を相手に,「塾の教育などは教育とは呼べない」というようなことを強い口調で言っていましたが,

 dolceさんの「指導力」観を読ませていただくと,「楽器の演奏の指導は教育とは呼べない」ことも,明らかでしょうね。まあ,dolceさんの話はもともと「教育の話」ではなかったのかもしれませんが。

 それは,楽器の演奏の指導の実践であって,学校教育にたずさわる教師の教育実践とはちょっと質も範囲も対象も異なった行為です。

*****************

 残念ながら,dolceさんが紹介している担任としての「実践」は,少なくとも中学校では,「誤り」です
 
>私は、担任はなるべく教室にいるようにせよと言う。

>放課の時間が大切である。

>子どもは放課が好きである。

>放課は遊びに夢中になって、ほんとうの姿を見せることが多い。


 教室が遊び場だという学校がまず?なのですが,これは,教師の立場としては,悪くはないと思います。

 まず,放課後の学校で教師が預かってくれるのは,親としては大助かりです。

 小学校では,中学校とは異なり,部活動がなく,子どもはすぐに下校させるのが一般的だと思っていました。

 子どもの立場からすると,常に教師に「見張られている」ので,「羽目を外す」「秘密の話をする」ことができず,非常に窮屈なのでしょうが。

 そんなに暇な仕事で,うらやましい,と子どもが思うなら,動機は不純ながら,それも教師志望者を増やすためならいいでしょう。

*****************

 放課=休み時間なんだそうですね。授業と授業の合間に教室にいる小学校の先生は,少なくないのでは?

 課題のチェックから,採点,次の授業の準備など,することがたくさんあるでしょう。

 教室に担任用の汚い(ものが散乱している)机がある小学校を多く目にしてきました。

 ただ児童を見守るためだけに教室にいる,という教師は逆にあまり見たことがありません。

*****************
 

 問題は,中学校です。

>中学生は、体は大きくても、精神的には不安定でまだ独り立ちできていない。

>時には生意気なことを言う。でも、心はそんなに強くない。

>だから、中学生も学校では、たとえ時間数は少なくても、担任は精神的な支えと思う。

>学校が荒れていた時、私は常に教室にいるようにした。

>始め、生徒たちは私を気にして、うっとうしいようであったが、そのうち存在を意識しなくなった。

>教室の空気は穏やかになり、平和な感じがするようになった。


 小学校の教師が中学校に入ると,中学校も「学級王国」にしてしまうのですね。

 「学級王国」は,「担任が支配している状態」ではなくても,「独立国」であることが問題なのです。

 では,この実践のどこが問題かというと,

 中学校の場合,担任は,自分の学級のことだけ考えていればよい存在ではないのです。

 教科担任として,分掌の担当者として,部活動の顧問としての立場がある。

 教師を教育する立場の主幹という役割もある。

 学年の仕事もある。

 常に教室にいる,ということは,常に職員室にはいない,ということだから,

 非常に重要な,職員室でかわされる複数の教師間・学年間の情報交換が,できない立場になる,ということです。

 自分の学級は平和になるかもしれないが,自分の学級の生徒が他の場所でやっていることには対応できない

 中学校という職場のとらえ方に問題があるのです。

 dolceさん以外の教師もそんなだから,荒れてしまったのでしょうか?

 そもそもが,荒れている学校で,担任の教師がいる教室に子どもがずっといる,ということは考えられない

 おとなしく自分の教室で暴れている(?)ような生徒は「荒れた学校」にはいないのでは?

 担任が教室にいるような荒れている学校では,生徒は当然のように他の場所で問題を起こすのでは?

 私とdolceさんの「荒れている」学校観にかなりの隔たりがあるのかもしれませんが,

 私の経験した「荒れている」学校では,常に情報が職員室に集まり,そこで意思決定ができるようにしていました。どこに,何人で,向かうか。教室にはだれが行くか。職員室にはだれが残るか。瞬時に決定して,対応にあたるのです。

 自分のクラスだけを守るために,「閉じこもっている担任」の存在は,いかにも小学校の「学級最優先主義者」らしい。

 距離の近さが,心の近さとは限らないことに,こういう教師には気づいてほしい

 自分のクラスの生徒を守るためには,自分のクラスに生徒全員を閉じ込めておかなければならない

 dolceさんは,子どもが

>存在を意識しなくなった

 ことの意味を取り違えてはいないか?と非常に心配になってしまうのです。
 
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「心を寄せて」何をするか,しないかの話

 私自身の感覚では,「心を寄せる」などという陳腐な言葉を実践者としては使いません。

教師が子どもに「心を寄せて」なんていう前提以前の前提をわざわざ言葉にしなければならないほどの現場の悲惨さに心を奪われている場合ではなく,「何をするか」「何をしないか」を考えなければならないのが教育現場だからです。

 もちろん,使い手によるのですが,「子どもに心を寄せる」という言葉からは,胡散臭さ,口先だけの思いやり,失敗したときのための自己弁護の手段に聞こえてしまいます。

 おそらく,小学校の教師の中には,中学校の教師の厳格な指導の姿から子どもに「心を寄せていない」という心の姿を想起してしまいがちなのでしょう。

 患者の痛みに「心を寄せていない」医者。

 国民の痛みに「心を寄せていない」政治家。
 
 相手の痛みに「心を寄せていない」格闘家。

 いっぱいいそうですね。


 観念先行型の小学校教師は,道徳の授業を「苦も無く」実践していませんか。

 国語の授業のような道徳の授業を。

 国語の授業より,「正解」が簡単な道徳の授業を。

 小学校教師が「観念先行型」になりがちなのは,おそらく教員養成課程でふれる「感動もの」からの影響を強く受けているからでしょうね。

 教師と子どもとのかかわりのなかで,感動を生み出すのが「教師の美しい姿である」という観念が先行している。

 だから,特定の教師を崇拝する。

 金八先生という迷惑な存在が,同じような中学校教師像を生み出していますが,

 私の場合は,子どもと子どもとのかかわりの中で,感動を生み出すのが「子どもの美しい姿」であるというスタンスを中学校では想定しています。

 中学校の場合は,自分の教科の専門性のほかに,常にチームによる生活指導,進路指導,ときには総合的な学習の時間における学習指導の協働実践が教育の核となる。

 これらの実践の中で,中学校の教師は,生徒がお互いの「心を寄せ合って」何ができるかを徹底的に考え抜くのです。ときに,喧嘩しながら。相手の教育観の未熟さを批判しながら。相手の偏った教育観を批判しながら。

 教師が,子どもに 
 
 「心を寄せて」云々というのは,

 自分たちは子どもに「心を寄せて」これだけの指導をしたのに,思い通りにいかなかった。

 でも,「心を寄せて」いたことだけは確かです・・・・・だから,許してください。


 なんていう自己弁護のフレーズに聞こえてしまうのです。

 国語力のない方は,

 「では,心を寄せて指導する必要はないのか」

 なんていう反応をされるかもしれませんが,

 

 教師が,子どもに,何をするか,何をしないか,

 何をさせるか,何ができるようにするか,を具体的に問い続けるしかないのです。

 それを語られければ,何にもならないのが教育現場なのです。

 それが語れる人と,語れない人の違いが,教育ブログでは本当に明らかになってしまっています。

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小学校における「指導力横並び化圧力」の弊害

 カルロスさんが,私に語らせたかったであろうことを,そのまま,記事にしておきます。

>この執拗な小学校教師に対する敵視は何だろう。

 小学校の先生の特徴は,その「横並び意識」の強さ。

 中学校における,教員の連帯感というのとは,ちょっと違う

 「みんな同じ程度がいい」という,「指導力横並び化圧力」の強さが,問題の教師を批判されていることを,当てはまらない自分も相手にされていると誤解してしまう傾向の土台になっています。

 中学校の教師は,こんなことはありません。

 まず,dolceさんのように「自分のことだな」ということに気づかない教師がいて,

 「それがどうした」と開き直れる教師がいて,

 「あいつらの事だな」と距離をおける教師がいる。

 一部に,ああ,自分にもあてはまるかもしれないから,気を付けておこう,というごく自然なとらえ方をしてくれる教師がいる

 あんな教師の授業は受ける子どもがかわいそうだな,という教師がいても,他の時間で何とかなるだろう,とストレスをためずにいられるのが中学校の担任。

 小学校の担任は,崩壊学級を横で眺めながら,何を考えているのでしょう。

>普通は中学校について言われるようなことを、小学校の教師に対して言っている。

 ように見える。

 地域によっては,中学校でも小学校レベルの問題があるのですね。

>「ミラー現象」は、対象に自身の醜さを見て、嫌悪感を持って攻撃する、というもののようだ。

その「ミラー現象」の、最適な例が、失敗学の先生に言わせると、情熱の先生ということになる。

 私の使っていた「ミラー現象」という本来の言葉は,

 自分の醜い姿を見ながら,他人を攻撃している=結局,自分で自分を攻撃している

 というもので,「鏡を見ているという自覚がない」ため,恥ずかしいことになっている,という意味です。
 
 確かに,小学校の教師にも,中学校の教師にもあてはまることが多いかもしれませんが,小学校の教師に多い問題,中学校の教師に多い問題を,「それがなぜなのか」も含めて書いているつもりです。

>学級崩壊や体が寄り添うや教師の顔色をうかがうなど、小学校時代に生徒たちが見につけて中学校で「実践」しているようなことを、すべて小学校だけの問題のように書き立てている。

 中学校では,「学級崩壊」ではなく,「学校崩壊」「学年崩壊」が起こっているのがふつうでしょう。

 これは,私が想定している「崩壊現象」は,生徒の事情ではなく,教師の事情で起こっているものが多いです。

 教師の顔色をうかがうのは,小学校でも中学校でもおこるでしょうが,中学校ではすべての教師の顔色をうかがう必要はありません。自分に実害がないとわかれば,素直な表現ができます。
 
 小学校の場合は,対象の大人は担任教師一人ですから,一つ間違えると,「たいへんなこと」になります。

 中学校の場合は,担任教師との関係づくりに子どもが失敗しても,他にいくらでも関係がつくれる先生がいます。

 
>失敗学の先生は、相当に信頼され尊敬もされているようだから、みんなその言説に振り回されて、特に心ある人は受け止めようとして四苦八苦するけれど、冷たい見方をしてみれば、ただの愚痴なんだ。

 四苦八苦するのが教師の仕事です。

>中学校で生徒が思うように動かなかったり、最初から仕込み直しをしなければならないことへの苛立ちを、その原因と思われる小学校教育にぶつける。

 ここはちょっとした誤解です。

 最初から仕込みができるので,やりやすいのです。

 とても不謹慎な言い方をさせてもらうと,ダメダメの小学校から上がってくる子どもが一番指導しやすい

 子どもたち自身が,「自分たちで動ける」ことの喜びに目覚めるからです。

 小学校の学級崩壊の中心人物というふれこみで上がってきた子どもが,学級委員になって目覚ましい活躍をする,という場合があります。

 そういう目で見られていた子どもも,一度,中学校で「信頼される喜び」を知ると,小学校教師から見れば「約束が違う」?という姿を見せるようになります。

 どうして,小学校では,ああだったの?

 という疑問を抱いてくれるだけでも,次の何かにつながるでしょう。

>そのくせ、生徒たちが見につけている「狡猾な生き方」については、小学校の教師に対してだけで、中学校の教師には「犠牲となったいけにえの羊のような従順な生き方」を演じている生徒たちの姿をまるごと信用する。

 いわゆる,「落ち着いた学校」の意味がわからない,中学校教師への警句として,使わせてもらいたい言葉ですね。

 力でおさえつけられている「落ち着いた学校」と,子どもが自分の能力を最大限に発揮できている「落ち着いた学校」とは,外見上,同じように見えるかもしれませんが,大違いです。これは,子どもの目を見れば,すぐに診断可能なことですけど。

>ほほーい。失敗学の先生、もしもこれを読んでいたら、今、吐き気がしたのではないか?
>失敗学の先生のもっとも苦手な世界、「仲良く手を携えて」。

 残念でした。

 アイコンタクトで

 「ここは私が」「このあとよろしく」「ここはあの手で」「あとにしましょう」

 などの意思疎通を日常的にしている中学校の教師集団は想像できないでしょうね。

 こういう関係は,「仲良く手を携えて」なんて言葉で表現するようなものではありません。


>かなり無理して、ストレスがたまっているのじゃないの?
>生徒に対して寛容でいる分、そのことを失敗学の先生は否定するかも知れないが、それでも粘り強く生徒に向き合っているからこそ、ブログで、たまったストレスを発散しているように見える。

 そういう誤解を生んでしまうのは,私の文章力のなさと,

 内容の過激さのせいでしょうか。

 ご心配をいただいているカルロスさんには感謝申し上げますが,それは杞憂です。

 生徒に対して寛容な人・・・・なんていう私の評価を,子どもたちに聞かせたら,みんな吹き出してしまうでしょうね・・・・。

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小学校は,素晴らしい先生が多いですよ!

 それも,必要以上に(?)素晴らしい先生が。
  
 ・・・・これは,中学校や高校,大学と違って,小学校が6年間もあり,かつ,すべての教科を教えなければならないという「特殊」な環境であり,比較する対象がないから,「本当にそんなことが言えるのか?」という批判があるかもしれませんが,

 この先生はすごいな!という方はいらっしゃいます。

 ただ,それはあくまでも感覚的な話であって,一緒に仕事はしたことがないし,どんなに素晴らしい公開授業はできても普段はぐだぐだだったという生徒の言葉も信用してあげなければならないしで,そのコンピテンシーは追究が困難です。

 できたら,探究心旺盛などちらかの小学校の先生をご紹介ください。

 100マス計算にすぐに飛びついてそのうち飽きてしまうような人ではない先生を。

 そういう先生のコンピテンシーを分析してみたいです。

 「心に寄り添う」なんていう陳腐で安易な言葉を使わない人の行動特性を。

 私は,toshi先生のような方が小学校にいるとうれしいですね。

 聖人君子ぶった姿だけでなく,ときに本性をあらわして怒りの表現ができる人が。

 「いい人」でいられなくなると,自分の醜い姿を許せずに指導を放棄していなくなるような教師ではなく,自分の醜さをしっかりと受け止めながら,「泥臭い」指導ができる教師は,それだけで尊敬できます。

 私の小学校時代の担任も,「素晴らしい先生」でした。

 隣のクラスが学級崩壊状態で,その担任が「怖いから子どもがしたがって,落ち着かせる指導ができる」と誤解していた私の担任に「泣きついて」きたのですが,あるとき,

 子どもの前で「そんなこと自分で何とかしろ!」と怒鳴られてしまいました。

 子どもの私も思っていたことを,担任の先生はみんなの前で言ってくれた

 こういうことが言える小学校の先生は,素晴らしいです。

 ただ,素晴らしい先生がいる小学校では,情けない先生が余計に際立ってしまうのが問題なのですね。

 繰り返しになりますが,素晴らしい先生と朝から夕方まで一緒にいられる子どもたちがいる一方で,情けない先生とも同じように一緒にいなければならない子どももいるのです。

 だからこそ,小学校には,「素晴らしい先生」だけが求められる,という過酷な宿命があるのですね。

 その分,余計に小学校教師への目は厳しくなるのです。

 どうぞ,その点を覚悟の上で,こちらのブログはお読みください。

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先生のレベルに合わせて「個性を消す」子どもたち

 小学校で,ぜひぜひ導入してほしい仕組み。

 教科担任制をとるべきという声は,次第に高まっていくと思いますが,小学生にとって今まで一番大きなネックになっていたのは,

 一人の大人に子どもの評価のすべてが委ねられていたこと

 です。

 ある小学校の教師が正直に明かしてくれた通り,

 大人でも

 「子どもとの相性がある

 とのこと。

 つまり,担任教師と「相性が悪い」子どもにとって,

 その担任と一緒に過ごす1年なり2年は,とても苦痛なのです。

 これは極端な例だとしても,

 一人の大人が,子ども一人一人の「本当の」個性をしっかり把握できるかどうかは,あやしいところです。

 子どもはかなりの部分「演技」をしますし,

 「先生の目にかなっている」といううれしい自覚をする子どもはどんどん自分らしさを発揮できますが,

 「先生は口先だけ,みんな好きだなんて言っている」なんて見抜いてしまっている子どもは,本当の自分らしさを信用できない大人の前では出しません

 他の子どもの手前,という問題もあります。

 昔からおなじみの,いじめの原因の一つ。

 「子ども的な嫉妬」というものがあるからです。

 まわりのレベル(先生のレベルも含めて)に合わせるために,個性を消す努力をしたことがある人は,少なくないでしょうね。

 こういう問題は,子どもがいつも複数の教師から見られ,評価されることで,がらっと変わっていきます

 小学校の担任も,「固定制」ではなく,「変動制」をとってみれば,おもしろいかもしれませんね。

 月ごとに,変わる,みたいな。
 
 「あたり」と「はずれ」が組み合わさった学年だと大変かもしれませんが,そもそもが「大変なのだ」ということに気づく手段がこれしかない学校があるかもしれません。1つのクラスがおとなしく犠牲になっていればよい,なんて。

 挨拶ができた子ができなくなる?

 挨拶を強制する学校に慣れてしまうと,挨拶ができなくなってしまった子どもが気になって仕方がないんですね。

 教師は,自分から声をかけましょう。

 それで無視されるようなら,そういう存在として見られている,ということです。

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やはり,「指導放棄」は小学校の常識だった!

 久しぶりに,「小中一貫」関係の話題で小学校と中学校の接続の課題を整理してみようと思ったら・・・・
 
 私は,指導力不足教員の問題を直接扱える立場ではなくなってしまったので,こんなところで警鐘を鳴らすしかできませんが,「指導放棄」の習性をもつ小学校教師の典型的な姿を,toshiさんは見せてくれました。

 先日も,「言うことを聞かない児童たち」に怒って,

 「授業をしません」宣言をした小学校の担任教師が,保護者たちからの苦情で

 放棄後3日目にようやく再開した,という話を紹介したばかりでした。

 子どもに「寄り添いたい」けど「避けていく子ども」「相性の悪い子ども」「言うことを聞かない子ども」はさようなら。

 学級王国では,「王様」への絶対服従が求められる。

 家でも同じような状況になっている子どもたちは,嫌気がさすのは仕方のないことでしょう。

 まだ,「自習」ばかりにして,「好きなことをして遊んでいられる」担任の方が「人気がある」かも。
 
 私からの,

 「心からの叫び」は,15歳の思春期の子どもを形容するくらいにとどめておきましょう。大人なら,叫ぶ内容を冷静に判断して言葉にしてください。

 という要望に対して,

>みんながみんなではないし一部でしょうが、上記文章には、中学校教員の、ある種冷たさを感じました。それはわたしだけでしょうかね。・・・。
>したがって小中一貫になっても同氏には小学校に来てほしくありません。制度、運用以前の問題として、教員としての資質が問われる事態だと思いました。
>これがkurazoh氏への回答のすべてです。ゆっこさんがおっしゃるように、この件でのやり取りは もうおしまいにしましょう。

 toshiさんからは「手切れ」宣言。

 いろいろ痛いところを突かれるのが嫌なのでしょう。

 こんなことでは山積する教育の問題は解決しませんよ。

 toshiさんは,メールを送ってきたAさんという東京都の小学校教員を守ろうとしたのでしょうね。

 Aさんのコメントを私が題材にするのは目に見えていたわけですから。

 簡単に言えばAさんは,小中一貫校の教員ではなく,「ただの小学校の教員のまま」であることが問題なのですが,Aさんはただ愚痴をこぼしているだけで,「言う相手が違う」のは明らか。toshiさんに対応能力がないのも明らか。

 せっかくAさんのどこか課題か,toshiさんのどこが問題か,小学校教育の最大の弱点は何か

 そういうことを明らかにして,「では小中一貫校をどうしたらいいか」を

 考えようとしたら,「もうおしまい」。

 その一言は,できたら「わたしのまわりにもいたなあ」という「指導放棄」の教員に伝えてほしかった

 私は,責任感のない大人たちに対しては,徹底的に冷酷になれます

 「冷たい人は嫌い」という小学校教師の本能が,

 子どもだけでなく,大人にも温かくしなければいけない・・・・・・という強迫観念を生み,どんなにいいかげんな教師でも「いたなあ」ですましてしまう。

 Aさんという人にとって,本当に気の毒なのは,

 「ではどうしたらいいか」という助言をくれる人がいないことでしょうね。
 
 toshiさんでは問題の解決にはならない。

 「制度がだめ」だと口にするだけで,問題の解決を真剣に考えているわけではないことは,toshiさんの記事のタイトルから自然と伝わってきます。

 当事者意識のなさを見抜いた「ゆっこさん」の目は確かです。

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心だけでなく体も「寄り添う」小学校教師たち?

 匿名ブログなのに本音や真実を語ることなく,うわべだけ同情したりするような姿は,子どもが嫌がる大人の姿そのものです。

 さて,toshiさんのブログのコメント欄をのぞかせていただいたら,私の方を擁護?してくださった方が2人もいらっしゃいました。

 しょうさんとゆっこさんです。

 私がtoshiさんの記事にだまっていられなくなるのは,

>確かにおっしゃるような教員は、少数ながらわたしのまわりにもいたなあと、今、ふり返って思います。

 というようなコメント。

 この「少数ながらわたしのまわりにもいたなあ

 というとぼけた書き方が,私の経験の中で何人か思い浮かぶ「いい加減」な管理職そのものの「語り口」で,どうも黙っていられないのです。

 小学生は,中学生と比べたら大人に対する依存度が高く,それだけいい影響も悪い影響も受けやすい子どもたちなのですが,

>指導放棄されて荒れてる所

 があっても,「いたなあ」ですませる神経そのものが,小学校を「緊張感のない」=「大人の世界ではない」おかしな空間にしてきたのです。

 中学校の先生への文句を言う何十年も前に,自分の学校の指導力不足の教員を何とかすべきだったのです。

 今日は,ほんの少しだけ,私と生徒との会話を紹介します。特例です。

 昼休みに中庭で3年生の女子生徒とバレーボールをしていた私に入学したばかりの1年生の多くが興味を示して,そのあまりの反応の強さに「どうして?」と聞いたところ,気に入った女子だけを集めてべたべたしている小学校の先生を思い出した,というのです。

 小学校では,心だけでなく体も「寄り添う」教師がいるんですね。

 私の「通りがかりのグループ」とたまたま一緒に遊んだだけ,という説明で誤解は晴れたようですが,生徒というのは教師と先生の関係というものに非常に敏感なのですね。

 話の流れは小学校の先生の「依怙贔屓のすさまじさ」とか「授業のいい加減さ」に発展していき,私から「知り合いでもあるから,それくらいにしておいて」となだめても,「怒り?」はおさまりがつかない様子でした。

 中学校では,聞こうと思えば,小学校の問題点は生徒からいくらでも出てきます。

 小学校の教師の中には,

 「中学校では小学校の教師の悪口を言えば中学校の先生を喜ばせることができると子どもは考えている

 とゆがんだ子ども理解をしている人がいるのですが,

 小学校高学年にもなると,おかしい大人とまともな大人の区別がつくようになるのです。
 
 どういう目で,小学校時代の苦悩を訴えているか,想像力をもたない無責任教師には,全く自覚したことがない悪癖や教育の質の低さを小学生が理解したときの失望を理解することはできないでしょう。

 本当に困っている子どもは放置され,ただ甘えたいだけの子どもにだけ「寄り添っている」教師は,自分のどこが問題なのか,気づくことができないのです。

 担任として常に40人と一緒にいるだけで,「寄り添っている」などと思っている人はいないでしょうが,「寄り添われたくない」という子どもの心の成長を無視してベタベタし,自己満足にひたっている教師はいませんか。

 私が「聞き捨てできない」と言ったことが,何をさしているか,想像しようとしないその態度が,子どもから「見放される」原因なのです。

 小学校で学級崩壊のくわしい内容をひろうしてくれる生徒もいるのですが,当然のことながら,その生徒自身が崩壊の原因をつくっていた,ということもあります。

 話を聞いていると,「結局,問題だったのはあなた(生徒のこと)の姿勢だよね?」という「お叱り」で終わりにできるものもあるのですが,「聞き捨てならない」話も少なからず登場してしまいます。

 東京の心配をする前に,小学校の「指導放棄」をはじめとした多くの問題を心配するのが「実践的」でしょうね。

 6・3・3制の見直しは,現実のものになりつつありますよ。

 さて,ゆっこさんは「この件は おしまいにして頂けませんか?」とおっしゃっていますが,

 「心からの叫びを聴いてほしい!」というtoshiさんの要望にお応えして,Aさんという方のメールの内容を検討してみたいと思います。

 Aさんにとっては私からのコメントなど期待していない(もし本当にそうなら,その態度がダメなんだと強く言いたいのですが)のでしょうが,ここはtoshiさんの要望を優先させたいと思います。

******************

 次の記事で書いたように,toshiさんが「おしまいにする」とのこと。

 こういう姿勢が,教育をダメにする。

 そして,教育ブログも,つまらないままにする。 

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真愚さんは,なぜ「教えたくなった」「伝えたくなった」のか?

