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「頭のおかしい人」より「純粋な」dolceさんへ

 dolceさんだけに限らず,コネをつかって採用試験に合格するなど,許されない!

 と思う人がいるのは当然のことですね。

 当たり前のことです。

 採用試験に合格したい,学生の側からすれば。
 
 繰り返しますが,この話は,

 「指導力のある教師が何としても学校には必要だ」と言いたいわけで,

 「免許をもっている薬剤師が調合する効かない薬より,無免許の田舎のおじさんがつくる効く薬草の方がほしい」

 というのと同じ話です。

 薬剤師に免許などいらない!

 無免許の人の営業活動を認めろ!

 などと言っているわけではありません。

 もっとくだけて言うなら,

 「ろくな教師を選べないなら,採用試験なんかやめて,信頼できる人間の紹介=コネだけで選んだ方がましだ!

 という話ですね。だから,極論と言っているのです。暴論でもいいですけど。

 コネの採用を推奨する?

 そうですね。本当に効果的なコネなら,岩波書店のように採用条件に加えてもいいのです。

 汚職を推奨する?

 こういう記事を書いた時点で,dolceさんの本性はバレバレです。

 私とdolceさんの記事の両方を読んでいただいている方々が,どのような印象をもたれるかは,教師ですからわかります。

 教室での生徒と生徒の会話として考えてみれば,わかりますね。

 Kさんは,Dさんのことを,Dさんとよんで,話をしている

 Dさんは,Kさんのことを,「頭のおかしい人」とよんでいる

 「頭のおかしい人」を「頭のおかしい人」とよんで,何が悪い,という態度でいる。

 こういう態度のDさんを相手に,Kさんは,語り続けることができる。

 Kさんは,どのような人か。KさんはDさんをどのような人と思って話をしているか。

 Dさんは,どのような人か。

 大切なのは内容なのですが,態度だけでも相当のことを語ってくれているのです。

 「世間知らず」という言葉のとらえ方自体が,Dさんらしさを語ってくれています。

 世間は教師のことを,どのように思っているのか。これだけでも,dolceさん自身が語っている言葉の中に,だれがどういう意味で「おかしい」のかが明白です。

 dolceさんは,指導力不足教員の実態を完全にスルーしている。

 なぜ,こうしているのかも,わかっている人にはわかっている。

 でも,それで話を打ち切ってしまっては,dolceさんもさびしい思いをするでしょうから,

 「コネ採用」について少し突っ込んでみましょう。


 採用試験そのものに,「優れた教師の卵を見抜く」絶対的な信頼性があれば,すべての教員は堂々としていられます。

 ただ,試験は,あくまでも試験なんですね。

 わかりやすく,架空の話で,事例を示してみましょう。

 優秀な学生を育てるという定評がある,Aという大学教授が担当しているBとCという学生がいて,同時に採用試験を受けたものとします。

 Bは,研究心が旺盛で,寝ても覚めても授業のことを考えている。

 一方のCは,知識はたくさんあるけど,人に対する思いやりの心とか,協調性がない。

 採用試験では,Cの方が1点差でBを上回った。

 その差があったおかげで,Cが教師になり,Bは非常勤講師として働くことになった。

 現場で授業が始まると,Cのクラスはすぐに学級崩壊。Bは,常勤の教師以上におもしろく,楽しく,わかる授業をして,子どもたちから信頼されている。

 Aという大学教授から見れば,「どうしてBを落としてCを合格させたんだ。教育委員会は全く見る目がない

 ということになります。

 これは実例ですが,何人かの副校長先生から,「この人(指導力不足教員)を合格させた採用試験は間違っている」と言われました。

 私は採用試験の問題をつくる担当者ではなかったですから,自分の経験を踏まえて,

 「面接担当官が事務方の素人で,だまされたんですかね」などと調子を合わせたことがありました。

 私自身,やりとりの内容から,「この人で大丈夫か?」と不安になった面接官がいました。

 こういう採用試験の仕組みが,「信頼できる推薦者の具体的記述を重視する」というものに変われば・・・・これを広く言えば,「コネがある人が有利になる」仕組みということになってしまうでしょう。

 そうなった場合,Cではなく,Bが採用されることになります。


 以前に,岩波書店が「縁故採用に限る」ことを公にしたときに,議論が沸き起こったことがありました。

 大臣まで動く騒ぎになったのですね。

 しかし,世の中のことをよくわかっている人は,その議論そのものに冷ややかな目を向けていました

 「採用の条件は平等に

 これは,採用される側から見れば,当たり前のことです。
 
 こういう原則は,教えてなくても,子どもたちはわかっています

 しかし,子どもたちには,社会の現実も教えなければならない

 採用する側からすると,ちょっと事情が違うということです。

 一般企業に限らず,「確かな人物であること」の裏付けが,どうしてもほしい,という場合もある。

 「採用試験だけでは測れないもの」があるということです。

 これも,当たり前の話ですね。

 面接では,「どんな運動部の顧問もすすんでつとめます!」と答えた学生が,

 採用された後,「早く帰りたいので,顧問はもちたくありません!」と拒否する教員になっても不思議はないのです。

 採用試験は「合格するため」に受けるわけですから,「こういう答えをしたら,合格しやすい」という「答え」を本心とは別に言えるのです。

 言っていることが,信用できる人間なのかどうか。これは,面接試験ではなかなか見抜けない。

 こういうことがあるから,社会では,実質的にコネによる採用が後を絶たないわけです。

 たとえば,毎年,たった1人しか採用枠がない会社の採用が,実質上,経営者とかなり深い関係がある人しか採用されていないのであれば,もうコネがすべてだ,と考えてよいでしょう。