 私がブログ上で取り組もうとしていることにいろいろと思考をめぐらしていただいて,コメントしてくださいました。

 真愚さんに感謝申し上げます。

 どういう場面で,真愚さんはご自分の発想を生かしてくださいますでしょうか。

 もともと真愚さんがもっている力だけではない,何かが引き出せたのではないかと思っています。

 私のブログ上のスタンスは,これなのです。

 教育上のスタンスと言っても,そう大きなずれはありません。

 学校でああした,こうした,といろいろ披露するのが好きな人もいるでしょうし,ああした方がいい,こうした方がいい,と指示したい人もいるでしょう。

 私は,このブログ上では,基本的にこうしたスタンスはとっていません。

 「教えること」と「育てること」のバランスの取り方で多くの教師は壁にぶつかります。

 子どもとの距離感との関係でも,この二つは複雑な作用を及ぼしています。

 バランスと距離感を誤ることがなければ,基本的には「失敗はしない」のが教育です。

 私が発している警告は,本来は失敗しないでもすんだのに,教師の意識や勘違いが原因となって失敗している,そういうケースです。
 
 変わるべき人を変えようとする意欲。

 人を「変えたい」という気持ち。

 これを大事にしたいと考えています。

 一番いいのは,答えをすぐ示すのではなく,答えを自分で探そうとしてくれることを待つことです。 

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kurazohさん、匿名さん、こんばんは

匿名さんの言われるwikiは見たんですが、片手落ちの様な気がしまして、

kurazohさんは多少の非難も聞き流すことの出来る広い御心が有りそうで
少し批判めいた暴投でも書いて、、、大きなミットをご用意下さいませ。

> その前に,「どうやったら指導力を向上させることができますか」

答えなどでは有りませんが何かの語呂合わせの一節に
「1つ叱って、2つ褒め、3つ教えて、よき人にせよ」というのがあります。
多分その前にも語句があって
「愛しき我が子が可愛いくば、少し離れてよく見つめ、」なんて言葉がついていて
何処かの和尚か何かが親に言い聞かせた古くからの言葉みたいですが、
親じゃないのでもう離れてるでしょうから、よく見つめる事から始まるのでは?。

> ご参照いただける「教育失敗学HP版」に,コンピテンシーモデルを示しています。

本の紹介でしょうか?、目次みたいだけど。

> コンピテンシーは優れた教師に見られる行動特性で,思考の傾向から技術的な面まで,様々なものが含まれます。

何か仏教と似てますね。お釈迦様が言ったという「原因が有って結果がある」と言うことの内、
「善因善果、悪因悪果」の善因善果だけ引っ張り出そうとしているような、そんな感じですか。
仏教を学んでみられたら?。別に入信せよ言うつもりはないですが、学問的視点からお経を読んでみるのも良いかも?。
ご推薦は出来ないのです。
私が読んだこと有りませんしそれより違う事に視点を変えた方が良さそうな気も。

> 日本語で簡単に表現できる言葉が見つけられたら,私もそっちを使いたいです。造語でもいいので,もしどなたか思いついた方は,教えてください。

善導善致ってどう?。_(.・)☆\(ーー;)

さて、kurazohさんは何か教条的でdolceさんは実務的で、
dolceさんは生徒をよく見てらっしゃいますね。
 吹奏楽が上手になってきて部室が綺麗になってくる、
とか生徒の記述がdolceさんのブログに有ります。
kurazohさんのブログにはバトルっぽい記述で忙しいのか、
失敗学の具体的事例として生徒が出てこない。
失敗は生徒を見て判断してるのでは無いのですか?。
kurazohさんがほんとによく見てるのか、失敗をどう判断してるのか疑問です。

> 「具体的にこうしろ」,というのを示すことも大事ですが,そんなレベルでよしとしない。

具体例をレベルと見ることも出来ますが、モデルと見ることも出来ます。
基本教義の応用力事例として参考になることも有るかと思います。
コンピテンシーモデルと言いつつモデルが出て来てないのでは?。
複眼思考も大事では?。

> 製造業などの場合には,すべては「要素」「構造」「機能」で成り立っており,

機械はスイッチ入れれば動く、その因果関係はハッキリしてます。その境界もハッキリして
ラインと見なせると思います。でも人はラインではなくゾーンです。
それも可成り広いゾーンで先生の指導が良かったのか悪かったのか誤差も大きく見定めることすら難しい。
機械対応的視力では判断は可成り難しいのでは。
機械学より農家とか木を育てる庭師とか生物関連の職人の言葉の方が参考になるのでは?。

> 私がdolceさんに「気づかせたい」と思っても,それがなかなか実現しない,そんなレベルの私ですから,そう簡単に答えが示せるものではないと覚悟しています。

個人が相手なら言葉でいうのは簡単ですから簡単に言いますけど、
相手の言葉で喋るのが一番。
アメリカ人には英語で話し、ドイツ人にはドイツ語で話し掛け、
dolceさんを見下すわけでは有りませんが幼児には幼児言葉で語りかけ
dolceさんにはdolce語で話し掛けることが近道だと思う。
機械語教条語は逆効果かも知れない。それが「見る」という事だと思います。
見てない私が言う事じゃないかも。。。
随分偉そうな事を言っちまったかも、、暴投がミットに収まったかな。

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子どもの学びの邪魔をしないことが大事

 オリジナルにこだわって,失敗することは決して悪いことではありません。

 その失敗は次に生きるでしょうし,子どもは「チャレンジしてくれた先生」に感謝してくれると思います。

 しかし,オリジナルにこだわりつつも,教育実践でもっと大事にすべきことは,「子どもを見る」ということです。

 「子どもの邪魔をしない」ということ。

 以前も紹介したことがありますが,

 小学生は45分間,集中することはできない

 という前提に立って,

 15分ずつの「ユニット」をつくり,それを3つ行う,

 という指導案を立てた教員がいました。

 どこかの物まねだったのでしょうね。

 嫌に自信満々というか,「これはすばらしい教育方法だ」

 みたいな意気込みを感じました。

 指導案を見た瞬間に私が確認したことは,
 
 これ,予定通りいかないこともあり得るよね?

 ということでした。

 そして,実際の授業。

 最初の15分の「読解」に子どもは熱中し出して,意見が次々に出されました。

 「これはさらに次につながる意見だな」と思った瞬間,その教員の口から出た言葉は,
 
 「時間ですのでこれでやめます

 ・・・・あと30分もあるのに・・・・。


 そして,全く別の課題にうつってしまいました。

 校長先生からは,「指導力のある先生」とお聞きしていたのですが,

 私にとっては,その教員だけでなく,校長先生への信用も失墜してしまったことは言うまでもありません。

 
 何も,オリジナルなこと,「余計な工夫」にこだわる必要はないのです。

 子どもの意見がうまくまとめられなくても,

 教員の自己満足の象徴のような,「美しい板書」なんかできなくても,

 全くかまわないのです。

 子どもが言いたいことを言えるはずの時間があるのに,

 その機会を「予定通り」に奪えるような教員は,教員向きではありませんね

 こういう教員の例を挙げているときは,「子どもに寄り添う」という言い方は気持ち悪い。

 何だか,歩いてトイレに行けなくなった老人の介護をイメージしてしまいます。

 子どもは,もっとたくましい。

 「子どもに正対する」・・・・これが,私が最も重視している姿勢です。

 
 私が「指導力不足」を見る事例は,たとえばこういうものです。

 校長先生の指導力不足も,どこかで話題にしなければ,と思ったら,いい題材が教育ブログにあったので,見つかり次第,ご紹介しようと思います。

  多くの人が,実践紹介が大事,などと言いますが,

 私を含めて,それぞれの教員がそれぞれに当たり前のことを当たり前にしてくれるだけで,学校はよくなるはずなのです。

 dolceさんのように,「教育実践」という意味での「実践」を語れない人も少なくないはずです。

 体育の教員が,私,速く走れるんです。走っている姿を見てください。

 なんてブログを作っても,何の意味もないでしょう。

 ただの個人としての日記なら,別に文句を言われる筋合いのものではないですが。

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全国学力調査もよいですが,・・・

 全国学力調査。

 問題は公開されていますので,ぜひ,dolceさんにもご覧いただいて,「記憶力」をはかるためのものか,また,「記憶力」の向上をはかるためのものなのか,お考えいただきたいと思います。

 そういう発想でいる人たち(子どもも含めて)は,

 問題を読むのがめんどうくさいと思うでしょうし,

 国語力がなければ,問題の意図が読み取れず,正しい答えを導くこともできません。

 正しい答えが,一つではない,という問題が「数学」で出されることは少し意外に思われるでしょうね。

********************

 全国定期考査問題調査というのもぜひ行っていただきたい。

 これで,授業の進度,難易度,目標達成への指導意欲などを評価することができます。

 区市町村で,最も優れた問題を選び,都道府県で,さらに優秀な問題を選ぶ。

 ちょっと余計ですが,全国でその質の高さを競い合ってほしい。

 質が高い問題は,単に難しい問題とは限りません。

 予算は,ほとんど必要なし。

 指導主事を使えば,ただでできます。

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「おかしくなった小学校」の実態を教えてください!

 toshiさんは,相変わらず焦点ボケで,お答えがしにくいのですが,

 私が見ているのはごくごく単純なことです。

 「心からの叫び」は,15歳の思春期の子どもを形容するくらいにとどめておきましょう。

 大人なら,叫ぶ内容を冷静に判断して言葉にしてください。


 与えられた条件を最大限に生かして,指導力を発揮できているかどうか。

 自分の指導力を棚上げして,環境のせいにしたり条件のせいにする人間たちが,

 50代すぎの教師には特に多いでしょう。

 簡単な話。文句を言っている暇があるなら,やるべきことがいくらでもある

 何も知らない「おやぢ」さんよりはましですが,文章全体から漂ってくるのは,「部外者のにおい」なのです。

 どうも,「当事者意識」が感じられない。

 だから,ほとんど読む価値を感じなかったのです。


 小学校教師の中に,定時で帰るための技術を本にしている人がいます。

 小学校をさっさと出て,その足で,自分が育てた子どもが汗を流している中学校に出かけて,一緒に参加したり,帰り際に教科の話をしたり,・・・・そんな教師を増やそうとするのであれば,私も賛成。 

 でも,そういう人が地域の学校に自然に増えていくとは思えない。

 小学校教師は,15歳の子どもたちには寄り添わない(寄り添えない)

 ここが最も残念なところなのですね。
  
 実態が分かっていないので,「迷惑な養護教諭」みたいな騒ぎ方をする。

 しかし,小中一貫校になると,いろいろな可能性が生まれてきます

 中学校にも自由に出入りできるようになると,どこでどのような苦しみ方をしているかが次第に見えてくるでしょう。

 そこで初めて,見えてくるものがある。

 できれば,どの段階にその「苦しみ」の芽があったかに気づいていただきたい。

 教師の方には,「小学校段階で,ここまでの力はどうやっても身に付けさせないといけない」という自覚が芽生えてくる。

 中学校側が,必ず出てくる問題の芽を早めに摘んでしまおうとして,小学校教員からみれば,「強い指導」に出ていくことはあるでしょう。

 中学校でいう「初期指導」だけでは不十分になってくると,どうしても「事前指導」が必要になってくる。

 おそらく,そういったところで小中の軋轢が生じていることが予想されます。

>小学校に中学校の教員が来るようになってから、小学校がおかしくなったと言っているのだよ。

 「小学校が」という発想でいる以上,その教員ができる仕事は「ただの小学校教師」の仕事でしょう。

 なぜ,「ただの小学校教師」から脱皮することができないのか。

 私のような者だけでなく,小学校の「学級王国」という「無法地帯」に接したことがある大人は少なくないでしょう。授業参観なのに,自習。授業中なのに,携帯ゲームに夢中。遊び道具は,持ち込み放題。チャイムが鳴っても,授業が始まらない(まだ外で遊んでいる)。教師に気づかれないでいじめをする手段の巧妙化・・・・。

 そのような「無法地帯」が「小学校」内にあることを放置し,自分は自分,そのクラスはそのクラス,という態度で好き勝手できるのは,「出口の力を保障する」という責任感をもたずにすんでいるのが最大の理由です。

 「出口の力まで責任を負わなければならない教師」になることで,小学校教師の何が変わるのか。

 それとも,あくまでも責任を回避して,「小学校」に埋没していくのか。

 中学校の方の問題は,今までどんぶりからこぼれ落ちるくらい書いてきましたが,まだまだ必要ですか。
 
 具体的に,小学校教師が一貫校ではやっていけない理由を教えていただけますでしょうか。

 できるだけ焦点化を図っていただきたいと思います。

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記載ミスは通知表だけですんでいるか?

 神奈川県では,「通知表の記載ミス」根絶に向けて「ダブルチェック」を促すなど,各学校に指導をしているようですが,効果はなく,ミスが繰り返されているようです。

 コピペのミスなど,「手書き」でやっていたころには起こらなかった問題が,コンピュータが活用されるようになって増えてきました。

 コンピュータの利用は,「省力化」「効率化」の目的で進んでいるため,成績のミスというのは,そのための犠牲として生まれた問題だということもできます。

 成績に関して繰り返されるこのようなミスが,家庭への通知だけですんでいるなら,まだまし,と言うことができます。

 問題は,入試のときにも,高校へ提出する書類にミスがあるのではないか,という家庭の不信をどう払拭できるかでしょう。

 企業なら,見つかっていないミスがないかどうか,徹底して調べるでしょうが,手抜き天国の学校では,苦情や相談が寄せられない限り,何もなされないのでしょうね。

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県の常識が非常識かもしれない

 インターネットでは,平成22年1月(第902回)の長野県教育委員会定例会会議録が公開されています。
 
 ここには,以下のような会話が残されています。
 
 長野県では「校内LAN」を知らない人が議事録を取っているようでさびしい気もします・・・。

 太字の部分は私が注目した部分です。

****************

> 山口教育長

 出張を命ずる権限は学校長にあります。ですから、例えば研修会にしても、行っていいよということは、最終的には学校長が判断するという形になります。そのような中で、高等学校の場合はとにかく授業交換をできるものは最大限にやるとかいうことをやっております。私が経験した例でいいますと、予め出張が決まっているものを教務室に張り出しまして授業を振ります。あるいは授業を替わりたいのだけれどもというものを張り出すのです。そうすると、ある理科の先生が月曜の5時間目は出張で、その授業を私の国語が遅れているからくださいという形でもらうような形になります。ただ、これは時間割が固定化していたり、あるいは学校によっては規模が大きくなったりして、ひとつのところに同じ教科が同時に入るというようなことになりますと、替わりの教員が手当できないというケースもございます。できるだけそうやって自習を少なくすることはもうしょっちゅうやっております。ただ、そうやっても自習にせざるを得ないときがありまして、そのようなときには、英語の先生が空いているけれども数学の授業はできないので、そのような時には出欠を採ったり、指示したり、あるいは用意されたプリントを持っていって、プリントで学習した後、クラスの学習係は集めて持って来てください、というようなことをやったり、いろいろな形で自習の指示をしているというのが実情であります。ただ、本県の小学校では担任が全ての教科を持ちます。ある程度の規模がないと専科教員も配置になっておりません。教頭さん、校長さんがいますから担任が不在の際は当然何らかの対応はされるでしょうけれど、そういったところの難しさはございます

>耳塚委員

 そもそも、平日の授業のあるような時間帯に研修がセットされているのは本県の特徴ではないかという指摘だったのです。

>矢﨑委員長

 要するに長野県教育の中でそのことを善としてきている風土が有りはしないでしょうか千葉県に行ったら、この中学は授業中に先生が出るなんてことは考えられないと校長が言っていました。要するに、長期休業の時とか、例えば自分のことを言って恐縮ですが、茅野市は市民との会議は全部午後7時からでしたからね。昼は絶対にやりません職員は残業になるので嫌がりますが、市民は午後7時からでないと出れません。市民会議は午後7時になると何十人という一般市民がどんどんと入ったそうです。要は、学校の場合は夜とは言わないけれど、長期休業の時に研修とか会議とかいうものを集めて、生徒や子供がいる時は、生徒と向き合う時間を多くするような、そういうことがもう少しダイナミックにできないかというのは前から思っていたのです。

>山口教育長

 おっしゃるとおりだと思います。原則的に自習を無くすべきだというのが前々からいろいろな方から御指摘がありました。職員のいわゆる研修は長期休業とか、できるだけ授業の無いときにやるべきで、それでもやらなくてはいけないときもあるのですけれど、これは例外と考えて、もし、更に踏込んだ議論をするということになると当然そこまで言わざるを得ないし、先ほど伊藤委員から出た枠組みの問題でも言わざるを得ないし、それから学校のIT化が進んでいる部分がありますので、できるだけ校内RUNでできるものはやって、顔を見ながら意見交換をやるとか、あるいは全体の流れで野村委員に言われてはっとしたのですけれど、先生方同士が向き合っていないのです。それは忙しいだけではなくて、どうもそのような風潮のようなものを私自身もいろいろなところから受けています。言葉で言えば済むことをわざわざ文章にして、配って読んでくださいというような報告もしません。顔を見て言えば済むことなのですけれど、そのようなこととかがあろうかと思っています。学校も社会の中にありますので、いろいろな意味でそのようなものの影響を受けている部分がありますが、いろいろな変革期で曲がり角にきていますので、私どももいろいろな調査をかけるのです。(以下,略)

>矢﨑委員長

 教学指導課長、そのような研修会とか会議は長期休暇といっても先生が出てこなければいけないですよね。先生に休みは無いですよね。しかし、子どもはいないのですよ。子どもがいるときといないときの教師の仕事の仕方をドラスティックに思い切って変えるということはできませんか。後でいろいろ言いたくないので、もうひとつ言わせてもらうと、千何百人減ったなんていうのは、こんなものは何も減ったことになりません。それは、耳塚委員が言われたように、もしかしたらこんなことはしなくても減ったかも知れません。これで1,400人減ったなんていうのは全く今回の大きなテーマからいくと、それは少し改善したような程度のことで、そうではなくて枠組みとか骨組みとか、要は研修とか会議は生徒がいないときにやって、生徒がいる時にはできるだけ生徒に向き合う時間を多くするような、思い切った変更をしないと解決しないのではないかと思うのです。そういう配慮をした上で現状なのか、教えてください。

>北澤教学指導課長

 御指摘はもっともだと思いますが、実は今も既になるべく子ども達が学校にいるときの会合や研修等をなるべく避けて、例えば午後の3時からの開催とかにしながら工夫して会議等を設けてきている状況があります。ただ、それは地域に密着したときの会議はそのようなものも可能ですけれど、どうしても全県的に開催したいとすれば、この長野県の広さでは難しい点があります。

>矢﨑委員長

 それは分るのですよ。いつやってもいいものは長期休暇の間にまとめてやればいいのです。

*********************

 授業が最優先という原則を忘れないのが,教育に情熱をかける教師,自治体,家庭らしい姿でしょう。

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逆コンピテンシーの典型である校長先生の言い訳

 定年退職を迎えられた「学校のおやじ」さんの記事を引用させていただきます。

 企業でたとえてみれば,社長は,理念を示すだけで,職場環境や施設などの条件を改善しないまま,現場に工夫しろ,とせまってくると愚痴をたたいている地方の営業所の所長みたいな苦情ですね。
 
 同じ条件下でよい業績をあげている所長もいるのに。そういう所長から学ぼうとする姿勢があるだけで,少しは変わるのでしょうが。 

*************************

 文科省や御用学者たちは、新学力観の展開のボトルネックは現場にあると見た。
 しかしそれは【1】現場の問題ではなく、環境整備、条件整備をしないまま現場に強要したことや、方針の右往左往がネックだったということが明らかである

 環境整備とは、理念を影響力のある義務教育にだけ押し付けて、高校や大学の得られなかったことがあげられる。【2】文科省自身の全国学力調査だって矛盾の固まりだ。ペーパーテストを重視するなと言わなかったかな?高校や大学の入学試験は、新学力観を重視したものになったのかな?
 条件整備とは、理念を実現するためにはどのような条件が必要なのかを考えず、いや考えたかもしれないが、それを実現できなかったことにある。
 それは小学校における英語教育にも当てはまる。

 「やれ」といえば「やれる」と思うのは言霊の国の根本的な欠陥だ。「これが正しいから、それをやれ」、【3】「理念はこうだ、現場が工夫せよ」でことが済めばこんなに簡単なことはない。命じたから実現できる、実現しないのは現場が悪いという発想はやめなくてはならないのだ。
 「美味い飯を作れ!」「五族協和!」「百発百中!」「非核平和!」「新学力観!」「防災、安全!」という語に共通するのは、「私、宣言した人」、それが実現しないのは「あなたの認識不足、努力不足」
 コトダマの国ですよ。祈れば台風さえやってきてくれると他人だよりなのだから。

************************
 
 典型的な逆コンピテンシーモデルを示していただいて,ありがたく思います。

 dolceさん風に,わかりやすく,課題をお示しします。

【1】 新しい学力観・・・・せっかく,「自ら学び,自ら考え・・・・・」という子どもに示してほしい学ぶ姿を教師が具現化するチャンスがあったのに,それを「時間がない」「金がない」「ものが足りない」「高校が悪い」などという理由でできなかったことへの反省をしない教師たちは,ますます信頼されなくなってしまいました。

 能力不足だったのですね。

 「時間がない」のはたいてい能力の低い人の言い訳で,能力の高い人は「時間がない」とは言わないから,どんどん仕事がまわってきて,そしてどんどんこなしているうちに能力も効率も高まってくる。

 「時間がない」といっている人には,仕事はまわってこないから,仕事のこつもわからないし,内容すら理解できない。職員会議では,こういう人のための「説明」に費やす時間が,けっこう長くかかったりする。本当に「時間がない」状況をつくり出しているのは自分自身だということに気づいていない。

 「金がない」なら,「金がかからない」ことをすればいい。「金がない」と言っておきながら,子どもにやらせっぱなしのワークを買わせたり,無くても困らないはずの高価な教科書の指導書を買ったりする。

 新しい学力観は,激しく変化する社会への対応力をつけることも重視しているのに,教師はその逆の力を見せうけてくれている。

 指導力のない教師たちは,教科で学ぶべき内容を学習指導要領で示せば,強制だと文句を言う。総合的な学習の時間を設定し,内容は学校で決めてよい,と言えば,「何をやったらいいかわからない」と文句を言う。

 成功している学校の事例に目を向けることもせず,環境が悪いからできないと言う。

 クラスの中で,あるいは家庭で,勉強ができない言い訳を同じようにしている子どもはいませんか?