 採用の基準を企業はすべて明らかにしているわけではないので,コネが必要な企業かどうか(コネが重要なはたらきを入社後ももっている企業かどうか)は,受ける人間の方で見極めなければならない,ということです。

 公立学校の教員採用についても,「コネ」がそれなりの役割をもっていたであろう状況は,理解しなければならないのです。もちろん,現金の授受とか,接待とか,そういうことは許されないですね。

 でも,「コネ」には,そういう行為を含まないものもあるのです。

 「不正があったかどうか」は,わからないのです。

 ペーパーテストの点を水増しすれば,すぐにばれますからだめですが,面接でB程度の答えにAをつける,なんてことをやられれば,「不正」は見破れません。

 採用の基準・具体的な点数とその根拠の詳細がオープンにされない限りは,不正があったかどうかの判断を第三者が下すことができないでしょう。

 あまりに詳細をオープンにしすぎると,その方法自体に批判が出されるかもしれませんし,得点の付け方に対する疑義も大量に寄せられるようになるでしょう。また,合格するための近道を簡単に研究されてしまいます。

 こういった問題は,原則だけで「だめなものはだめ」と決めつけるのではなく,現実の採用のされ方を踏まえた上で,しっかりと議論をすることが大切なのです。

 「組合のお墨付きがないと管理職になれない」とかいうとんでもない話は,あえてふれません。

 気分が悪くなるだけです。

 しかし,「治療」が必要な,「原則」しか頭の中にない人は,放っておけません。

 「原則」で思考停止するタイプの人を相手にするのが,学校でいかに大変か,そのサンプルを余すところなくdolceさんが示してくれています

 これは,本当に宝物です。

 ここまで徹底した人はいませんからね。

 そして,こういう人は,無敵です。

 相手にするのは時間の無駄,と考える人は,だれもその前に立ちはだかることはしないでしょう

 褒め殺しで対抗している人もいますが,梯子をはずす勇気を持てないのが普通です。

 そうやって,学校には「無敵の教師」が蔓延していくのです。

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コメント

Fumi in Dubais様,コメントありがとうございます。

いろいろな体験を積まれているようで,うらやましいですね。

伝統を背負うと,こういうところでしか思うところを述べられないので,本当に限られた「世間」の中で生きているのを悲しく思うこともあります。

詳しくは(制度上の詳細は)知らないのですが,授業でよい実績を上げている非常勤講師の方は,採用が有利になるのは,学校にとっても本人にとっても子どもにとってもいい仕組みですね。

コネというと,親戚関係とか,金銭のことしか頭に浮かばない人もいるようですが,要は「よりよい人物保障」の仕組みづくりは大切なことでしょう。

どこかのブログで,企業の内定がとれないで苦しんでいる学生が,親から「安定した公務員を」「金を出してあげるから公務員試験受けろ」とかさんざん言われているうちに,本当に「公務員も悪くないかな」なんて思うようになった,そんな記事を読みました。

「志」がつながる仕組みづくりについて,知恵をめぐらしていきたいものです。

はじめまして、こんにちは。
興味深く記事を読ませていただきました。というのも、「コネ」というのはアメリカ社会ではとても大切だからです。
僕はアメリカで教員免許を取得し、アメリカで1年、そのあと海外で5年教えていますが、就職活動では、絶対的に「推薦状」が必要となります。アメリカで働いた時は、教育実習でお世話になった学校でそのまま採用。次の学校に行く時も、推薦状を校長等からもらい、面接の末、採用。現任校も同じ、そして、8月から勤務する学校も、推薦状と面接で採用が決まりました。
もちろん「コネ」といっても、お金とかが含まれるものではなく、純粋に「この先生はうちの学校にとって、プラスだったかどうか」ということを基準に推薦するのですが、そこには、教員採用のシステムそのものが違うから、というのも含まれると思います。アメリカの学校やインター、アメスクには採用試験がありません。採用は、ビジネス企業が行う、ジョブフェアーで決まるので、教師としての人を見るために、面接や推薦状を重視しているのです。従って、勤務している学校での素行が悪ければ、もちろん雇ってくれる学校は無くなりますし、勤務校もクビになる、ということもあり得ます。
日本のシステムをどう変えるか、ということは、日本の教育の現場にいないのでわかりませんが、少なくとも、アメリカでは「コネ採用」は悪い目では見られません。(例外はもちろんありますけど)。
長くなってしまいました。すみません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
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    「楽毅」第1巻より
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    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より