【2】 全国学力調査の内容をどうやらご存じない。dolceさんと全く同じ。

 また,それなりに工夫をし出した公立高校の入試問題の変化もご存じない。

 ペーパーテストを重視するな,というのは,正しくは,ペーパーテストの結果だけで合否が決まるようなことはおかしい,という意味でしょう。

 「記憶力を問うだけのペーパーテストを重視するな」というのだったら,私の考えと一致するのですが。

 ペーパーテストを重視するな,などと言ったのは,だれが,どこで,どのような文脈でなのか,教えていただきたいです。

 なお,入学試験と学力調査は全くの別物です。
 
【3】 こういう非難のしかたをする人がいるから,文科省はしなくてもよい調査をして現場に余分な負担をかける,という人もいるし,私からすると,「理念はこうだ,現場が工夫せよ」ですんでいてほしいのが文科省という役所の立場です。行政の指示が具体的になってくればくるほど,現場の側は苦しくなっていくはずです。

 環境がないからできない,という言い訳をする校長がいる学校に,子どもを通わせたいと思いますか?

 環境には厳しい面がありますが,こういう工夫をしています,と具体的に説明できる校長と比べてみてください。

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「学校のおやぢつぶYaKi」ブログに見る教員の無知と責任転嫁の方法

 現場の理解不足,努力不足とは,具体的にどういうことを示しているのか,

 「学校のおやぢつぶYaKi」というブログで,そのことが端的に示されているので,ご紹介します。

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 日本地図から3県だけを教えるといった器用なまねのできる教師はいないだろう。新潟といえば富山や福井を、愛知といえば静岡や三重・岐阜を、福島といえば岩手宮城・・・というように、互いに関連したり対照的だったりする地域を語らざるを得ないからだ。こんな短い文の中にも10の県名が含まれている。
 そもそも文科省に言われるまでもなく、暗記であろうとなかろうと全国の県名を分からせることは社会科の教師の悲願であったのだ。
 だからあの「3県でよいという方針」は、冷笑されこそすれ、歓迎したり尊重したりすることはなかったし、お説通り実行すること自体が無理だったのだ。

 それを踏まえるとどういうことになるのだろうか?
 文科省の方針は間違いだった > それを実行した現場は間違いだったという論理は精細を失う。
 同時に、新学力観という崇高な理想の示すものと、文科省の教科書によるその具体的な展開との間にギャップがありすぎて、現場には混乱しか生じさせなかったのだ。
 それでも現場の不理解と努力不足といえるのか? むしろ密かに基礎基本を大切にしてきた教育現場の人びとに感謝するのがスジというものではないか。

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>暗記であろうとなかろうと全国の県名を分からせることは社会科の教師の悲願であった

 これは,小学校の教師の仕事です。

>「3県でよいという方針」は、冷笑されこそすれ、歓迎したり尊重したりすることはなかった

 中学校の地理的分野で「地域の規模に応じた調査」のうち,「都道府県規模の調査」は,3県くらいを対象に行うことが普通です。

 この学習では,地域的特色を追究しとらえる学習を通して,都道府県規模の地域の特色をとらえる視点や方法を身に付けることをねらいとしているのです。

 「様々な面からとらえた日本」という「中項目」では,さらに,地域の規模に応じて,また,地域間を比較し関連付けて,地域的特色を明らかにする視点や方法を身に付けさせることをねらいとし,自然環境や人口,資源や産業,生活・文化,地域間の結び付きといった視点から,「国家規模や都道府県規模の調査」で身に付けた知識や技能を生かして追究していくのです。
 
 視点によっては,

>新潟といえば富山や福井を、愛知といえば静岡や三重・岐阜を、福島といえば岩手宮城・・・というように、互いに関連したり対照的だったりする地域を語らざるを得ない

 のは当然のことで,実際に学習してきた生徒も多いでしょう。

 あたかもそのような学習ができないようになった,という趣旨で書かれていることは遺憾です。すぐにでも訂正していただきたいし,こういう教師がいること自体が本当に恥ずかしくてやりきれません

 なお,地理的分野の上記の指導については,指導力のない教師ではなかなか目標の実現が難しかった。だから,今回の改訂で,指導力がない社会科教師でも「教えやすい内容」に変わりました。しかし,地理的分野で身に付けさせようとする基本的な目標については変更がありません。

 上記のブログを書いている人には,学習指導要領の目標と内容に関する知識がなく,「現場の理解不足であること」を自ら証明しているにすぎないのです。

>お説通り実行すること自体が無理

 であることは,こういう教師が多ければ,それこそ自明の理です。

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人間(教師)を成長させるためにあるコンピテンシーモデル

 真愚さんのご質問にお答えします。

 その前に,「どうやったら指導力を向上させることができますか」
 
 という教師からの質問は,「どうやったら勉強ができるようになりますか」

 という生徒からの質問や,「どうしたら幸せになれますか」

 という「人生相談」での質問と同じようなもので,そういう質問に対して,

 具体的にこうしたらどうですか,と提案することはできなくはないですが,

 私は「自分自身の力で見つけるものです」と答えることにしています。

 あるいは,「私もその答えを聞きたいです」と言います。

 「そういう力がないから,聞いているので」と返されたら,

 「今はなくても,努力を続けていたら,見えてきます」

 「そういう人の姿を見て,聞き取りをするのではなくて,自ら獲得していくのです」

 と答えます。

 このことをご理解いただいた上で,お読みください。

****************

kurazohさんはよくコンピテンシーと言われるけどコンピテンシーって何?。
英語追試組だった私にはこんな言葉にはアレルギー起こす。
何で日本語で言わないのかってね。
まあそれでも何なんだろうっておもって左のカテゴリーをみると
「逆コンピテンシー」ってカテゴリ-は有るのに「コンピテンシー」というカテゴリーは無い。
それじゃーネットで調べてみたがよくわからん。
授業の標準化、マニュアル化の様な気もするが少し違うのか?。
違わないのならそう言えば良いのにわざわざコンピテンシーというのは何故か。
左のカテゴリーに「コンピテンシー」というカテゴリーが無いことがおかしいと思うが?。

****************

 ご参照いただける「教育失敗学HP版」に,コンピテンシーモデルを示しています。

 コンピテンシーは優れた教師に見られる行動特性で,思考の傾向から技術的な面まで,様々なものが含まれます。

 日本語で簡単に表現できる言葉が見つけられたら,私もそっちを使いたいです。造語でもいいので,もしどなたか思いついた方は,教えてください。

 さて,企業の場合,ある人が,よい業績を残せたら,「どうしてその業績が残せたのか」を明らかにしたいと思うでしょうね。そういう業績が残せる秘訣があれば,すべての社員で共有化すると,企業全体の業績はアップするでしょうから。

 しかし,失敗しないですむようなことは「マニュアル化」できる・・・・たとえば,ハンバーガーは何度で何秒焼く,というようなこと・・・・のですが,よい業績を残せた理由は,それよりもっと複雑なことなのですね。

 どうしたら,100点がとれますか,と聞かれて,こうしたらとれると,と答えて,みんなが100点をとれるようになるわけではない。つまり,もともとの能力が左右する面もある。でも,能力が足りないから,示しても無駄だ,とは考えないわけで,こういう努力をすればいい,ということに気づかせるのがコンピテンシーモデルなのです。

 目標の内容とその立て方は,人によって異なる。そして,それはその人自身が決めていくべきものだ

 そういう考え方をコンピテンシーモデルは示している,というのが私の立場です。

 「具体的にこうしろ」,というのを示すことも大事ですが,そんなレベルでよしとしない。

 「自己教育力」をはぐくむための方法の一つでもある,それがコンピテンシーモデルなのです。

 もともとは教員の職務目標の立て方の参考にするために提案したものでした。

 それを,教育全体に応用していきたい,というのが,教育創造学なのですが,まだまだそこまで到達できていません。

 今のところは,このモデルによって,自分自身に合ったかたちの「目標」が見つけられるようになってほしい,というメッセージを送り続けているところです。

 教育の場合,「目標」は抽象的なものである場合が多く,それを実現させるための「内容」も学習指導要領等には示されていますが,具体的な「教材」は,自分の目の前にいる子どもたち,周囲の環境,社会的な情勢などをふまえて考えだしていかなければなりません。そういう営みの中で生まれる「教材」が,あるいは「失敗作」「稚拙」なものだったとしても,「自らつくり出そうとした」「自らつくり出した」という姿勢自体が「教育という営み」らしさを教師からにじみ出させ,子どもとのよき関係をつくっていく土台となるのです。

 失敗学とは,正確な定義ではありませんが,イメージしやすく説明すると,失敗から学んで,失敗しないような内容,方法等を探究していくもので,できればすべての教師たちで共有していきたい知識や技術,ものの見方や考え方を扱っています。ある目標に照らして,その実現を図るための努力のかたちはこれでいいのか,という問いかけを自らにするものでもあります。

 教育に限ったことではないかもしれませんが,「よかれと思ってやっていることが,実はマイナスの効果を生み出している」ものがあり,それを私は「逆コンピテンシー」の中で解き明かしてきたつもりです。

 創造学の場合は,今までなかったような新しい指導法を探究するだけでなく,目標そのものも「新しくつくる」対象になり得ます。

 製造業などの場合には,すべては「要素」「構造」「機能」で成り立っており,「要素」「構造」の組み合わせによって,新しい「機能」を果たすものをつくることが「創造」であると定義できるようですが,そういうことができる教師はどうあるべきかを示そうとしているのが「コンピテンシーモデル」であるととらえることもでき,まだまだそれは模索の段階です。

 問い続けていく姿勢そのものが大事なのが,「創造学」でもあるのです。

 今は,以前にも述べたように,「教育失敗学から教育創造学へ」の道を模索しているところです。

 私がdolceさんに「気づかせたい」と思っても,それがなかなか実現しない,そんなレベルの私ですから,そう簡単に答えが示せるものではないと覚悟しています。

 私が教師になってほしい人は,こういうコンピテンシーモデルをみて,「自分もそうやって生きていきたいな」と思えるような人,できれば,そういう「生き方」を実際にしている人です。

 人と序列化されるのが嫌で,失敗を失敗を認めない,批判されると相手をけなす,そんな教師が少なくない学校現場を嘆くとともに,そういう教師を学校が生み出さずにすむ仕組みも創造したいと考えています。

 自分より優れた人をみたら,優れているという評価を受けた人をみたら,素直に賞賛でき,いいところを学ぼうとする教師が増えたら,それだけで学校はよくなると思います。

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教育ブログをやっていて情けなく思える瞬間

 教育という仕事は,子どもを相手にするというのが中心なので,そうではない大人とのやりとりをしているときは,「こんな人間は本当に社会人として認められるのか?」と思われるような行動をとっても,多少,大目に見てもらえる,というのが,かつての教師の特権でした。
 
 ですから,「教師の常識は世間の非常識」という言い方には,「教師はそういう人間だから,許せる範囲は許してあげよう」「教師とつきあうときは,そういう意識でのぞんでおこう」「音楽の指導だけは一流だから,他のことには目をつぶろう」という「暗黙の了解」を確認するという意味がこめられていたような気がします。

 教育という仕事は子ども抜きではできない・・・・・女性が住んでいない町に産婦人科医院が必要ないように・・・・わけで,せめて非常識さをさらけ出すにしても,子どもの存在自体は忘れないでいただきたいのに,そうではない人が「教育を語っている」と思うだけで情けなくなります。


 さて,dolceさんが「妄想」とよんでいる私の発言の根拠を示しながら,再度,質問を投げかけてみましょう

 
私の発言:dolceさんは,「お金を出さないと不正合格は果たせない」と考えているようですね。

dolceさんの反応:私はそんなことは思っていません。勝手に捏造しないでください。他人の考えまで立ち入って、自分の気にいるように決めてしまうわがままさは何とも言えませんね。好き勝手に意見を言うだけで足りなくて、他人の考えまで捏造してしまう精神は普通じゃないと思います。どうして、他人の心の中がわかるんですか?

 私がコネ採用と言っただけで,dolceさんが例に挙げて私を批判しているのは,金品の授受がからむ「汚職」の話だけです。私は,ただの「口利き」だけで成立する不正もありうると考えています。選考の条件には本来ないはずの「出身地」などは,人口減少に歯止めをかけたい地方の小さな自治体では,けっこうあり得る「隠れた選考基準」になっている気がします。ここに長年,議員をつとめている人の紹介なんかあったらなおさら・・・。

 「お金を出さないと不正合格は果たせない」とdolceさんが考えているのだろうと書いたのは,その話しか出てきていないからです。

 dolceさんに質問ですが,お金を出さないで不正合格を果たすことは可能なのでしょうか?

 私がdolceさんの考えを「捏造」しているつもりはない・・・・やりとりを通して,自然な予想を立てて・・・書いているのですが,私の予想がどのようにずれているのかは,お金を出さないで不正合格をどうやって果たすことができると考えているのか,どうぞお聞かせいただいて,読者の方にもわかるようにしてもらえると助かります。

 dolceさんの話に説得力がないのは,

 相手に対して「捏造だ」「妄想だ」と批判するわりに,

 それが「捏造である」「妄想である」ことの根拠が挙げられないのが最大の原因です。

 「お前は頭がおかしいからだ」「お前に国語力がないからだ」というのが根拠なので,これに近い指導力不足教員のパターン・・・「私の話が理解できない子どもが悪い」ということしか繰り返せない・・・・を思い出してしまいます。
 

私の発言:教員採用に限らず,「縁故」「(元の)上下関係」「義理」などが影響して,本来の「得点」とは「別のかたちの上積み」によって合格できる人間がいる疑いは,「世間」を知っている人なら当然もつものでしょう。

dolceさんの反応:疑いを持つかどうか、特に「当然」かどうか、私には他人の心はわかりません(超能力はありませんから)。はっきり言えることは「他の人たちはそういう疑いを持つのが『当然』と明言しているあなたの考え方」でしょう。

 縁故採用,コネ採用という言葉が現にあるわけですし,dolceさんの好きなウィキペディアで調べれば,具体例も紹介されているわけですから,もし,「縁故採用などは存在しない」と言ってしまったら,それこそ「世間知らず」になってしまうのではないでしょか。この点については,dolceさんはいかがお考えですか


私の言葉:金品の授受はなくても,「別のかたちの上積み」が「不正」であることは間違いないですね。

dolceさんの反応:すごいですね。どうして、あなたは間違いないと言えるのですか?
あなたが、そう断定できるということは「あなたがその事実を知っている」と解釈できますが、そういうことですね?
そうなんですか、あなたは、公立学校の教員採用に際して「本来の『得点』とは『別のかたちの上積み』によって合格できる人間がいる」を知っているわけですね?なのに秘密にしているということですね。

 これは,dolceさんの読み間違えでしょうか? それとも,これこそが「妄想」?

不正の事実を私が知る立場にはないことは,だれの目にも明らかです。

 私は,

 採用された人間は,「不正」があったかどうかを,今の制度では,確かめる方法はありません

 とも書いています。
 
 「別のかたちの上積み」とは,選考基準には入っていない,関係者の口利き,出身地,両親の実績などに基づく加点のことを私は想定しています。

 こういうことによる「加点」は,選考上,不正な行為ではないのでしょうか。dolceさんのご意見をうかがいたいものです


私の発言:そもそも自分の採用について,コネによる「不正」があったかどうかを調べる人間はいないでしょう。

dolceさんの反応:「いないでしょう」と言われても、私は「はい」とは言えませんね。だって、他人のことはわからないですから。心が咎めて、告白する人がいるかも知れませんから。それに、別件で調べたいたら、そういうことを告白するかも知れませんからね。

 そもそも,自分の合否に関して,コネによる不正があったかどうかを調べる手段がないのです。受験している自分自身が合否の判定にかかわることができないのは当たり前ですね。dolceさんなら,どうやって調べますか?


私の発言:繰り返すようですが,dolceさんのように,「採用試験に合格したのだから,何の問題もない」とだれもが思っているのであれば,このタイプの「不正」を暴こうという発想もできないことになります。

dolceさんの反応:と言うことは、100%とバレないと考えていないということですね。完全犯罪はないと考えてみえるということですね。バレないうちに、明るみに出しましょう。何度も言いますが、私は「他人の心」はわかりません。


 dolceさんという人は,書かれている文章から,「他人の心」だけでなく,「病気への疑い」まで考えをめぐらせてくださっている方なのですが,これはやはり「受容の心を大切にしている」からではないでしょうか。

 「採用試験に合格したのだから,何の問題もない」

 というdolceさんの言葉というのは,採用試験では,一切の不正はあり得ない,ということを意味しているわけですよね。

 私の場合は,不正があり得ないとは言えない,という考えだから,まだ「不正」を暴こうという発想が可能なのだ,と申し上げているのです。特に,校長とか教育長,議員の子どもで,採用試験に合格した,指導力がまるでない教師を見ると

 dolceさんは

>採用試験に不正なく(何のうしろめたいこともなく)合格したなら、何の問題ないです。

 と言いますが,

 繰り返しになって恐縮ですが,不正なく合格できたのかどうか,確かめる手段はないのです。私にも,dolceさんにも,採用試験を受けた人間にも,確かめることはできないのです。

 dolceさんは

>普通の人間だったら、そういうのは「疑い深い性格」ということになりますが、あなたが不正に確信が持てるというなら、やっぱり超能力がある

 事実,不正が明るみになって合格が取り消しになった人がいるわけですから,「ほかにもばれていない不正があるのではないか」と想像するのに「超能力」は必要ないのでは?

 この世の中には,これだけの証拠をつきつけられても,決めつけや誤解に対する反省をしない人がいるとうことは,「超能力」を必要とせずに断言できます。

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教育ブログをやっていて良かったと思えた瞬間

 我が意を得たり。

 匿名さんからいただいたコメントです。

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斎藤喜博 授業 (人と教育双書) [単行本]
斎藤 喜博 (著)

以前この本の内容を読んで、ほとんどがモラルハラスメントであるという結論を得ました。学校は教師の自己実現の場であり子供はそのための踏み台であるという、裏のロジックが隠れています。本の内容は、著者の教師としての武勇伝であり、教育者として何を子供に与えるのかそういうことは抜けています。

太平洋戦争の前後の人であり、封建社会の考え方の延長線上の考え方が多く見受けられます。

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 小学校教師に見られる欠陥の根っこは,ここにもあった,ということですね。

 斎藤喜博信奉者は小学校教師には多いでしょう。

 授業そのものの値打ちは,そこで測れるものもたくさんあるでしょうが,後のことも少し考えていただけるとうれしい。40人の顔が一瞬で輝いた・・・・そういう表面的な変化を求めているから,
 
 好きとか嫌いとか,そういう価値観で教科をとらえようとする子どもや教師が増えてくる。

勤務時間を守って自宅に戻り,せっせと自著のコマーシャルに努めているような現役教師を尊敬する人は,きっと自分もそういう生き方を目指しているのでしょう。教師が教師を「師と仰ぐ」人間関係ができやすい小学校教師に少なからざる影響を与えている人間の一人が,サイトウキハクなのだと私は考えています。

欠点だらけのだれかとは違い,サイトウキハクは「授業を大切にしている」という非常に重要な考え方をもっているだけでも,目標にしていい人物であることは確かですが,小学校教師は,どこでもやっていること,普通の本に書いてあることを書いているだけの本でも,「その人が書いた」「そに人がこう言っている」などとして,マネしようとする傾向があります。

 個人にあこがれたり,マネしようとするのはいいのですが,そうすると,欠点もそっくりそのまま移ってしまうのです。

 私が,個人ではなくて,様々な人間から抽出したコンピテンシーモデルをつくることを主張しているのは,そういう理由からでもあります。

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「東京の公教育への心配」の仕方への心配

 toshiさんという人の記事を読むとわかるとおり,

 東京の公教育への「心配」の仕方は,二通りあります。

 一つは,toshiさんのように,「先生の立場」からの心配。
 
 もう一つは,私や,東京の公立学校に子どもを通わせている,あるいはこれから通わせる予定の「保護者の立場」からの心配。

 toshiさんは,教育委員会(教育長)の方針という,校長が従わなければならない教育長の命令の中身を心配している。

 私は,なぜ教育委員会(教育長)が,そのような方針を出したかを知っている。

 東京の先生方の教育が,保護者の期待に応えきれていないということ。

 そして,その傾向は,特に小学校の場合は教員の大量採用によって,どんどん高まっていく,ということ。

 だから,toshiさんみたいな人たちの「対応能力の欠如」をみると,「だからだめなんだ」と思ってしまう。

 教員のなかには,教師としての資質だけでなく,公務員や社会人としての資質にも欠けている人がいるのがばれてしまう,と。

 dolceさんのように,校長の命令には絶対に従わなければならない,という立場の人ばかりなら,命令に従っている教員の指導力不足を盾に,校長の命令なり教育委員会の命令なりに疑義を呈することが可能になります。

 校長の命令=教育委員会の命令どおりにやっているから,こんなレベルの教員ばかりになってしまって,東京の教育力が低下しているのだと。

 しかし,toshiさんたちの発想は,そうではない。

 教育委員会の命令に,疑義を呈している。

 それはそれで,決して悪いことではないのですが,

 命令の趣旨を理解して,それに沿った行動を起こし,

 教育の目標の実現に努力してみて,そこからさらなる改善への道を見いだしていく,

 そういう意欲の欠如がありありと感じられる,

 それが,東京に限らず,公教育への心配が高まるということへの心配なのです。

 タイトルだけ読むといいことが書いてありそうでも,なぜか不思議と教育への熱意が感じられない,そんな教育ブログもあるものです。

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教師がもつべき「清貧と復興」の思想

 『清貧と復興 土光敏夫 100の言葉』(出町譲著,文藝春秋)から,教育関係者として,心して受け止めるべき言葉をピックアップしてみます。番号は,この本の中でつけられているものです。

 1 一日も早く“地力”をつけよ

 「地力」とは,「人間の足腰を鍛え,少々のことではへこたれない本物の力」のことで,土光敏夫が若い人によく言っていた言葉だそうです。

 「地力」をつけるには,苦労を経験するのが必須条件。

 苦労を知らない人は,端からみれば一にしかみえない打撃が10にも20にも感じられ,そのショックひとつで潰れてしまうことがある。

 いつも自分を最低の線,つまり社会の底辺に置いておけば,何が起こっても,しっかり受け止めて,冷静に対処することができる。

 人に何かを言われて,

 「上から目線で言うな!」という反応をする人には,こういう心のゆとりがないんですね。

 若い教師が,教師としての「地力」をつけるための必須条件となる「苦労」とは何でしょう。

 それは,子どもとの毎日の関係のなかで,自分の方から見いだしていくべきものだと私は考えています。

 教育現場には,「苦労」してない教師がたくさんいますが,そういう教師もよく観察しておくべきです。

 そして,そっち側の人間になるか,

 「地力」をつける側の人間になるかを

 決めてください。

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「汚言」で飾る人の教育観

 匿名さん,コメントありがとうございます。

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dolceさんに説得型のセッションを試みても難しいと思いますよ。
難しいのは心理的障壁を形成してしまう癖があるということではないかなと思います。
その障壁を実感されていると思います。

そういう人を見捨てないでどうしたらその心理障壁をなくせるのか、どうしてそういう障壁を築くのか、そういう障壁を築いて生き延びてきた経緯があるということは想像ですが、十分可能性があります。

障壁を解いても大丈夫だという潜在意識をどこかで作ってあげるという方法が考えられますが、多分ネット上でそれは難しいでしょう。

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 >dolceさんに説得型のセッションを試みても難しいと思いますよ。

 私もそれは重々承知の上です。

 「下手な切り返しだなあ」とお思いの方も多いでしょう。

 それも,このブログのねらいの一つです。

 一つ一つのやりとりから,

 ここではこう書いた方がよいのではないか。

 ここでそれを書いたら逆効果なのではないか。

 ここの表現によって,端的に「教育への姿勢」が示されている・・・・

 などのように,ご自分の見解をもっていただくのがよいかと。
 
 失敗を「他の可能性」を探る手がかりとする,というスタンスの表れとお考えください。

 dolceさんは「他人の心が読めるのか」とさかんに記していらっしゃいますが,

 「反応のパターン」がこれだけ集積してくれば,それもある程度,可能になるでしょう。

 ずーっとその人が書いている文章を読んでいれば,ある程度,その人の「心」も読めるようになってくる,あるいは,読めるような気になってくるから,共感がもてるようになったり,反発したり,次はこうくるのではないかと予想できたりするわけですね。

 コミュニケーションの基本は,相手の考えていることへの想像力をもつことでしょう。

 しかし,コミュニケーションを図る上で,自分の心に「障壁」をつくらないと生きていけない人がいます。

 「強がり」にしか見えない哀れな「汚言」が最後のよりどころになっている人もいます。私は,それを奪い去るはたらきかけはしないでおこうと思います。

 自分がされたら嫌だと思うことを人にしてしまう子どもへの,格好の教材がdolceさんの言葉です。

 「これじゃ子どもの喧嘩だな」という印象は,すでに多くの方がもたれていることでしょうね。

 同じパターンの繰り返しから,反応の「周期」を探ったりするのも,興味深い作業となります。

 コメントがあちらのブログに入れられるとやりやすいのですが,「はい」と同意してもらう質問を繰り返した上で,最後に教育の根幹にかかわるものを問い,自らの矛盾に正対してもらう,そんな手法も考えました。

 ただ,dolceさんの場合は,納得した=同意した言葉には何のリアクションもとらないというスタンスですので,会話が途中で止まってしまうのです。

 エンドレスに,「対応がめんどくさそうな」課題を提示してくる。

 「攻撃が最大の防御」という姿勢で貫徹されている。

 相手に対して「頭のおかしい人」と表現する人間に,まともなコミュニケーションを図ろうとする気持ちがないことだけは,明らかでしょう。

 「教育失敗学の先生なら,そういう言葉を使う人に対して,どうして

 『教育をする立場の人間としての資質に欠ける』

 という批判をしないのか?」

 と思われている人もいるかもしれません。

 「採用試験に合格した指導力のある教師より・・・・」という言葉には,

 「資質に欠ける人間が合格してしまう」ことへの憤りが含まれていることは,容易にご想像いただけるでしょう。

 しかし,勉強が苦手な生徒に対して,

 「お前は勉強ができないな」という非難の仕方を教師はしないものです。

 私がdolceさんの本質を直接的に表現してしまえば,そういう非難の仕方をする教師を容認していることになってしまいます。

 「指導」とは,

 目標を指し示して,そこへと導くこと

 です。

 適切な目標を指し示すことができる力

 そこへと適切に導くことができる力

 が,「指導力」です。

 「指導力不足」という言葉に敏感に反応する人が,どのような自覚をもった人かは容易に想像できます。

 自分を守るための,心の障壁は自然に形作られます。

 心に障壁をもって他を攻撃する人がいた場合に,

 「障壁を壊す」「障壁を取り除く」という方法ではなく,

 「障壁」はそのままでいいから,

 障壁の上に自らの意思で立ってもらって,見通しのよい,見渡しのきく,そういう場所から言葉を発してもらうことができるようになることを目指していこうと思います。

 自らの非の部分には全く言及せず,相手の弱そうなところを繰り返しついていくクレーマー。

 対応が長時間にわたるクレーマーの共通点です。

 子どもへの教育の本質からどんどん離れていくことで,浮いているご自分に時々気づいてくれることが,今のところ,せめてもの救いです。

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「善」が「善」であるための条件

 忠誠心という「善」が,本物の「善」であるためには,

 忠誠を誓う相手が「善」である必要があります。

 しかし,歴史を振り返ってみれば明らかなように,

 この忠誠心がかえって「諸悪を拡大する」結果になることがあります。

 日本の近世史や近代史を見れば明らかでしょう。

 教育の本質を見失い,docleさんのように「上司に従う」ことを最優先している人間ばかりでは,

 常態化していた「自習」を防ぐ方法はなかったことでしょう。

 長野県は,まだ「教育県」とよべる素地があったということですね。

 それにしても,「習慣」というのは,こわいものです。

 「昔から,やってきたでしょう

 これが言い訳になっていないことに全く気づけない人間をつくりだす学校という職場は,やはり世間とは異なる非常識空間なのです。

 教育を停滞させる特殊な空間は,本当に言葉が通じない人を生み出します。
 
 「自習」を減らす努力をする・・・・当たり前と言えば当たり前ですが,それを公言できたのはよいことです。
 
 「上司(教育長)に従う」ことだけを重視し,顔色をうかがっている校長などに,子どもの未来を託す気はありません。

 「善」が「善」を生むサイクルを教育の世界では築いていきたいものです。

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長野県の「自習を減らす」努力は,実を結んだの?

 公立学校で,授業が自習になってしまう原因を調べていた過程で,

 長野県教育委員会に事務局がおかれた「義務教育関係会議等のあり方見直し検討会議」の提言(平成21年12月14日)という資料を見つけました。

 この会議の目的は,公立学校における「会議等のあり方を見直すことで,教員が子どもと向き合う時間をより多く確保する」ことだったようです。

 内容を読まなくても,学校は会議が多いために,教員が子どもと向き合う時間が少ないという実態と,「会議等」の「等」の中には,「出張」が含まれているのでは?という予想が立ちます。

 「はじめに」を読んで驚いたのは,以下の内容です(下線は私が引きました)。

*******************

 これまで県教育委員会や市町村教育委員会,教育関係機関等では,子どもたちの伸びる力を一層伸ばすためには,授業の充実が最も重要であると考え,広く教員等を集めて会議等を開催してまいりました。

 これらの会議等は,授業が行われている時間帯にも設定されることがあり,多くの学校では,このような場合には授業を交換を行い他の教師が授業をしたり,課題を設定しプリントなどを用意して自習をさせたりしています

*******************

 「授業の充実」のための会議によって,子どもたちの授業が犠牲になっていた(のが常態化していた)!

 本末転倒とはまさにこのことですね。

 でも,長野県では,こうした実態を見直そうとした

 「会議等の見直し」に関する会議で得られた「共通認識」は,

*******************

○ 会議等への参加のため,授業を自習にしたり,放課後子どもとじっくりかかわる時間がとれなかったりする実態がある。これらは,子どもたちの伸びる力を一層伸ばすためには,憂慮する状況である。

○ 県教育委員会及び市町村教育委員会,教育関係機関は自習を削減させ,教員が子どもと向き合う時間を確保するため,本年度内にそれぞれの実情に即して,実効性のある見直しを行う。

○ 以下略

*******************

 というもので,「市町村教育委員会への提言」として,9つ挙げられていますが,そのうち2つだけ紹介しますと,

*******************

① 各学校に対して,授業時数の確保及び自習の削減,教員が子どもと向き合う時間の確保のため,実状を踏まえて,会議等や諸行事について見直しをするよう,働きかける。

⑥ 各学校に参加を依頼した会議等であっても,学校内で事情がある場合は,児童生徒の指導を優先させる。

*******************

 のような原則のもと,具体的に会議や出張を減らす方策を示しています。

 県教育委員会には,「悉皆による会議等だけでなく,各学校や市町村教育委員会の主体性を尊重した,希望参加方式の会議等も今後位置づけていく」のような提言もありました。

 私の意見を申し上げれば,これでもまだ生ぬるい,という感じですが,

 実現可能な変革を訴えようとしている,という意味に解釈します。

 現在,長野県はどう変わったか,よくわかりませんが,

 授業が自習になることが,「授業に支障が出る」という解釈になっていなかった,という「教育現場の常識」がいかに非常識なことだったか,という実態がお分かりいただけたかと思います。

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dolceさん流の「ごまかし」術

 dolceさんは,「お金を出さないと不正合格は果たせない」と考えているようですね。

 何だかそういう発想自体が,嫌らしい。

(ここは,残念ながら,ごまかしきれていません。過去の記事を読まれてしまうと,指摘が矛盾しているのが明らかになってしまうのに,それにはおかまいなしに「次の矢を飛ばせる」のはすごいです。)

 教員採用に限らず,「縁故」「(元の)上下関係」「義理」などが影響して,本来の「得点」とは「別のかたちの上積み」によって合格できる人間がいる疑いは,「世間」を知っている人なら当然もつものでしょう。

 「どうしてこんな人が教員になれたのか?」という人を目の前にしたら,容易に想像できる話です。

 金品の授受はなくても,「別のかたちの上積み」が「不正」であることは間違いないですね。

 (「別のかたちの上積み」が「不正」ではない可能性がある,とdolceさんが判断しているのは少し意外でした。が,これは「合格してしまえば問題ない」という自分の発言との整合性を保つための指摘なのでしょう。)

 こういうケースでは,採用された人間は,「不正」があったかどうかを,今の制度では,確かめる方法はありません。(具体的な点数やその根拠の開示に耐えられる採用試験をするのは無理でしょう。)

 そもそも自分の採用について,コネによる「不正」があったかどうかを調べる人間はいないでしょう。(自分自身がコネを使う,という発想自体をしていなければ,なおさらです。)

 「不正はなかったですか」と聞かれる方も,合格させるために不正をしたのなら,「不正がありました」とは答えないでしょう。

 今の採用方法だと,こういう「不正」を暴くのはかなり難しい,というか,ほとんど不可能でしょうね。

 繰り返すようですが,dolceさんのように,「採用試験に合格したのだから,何の問題もない

 とだれもが思っているのであれば,このタイプの「不正」を暴こうという発想もできないことになります。

 dolceさんの根本的な欠点は,「採用試験に合格して教員になったのに,指導力不足で現場に立てなくなる」教員の存在への課題意識がないことです。

 だから,指導力の有無の方へ眼が全く向かない,というか,そっちが本題だと都合が悪くなってしまうのです。

 dolceさんのブログの中の「世間」の意味は,もしかすると「世間」で使われている「世間」ではないかもしれません。どなたかの解説をいただきたいところです(dolceさんの解説はもはや不要です)。 

 多くの人は気づいていると思いますが,dolceさんという人の頭の中では,「仮定する」「想像する」という操作が困難というか,否定されていて,使い物にならない模様です。

 そして,「断定している」と勝手に「断定する」ことで,思考停止に陥ってしまう。

 dolceさんとのコミュニケーションがうまくいかないのは,もしかしたら,私の日本語を他の言語に誤って翻訳して,その誤訳をもとにしてご自分の見解を日本語で述べているからなのでしょうか。

 別にdolceさんに話しかけているわけではない部分も,自分への語りかけだと誤解して返している部分が多々あります。

******************

 学力観についてもお答えしないといけないのですが,

 dolceさんタイプのクレーマーは,自分が重要な質問に答えないですむ根拠を,「そっちがこっちの質問に答えないから」とするので,こちらの方は,答えないといけないですね(そして答えると,それは正しくないといって,自分が質問に答えてないことはごまかしてしまうのです)

 電話対応の時間が長くなってしまうクレーマーの,代表的な「神経回路」です。

>ところで「学力観を示していない」という批判について、あなたの見落としを示しましたが、その後どうなったんですか?
>あなたは、勝手に見落としておいて「スルーする」と、他人を批判しますね。
>あなた自身はどうなんですか?

>学力についてきちんと答えましょうね。

>「ペーパーテストが悪い、いけない」なんて私は言ってませんよ。人の話を改作しないでください。

 私が批判しているのは,dolceさんが「ペーパーテスト」は記憶力を測るためのものだ,と主張していることであって,「dolceさんがペーパーテストを否定している」と書いたことはありません。

 「ペーパーテスト」では教師としての使命感など,欠かせない資質や能力を測定しきれない。だから,「ペーパーテスト」=「記憶力」で選ばれてしまうような仕組みには問題がある,と言っているのは,dolceさんではなく,私の方です。教員採用試験というのが,「そういうもの」だとすればです。実際に,そういう面はあるでしょう。

 ただ,「ペーパーテスト」は記憶力を測るためのものだ,というのは,昭和時代の学力観の象徴だということを述べています。樽の概念図も同じようなものです。

 私が見落としているわけではありません。

 平成時代の学力観を理解している証拠がどこにもない,ということを述べているのです。

 この意味がdolceさんにはわからないので,エンドレスになってしまっているのですね。

 新しい学力観に基づいた指導要録の書き方も知らなかったし,時間がどこかで完全に止まってしまっているdolceさんの「時代遅れの学力観」と,現在の「学力観」の違いを詳しくお知りになりたい方は,文部科学省のHPをご覧になることをおすすめします。

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教育に情熱があっても無駄な「職務」観

 職務専念義務というのは,国家公務員法の第96条,地方公務員法の第30条で規定されている,

 すべて職員は,国民全体の奉仕者として,公共の利益のために勤務し,且つ,職務の遂行に当っては,全力を挙げてこれに専念しなければならない

 というものです。

教育公務員が「全力を挙げて専念しなければならない職務」とは何でしょうか?

 地方公務員法第35条では,

 職員は,法律又は条例に特別の定がある場合を除く外,その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い,当該地方公共団体がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない

 とあり,「特別の定」によって,

 職務専念義務が免除される場合として,研修などが認められているのです。

 教育公務員特例法の第22条2に注目してください。下線は私が引きました。

 2  教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。

 研修に限らず,授業時間にかかるような教員の出張は,直前に決まることはほとんどなく,あらかじめ授業に支障がでないようにしておくことが可能です。

 それなのに,授業を行わず,「自習にする」という選択肢がとられるような出張の命令というのは,地方公務員法の「職務専念義務」の趣旨に反しているわけです。

 dolceさんもご存じのことだったと思いますが,

 職務専念義務というのと,

 地方公務員法第32条に規定されている以下のこととは趣旨が異なります。

 職員は,その職務を遂行するに当つて,法令,条例,地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い,且つ,上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

 ですから,

>自習になるとしても、出張の職務命令が出たら、その職務命令に従うのが職務専念義務です。職務命令に従わないことが、職務命令違反です。いついかなる場合も「授業」が職務専念義務ではないです。どうも「授業」が刷り込まれてしまっているようです。

 というdolceさんの考え方では,

 「法律の趣旨に背く上司の職務上の命令に従うべきかどうか

 という「思考」を働かせることができず,

 「命令絶対主義」という立場になるのです。

 法律の趣旨は,子どもの教育=職務に専念することであって,それに支障がでる「勤務場所から離れる研修などの出張」は,「認められない」というのが,正しい解釈なのです。

 「命令なんだから仕方がないだろう

 ということを言っているのが,dolceさんなのですが,この人に

 「教育に情熱をかける教師のための」アドバイスは果たして可能なのでしょうか。

 子どもから,

 今日は先生と勉強がしたい。

 どうしていなくなってしまうの?

 と聞かれて,「校長先生の命令だから,しかたがないんだよ」

 と答えるのは,校長先生への責任転嫁でもあるし,子どもからすればただの「言い訳」でしょう。

 法律の解釈がおかしいのが,dolceさんであり,同じようなことは,いくつかの自治体でも現実としてあるようです。

 以上,実は,以前にも書いたようなことの,繰り返しでした。

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【大発見】 dolceさんは2人いた!

 いつも長めになってしまうので,今度はできるだけ短めに,dolceさんの疑問にお答えしましょう。

 答えると言っても,「何が本質か」は,dolceさんのブログからの引用だけでわかってしまいます。

 まず,以下の3点をdolceさんのブログから引用させていただきました。

>採用試験を無視し、コネで採用することが望ましいと主張するひとが、現役の教師でいられるのは、どこか異常とさえ感じます。

>授業は大切なのですが、一度「授業は大切」という情報がインプットされると、津波が来ようと地震がこようと放射能に汚染されようと、授業を続けるという思考の持ち主が採用されている地域の教育委員会というのは不思議な気がします。

>気に入らない職務命令は無視していいというのもありましたが、私の判断からすると、みな教師として不適性と思います。


 以上をお読みいただき,次のdolceさんの文章をお読みください。日付の違いはたった5日です。


私=採用試験に合格した指導力のない教師より,コネ採用の指導力のある教師の方がまし
dolce(さん)の解釈=採用試験を無視し、コネで採用することが望ましい[1]

>[1]あなたは、自己都合で他人の記事の内容を取捨選択する。あるいは、大切な部分を見落とすというクセがあるように思います。
>読解力に問題があるのかなとも思います。

私=授業をもつ人間がいなくなるのに,出張を命令で強制して,自習にさせるのはおかしい
dolceさんの解釈=津波が来ようと地震がこようと放射能に汚染されようと、授業を続ける[2]

>[2]私はそんなことは言っていません。あなたのブログはかつて消滅しましたね。
そこでも言いましたが、あなたは「しばしば捏造する」と。

私=授業をもつ人間がいなくなるのに,出張を命令で強制して,自習にさせるのはおかしい
dolceさんの解釈=気に入らない職務命令は無視していい[3]

>[3]これもあなたの改作です。
こういうこともあろうかと、あなたのブログのほとんどは保管しています。消滅したブログも含めてね。
最近はEVERNOTEという便利なツールもあるので、保管は楽になりました。

******************

 私が話をしていたdolceさんは,どうやら別々のことを書いている2人がいたようです。

 そう考えないと,直前の記事に登場したご自分の言葉が,「そんなことは言っていない」とは言えないからです。

 不思議なのは,お一人は,同じブログに書かれている文章をお読みになっていない。

 どこかおかしいと思っていたことが,今回の記事でようやくわかりました。

******************

 初めてこのブログをお読みの方に,簡単にご説明いたします。

○指導力不足教員・コネ採用の問題について

 指導力不足教員として決定されるのは,氷山の一角です。すでに何件か事例がありますが,指導力不足教員と教育委員会が決めると,それにかかわった人間を裁判に訴えてくる教員がいます。こういう一人のために,たいへんな時間を関係する教育委員会事務局の人間,管理職がとられますから,本当によほどのことがない限り,「指導力不足教員」にはなりません。「一人」にそれだけ手を焼くより,学校をたらいまわしにしておけばいい,と考えてしまうのです。

 コネ採用かコネ採用でないかは,採用担当者しかわかりません。実際にお金が動いていても,採用されない場合もありますから,法律に反したことをしても,採用されるとは限らないのです(こういうときに,不正はばれる)。

 そんなことは,どうでもいいのです。
 
 「採用試験に合格した指導力のない教師より,コネ採用の指導力のある教師の方がまし

 という意味が,一人のdolceさんにはどうしてもわからないようなので,前回も,それを「わからせることができそうな人はいませんか?」とおたずねしたのです。・・・やはり,無理なものは無理ですか・・・・?

 dolceさんの「世間知らず」加減を示す文として指摘したいのは,

>コネがあろうとなかろうと、試験に受かっていれば何の問題もない

 という発言です。これでは,「不正がばれなければ,問題ない」と言っているのと同じであることに本人は気づいてないのでしょうか。ニュースでは,試験に受かっている人が,合格を取り消されたことも報道されていましたね。受かっている人は「不正なく」受かっていることになっている,というだけのことで,「不正がなかった証拠」を知るためには,第三者機関かなにかが採用にかかわるすべての問答,データを掘り起こさない限り,無理なのです。

 私(と,当時,コメント上でやりとりしていた方)が問題にしているのは,「どういう採用のされ方をしたか」ではなく,「指導力があるかないか」なのです。


○授業を自習にして出張することについて

>私が言いたいのは授業より優先するものがあると言うこと

 dolceさんが言いたい「授業より優先するもの」は,「出張の職務命令」です。

 私が言いたいことは,「授業を自習にしてでも出張してこい,という命令を出すことはあり得ない」・・・・

 「あり得ない」という言い方が自治体のレベルに合わせていない,と言われるのであれば,

 「適切ではない」ということですね。ただそれだけです。

 授業を自習にしないといけないような場合(教員がほかにいない場合)は,出張命令は出さない,というのが,管理職はもちろん,教育者としてあるべき立場なのです。

 docleさんへの「命令絶対主義」批判の趣旨が,どうやら通じていないようです。
 
 どっちが大事なんですか?という問いに対して,

 私は「子どもへの教育」=職務専念義務を重視し,

 dolceさんは「上司への服従」=法令等及び上司の職務上の命令に従う義務のうち,下線部のところのみを重視する,

 そういう立場であることだけは,dolceさんも認めざるを得ないでしょう。

 「子どもの教育」という職務専念義務を重視したいのに,それを「はく奪」するような上司の命令は,「気に入らない」と思えるような教師の方がよくないですか?
 
 ただし,例外はありますよ。

 命令が,指導力不足教員のための研修を受けることだったら。きちんと他に授業をする人が決められますからね。

 子どもを守るためにも,授業は他の人にやってもらっていただきたい。

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指導力不足につながる事例 2/33 「教材研究をしない」

 田沼雄一著『若い先生に贈る失敗から学ぶ教師学』(学事出版)に示された事例の二つ目です。

 授業の「内容のうすっぺらさ」は,現状で満足しているかのような教師の非常識と,現状の物足りなさを感じる一般的な社会人の常識が対照的に見える問題の一つです。

 これは,どういう教育観,学習観,評価観によってもたらされるのかというと,

 学習した成果は,ペーパーテストで問われる。

 ペーパーテストは,主に記憶力を問う評価方法である。

 という,いわゆる「詰め込み教育」時代の観念です。

 学習の評価を,安易な「覚えこみ至上主義」の塾で行われているような活動と同列に考えている

 こういう人は,「身に付けている」という状態の意味がわからないのでしょう。

 きっと,「ここは覚えておけ」というような教え方をするのです。

 「覚えている」だけのことが「身に付いている」状態をさすものではなさそうだ,と思うのが社会人の常識です。それが,非常識が常識の学校では,イコールになってしまう場合がある。
 

 教材研究というのは,一つの単元の中の一つの事象を掘り下げていく,という手法もあるとは思いますが,それでは時間がいくらあっても足りません。
 
 年間計画,全体計画の中で,何をいつ,どのように提示するか。その順序に,どのような意図があるか。どの内容が,どの内容を学ぶために必要なものなのか,つまり,何が何に活用できるのか

 こういった「全体の中での位置づけ」を意識しながら,準備したものを授業で使っていくわけですが,授業をしてみると,当然,予想と異なる方へと向かうことがあります。

 思うように,前の内容が生かせない。というより,前の内容がよく理解していないことが,後の内容を学ぶ過程でわかってくる

 そうすると,もう一度,最初から,というわけにはいかないので,前の内容と今の内容を合わせたような学び方が必要になってくる。

 ・・・・・こういう状況下での「教材研究」も必要になってきます。

 ゴルフにたとえると(アマチュアのゴルフのイメージがいいでしょうね),授業づくり(教材研究)というのは,どんな距離があるから,どのクラブを使って,どんな強さで,どんな方向に打つのかを考える。

 しかし,打つのを失敗したら,成功したことを想定して準備していた次のクラブは,もう使えないから,新しい作戦を考える。

 そうやって,徐々にカップに近づけていく
 
 指導力のある教師ほど,「打数」が少なくなる
 
 ここで,指導力不足の教師のイメージは,「打数」が多い,というのではないことに注意です。

 まず,どこにカップがあるのかわかっていない。もっとひどいのは,

 ゴルフボールやクラブが見当たらない,そんな姿を想像してもらえればよいでしょう。

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教育創造学を可能にするものは?

 真愚さんが期待している「創造学」のイメージは,どんなものでしょう。

 新しい教育,と呼んだだけで,嫌悪感を示す教師をどうしたら納得させることができるでしょう。

********************

(以下,コメントの一部を引用させていただきました)
学校の連携の話をしていらっしゃいましたが、
失敗学から創造学に軸足移しますか?。
いや、移したら如何ですかと今少し出しゃばろうかと思ってました。
失敗学はもう長くやられて卒業しても良いのじゃないかなと思ってました。
失敗は成功のもとなんて言葉もありますから簡単には卒業できないかもしれないのですが、
この「もと」という言葉が曲者で、
失敗は成功の元だけど
失敗が成功の基じゃない
のじゃありませんか?。
創造学の基は失敗学を修める事とは違うと思えるのです。
そちらに軸足を移されるべきかと思っておりました。

********************

 他人の教育ブログを

 「ブログの趣旨通りのことが全く書かれていない」と批判していたら,

 自分もそうだった!=ミラー現象だ!と気づかされてしまう,2012年の春です。

 ・・・・なんていう反省は,実はしていません

 私の場合,確信犯です。

 お返事で示しました通りで,教育の「創造」は,一人の仕事ではできません

 学校教育は,特に公立学校の教育では,リーダーシップが取りにくい

 若い教師が少ないため,本来は学校教育の場でリーダーシップを発揮すべき先生方が,

 部活動の顧問という,「少人数(中には50人も60人もいる部活動もあるでしょうが)指導」の仕事に尽力する,個人商店主のままになってしまっている。
 
 だから,リーダーシップのない人が,リーダーシップを発揮すべき位置にいて,何もできないままでいる。

 それがわかりやすい公立学校の置かれた現状でしょう。

 部活動の顧問の中には,専門委員のように,中体連という組織を運営するための人員になる人もいますが,だれかがやらなければならないとは言っても,本来はほかにやるべきことが山積しているのが学校現場というところです。

 優れた人ほど,多くの「プラスアルファの仕事」がまわってきて,本来,中心となって動かしていくべき「創造的な仕事」に手がつけられない。それが現状です。さらに言えば,そのような傾向を変えることはできないでしょう。

 では,公立学校を動かすとしたら,どういう人になるかというと,リーダーになるわけでもない,かといって,お荷物になっているわけでもない,そういう立ち位置の教師の活躍が欠かせないということになります。

 学校では,たとえば,東京都などのように新しい組織の形が試みられていますが,精神的な鍋蓋構造を「変える」手法として,物質的なツリー構造の中にはめこんでいくのでは,成功の見込みは薄いでしょう。

 強引なやり方としては,40歳くらいになったら,普通の教員は昇給停止にしてしまえば,収入を増やしたいという動機がある人は,管理職をめざすようになるかもしれません。

 でも,リーダーは,自分からなろうとする人間ではなくて,人から推される人がつとめるべきなのが,精神的な鍋蓋構造,物質的なツリー構造を「変える」最良の手段なのです。

 劉備がぴったりそれにはまる,とは言い切れませんが,三国志をご存知の方は,何となくそのたとえがおわかりになるでしょう。

 リーダーとして推されるような仕事ができる人を増やすこと,その方法を考えるのが,あるいは,教育創造学の一面なのかもしれません。

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私が教育失敗学のブログを続けている理由

 『心理テストはウソでした』という本の冒頭に書かれている著者の言葉に,私は強く共感してしまいます。

***************

 ・・・・企業の人事部は膨大な金額を支払う必要があるし,テスト業者は膨大な金額を手中に収める。

 一方,企業側は人材の判定作業をテスト業者に外部委託しているので,テスト結果がどの程度正しいのか,真剣に考えない。責任逃れできる利点もある。もちろん,テスト業者はテストの弱点を覆い隠し,利点だけを宣伝する。かくして,膨大な金が循環し続ける。
 
 もし,私が会社の社長なら,心理テストの性能評価を行わせるだろう。有能な社員が選別できるという証拠がない心理テストはすべて廃止する。有害無益である。これでかなり経費の節約になるだろう。もし,有能な人材が発見できるという心理テストがあれば,それを採用するだろう。優れた人材が獲得できれば,利益は・・・

***************

 なぜ人々は,インチキな情報を信じてしまうのか。

 イギリスの心理学者ファーナムとスコーフィールドが1987年に発表した内容の一部が引用されていたので,その中のまた一部を紹介しますと・・・・・

 理解しやすいのは,
 
○権威主義的な人,他人からの承認欲求の強い人は,だまされやすい。

○心地よい内容であれば,偽の情報でも信じやすい。

○心理的な援助を求めている人は,不安が高いので,どんな内容でも信じてしまう。

 という内容です。

 情報の中には,もちろんインチキではないものも含まれていると思いますが,私が読んだ本の中は,タイトル自体がインチキくさいのに,おそらくそのタイトルに引き込まれて買ってしまう人が多いんだろうなというものがあります(過去に紹介していました)。

 私が教育失敗学のブログを続けている理由は,

 弱い人が,自分の不安を紛らわせるだけの目的で,「心地よい内容」「励ましてくれる内容」を読みたい,というのであれば,利用価値がある教育ブログは他にたくさんあるでしょうが,

 弱い人が,単なる心理的援助を求める目的や,不安を和らげる目的で教育に関する情報を集めるだけでは,「弱い」原因となっている根本的な資質・能力が解決されることはまずあり得ないので,その根本の部分を直視して,「不安がますます高まる」結果になっても,それが実は「正しい反応」であり,「弱さの自覚」から出発しないと,教師としての「強さ」を身につけるためのスタートラインには立てない,と考えているからなのです。

 自分にとって「役立つ」知識は,「自分の目先の安心」ではなく,「子どもたちの将来の安心」のための知識である,と考える人に,ぜひとも教員になってもらいたい,そして,そのために,このブログを「役立てて」いただきたいと願っています。

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コンピテンシーモデルへの誤解が教育を後退させる

 変化の激しい社会を生きる子どもに,「教育」は何をプレゼントしてあげることができるのでしょうか。

 「教師」がプレゼントしてあげられるものは,何でしょうか。

 「教師」でなければ,プレゼントできないものは,何でしょうか。

 「教師」は,子どもの足を引っ張っていないでしょうか。

 コンピテンシーモデルへの後ろ向きの考え方によって,教育の後退が加速してしまうことを懸念しています。

 あるブログに,こんな記事が掲載されました。

********************

>1人の子どもも排除しないのが教師のコンピテシーモデルであるはずなのに、コンピテシーモデルに近づいた教師は、コンピテシーモデルに近づかない子どもを排除したがるのである。

>モデルというものが、固定的なものではなく、流動的なもの、動的なもの、志向する過程上に想定されるものであるならば、誰も息が詰まらないであろう。

>コンピテシーという概念について、不勉強な私は今さら他人様のブログのタイトルを見て興味を持ち、少しばかり調べてみたのであるが、少なくとも、ストレスのたまるものであるらしいことはわかった。

********************

 教師が教育の仕事にかかわるストレスから逃れようとすれば,当然,そのしわ寄せは子どもに行くのです。

 上の記事を書いた方の誤解をどのように解けばよいのか,短時間では難しそうですが,要は,

 「モデルに近づかない子どもを排除したがる」というのは紛れもない「逆コンピテンシー」であって,こういう傾向は,教育実践にあたっての厳しい自己研鑽を課さない人間の特徴と言えることをご理解いただきたいと思います。

 指導力のない教師,自信のない教師,不安感を抱えている教師は,

 「変わらなければならない」のに,

 「変化」を嫌います。

 「向上心をもたなければならない」のに,

 「何もしない」ことを選びます。

 失敗をおそれて,かたちに示せない人間のどこに,「教育への使命感」があると言えるのでしょう。

 子どもたちの多くは,人生の中で最も大きく心と体が変化するときを過ごしており,そこに自己保身という醜い盾をもって,自らを律する覚悟を持てない大人が,非常に大きな悪影響を及ぼし続けたことへの反省をするきっかけにすべきなのが,「コンピテンシーモデル」なのです。

 子どもは自然に変わる。

 そして,子どもも,変わることを,おそれることもある。

 しかし,心の底から,変わりたいと思っている。

 そういう気持ちを支えるのは,ただぼーっとして「寄り添っている」ような大人ではなくて,大人自身も悩みぬき,成長しようとしているのだということを子どもに示してあげられるような大人なのです。

 子どもは,変われない大人を見て,将来の自分への恐怖を意識下で増幅させてしまうのです。

 「コンピテンシーモデル」は,「管理」されない「強い個人」をつくるためのもので,「管理」する側をもコントロールできる力をめざすものです。
 
 「管理」がこわいといって逃げまわろうとしている教師に,子どもを成長させる力があるとは信じられません。

 子どもに「管理」の意味を教えるのも,教育の役割です。

 「管理」は,だれのためにするものなのか。

 「教育」は,だれのためにするものなのか。

 教育にたずさわる人間の資質や能力について,もっと多くの人の関心や理解が必要だと痛感しています。

 「管理職」のコンピテンシーも,教育現場においては,本質的には教師のコンピテンシーと同じです。

 それを堂々と示せる勇気を。

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教育ブロガーにみる天と地の違い

 片や,何の足しにもならない懐古主義・教師自己満足型・自己保身至上主義の記事。

 片や,ほんのちょっと注目されているだけの,大学の教員養成課程への疑問を題材にした私の記事に,誠実に答えていただいた記事。

 これこそが,「天と地のひらき」と言うべき差です。

 古い鋳型にはまったまま,ものすごく小さい窓から外をのぞき,枝葉のはしっこをつかまえてああでもないこうでもないと語る記事と,

 新しい鋳型の産みの苦しみを味わいながら,多くの窓から外に出て,果実にばかりとらわれないで,土や水,根のはり具合,日の当たり方,風の動きまで読み取ろうとする「過程」まで示してくれる記事

 「あの方」に「育てられた教師」の話を,もしそういう教師がいたとするなら,どこかで聞いてみたいものです。

 

 さて,小学校と中学校,高校はとばして,大学。

 これらの連携については,本当にいい「モデル」があるでしょうか。

 基本的にそれぞれの校内だけで相当「多忙」なので,ふつうは「連携」などできない。

 しかし,「校内」を犠牲にすれば,不可能ではありません。

 それより,「連携」のための人員を増やしてもらえると,一番助かるのです。

 たとえば,3か月は小学校の教員,次の4か月は中学校の教員,残る時間は大学の教員,のような教員が「連携」のための仕事の中心的な立場に立つのです。

 普通に考えると,それだけの期間しかいない教員が,「学校の役に立つ」とは考えにくい。

 しかし,「連携」の仕事を本気でやろうとしたら,ひまな管理職がお茶を飲んで,だれも読まない「報告書」をつくっていても,何にもなりません。

 それぞれの現場に実際に立って,「指導の実際」を知り,課題をつかみ,その解決に向けての「協働作業」の音頭を取っていく。そういう中心人物がいないと,「連携」はただの「絵に描いた餅」になってしまいます。

 少し前の記事で,「組織の一員として動ける教師」という立場について書きましたが,

 この「組織の一員として動く教師」というのは,「上の人間を指示・命令にさからわずに仕事をする教師」という意味ではなくて,「教師一人の力で子どもを教育している」のではない,「教師集団の力で子どもを教育している」という実感がもてる教師のことを想定しています。

 「組織に使われる」のではなく,「組織を使う」教師が求められているのです。

 東京都の改革の趣旨をよく理解できていない方,「組織を使う」という言葉の意味がわからない寝ぼけた管理職は,東京都の改革に眉をひそめ,「組織に使われる教員たちはかわいそう」という見方をしています

 実際に,力のない教師はそう思ってしまうところがあるのは仕方がないのですが,そこで求められているのは「組織に使われる教員」,などでは決してなく,「組織を使う教員」なのです。

 「行政が強圧的」なんていって弱音を吐いている程度では,そんな連携は何の役にも立たないでしょう。

 私が小学校教育の「経営不全」を取り上げるのは,「組織を使う発想の欠如」が教育に与える影響が大きいと考えるからです。すぐに「学級」のような小さい単位の「内輪」のことを気にする習慣。もっと大きなところに気が回らないと・・・。中学校に上がって,「近視眼的なものの見方・考え方」に染まった生徒を塗り替えていくのは大変な作業になります。

 本当は,「子どもに寄り添う感性を,大学で磨ける?」というテーマで書きたいことがあるのですが,ちょっと今晩は時間がなさそうです。

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自分の不安や弱さを「隠す方法」を教える「教員採用対策ゼミ」

 匿名さん,コメントありがとうございます。

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テスト=暗記力と決めつける人は本当に大学教育を受けたのでしょうか?
暗記する力はたしかに必要だけれどそれ以外の要素を考えないのでしょうか。

心理テストはウソでしたという本の中で適性検査といわれる、「内田クレッペリン検査」が教員採用対策ゼミでどのように解説しているかという話題、おもしろいです。

私が一番採用試験について疑問なのは、教育者の資質と関係ない試験が天下の王道のごとく使われ、採用されたら選ばれし者として武勇伝のごとく、、、

コネにしろペーパーにしろ面接にしろ、教師の資質と関係ないことで採用を決めるということ、そこが間違っているといえると思います。あたり、はずれの確率は母集団のあたり、はずれの率と大差ないのでは無いかと思えるのですがむしろ最近はずれの率が優位に高いのでは無いかと思えるのです。
(以下略,コメント欄をご覧ください)

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 dolceさんは,平成元年版のときの「新しい学力観」はおろか,その次の改訂の「総合的な学習の時間」開設時の学力観が,現場の教師だった人間としてはめずらしく,無知に近いことが記事からわかります。

 ペーパーテストの解釈が止まった時計のままでいるために,学力テスト(学力調査)の内容については議論にもなりません。参考のために見てくれれば誤解だとわかるのに,そういう大事なところだけ,見事にスルーしてしまうのです。
 
 「頭がおかしい」と非難して,答えらないことばかりになってくると,最後の逃げは「国語力がない」=言葉の意味が通じないと言って逃げてしまう。同じパターンです。そして思い出の中に閉じこもる。教師をやっている側の自己満足がテーマなら,しかたがないと思ってあきらめるしかないでしょうね

 指導要録に記入すべきこと,記入上の留意点も以前,話題になったのですが,重要なポイントは理解されていなかったことがやりとりの中でばれてしまいました。

 さて,『心理テストはウソでした』を読ませていただきました。

 評価規準というのは,公開されてしまうと,それを満足させるだけの努力をするようになってしまって,実際の能力を測る手段としてはふさわしくなくなってしまう,というのはだれでもわかることだと思います。

 たとえば,もし「授業中の挙手の回数」が,「関心・意欲・態度」の評価材料になる,ということを子どもが知っていて,とにかく高い評価がほしい,と考えたら,「とりえあず手を挙げておこう」ということになる。答えることがなくても,実際にあてられる確率は教室の人数分の1だから,40人学級だったら2.5%しかない。

 こんな評価をしている人は,もういなくなったはずですが,教育委員会の指導が徹底していないと,危ないかもしれない。まだ,授業中に発言した生徒にシールを配っている教師がいるかもしれない。

 内田クレペリン検査とは,何をどうみるためのもので,マイナスの評価を受けないためには,このように取り組めばよい,というのが「教員採用対策ゼミ」の中身,だということですが,この指導のとおりやっていれば,合格に向けてのマイナス要因を一つなくせる,ということを知っている人と知らない人がいたら,これはこれで「不公平」ということになるでしょうね。

 一生懸命にやってしまうほど,マイナス要因をつくることにつながるから,「がんばらない」ようにした,なんて,こういう姿勢で合格できた人が,どんな教育をするか,いろいろと想像できてしまいます。

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教員養成課程の教員の資質・能力の評価

 大学で,育てようとしている「教師の卵」とは,どのようなものか。

 以前から書いているように,それは,大学によりけりです。

 育てようという気はあっても,指導力がなければ・・・というのは,今回のテーマではありません。

 基本的に,教員養成系の大学では,個々の学生の,「個人としての教員の資質・能力」を高めようと努力されている。

 しかし,若い人に限らず,現職の教員であっても,大いに欠けていると感じるのは,「組織の一員として働ける資質・能力」です。そういった能力を高める教育がなされていないからでしょう。体育会などを引っ張っていくような立場になれば,少しは違うのですが。

 極端な話,私は,教員を目指す人には,「校長とは何か」「副校長,教頭とは何か」「主幹とは何か」という「学校経営」の視点からの学習も薦めたい気持ちでいます

 「校長先生とは,何をする人ですか?

 こういう質問をもし教員採用試験の面接で問われたら,大学の先生なら,どのような「模範解答」を学生に教えてあげられますか?

 「副校長とは?」「主幹とは?

 「なぜ,そういう役職の人間が学校には必要なのですか?

 はじめから校長先生になろうとして教員をめざす人は多くはないと思います。教員と経営者は別扱いして,すごく若い人でも校長がつとめられる国もありますよね。

 日本の場合は,一般の教員一人一人に,学校経営の視点が欠けているから,

 小学校では「学級王国」,

 中学校では「部活王国」

 が登場してしまうのです。

 実は,両方とも,「いい先生」(定義は微妙)が経営していれば,子ども・保護者・教師の三者にとって,「最高の楽園」(部活王国は,苦行の連続でも,勝利や賞を手にできて,思い出の楽園となる)になります。それはそれでいいだろう,というのも,一つの学級や一つの部活動だけを視野におさめて話しているのなら,わかります。

 これが,指導力不足,使命感不足,責任感不足の先生が経営すると,どうなるか

 まず,以下のような原則が「足枷」となる。

*****************

 (伊東玲氏のブログより,引用)

>私の経験では、担任したときに、「学級での格差をなくすために」先輩の教師から、あれこれについて、「するな」という申し合わせのようなことを年度当初に釘を刺されてしまうことがありました。

>私がそういう立場になったときは、学年での足並みをもう少しそろえなさい、と叱られたこともありました。

*****************

 若い教師が,先輩教師から「学級での格差をなくす」ことを目的として教育活動への制限が加えられる場合,教育への「使命感」や「責任感」をもつ若い教師なら,何と言うべきか

 ・・・・と,教員採用試験の面接で問われたとしたら,想定できる模範解答は何ですか。

 たとえば,こんな答えはどうでしょう。

 私は,先輩教師と比べたら,指導力が不足していることは明らかだと思います。だからこそ,その不足分を補うために,自分ができることを精一杯行っていきたい。一つ,一つ,私がやってみたいこととそのねらいを先輩教師に相談して,実施できるよう,先輩教師を説得したいです。

 (余計な補足ですが)私が先輩教師になったときも,そういう若い教師のやる気を決してそぐことはなく,学年の教員の一員として,各クラスがお互いに高め合えるような取り組みを一緒に考えていきたいと思います。

 これを,心の底から言えるかどうかを,きちんと見破れる面接官はいると信じたいです。

****************** 

>小学校教師を育てるなら、そういう学校内、職員室内の小学校独特の雰囲気にも考慮して、そのなかでできることを言うべきだと思います。

>失敗学の先生の呼びかけに共感している若い小学校教師もいるでしょうし、いて欲しいとも期待するのですが、現実的にはそれを実行するには、相当にきつい状況があるということもあるのが現実です。

******************

 この「相当にきつい状況」を打破できるのが,「いい学年主任」,「いい主幹」,「いい管理職」です。

 この続きは,またいずれどこかで。

 ・・・あと一言。

******************

>だから、管理職や先輩教師たちにも、失敗学の先生の考えを持ってもらいたい、ということなのでしょうが、それを小学校で若いやる気のある教師が1人でやろうとしても、よほど環境に恵まれていない限り無理だと思います。

******************

 「いい管理職」の資質は,ぜひ,教員養成課程の中で,育んでいただいたいと,切に願っております。

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dolceさんはご自分の姿をブログに載せられる人ですが・・・

 ブログというのは,匿名だからこそ,自由に本音を語ることができる場なのです。

 dolceさんは,自分の立場が悪くなったり,自分の「想像力」が行き詰まったりすると,本人の詮索に関することを書くようになります。

*************

>これだけの人だから、おそらく、もう有名人ではないかと想像できますが、すでに本人をご存知の方も多いのではないかと思います。
>もちろん、ご本人の氏名など明らかにしていただかなくても結構です。

>この方が毎日どんな生活をして見えるのか興味があります。

*************

 こういう文章はとても気がかりになりますね・・・・。いやらしいことを平気で書く人です。

 引用していない部分はもっとひどいです。


 また,教員個人がブログを書くときは,「教育委員会が認めているものである必要がある」という妄想以外の何物でもないことを平気で書いてくる

 この人はいったいどんな時代に生きている人なのでしょう。

 個人がブログ上で自由に表現した内容が,教育委員会が認めているものである,なんて,どういう「思考回路」から生まれるものなのでしょう

 dolceさんは「コネ採用」の話と同じように,わざと「ミラー現象」の意味ばかり話題にすることで,無視するしかできないことをごまかそうとしているのですが,

 これだけは,ごまかさないで,一度,答えてみてください。どんどん解釈がエスカレートしてきていますね。

********

 その1
 
 私=採用試験に合格した指導力のない教師より,コネ採用の指導力のある教師の方がまし

 dolceさんの解釈=採用試験を無視し、コネで採用することが望ましい

********

 その2

 私=授業をもつ人間がいなくなるのに,出張を命令で強制して,自習にさせるのはおかしい

 dolceさんの解釈=津波が来ようと地震がこようと放射能に汚染されようと、授業を続ける

********

 その3

 私=授業をもつ人間がいなくなるのに,出張を命令で強制して,自習にさせるのはおかしい

 dolceさんの解釈=気に入らない職務命令は無視していい

********

 その4

 dolceさんの結論=正常人が言っているとしたら、まさに日本を破壊しようとしている、反日と思ってしまいます

********

 私の言葉から,dolceさんのような解釈や結論を導き出すのは妥当なことでしょうか。


 「ミラー現象」は私がdolceさんの現状を説明するためのたとえですから,「アナロジー思考」がはたらかない限り,理解は不可能なのです。

 私の言葉の意味がわからない,というのではなく,わかろうとしないことが最大の原因であるのですが,どうか,dolceさんの要望通り,「解説してもらえる方」はいらっしゃらないでしょうか。

 お暇な方,どうぞよろしくお願いいたします。

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dolceさんに「見えない」もの=文章で表現されている「自分の姿」

 dolceさんが書かれた文章をお読みになるだけで,「普通の人」にはおわかりになるでしょう。

*************

>>(私の文)だから,ミラー現象と呼んで,何度もお知らせしているのに,「気づこう」という努力をなさらない。

>この文の作者(私のこと)は「ミラー現象」という状態を認識しているからこそ、こう書いているものと判断できる。

>つまり「鏡に同じものが映っている」と言っているわけだ。

>それで、私はそんなわけはないと思ったので「あなたが映っているものは何なのか、確認のために言ってください」という旨のことを書いた。

>そうしたら、その返事であろうと思われる文章があった。次の文である。

>>(私の文)ミラーに映るものがない,というのが正解

>これには驚いた。と同時に「大丈夫か?」という思いがした。

*************

 「そんなわけはないと思った」と書かれていることで,「気づこう」という努力をなさらない,という私の指摘通りであることが証明されています。

 「ミラーに映るものがない」というのは,dolceさんご本人のことを指していることに「気づこうとしない」ことを意味しています。

 dolceさんは,結局,自分で自分の状態を言ってしまっているのに,そのことに「気づこうとしない」

 人のことを批判しているつもりでも,実は自分のことを批判していること

 これが,「ミラー現象」であるという言葉の意味を「理解しようとしない」

****************

>認知症が進むと、先に挙げたように、実際にはいない人が見えたりするらしい。

>麻薬中毒者、アルコール中毒者、統合失調症の患者にもみられるらしい。

>この人(私のことです)が、何かそういう病気の患者かどうか私にはわからないが、実際にはないもの(ミラーに映るものがない)のにミラー現象を認識するというのは「もしかしたら」という思いがしてしまう

*************

 実際にあるものが,見えていない。

 ご自分の本当の姿が,見えていない。

 鏡の存在に気づいていない。

 いろいろな言い方ができます。

 実際にはないこと(dolceさんのよく使う言葉だと妄想)を書いているdolceだからこそ,「ミラー現象」と呼ばれることに,気づけないご自分の状態に,気づいて下さい,というのが,私が繰り返しているメッセージです。

 それができるようになるだけで,今までの「負債」は帳消しになるのですが。

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dolceさんの「見えない」もの=ミラーに映らない「理解していない」部分

 「ミラーに映るものはない」というのは,「見事な誤解」や「曲解」をしていたり,「理解不足」であるということ。

 そもそもの実体がないので,映っていないというだけのこと,と呼ぶこともできます。

 「理解していない」ということだけが映し出されていると言ってもいいのですが。

*********** 

 (ペーパーテストを行うと「優秀な人材がはじかれてしまう」という)言葉の意味は,ペーパーテストはdolceさんの記事の説明によると,「記憶力のテスト」であり,「記憶力が優秀な人材」は選べる[1]けれど,ペーパーテストでは測ることができない(とdolceさんが考えている)[2],教師にとって欠かせない優れた資質や能力をもっている人材が,記憶力が必要なペーパーテストでよい結果が出せず,はじかれてしまう[3],という意味です。

 dolceさんの誤解その1

 「ペーパーテストは記憶力のテストである

 わざわざ紹介していただいた,たくさんの記事を読み返してみると,上の[1]は納得できる,とおっしゃるとおり,この誤解は確かなものであることがわかります。

 ペーパーテストでは,記憶力しか測定できないのでしょうか?

(追記) dolceさんは,次のように定義していますね。

>ペーパーテストと言う場合、一般に「ペーパーを使うテスト全ての総称」ではなく、試験範囲が決まっていて、その範囲だけ暗記すればよいというテストを指します。
 
 自分の都合の良いように解釈をせばめたつもりなのでしょうが,そのようなレベルのテストを想定してしまっていること自体が,非常に古いタイプの「学力観」しかもっていないことの証明をしてしまっている。無知を暴露してしまっているのですね。dolceさんの記事を読むことで,それがよくわかるのです。

 国立大学の二次試験をご覧になったことがありますか?

 私が出題した定期考査問題を例にとると,生徒が初めて目にする室町時代の地図を見せて,「この地図は何のためにつくられたものか」とペーパーテストで問うた場合,これが「記憶力」だけで正解を表現することができると思われますか?

 授業で学習した時代区分以外に,問題用紙に示された資料をいくつか活用して,自分なりの時代区分をつくってみよう。そして,それぞれの時代の特色を簡単に述べてみよう。・・・・という問題は「記憶力」を問うものですか?

 教科書の全文を記憶しておけば,国立大学の二次試験は満点がとれますか?

 学力観が乏しいし,その上,評価に関する知識も乏しいのですね。

 dolceさんの誤解その2

 「教師にとって欠かせない優れた資質や能力をもっている人材が,記憶力が必要なペーパーテストでよい結果が出せず,はじかれてしまう[3]」と思っていないこと

  その証拠: [3]そんなことがどうして言えるんでしょう。私はそんなことを思っていません。 


  
 >ペーパーテストでは測ることができない(とdolceさんが考えている)[2]

 という部分は,「教師にとって欠かせない優れた資質や能力」を修飾する内容です。

 教師にとって欠かせない資質や能力のうち,たとえば,公正な判断力は,ペーパーテストでは測ることはできませんか。

 いくつかの資料の中から,自分の主張したいことの根拠になるものを選び出し,それらの違いや共通点をわかりやすい言葉で説明する能力・・・・これは,ペーパーテストでは測っていないのでしょうか?

 ここから先がちょっとわかりにくいかもしれませんが,

 精度の課題はあっても,全く測れないわけではない

 それなのに,実際には,測られていない

 だから,私の結論・・・・ペーパーテストではじかれてしまう「優秀な人材」がたくさんいる・・・・となるのです。

(追記) もう少し,言葉が必要なようですね。

 dolceさんは,記憶力中心のテストをどうやらプラスに評価しているらしい。

 これが,「古い学力観」をもつ人たちの代表的な姿です。

 その先のdolceさんは,思考停止です。
 
 分かりやすく言えば,思考回路が「ショート」しているわけですね。

 記憶力に大きく左右されるような試験では,「記憶力が優秀な人間」は選べるかもしれませんが,教師として欠かせない資質・能力をもった人間が選べていないのではないか,だからこそ,現状のような問題が起こっているのではないか,というのが私の考えなわけで,「ショート」している思考の結果は,ペーパーテストでは選ばず,指導力のある人からの推薦で選ぶべきだ,というのも逆の意味の極論なわけで,改善方法はすでに別のところで述べています。

 dolceさんは,学力観と評価観で多重苦に陥っているということの自覚がないのです。

 ここまで書けば,気づいていただけるものと・・・・普通の人は思われるでしょうが・・・・。

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dolceさんの「見える」妄想=ミラーに映る自分に気づけない部分

 目に見えないものは存在しない,と思っている教師に「たとえ話」やアナロジー思考でものを語るのは危険です。

 「数学者は美しさにこだわる

 というときの美しさは,「この景色は美しい」というときの「美しさ」とは異なります。

 具象レベルのものではなく,抽象レベルのものを表現すると,混乱してしまうか,思考停止に陥る方が,dolceさんです。

 dolceさんがブログで事細かに示してくれている「ミラー現象」を解説すると,

 「お前は妄想を語っている」と指摘している自分自身が,実は想像以上の「妄想」を抱き,語っている。

 これが,最も分かりやすい「ミラー現象」で,「見える妄想」にあたります。

 例を示しましょう。

********

 その1
 
 私=採用試験に合格した指導力のない教師より,コネ採用の指導力のある教師の方がまし

 dolceさん流の妄想=採用試験を無視し、コネで採用することが望ましい

********

 その2

 私=授業をもつ人間がいなくなるのに,出張を命令で強制して,自習にさせるのはおかしい

 dolceさん流の妄想=津波が来ようと地震がこようと放射能に汚染されようと、授業を続ける

********

 その3

 私=授業をもつ人間がいなくなるのに,出張を命令で強制して,自習にさせるのはおかしい

 dolceさん流の妄想=気に入らない職務命令は無視していい

********

 その4

 dolceさん流の結論=正常人が言っているとしたら、まさに日本を破壊しようとしている、反日と思ってしまいます

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生徒たちが「いい先生」を育てる

 「優秀な生徒」とは,どのような生徒のことをイメージされますか?

 見方によっては,すべての生徒が「優秀」です。

 それは,「いい先生」を育てるという「存在の意義」において。

 教師は,若い教師はもちろん,ベテランになってからも,

 生徒たちからたくさんの課題を投げかけられます。

 学習の成果が思うように出せない。

 生活指導でさまざまな問題が起きる。

 道徳的価値とは真逆の行動を起こす。

 こういう生徒たちは,「困った生徒」「悪い生徒」「問題生徒」というレッテルを貼られることが多いわけですが,教育実践によってその姿が「大きく変わる」可能性をもっている生徒たちとみることができます。

 課題があるから,教師たちの「やりがい」は増すのです。

 そして,課題を解決していく道は,生徒個人の力によるところも多いでしょうけれど,少なくとも学校内では,生徒と教師の協働作業の道です。

 教師の力量は,こういう環境のなかで育っていきます。その過程も,本人や周囲からとてもよくみえるようになるのです。

 こうした「とても価値の高い現状」を与えてくれる生徒はもちろん,一般的に「優秀な生徒」とみられる生徒の存在も,教師にとっては非常に大きな意義をもっていることは間違いありません。

 「いい生徒」たちに囲まれて,手抜きをするのに「都合のいい」先生になってしまっては,「いい生徒」ではなくなってしまいます。

 「都合のいい先生」でなく,生徒たちにとって本当に「いい先生」になれるかどうかは,教師の心がけ次第,ということですね。

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小学校担任の「はずれ」への対応

 「教育に情熱をかける教師のため」ではなくて,「教育への情熱を欠いた教師のため」なら,指導力不足教員を多面的に捉えていこうとする態度は,プレッシャーになるわけですからやめた方がいいですね。

 それより,最初は「はずれ」と思っても,あとで「いい先生」と思えるようになることがある,なんていう「なぐさめ」を言っておいた方がよいのでしょう。

 このブログは,タイトルどおりの記事を書くことが使命です。

 新年度早々,いやな使命ですね・・・。

 間もなく,新学年の担任が発表になります。

 小学校では,学習指導から生活指導まで,大部分の面倒をみてもらう人が決まるわけですから,保護者も子どももハラハラ・どきどきです。

 3月までの段階で,すでに「はずれ」当確の人がいる場合などは・・・・。

 教師の実績や評判を耳にしたことがない場合には,「第一印象」で「あたり」とか「はずれ」とかいう感想をもらしてしまいます。
 
 この「第一印象」がいかに大事かは,言うまでもないですが,「第一印象」にだまされてはいけない,なんて教訓が得られるなら,教師にとっても子どもにとってもいいことです。

 しかし,「第一印象」どおりということになると,話は別です。

 教師の側ではまずもって,「あたり」と評価されるのはそう容易なことではない,と覚悟しておくことが大事ですね。

 それだけ責任も重いし,教育はなかなか思い通りにはいかないのが常です。

 少しでも親の不安を和らげるためには,小学校の場合,「組織」をどれだけ前面に出せるかが勝負でしょう。

 研究・研修組織などの校内分掌のあり方,管理職をはじめとした多くの教師による授業の質の確保への取り組みなどが,PRできるとよいですね。

******************

 しかし,それをどう頑張っても,「はずれ」は「はずれ」という評価が下される場合があります。

 正真正銘の「はずれ」の場合,親として,どうしたらよいか。

 それが,子どもにとって,長い人生のたった1年のこと,と考えようとすればできない話ではないでしょうが,そのたった1年のなかで,取り返しのつかない傷を負う子どももいることを忘れてはなりません。

 ある記事では,「休みが多い学級担任を変えてほしい」という相談への回答が示されていました。

 小学校の管理職にとって,もう「想定問答」ができあがってしまっているような頻繁な相談(要望)が,

 「学級担任を変えてほしい

 というものです。

 「変えても同じようなもの」とはなかなか言えません。

 つまらない言葉の行き違いから,「担任おろし」の要望を出される場合もあるでしょうが,私のブログ記事が具体的に活用されてしまうと,都合の悪い教員は少なくないと思います。

 55+33で88項目の中から,具体的な課題を管理職が指摘されると,本当に「やりにくい」でしょうね。

 そういう教員は,たいてい長くても3年くらいで異動しますから,ついうっかり,管理職が

 「今年だけは勘弁してください

 なんて答えた日には,逆上した保護者が学校に乗り込む,なんてことも起こってしまうのです。

 学校によっては,「いつ産休に入るかわからないような女性の教員は担任にしないでくれ」なんて要望もあるのです。これはちょっと困りますね。

 「私はいつ産休に入るかわかりません。もしそうなったら,子どもや先生方に迷惑をかけるので,担任にはしないでください」という教員がいるのも,一方で困りものです。

 指導力不足が原因の「担任おろし」の要望は,冷静沈着に,しっかりとデータを集積して,まずはある程度,まとまった段階で「見直しの要望」をして,その後,何の改善もみられない場合に,「管理職の責任の追及姿勢」も明らかにして,正式に要望する,それを,お互いに信頼できる何人かで,行うのです。そのような,「組織的な動き」が必要です。

 基本的には,子どもとの協力,なんて形ではなく,つまり,子どもには直接的に担任への批評はさしひかえて,事実だけを聞き取っていく。そういう配慮は大切です。とりあえず,「崩壊状態」になっていないのであれば。

 一言だけ,おことわりしておきますが,「崩壊状態」になってからでは,遅いです。

崩壊に至っていないのであれば,最初の「見直しの要望」の段階で,改善される可能性もあるのです。

 このような行動は,正当な権利というより,ほとんど保護者の義務として,学校に要求すべきです。

 何だか暗ーいイメージの作業ですが,実際にはそうでもないですね。

 子どもが担任をかばってくれたりすると,子どもも一層,好きになれます。

 「担任おろし」の要求は,決してヒステリックにはやらないで,あくまでも,システマティックに行う。

 そういうノウハウを公開するとしたら・・・・・こんなブログでしかあり得ませんね。

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指導力不足につながる事例 1/33 「授業がわからない」

[指導力不足] ブログ村キーワード

 中学校はともかく,小学校で「授業がわからない」と言われると,教師は責任を感じますね。

 (ここで,責任を感じず,家で勉強しない子どもが悪い,まじめに話を聞かないのが悪い,と開き直るタイプが,「指導力不足教員」の中にいます)

 教育実習のときにもきちんと作成した,学習指導案。

 そこには,単元のねらい本時のねらいが示されていたはず。

 実習期間に,担当教諭から指導されたでしょう。

 社会科を例にとってみましょう。

 「~について理解させる」というのは,適切なねらいではない。

 「~が~であることを理解させる」という形にしよう。

 「~が~であった理由は~であることを理解させる」でもいいです。

 そこに,どのような教材をもとにして,理解させるのか,生徒が活用する資料を示すかたちのねらいにするなら,

 「~や~を通して,~が~であることを理解させる」となります。

 そうすると,今度は,授業の展開の問題。「~が~であることを理解させる」ために,

 どのような導入教材で興味や関心をひきつけ,それまでの知識や技能のレベルを知ることができるかを考える。

 展開にもっていくために,一番の核となる発問を用意する。

 たとえば,これは,授業の中心テーマに結びつくような問いを,生徒が示せるような発問がいい。

 勘違いしやすいのは,テーマをそのまま自分で示してしまう教師がいる

 しかし,生徒が自分たちのペースで学習を進めている,という実感がもてるようにするためには,

 資料(教材)をもとに,生徒から出てくる疑問が,そのまま課題になるのがいい

 そして,その疑問を解決するために必要な,中心教材をどうやって示していくか。

 ・・・・・

 生徒が,「~について,わかった」という感想を書いても,本当にわかったのかどうかはわかりません。

 「~が~であることがわかった」かどうかを確かめられるような,そういう問いが「まとめ」段階で出せると,それを解決できた生徒は,

 「今日の授業では,確かに~が~であることが,~という理由(根拠)から言えるようになりました

 という感想が書けるようになる。

 基本的に授業で目指していくかたちはこのようなものです。

 「授業がわからない」という感想が出た場合,

 どの段階が「わからない」のか,を確かめようとする意欲がほしいですね。

 まず,最初の導入の教材の読み取りで,すでに「わからない」生徒。

 今は,大画面テレビがありますから,この資料のここ,という部分を拡大して示せば,この段階の「わからない」は回避できます。

 だれかが提示してくれた疑問を解決する上で,資料のどこに注目したらいいのか,わからない。

 授業の中で,これはあり得ます。

 それでいいのです。

 できれば,全員が「わからない」状態がつくれるのが一番いい

 いろんな予想が登場して,それぞれの妥当性が吟味できるなら,もっといい

 こうやって,議論が沸騰した後,決定打としての教材を示す。

 これを見た瞬間に,「そうか!」という反応をどのくらいキャッチできるか。

 反応がない生徒を注意深く観察しながら,気づいた生徒に説明させたり,適切な助言を教師がしたりする。

 どこを見ているべきかというと,資料を見た瞬間に反応できなかった生徒
 
 こういうとき,どうしても教師は,目を輝かせている生徒の方をみてしまう。

 気分がいいから。自分も。

 しかし,「変化」を読み取らなければならないのは,いつの段階で「わかる」状態になるかわからない,生徒の表情なのです。

 最後の「まとめ」の段階で応用問題のように出される質問。これも,わからなくていい。

 「わからない」と意識できる状態を維持したまま,次の時間にうつれれば,次の授業を真剣に受ける動機づけにもなります。

 以上のことに気を付けながら,授業づくりと実践ができる教師は,「指導力不足」とはよばれないでしょう。

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ミラーに映るものがない,というのが正解

 真愚さんをはじめ,良識のある多くの方には,どうぞこちらの記事はスルーなさってください。

 時間の無駄です。
 

 dolceさんの疑問にお答えできそうな部分があるので,ここで記しておきます。

 ペーパーテストを行うと「優秀な人材がはじかれてしまう」とは如何なる根拠で言えるのでしょうか?
 
 これは,ペーパーテストはdolceさんの記事の説明によると,「記憶力のテスト」であり,「記憶力が優秀な人材」は選べるけれど,ペーパーテストでは測ることができない(とdolceさんが考えている),教師にとって欠かせない優れた資質や能力をもっている人材が,記憶力が必要なペーパーテストでよい結果が出せず,はじかれてしまう,という意味です。

 これは,dolceさんが記している文章を紹介するまでもなく,だれもがわかっていることですね。
 
 特に超能力は必要ないと思います。

 第1次試験で面接・論文,第2次試験でペーパーテストという順だと,まだ,優秀な人材を逃さないですむ可能性が高まりますが,非常に時間がかかるし,評価の公平性を確保できるか,という問題もある。

 大勢をふるいにかける方法で一番簡単なのはペーパーテスト,それも4択などのマークシートで採点できるようなものですから,効率だけを考えると,第1次試験でペーパーテストをやって人数をしぼり,その後に面接や論文,模擬授業などを実施した方がいいのですね。

 ミラーに映るもの,についてですが,

>学力について述べたご自分のブログを読み返してみてください。

>わかっていないことというより,わかろうという気がない人には,難しい問題かもしれませんね。

 という私の言葉の意味をかみ砕いて言うと,

 大事なことはブログでは記事になっていない,ということですね。

 大事なことが書かれていないので,指摘のしようがないのです。

 こう書くと,「大事なこととは何か」というような質問をするのがdolceさんのパターンなのですが,

 たとえば,ずっと私の質問でスルーし続けられたのは,

 「新しい学力観」が話題になったとき,総合的な学習の時間が始まった時に,何をどのように学ぶか,どんな力を身に付けさせたいのか,学校で多くの議論を重ねたはずで,このとき現職の中学校の教員だったdolceさんに,このときの「学力」像を思い起こしてほしかったのです。

 当時,一部の教師は,もう学習指導要領が示されているにもかかわらず,総合的な学習の時間に「反対」し続けていました。

 独自の学力像があって,たとえば,教科の内容・時間を削減されるのは困るなどの理由があって,反対していた人もいたでしょうが,中には,「教科指導以外の仕事を増やさないでくれ」という消極的というか無責任な理由で反対していた教師がいたのです。

 dolceさんがこのようなタイプの教師だったかどうかはもちろんわかりませんが,学力とは何か,という話題のときに,私はここでどのような話をご自身はされたのですか,という質問には全くふれませんでした。

 わざとここだけ回答をしない,ということから,想像できることはなんでしょう。

 dolceさんなりの「学力」の全体像を書き始めるのかなと思いきや,結果的には頓珍漢な方向に話題がずれていき,尻切れトンボで終わってしまったのです。

 ミラーに映る大事なものがない,というのが正解です。

 でも,実体がないとはまだ言えません。

 わざと隠している実体が,ミラーに映るところまでやって来てくれれば,そのあとの展開が楽しみになります。

 でも,私の予想では,dolceさんの次の反応は,「では,そっちの学力の全体像を示してくれ」。

 あ,これは前から繰り返している手でしたね。

 繰り返し述べているように,私は,特殊な学力観をもっているわけではありません。

 私が批判している観点別学習状況の評価の観点が,学力の骨格をなす部分でしょう。

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自分の子どもの担任になろうとは思わない

 小学校の教員には,公私の境目がない人が多い。

 と書くと,そんな馬鹿な,と思う人がいる一方で,どきっとする人もいるでしょうね。

 それでいいのだ,という人もいれば,だからだめなんだ,という人もいるでしょう。

 小学校で教師と児童が「お友達感覚で話している」ことが「異常であること」を,なかなか理解してもらえない人がいるものです。

 同じ学年なのに,やっていることがまるで違う学級があるのは,中学校からすれば理解できません。

 組織の動きではなくて,個人の動きが中心になるのですね。

 小学校教師のブログを読むと,恐ろしい文言に出会います。

 たとえば,「クラスを手放すとき」のような。

 担任していた学級を私物化していた証拠です。

 本人は,責任をもって学級を経営してきたつもりなのでしょうが,少なくとも「あなたのものではない」のです。

 「私共(わたくしども)空間」というのは私の造語ですが,小学校の「学級王国」が,その代表的なものです。

 とにかく,独特のルールなりしきたりが決められ,子どもはそれに従って動かされているわけですからね。

 頭のいい子は,担任の考えていることを予想して,望んでいる通りに動く行動パターンを身につけますから,行動原理が似てきます。いつの間にか,気の毒に,「私のクラスの担任の言っていることは正しい」と信じ込んでいく。

 ちょっと斜に構える子どもは,本質的な理解をしているのに(本質的な理解をしているからこそ),担任から嫌われ,評価されない。

 「クラスを手放す」ときに,わざわざ「次の担任の先生の言うことをよく聞くんですよ」と話しかけてくれる人もいる。

 こういう「風通しの悪い」空間からやってきた子どもたちは,中学校の教師にはとてもよくわかります。


 公私混同の極め付けは,「自分の学級に自分の子どもも入れたい」と思うような感覚ですか。

 もし,本気でそんなことを思っている人がいたとしたら,という前提で,思ったことを述べていきます。

*******************

 監督の息子が同じチームにいるというやりにくさは,想像がつかないことでしょうか。

 担任の子どもが,自分のクラスにいたら,どうですか?

 気を使いますよね。周りの子どもは。

 子ども集団には,子ども集団だけでもっておきたい秘密もある。

 それは,当然,担任の子どもとは共有できません。

 そして,一番気の毒なのは,子ども本人でしょう。

 自分の子どもには評価を甘くつけるのではないか,という「しけた疑義」が寄せられることにはふれるまでもありません。
 
 そんなことより,子どもにかかるプレッシャーが半端ではないことを想像することはできないのでしょうか。

 極小規模の学校では,学校の存続のためにわざと子どもが多い教員をとって,児童数を確保する,なんてことをしますが,そういうケースではなく,一般の学校で,親が自分の担任って・・・・・。

 学校でも,家に帰っても,親と一緒にいなければならないことって・・・・。

 先日,5歳の娘が,私が教師であることを改めて知って,「パパが先生なんてできるの?」と心配してくれました。

 私が現場でどういう先生なのかは,娘には知ってほしくないですね・・・・。

 「あんな担任よりは,自分が担任になったほうがまし」という気持ちはわからないではないですが・・・。

 ああ,この言い回しは・・・。

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「教師の失敗55」と「指導力不足につながる事例33」

[指導力不足] ブログ村キーワード

 2005年に私がこのブログで少しずつご紹介していた,「教師の失敗55」は次の通りです。

1 面子にこだわり誤りを認めない

2 変化に対応できない

3 表面的な評価をしてしまう

4 葉にとらわれ根を育てることを忘れてしまう

5 失敗を失敗として認識できない

6 準備した計画にとらわれ、最適な判断・評価を誤る

7 「わかったふり」が見抜けない

8 「わかりましたか」と聞いてしまう

9 「頭を使え」と指図してしまう

10 他人の実践のまねをする段階から、実践から学ぶ段階まで到達しにくい

11 自分の経験にとらわれ、変化を恐れる

12 素材のよさを活かせない

13 協力者を得られない理由がわかっていない

14 具体的な目標が描けていない

15 嫌われない努力で不信を招く

16 問いのレベルが伸びる力を奪う

17 口先で褒めていることがばれてしまう

18 子どもの長所をひきだせない

19 「活かす」よろこびを与えていない

20 人にはボランティアを求めるが、自分はしない

21 無知を利用して法令を犯す

22 告発ができず失敗が再生産される

23 「失敗さかのぼりの原理」で責任逃れをする

24 目先の利益を優先する者に勝てない

25 批判に耳を傾けない

26 予言の自己成就を悪用してしまう

27 内容で勝負できない

28 実態からの出発ができない

29 計画や評価のない実践を教育と勘違いする

30 環境の作り手は教師であることがわからない

31 自分が上司に従いたくないから子どもが自分に従わない

32 「命令」も「自己判断」も機能しない

33 自分の余裕のなさを子どもに伝えてしまう

34 問題の早期発見、早期解決を怠ってしまう

35 共通語をもてないがゆえのすれ違いが多い

36 批判を受けないことで信用されていると勘違いする

37 評価されることを極端に嫌う

38 優れた実践を眠らせてしまう

39 「さわがしくない」子どもを「数」に入れない

40 誤認を確信に変えてしまう

41 同じ拒否反応なら無音・無反応型を選んでしまう

42 「独り言」で子どもの思考放棄をさそう

43 目を合わせる自信がないことが伝わってしまう

44 沈黙より発話を選び、思考を妨げる

45 教師が「学習」の主体になってしまう

46 指導という名の命令で動かしてしまう

47 知識に縛られて指導を誤る

48 成功への過信が失敗時の喪失感を高めてしまう

49 苦労して得たものへのこだわりが大きな失敗を生む

50 力を引き出すことよりつけることにこだわる

51 絶好のタイミングをのがしやすい

52 おさめるべきをすて、すてるべきをおさめる

53 「普通の子どもです」と言ってしまう

54 組織的な動きができない

55 ピンポイントアドバイスが苦手である

 内容については,ぜひ2005年の記事をご覧ください。

 さて,2008年11月に出版された,田沼雄一著『若い先生に贈る失敗から学ぶ教師学』(学事出版)では,

 次の33の教師のダメな「事例」が紹介されています。

 本の構成は,「事例→問題点と原因,そして改善点→ワンポイントアドバイス」という形になっています。

 目次から,事例を引用します。

*****************

 授業力向上のために

  事例1 学習がわかりにくい

  事例2 教材研究をしない

  事例3 授業を大事にしない

  事例4 子どもを放任する

  事例5 質問に答えない

  事例6 テストをいいかげんにする

 子どもを的確に指導するために

  事例7 子どもが納得できるように指導できない

  事例8 子どもにあった指導をできない

  事例9 ダメなものをダメと言わない

  事例10 会話のキャッチボールができない

  事例11 くどくどとしつこい

  事例12 子どもと友達感覚

 改善意欲をもとう

  事例13 例年通りが口癖

  事例14 経験だけをたよりにする

  事例15 創造的でない

  事例16 向上心に欠けている

  事例17 「なぜ」を考えない

  事例18 文章が書けない

 社会の常識をもとう

  事例19 責任感がない

  事例20 時刻を守らない

  事例21 八時十五分に来て五時には帰る

  事例22 いばっていたり不遜な態度をとる

  事例23 約束を守らない

  事例24 笑顔を見せない

 自己チューは嫌われる

  事例25 いつも自分のことしか考えない

  事例26 自分だけ話をして人の話を聞かない

  事例27 やたらに校内放送する

  事例28 フットワークが悪い

  事例29 人の気持ちがわからない

  事例30 文句ばかり言う

 保護者と信頼関係をつくるために

  事例31 保護者とコミュニケーションがとれない

  事例32 保護者の評価をこわがる

  事例33 保護者に適切な対応ができない

******************

 こうすれば「上手くいく」という本を読むのもいいですが,「どういう状態が,問題とされる状態なのか,そして,その原因は何か,その解決方法とは何か」というところを少なくとも「知っておく」ことは大切でしょう。

 最終的には,「心構えひとつ」といったところもありますが・・・。

 今回も予告編になってしまいましたが,明日より,事例分析をしていきたいと思います。

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回転がきかない部活動の指導者

 次のグラフは,中学校教員の年代別構成比の推移を示しています。

24033102

 私が教員に採用されてからとほぼ同じ時期の推移ですので,これをもとに約20年を振り返ってみますと,

 平成の頭では,部活動はかなりさかんで,やはり20代,30代の教師はそれなりに多かった,という印象が残っています。全国平均では,やはり過半数がこの世代だったのです。

 しかし,平成13年,これは私が2校目で勤務を終えようとしていたころですが,40代,50代の教師の方が多くなっています。

 ちょうどこのころでした。部活動を何とかもってほしいという校長の要望にキレて,教員を辞めてしまった人がいました。若い世代が入らなくなっているので,部活動顧問の「世代交代」ができず,それまでは何とか逃げられていた教師が,部活動の顧問を引き受けなければならなくなった。

 これが,その前の顧問がとても熱心で,生徒や保護者の信頼のあつい人だと,とてもやりにくいわけですね。

 実際に,顧問の転勤先に住所を移して,転校してしまう生徒まで出てくるわけですから。

 その後,40代,50代の教師は増え続け,3分の2を占めるようになっています。

 小学校では,50代の教師の中でも大量採用だった時期の人が退職しはじめていますから,5年くらい前に20代,30代の割合を「底を打って」います。

 中学校ではようやく底を打ったくらいでしょうか。

 それにしても,3分の1が50代というのは,やはり多いですね。

 学校の先生は気も若いし,見た目は実際に年齢不詳の人も多いですから,子どもはそれほど気にしてないかもしれませんが・・・。

 部活動については,30年くらい前は,新しい教師がどんどん入ってきますから,部活動の顧問も,どちらかというと「取り合い」みたいな状況もあったでしょう。

 私も,大学まで野球をしていましたが,顧問を務めたのはバスケットボール部でした。

 これが,今では「押し付け合い」になってしまう学校も増えている。

 なかなか厳しいですね。

 学習指導の問題なら,「塾」に頼るという選択肢があるのですが,

 部活動の指導となると,これは難しい。

 これから増える中学校の新規採用教諭にとって,まず大きな壁は,部活動の指導でしょう。

 勉強しなければいけないことが多くて,たいへんですね。

 冗談交じりに私がいつも話すのは,教員になって,

 学習指導,生活指導,部活動,どのようなエネルギーのかけ方になるかというと,

 教員になる前は,5対3対2くらいかと思っていましたが,

 実際に教員になると,1対3対6くらいの比重に私は感じました。

 休日がないのにはまいった。自分の草野球の試合が午前中,午後はずっと部活,のような・・・。

 学校によっては,1対8対1のようなところがあるかも。
 
 0対0対10なんてところも・・・・。

 参考までに,次のグラフは小学校のものです。

 24033101

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こういう教師になってはいけない 【序】

 私はコネで教師になれました,なんて謙遜するような言葉を発すると,「世間知らず」の人が真に受けるので気を付けましょう。

 dolceさんには,一番大事な質問がスルーされてしまったので,そこだけ残念でした。結局,最後までdolceさんらしさを貫かれてしまいました。


 さて,4月2日に辞令をもらった「新規採用」の先生方,みなさんは,「正規の採用試験に合格」されて,晴れて教壇に立たれる先生方ですね。

 最初の日に初任者研修の第1回が開かれる自治体もあるでしょう。

 そこで居眠りした猛者?を知っていますが,しっかりと報告書をつくられましたか?

 このブログは,タイトルからわかるように,「教師がしてしまう失敗」「課題」を扱ったもので,まだまだ「失敗」の認知が甘いので,「創造」の域には達しませんが,「失敗から学ぶ」姿勢は,児童・生徒だったころから,持ち続けてきた人もいるでしょう。

 どこかで生かしてもらえたら幸いです。

 田沼雄一著『若い先生に贈る失敗から学ぶ教師学』(学事出版)という本があります(以降,私が紹介するときは,対象が若い先生だけではないので,『失敗から学ぶ教師学』と表記します)。

 著者のご本人には不本意化かもしれませんが,amazonでは300円台から購入できますので,どうぞご覧になってください。

 巻末の著者の連絡先のアドレスにはメールが届かなかったので,承諾は得られていませんが,この本の「はじめに」の冒頭を,ちょっと長めですが紹介したいと思います。

******************

 教師としての責任を果たせ
 
 現在,学校では解決しなければならない,たくさんの問題が生じています。その原因の多くは,教師がやらなければならないことをやっていないためにおきています。
 にもかかわらず,学校現場には無責任な仕事をする教師がいます。いいかげんな授業を繰り返し,指導力も身につけようとしない人たちです。
 社会の常識に欠けている,自分のことしか考えない教師では,子どもや保護者との信頼関係をつくることはできません。しかし,本人にはその自覚がないので,いっこうに改善しようとはしません。また,よくないと思っていても,改善意欲に欠けた教師はいい訳ばかりをし,責任を果たそうとはしません。
 こんな人たちが,本当に学校に務めていてよいのでしょうか。
 きっと,こんな先生はいやだと,子どもたちも感じているはずです。
 「ダメな先生は辞めてほしい」などと言われないためにも,当たり前のことを当たり前にやらなければいけません。
 そうしなければ,学校教育がその責任を果たせなくなってしまいます。
 自己中心的な子どもを育てたのも,自分勝手なことを言う保護者にしてきたのも,指導力に欠ける先生たちです。
 そんな人たちが,これ以上職員室に増えたら,学校教育は成り立たなくなってしまいます。

******************

 私にとって幸せだったのは,自治体でとにかく荒れていて評判?だった学校に勤務できたことで,さらに幸せだったのは,そこで「子どもの荒れは教師の責任」ということを肌で感じることができたことです。

 一から十までと言ったら失礼かもしれませんが,異動する前の学校の教師と,まるで違っていたことが印象的でした。

 簡単に言えば,私は,「責任感をもっている」「問題を生徒のせいにしない」教師が多く,地域からの信頼があつかった学校から,「責任感に欠けている」「問題を親や生徒のせいにする」教師が多い,地域からの信用を失っていた学校に異動したのです。

 田沼雄一さんの本は,小学校の教師向けですから,中学校の教師向けの内容を少しずつ紹介できたらと考えています。

 ほとんどの内容は,このブログですでに取り上げたことばかりですが,小中との比較もまじえながら,まとめていけたらと思います。

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教員養成課程の質の向上

 教員養成課程は,実質的に教員採用試験対策の予備校のようになってしまいがちなことは,採用試験にかかわった人間を進んで採用している大学では仕方のないことでしょう。

 採用試験の合格者数だけで「評価される」「選ばれる」ような大学なら,仕方がありません。

 「いい教員の卵を育てる」のが「理念」ではなくて,「採用試験に合格できる人間を育てる」のが「理念」なのですから。

 こういう大学の教員は,「現場のことを知っている」強みというより,「採用試験への合格のさせ方を知っている」という強みが生かされているのです。

 「現場のことを知らない」と言われることに,行政機関だけの経験,大学や学会の中だけの経験しかもっていない人の中には,非常に強い引け目を感じている人がいます。

 しかし,そういう人でも,極端な話,たった1日,ある学校の研究発表会などに参加するだけで,現場がかかえている問題に気づいてくれることもあります。

 「指導力のある教師とは,どのような教師なのか」に気づくことができます。

 その課題を解決するために,大学や行政ができることは山ほどあるはずなのです。

 教員養成課程の質の向上は,何で保障されるのでしょう。

 それは,やはり前提として,未来を担う子どもたちのために,「教員の質を高める」という確固たる「理念」が存在するかどうかにかかってくるでしょう。

 「こういう教師を養成する」・・・・そのメッセージが強ければ強いほど,そして,その理念に沿った教育がなされればなされるほど,質の向上を期待することができます。

 理念だけあっても,実際にはろくな授業もできない大学教師が,採用試験の合格の仕方だけ教えても,その指導によってよい教師の資質をはぐくむことはできません。むしろ,逆コンピテンシーが定着してしまいます。

 この「逆効果」・・・・・「こうすればうまくいく」なんて言葉への誘惑に負けてしまう・・・・・は,現場に入ってから意識改革をしようと思っても,そう簡単にはいきません。

 自分で悩みぬくより,目先の成功を優先して,すぐ「魔法の本」にすがりつくような行動にでます。

 中学生なら,「教科書ガイド」に飛びつく,そういうのと同じです。

 退職した後も,現職中の課題に全く向き合おうともしない人間がいることは確かなことで,こういう「やり逃げ」体質,「卒業させてしまえば責任は果たせたと言えるのだ」という無責任体質は,永久に消えることがないかもしれません。

 そうやって考えていくと,大事なのは

 「最初のボタン」なのだ,ということになり,教員養成課程に目が向くのですが,

 最後にこんなことを申し上げて恐縮です・・・・「最初のボタン」は,自分自身が児童・生徒だったときにかけられる,その比重が非常に大きいというのが,私の実感です。

 こういうことが,公平性からするとあり得ないことなのですが,

 「何々先生に教わった人間だから,こういう授業ができるのだ。こういう授業ができる人に,教師になってほしい

 という考え方が生まれてくるのです。

 実際にコネで教師になる,というのは全く別次元の話ですが,

 こういう先生が,一人でも多く,大学でも生まれてきてくれることを望んでいます。

 大学の教師は,評価を厳格な基準に基づいてつける。

 そして,実際になった教員の実績をしっかりフォローして,どういう大学の教師が,いい加減な人間に高い評価をつけて卒業させてきたのかを,しっかり判断していく。

 一人の学生が教師になった後の責任を,大学側がしっかりフォローする。

 教員養成系の大学なら,ここまでやってくれてもいいのではないですかね。

 現場に立った卒業生が,後輩を育てる,そういう活動もできるでしょうし。

 
 匿名さんからのコメント(以下,斜体の部分),いつもありがとうございます。

****************

>私が一番疑問なのは、教師の養成課程である教育学部のカリキュラムが異常なほど少ないということです。

ほかの学部にいて、無理して教職の単位を取る学生と比べたらこの差は明らかで、所属する学部が理系の場合もっと極端です。

また、提出物なども教育学部は工学部と比べて極端に少ないのです。
教育学部という存在に疑問を持ちます。
医学部、薬学部、工学部、理学部で博士のひとのほうが、小学校教員免許を持っているひとより遙かに優秀で、説明する能力が高いのはなぜか、考えてみたら解ることですが、その差はすでに学生の時にどれだけ多くを学んで、解らない課題に向き合って解決し、それを他の人に伝えて残すということをやってきた人たちが博士なのです。

教員養成課程である教育学部、たとえ小学生が相手のことであっても十分な良識と教養が必要だと思います。

教養も良識もどちらも磨くすでをしらないまま一人前の教師として教壇に立つことになるというのが問題の根っこにあると容易に想像がつきます。

 教育学部の出身者は,「実際に教える教科の専門的な知識・技能に乏しい」という点が弱点です。

 どちらかというと,「技能」面を重視するタイプが多く,「絵に描いた餅」的な指導案をつくり,堂々とした態度で「失敗」の授業をやりきってしまう。

 教育学部出身でも,まだ「私は体育会で主将をつとめてきました」というような,机に座っているより外で大きな声を出し続けていたような人の方が,よほど現場で「即戦力」になる,という話は以前にも紹介したと思います。

 人にものを教える仕事のことをどんなに考えてみても,なかなか前には進まず,人がものを学ぶ,それを助ける仕事のことを考える,そういう発想が必要なのかもしれませんね。ただ,これを間違って小中学生にやってしまい,顕在化してしまったのが「学力低下」の問題でした。

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ノートではなく「写メモ」が新常識!?

 先日,バラエティ番組で,ある大学での実験結果が紹介されていました。

 講義を受けるときに,

 ノートをとるのを重視して学習する(比較的,一般的な)受け方と,

 話を聞くのに集中して,ノートはとらず,携帯やスマホで板書の写真をとる,という受け方をしたとき,

 どちらが内容をよく理解できるか,という調査が行われたそうです。

 結果は,ノートをとった方が,直後のペーパーテストで平均点が高かったそうですが,知識の面ではなく,思考をはたらかせる問題については,「写メモ」グループの方がよくできていた,というものだったそうです。

 つまり,短期的な記憶の面に限っては,ノートに書くことで,効率よく「覚えること」ができる。

 しかし,思考をはたらかせながらノートをとることができないと,因果関係などが実際には理解できないまま終わってしまう,そういう恐れがあることが,明らかになったと考えられます。

 「考えながらノートをとる」・・・・もっとも高度な学び方ですが,多くの人にとっては難しいことでしょう。

 そうすると,一般的な話として,一斉授業の場合は,基本的には対話に参加できるように,ノート(記録)をとることに気をとられず,プレゼン画面や教員の話に集中した方がよい,という傾向がある,ということになりますね。

 アメリカやイギリスの大学の話を聞くと,授業を受ける前にすでに「指定図書を読んでおき,基本的なことは理解した上で授業に参加する」というスタイルがあるようですが,日本では,何も知らない学生に対してもコンパクトに解説をしてあげて,その場で理解させるだけでなく,積極的に意見を言わせる,そういう学生側に負担の少ない授業というのが主流になっていくのでしょうか。

 いずれにしても,「本を読めばわかる」ような内容だけの授業なら,そこにいるのは時間の無駄,という考え方が優位になれば,友達がメールで送ってくれる「写メモ」と,友達からの解説があれば,授業中はバイトに励むことができる,そんな大学生活も送ることができるのでしょうか・・・。

 高校くらいまでだと,まだ少しピンとは来ない話ですが,私の授業では,板書をデジカメで撮って,それをプリントアウトしたものをノートに貼らせる,というケースは確かにありました。

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春の寝ぼけた一言 ~教師生命とは~

 私の現任校のある先生は,有名な戦国武将の直系の子孫で,社会科で歴史を教えている私の授業もときどき参観に来てくださいます。

 こういう方から言葉をかけてもらうと,

 「ああ,この人のためなら命を懸ける仕事をしてもいい」

 と思ってしまうところがあるのが,人間の強さでもあり,弱さでもあるかもしれませんね。

 私は,戦争の時代に生きてなくて,本当によかったと思ってしまいます。

 考えてみれば,戦国時代や戦争の時代の人の「命そのものの重さ」は本当に軽いものだった。
 
 しかし,「命より大事なもの」「命より重たいもの」があったのですね。

 「正義」とは,命にかえても守るべきものだった。

 残念ながら,上の人の語る「正義」こそが絶対的なものだと,後世では「判断力が・・・」などという評価を下される結果になるのですが。

 もちろん,警察官をはじめ,「正義」を守るために働いている人は今でもたくさんいらっしゃいます。

 ただ,「殉職」という記事を読むと,何ともやりきれない気持ちになる。

 今は,「命より重たいものはない」と言われるのが当然ですが,だから,他のものはみんな軽くなってしまったのか・・・とも感じられます。


 人は,信念をもってやっている仕事を認められると,その「信念」はより強固になっていきます。

 信念をもって「国歌」「国旗」を軽んじている人は,非難されることによって,その「信念」をより強固なものにしていきます。

 信念にも,いろんなものがあるものです。

 政治家は,「政治生命をかけて」という言葉を使いますが,

 失敗しても,失うのは「政治生命」であって,「命」ではない。

 そもそも,「政治生命」って何だろう,と考えてしまいます。

 政治家が,命にかえても守らなければならないものは何か。

 財務省の指示か。

 民意か。

 「政治生命」という言葉は「政治家」のためだけのものか。

 「経済生命」という言葉はどうしてないのか。

 「教師生命」という言葉はあるのか。

 人の命は必ず絶える日が来るわけですが,教育のために絶やしてはいけないものとは何か。

 政治家も,企業家もそうですが,競争相手がいる,ということは,自分にも周囲にもプラスにはたらきますよね。

 教師の場合は,競争相手がいる,なんてことになると,大反対する勢力がいる。

 政治家も,企業家も,教師の場合も,足を引っ張る人がいるというのは共通した特徴のようです。

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10年後以降の学校をどう機能させるか

 次のグラフをご覧ください。

 これは,公立小中学校の年齢別教員数(平成24年3月31日)を表したグラフです。

 人口ピラミッドとして見ると,将来的な人口減少が明らかな形をしていますが,教員数自体は,児童生徒数が減少していくわりに,学校の統廃合が進まず,学校数があまり大きく減っていないために,数を確保していかなければなりません

 児童生徒数の減少に合わせて,小規模校をなくしていく政策がしっかり取られるのであれば,急激に多数の教員を採用する必要はないのですが,学校統廃合には反対意見も多いため,今後,実際には採用数は増やさざるを得ません。

 つまり,第二次ベビーブームならぬ,第二次大量採用時代を迎えようとしているのです。

24033100

 これを,危機ととらえるのではなく,チャンスとしてとらえるべきなのですが,そこに「商売の論理」ではなく,「教育の理念」をもとにした論理で行動にうつせるかどうかが,将来の日本の教育を左右する重要なポイントになると考えられます。

 徹底的に教員になろうとする学生を鍛えぬく仕組み。

 これをどう組織化するか。

 安易な「合格優先主義」に流れないようにするために,

 「採用側」がどういう方策をとれるのか。

 免許を大量に出している,東京都が,全国に範を示すことができるかどうか。

 そこも課題です。

 平成21年度の都道府県別・小学校・教員免許状授与件数

 24033103

 平成21年度の都道府県別・中学校・教員免許状授与件数

 24033104

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dolceさんの新発言に感動!

 今回の一連の記事は,無駄ではなかったことがわかりました。

 不正は不正であることは,否定のしようがありません。

 ブラックジャックも,何人の命を救っても,警察につかまれば,それで終わり。

 不正がいけないことは,子どもに教えるまでもありません。

 「知っている」のです。

 しかし,子どもも「知っている」大事なことは,「この先生では困るなあという人がいる」ということです。

>教員採用試験に合格したのに、感心しない先生がいることは知っています

 この一言がdolceさんから表現されたことで,もう私としては満足です。

 本人が「当たり前だ」と思っていても,「当たり前だと思うが」と本人がことわった上で言葉にしてくれないと,信じてはいけませんよね。だから,とてもよかったことです。

 ここが出発点なのですからね。

 そうなれば,よりよい人物の採用の形を考えよう,という気になってくれる可能性が出てくるわけですから。

 docleさんの方からみれば,

 私が非合法のことをすすめているような表現をしたことが,うれしくて仕方がなかった。

 私がもし,

 よい人材を紹介してくれるコネをもつ教育委員会があったら,大助かりでしょう,なんてことを書けば,さらに有頂天になるでしょうね。

 こいつは,不正行為を認める「頭のおかしい」やつだ!なんて。

 わざわざたくさんの時間を費やし,だれでもわかっていることを手間をかけて記事にしてくれたのです。

 コネ採用ができないことは,だれに聞くまでもありません

 そして,だれに聞くまでもなく,コネ採用が全く行われていない,と断言することも,できません

 ですから,それがわかっている人,「世間知らず」ではない人には,

 「指導力のない教師より,コネで採用された指導力のある教師の方がまし

 という言葉の意味がわかるのです。

 一方のdolceさんは,やりたいことをなしとげて,存分に満足されたことでしょう。

 喜色に満ちた文章は,dolceさんらしさにあふれていますね。

****************
 
 余談ですが,かりにDという学生を育てていた人物が教員採用担当者と旧知の仲で,Dには何のことわりもなく,便宜をはかってくれるようにその採用担当者に頼んでいた。そのおかげで,Dは教員に採用され,30年以上,つとめることができた。高度な指導力を発揮し,多くの教師の力量も向上させ,子どもたちからも信頼され,尊敬されてきた。しかし,退職間際になって,自分が採用されるにいたった経緯を知った。自分と,採用担当者以外,知りません。

 さて,このとき,D先生は,どうすべきですか。

 dolceさんなら,こういう場合,やはり,自ら職を辞すことにするのでしょうね。

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dolceさんの解決不可能な疑問集 ~そこに「問い」は存在しない~

 dolceさんのようなタイプの人にとっての「疑問」とは,「問い」にはなっていないので,永遠に解決不可能な問題なのですね。

 もう,すでに解決されていると言ってもよいのでしょう。

 私の「頭がおかしい」わけですからね。

 なぜ,教師は世間知らずと言われるのか~実例

 という記事でも,汚職にあたる教員のコネ採用はいけないのだ,ということは私を含めてだれでもわかった上で話をしているのに,「教員の指導力の問題」については自分自身で何も考えようとはせず,こちらの記事も読まず,ただ「非難したい」,もっと直接的に言えば,「卑下したい」という一心でひたすら記事をつづっていく。

 「相手を馬鹿にする」気持ちの表れが,刺激的なタイトルの本の表紙の画像です。

 その本からの引用が示されているわけではない。

 虎の威を借りる何とかです。

 私の紹介の仕方もただ「頭のおかしい人」だし,私の文章も,引用の対象も明示していないので,誤解が増幅されるようにしかけている。

 これがdolceさんの正体です。

 現場の教員の苦悩の解決をテーマにしているように見せかけて,内実は・・・記事を読めば分かる通り。

 現場で起こっている問題を,「なかったこと」にはできない。

 しかし,dolceさんは,指導力不足教員の問題に全くと言っていいほど「正対」しようとしない。

 教師が「世間知らず」と言われるのは,こういう姿勢のどこが悪い,という態度を頑なに変えないことも原因の一つなのです。

 指導力に課題がある教員は,大量採用になると,50歳代だけでなく,20歳代でも増えていくことが容易に予想されています。

 そこで,繰り返し私も述べていますが,「コネ」の合法的・有効的活用を考えるべき,という主張を無視した非難をdocleさんは延々と繰り返しているわけです。

****

 記事に羅列されている「疑問」も,別に解消したいと思われている節は見当たらないのですが,「疑問」と聞くと,一応,お答えしなければならないと思うのが教師の性で,困ったものです。

 長くなると思いますが,お答えします。
 
 斜体は,dolceさんが引用した私の言葉太字は,dolceさんの疑問です。

 では,始めます。

******************* 

>もう一つは,学校現場は,本当に指導力のある教師を強く求めていること。

【疑問】
1.そのための採用試験じゃないのか?

 学校現場で指導力が発揮できるかどうかを,ペーパーテストと面接,短時間の模擬授業,指導案の作成で見抜こうと思っても,なかなか難しいのです。

 特に,授業は50分で形にするもので,短時間の模擬授業では,構成力,対応力を見抜くことができません。

 面接官=大人の前でははきはき答えられる人が,子どもの前で,おどおどしてしまう,こんなケースもあります。

 教師の指導力というのは,現場に立って,どんどん磨かれていくものです。

 しかし,経験を重ねていくうちに,情熱を失って,どんどん「投げやり」「いい加減」「手抜き」の指導が見られるようになる教員がいます。

 免許更新講習のように,10年に1回,勉強すればよい,というのも,いかにも間隔が開きすぎているような気もしますが,何もしないよりはまし,といったところでしょう。

********************

>このことから,極論ですが,コネがある=信頼できる人物のお墨付きがある人物で,そのことがあるいは合否に有利に働いて,採用試験に受かり,期待どおりに指導力を発揮する人物の方が,「ミスチョイス」した人物よりも子どものためにはなるだろう,という考え方が生まれているのです。

【疑問】
1.どこに、そんな疑問が生まれているのだ?

 「そんな疑問」が何を指すのか,よくわかりません。

********************

>「それはおかしいぞ」という意見があるのは当然,わかりますよ。
しかし,「採用試験を通っているのだから・・・」という言葉に何の説得力もないことは,教師はともかく,子どもを学校に通わせたことがある親なら,わかることでしょう。

【疑問】
1.そんな説得力のない採用試験をなぜやるのか?
2.「親ならわかる」って根拠はどこにあるのか?

 教員採用試験は,半分は,公務員試験なんですね。法律等に関する知識が絶対的に必要です。でも,教科に関する学習ばかりやっていると,ここがおろそかになり,合格できません。

 一方,法律等に関する知識ばかりを詰め込んだ人は,一般の公務員は務まるかもしれませんが,教員として「指導力を発揮してくれるかどうか」は,なかなかわからないのです。

 「親ならわかる」っていうのは,学級崩壊をはじめ,「指導力不足の教員」を学校で目の当たりにすることができる存在だからです。

 「採用試験を通過したすべての人が,信頼できる,指導力のある教師だ」とは言えないことは,
 
 実際に報道されている範囲だけの,

 教師による 交通事故・性犯罪・セクハラ・情報管理の甘さ

 等で 明らかです。

 小学校では,担任の「あたり」「はずれ」という呼び方があるのは大昔からでしょう。

 特に大量採用になっている東京都の小学校では,親は「心配」なのですね。

 実際に子どもが指導を受けてみて,子どもの成長を通して,教師の指導力のあるなしは判断されていくのです。

 私が実際に授業参観で目にした驚きの光景を紹介したいところですが,長くなるのでやめておきます。

********************

>現実問題として,教員採用試験で「教員として適切な仕事がこなせるとは考えにくい人」が合格しており,その見直しは「大量採用の時代」を迎えるにあたって,絶対に欠かせないことなのです。

【疑問】
1.「『教員として適切な仕事がこなせるとは考えにくい人』が合格しており」とは誰の判断なのか?
2.「見直し」とは誰の考えか?

 一番わかりやすいのは,指導力不足教員の決定ですね。まず,子どもが判断できます。親も,授業をみればわかります。校長も副校長も,同僚の教師も,わかります。教育委員会の人間もわかります。

 教員採用のあり方に関する見直しは,多くの教育委員会が取り組んでいます。調べればすぐにわかることです。

********************

>採用試験への合否を左右するものが何であるか,dolceさんはわかっていません。
それは,dolceさんが一番嫌っているものなのですね。

【疑問】
1.「わかっていません」の根拠は?(他人の頭の中がわかる超能力を持っているのか?)

 学力について述べたご自分のブログを読み返してみてください。

 わかっていないことというより,わかろうという気がない人には,難しい問題かもしれませんね。

********************

>要は,ペーパーテストができること,これでまずはじかれてしまう「優秀な人材」がたくさんいる。

【疑問】
1.それは如何なる根拠から言えるのか?

 学力について述べたご自分のブログを読み返してみてください。また,ご自身が書かれている今回のこの「疑問」の中にも,その答えは登場しています。

********************

>これは,とても多くの非常勤講師の先生に接してきた私は,はっきりと断言できます。

【疑問】
1.勝手に断言するのは勝手だが、あなたのその判断に「普遍性」があるのか?

 ペーパーテストではじかれてしまう「優秀な人材」がたくさんいることは,倍率が高い地域であればあるほど,その可能性が高くなるでしょうし,「優秀な人材」の定義次第で,「普遍的なこと」と言えなくもないでしょう。

********************

>「早く合格してほしいな」という人がたくさんいます。

【疑問】
1.それは、あなたの勝手な願望ではないのか?
2.合格して欲しいと思うのは、人によって判断が違うのではないか?
(あなたが合格して欲しいと思っても、他の人から見たら違うかも知れない)

 「勝手」かどうかは私ではなくdolceさんが判断すべきことで,私の願望であることは確かです。合格してほしいと思うのは,人によって判断が違うのではないか?・・・・という私を非難したい言葉で,dolceさんの本性が暴かれてしまうのですね

 これをご本人が気づけないのがdolceさんらしいところです。

 双方向からものが見えないと,dolceさんのような「失敗」を犯すことになるのです。

********************

>そして現場の学校内を見れば,「こんな人でも受かっているのに」という教員がいる。大量採用の時代の人がすべてとは言いません。

【疑問】
1.何ですか、この国語は?
こんなレベルで教員は務まるのですか?

 なつかしい攻め方ですね! やはり昔のままのdolceさんでした。

 大量採用の時代の教員は,デモシカとよばれ,評判が悪い,というのはdolceさんもご存じでしょう。

 指導力不足教員の多くがこの世代の教員です。

 倍率が低ければ低いほど,「本当は合格させたくない人」でも「合格させなければならない」という事情はおわかりになるでしょう。

 でも,「こんな人でも受かっているのに」と思われてしまう指導力不足の教員は,すべてが大量採用されたときの教員とは限らない,ということです。

********************

>教員採用のあり方,そして,現職教員の指導力不足の問題,これに対する多面的な解決方法として,現場でかなりの経験と実績を積んでいる人物,あるいは特定の分野で非常に大きな功績を残した人物などを,積極的に登用するような採用のあり方を,民間人登用と同じように進めてほしいという願いがあるのです。

【疑問】
1.そういう「願い」と「コネ採用」とどういう関係があるのですか?

 他の記事でご説明いたしました。

 信頼のある人物からの,具体的で信憑性の高い推薦文を考慮に入れる,なんて岩波書店のようなことをすれば,「プレ採用試験」のような動きになる・・・・あくまでも例ですが。

********************

>「仕事のできる人」であるかどうかは別として,

【疑問】
1.教員の採用は「教員としての仕事のできる人」を求めるのではないのか?

>私は「裏方」に甘んじている,力もあれば,情熱もある,そういう非常勤講師を知っているのです。

【疑問】
1.それと「コネ採用」とどういう関係があるのですか?

 もともとのdolceさんの記事のタイトルは,

 「仕事のできる人は裏方を知っている」だったのですね。

 ここでは,私から,「裏方」のような立場で活躍している非常勤講師の先生の話をしようとしたのです。

 私自身が「仕事のできる人」だから,と言うわけにはいかないので,「別として」という表現になったのです。 

 そもそも,dolceさんの記事は,タイトルと内容に関連性がありませんね。

 だから,どのような記事に対して私がコメントしているのかがわからないのです。


 ところで,優秀な非常勤講師の勤務先は,それこそ「コネ」が大きく物を言います。

 いい先生の情報を他の学校に流せば,とられてしまう,と危惧する学校は内緒にするし,余裕のある管理職は,他の学校から相談があったときに,「いい先生がいるよ」と紹介できる。

 こういうのも立派なコネですよね。

 これが,採用の条件の中にも含まれてしかり,という考え方は,実際に「1次試験免除」という形で現実のものになろうとしています。

 合法的なコネです。こういうのが広がっていけば,採用試験の信頼性が高まるかもしれませんね。

 ただ,コネがない人=自分を優秀だと認めてくれない管理職にしか出会わない,か,実際に優秀ではない人,は,採用で不利になります。

********************

>指導力があり、かつ教師としてふさわしい人が漏れてしまうような試験はおかしい。
>そんなおかしな試験をやっているのだろうか? といって,教員採用試験の内容も,倍率も,何もわかっていない人が,簡単に教師になれた時代ではないのです。

【疑問】
1.「何もわかっていない」という根拠は?
(他人の頭の中がわかる超能力があるのですか?)
2.また、それらのことと「コネ採用」と何の関係があるのですか?

 正確に言えば,「何もわかろうとしない」ということですかね。

 とにかく,採用試験は「指導力のある教師を採用するための試験だ」という原則論しか目に入らず,現実がわかっていない人には,理解不可能なことです。

********************

>ご自分がさんざん記してきた「テスト」についてのあれこれが,単に人を非難するためだけのものだったことが,こういう場面で露呈してしまうのですね。

【疑問】
1.「露呈してしまう」とは、具体的に何を指しているのか?
2.「テストについてのあれこれ」とは何のことか?
3.その「テストのあれこれ」と「人を非難すること」と、どのような因果関係があるのか?

 dolceさんご自身の記事を振り返ってみてください。

 dolceさんが得意のフレーズを使っているとき,ご自身の思考は完全に停止しています。

 相手をけなしているとき,それはご自身をけなしているのと同じことなのです。

 だから,ミラー現象と呼んで,何度もお知らせしているのに,「気づこう」という努力をなさらない。

 最新の記事でも,dolceさんの場合は,ご自分が「世間知らず」と思われてしまうようなことを書かれていますね。

 「世間」というのは,どれだけ,矛盾に満ちた場所なのか,それがわからない人間が「世間知らず」とよばれる面もあるです。

 ヤミ米に手を出さず餓死した人は立派とも言えるし,「世間」から見れば「変人」とも言えるのです。

 dolceさんは,「対等に話をする相手」を「相手の態度」によって選んでいますね。

 それが自覚をもった行動なのか,無自覚になされているのかはわかりません。

 言葉のどの部分をとって説明してみても,意図を隠す態度は見え見えです。

 ですから,その場所を示してみたところで,ご本人は白を切るしかないのでしょうね。

*******************

 長い時間,お付き合いいただいた皆様,お疲れ様でした。

 こういう電話対応が現実のものとしてあるのが,学校という現場です。

 そのお相手をするのは,多くの場合,副校長なのです。

 教育委員会では,指導主事です。

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「頭のおかしい人」より「純粋な」dolceさんへ

 dolceさんだけに限らず,コネをつかって採用試験に合格するなど,許されない!

 と思う人がいるのは当然のことですね。

 当たり前のことです。

 採用試験に合格したい,学生の側からすれば。
 
 繰り返しますが,この話は,

 「指導力のある教師が何としても学校には必要だ」と言いたいわけで,

 「免許をもっている薬剤師が調合する効かない薬より,無免許の田舎のおじさんがつくる効く薬草の方がほしい」

 というのと同じ話です。

 薬剤師に免許などいらない!

 無免許の人の営業活動を認めろ!

 などと言っているわけではありません。

 もっとくだけて言うなら,

 「ろくな教師を選べないなら,採用試験なんかやめて,信頼できる人間の紹介=コネだけで選んだ方がましだ!

 という話ですね。だから,極論と言っているのです。暴論でもいいですけど。

 コネの採用を推奨する?

 そうですね。本当に効果的なコネなら,岩波書店のように採用条件に加えてもいいのです。

 汚職を推奨する?

 こういう記事を書いた時点で,dolceさんの本性はバレバレです。

 私とdolceさんの記事の両方を読んでいただいている方々が,どのような印象をもたれるかは,教師ですからわかります。

 教室での生徒と生徒の会話として考えてみれば,わかりますね。

 Kさんは,Dさんのことを,Dさんとよんで,話をしている

 Dさんは,Kさんのことを,「頭のおかしい人」とよんでいる

 「頭のおかしい人」を「頭のおかしい人」とよんで,何が悪い,という態度でいる。

 こういう態度のDさんを相手に,Kさんは,語り続けることができる。

 Kさんは,どのような人か。KさんはDさんをどのような人と思って話をしているか。

 Dさんは,どのような人か。

 大切なのは内容なのですが,態度だけでも相当のことを語ってくれているのです。

 「世間知らず」という言葉のとらえ方自体が,Dさんらしさを語ってくれています。

 世間は教師のことを,どのように思っているのか。これだけでも,dolceさん自身が語っている言葉の中に,だれがどういう意味で「おかしい」のかが明白です。

 dolceさんは,指導力不足教員の実態を完全にスルーしている。

 なぜ,こうしているのかも,わかっている人にはわかっている。

 でも,それで話を打ち切ってしまっては,dolceさんもさびしい思いをするでしょうから,

 「コネ採用」について少し突っ込んでみましょう。


 採用試験そのものに,「優れた教師の卵を見抜く」絶対的な信頼性があれば,すべての教員は堂々としていられます。

 ただ,試験は,あくまでも試験なんですね。

 わかりやすく,架空の話で,事例を示してみましょう。

 優秀な学生を育てるという定評がある,Aという大学教授が担当しているBとCという学生がいて,同時に採用試験を受けたものとします。

 Bは,研究心が旺盛で,寝ても覚めても授業のことを考えている。

 一方のCは,知識はたくさんあるけど,人に対する思いやりの心とか,協調性がない。

 採用試験では,Cの方が1点差でBを上回った。

 その差があったおかげで,Cが教師になり,Bは非常勤講師として働くことになった。

 現場で授業が始まると,Cのクラスはすぐに学級崩壊。Bは,常勤の教師以上におもしろく,楽しく,わかる授業をして,子どもたちから信頼されている。

 Aという大学教授から見れば,「どうしてBを落としてCを合格させたんだ。教育委員会は全く見る目がない

 ということになります。

 これは実例ですが,何人かの副校長先生から,「この人(指導力不足教員)を合格させた採用試験は間違っている」と言われました。

 私は採用試験の問題をつくる担当者ではなかったですから,自分の経験を踏まえて,

 「面接担当官が事務方の素人で,だまされたんですかね」などと調子を合わせたことがありました。

 私自身,やりとりの内容から,「この人で大丈夫か?」と不安になった面接官がいました。

 こういう採用試験の仕組みが,「信頼できる推薦者の具体的記述を重視する」というものに変われば・・・・これを広く言えば,「コネがある人が有利になる」仕組みということになってしまうでしょう。

 そうなった場合,Cではなく,Bが採用されることになります。


 以前に,岩波書店が「縁故採用に限る」ことを公にしたときに,議論が沸き起こったことがありました。

 大臣まで動く騒ぎになったのですね。

 しかし,世の中のことをよくわかっている人は,その議論そのものに冷ややかな目を向けていました

 「採用の条件は平等に

 これは,採用される側から見れば,当たり前のことです。
 
 こういう原則は,教えてなくても,子どもたちはわかっています

 しかし,子どもたちには,社会の現実も教えなければならない

 採用する側からすると,ちょっと事情が違うということです。

 一般企業に限らず,「確かな人物であること」の裏付けが,どうしてもほしい,という場合もある。

 「採用試験だけでは測れないもの」があるということです。

 これも,当たり前の話ですね。

 面接では,「どんな運動部の顧問もすすんでつとめます!」と答えた学生が,

 採用された後,「早く帰りたいので,顧問はもちたくありません!」と拒否する教員になっても不思議はないのです。

 採用試験は「合格するため」に受けるわけですから,「こういう答えをしたら,合格しやすい」という「答え」を本心とは別に言えるのです。

 言っていることが,信用できる人間なのかどうか。これは,面接試験ではなかなか見抜けない。

 こういうことがあるから,社会では,実質的にコネによる採用が後を絶たないわけです。

 たとえば,毎年,たった1人しか採用枠がない会社の採用が,実質上,経営者とかなり深い関係がある人しか採用されていないのであれば,もうコネがすべてだ,と考えてよいでしょう。

 採用の基準を企業はすべて明らかにしているわけではないので,コネが必要な企業かどうか(コネが重要なはたらきを入社後ももっている企業かどうか)は,受ける人間の方で見極めなければならない,ということです。

 公立学校の教員採用についても,「コネ」がそれなりの役割をもっていたであろう状況は,理解しなければならないのです。もちろん,現金の授受とか,接待とか,そういうことは許されないですね。

 でも,「コネ」には,そういう行為を含まないものもあるのです。

 「不正があったかどうか」は,わからないのです。

 ペーパーテストの点を水増しすれば,すぐにばれますからだめですが,面接でB程度の答えにAをつける,なんてことをやられれば,「不正」は見破れません。

 採用の基準・具体的な点数とその根拠の詳細がオープンにされない限りは,不正があったかどうかの判断を第三者が下すことができないでしょう。

 あまりに詳細をオープンにしすぎると,その方法自体に批判が出されるかもしれませんし,得点の付け方に対する疑義も大量に寄せられるようになるでしょう。また,合格するための近道を簡単に研究されてしまいます。

 こういった問題は,原則だけで「だめなものはだめ」と決めつけるのではなく,現実の採用のされ方を踏まえた上で,しっかりと議論をすることが大切なのです。

 「組合のお墨付きがないと管理職になれない」とかいうとんでもない話は,あえてふれません。

 気分が悪くなるだけです。

 しかし,「治療」が必要な,「原則」しか頭の中にない人は,放っておけません。

 「原則」で思考停止するタイプの人を相手にするのが,学校でいかに大変か,そのサンプルを余すところなくdolceさんが示してくれています

 これは,本当に宝物です。

 ここまで徹底した人はいませんからね。

 そして,こういう人は,無敵です。

 相手にするのは時間の無駄,と考える人は,だれもその前に立ちはだかることはしないでしょう

 褒め殺しで対抗している人もいますが,梯子をはずす勇気を持てないのが普通です。

 そうやって,学校には「無敵の教師」が蔓延していくのです。

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教師が「指導力がない」とよばれるとき

 たとえば,ある学校に赴任した教師が,吹奏楽部の顧問になったとき,歴代の顧問の時代はすべてコンクールで金賞をとったのに,自分のときだけ,金賞はおろか,何もとれなかった。そして,自分の次からの顧問は,またみんなコンクールで金賞をとった。

 こういうとき,賞を逃した顧問が,「指導力のない教師」というレッテルが貼られやすいのは,よくわかりますね。

 やはり,弁解もしたくなるでしょう。

 生徒や審査員に,批判の矛先が向かうのも当然のことかもしれません。

 自分の「指導力のなさ」に自覚がない場合は

 ただ,私が述べている「指導力のなさ」は,こういうレベルの話とは限りません

 指導力のある・なしは,簡単に言えば,学習指導要領が示す目標を,子どもがどれだけ実現できているか,その状況から判断されるもの,ということができます。

 小学校で同程度の能力がある複数のクラスでは,どうしても指導力の差が見えやすくなってしまいますね。

 同程度の能力があるクラスで,一方が平均点60点,もう一方が80点なら,何か課題があるはずです。

 そして,学級崩壊を起こされたら,もうたいへんです。

 こういう状況で,「指導力がない」とよばれるのは,「相対評価」によるものから,「絶対評価」と言えるものまで,さまざまですね。

 私の場合は,もう少し高度な指導力のレベルを目指していますから,「逆コンピテンシー」という形で紹介しているのです。

 これは「絶対評価」です。

 導入・発問・具体的な学習活動(話し合い活動など)・板書・まとめ・教材・テスト・生徒による振り返り・・・などなど,学習指導だけをとっても,かなり多くの観点があります。

 学習指導の力は,たいてい,教材の使い方と,テスト問題で判断できます。

 目標の立て方を変えるだけで,「指導力がある」レベルもかなり変わってきます。

 「関心をより高める」という目標を設定したら,もし現実として関心が高まっていなかったら,「指導力がない」という結果になるわけですね。

 「指導力がある」「指導力がない

 というとらえ方には,「絶対的なものはない」ということです。

 そんな中で,どんな人からもわかりやすいのは,

 「子どもの声が届かない

 「授業がわからない

 などという評判が立つような,教師の「指導力」です。

 「私は,まだ十分な指導力を身につけていない

 教師本人からは,そういう正直で誠実な声を発してもらいたいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より