ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« dolceさんの「見える」妄想=ミラーに映る自分に気づけない部分 | トップページ | dolceさんに「見えない」もの=文章で表現されている「自分の姿」 »

dolceさんの「見えない」もの=ミラーに映らない「理解していない」部分

 「ミラーに映るものはない」というのは,「見事な誤解」や「曲解」をしていたり,「理解不足」であるということ。

 そもそもの実体がないので,映っていないというだけのこと,と呼ぶこともできます。

 「理解していない」ということだけが映し出されていると言ってもいいのですが。

*********** 

 (ペーパーテストを行うと「優秀な人材がはじかれてしまう」という)言葉の意味は,ペーパーテストはdolceさんの記事の説明によると,「記憶力のテスト」であり,「記憶力が優秀な人材」は選べる[1]けれど,ペーパーテストでは測ることができない(とdolceさんが考えている)[2],教師にとって欠かせない優れた資質や能力をもっている人材が,記憶力が必要なペーパーテストでよい結果が出せず,はじかれてしまう[3],という意味です。

 dolceさんの誤解その1

 「ペーパーテストは記憶力のテストである

 わざわざ紹介していただいた,たくさんの記事を読み返してみると,上の[1]は納得できる,とおっしゃるとおり,この誤解は確かなものであることがわかります。

 ペーパーテストでは,記憶力しか測定できないのでしょうか?

(追記) dolceさんは,次のように定義していますね。

>ペーパーテストと言う場合、一般に「ペーパーを使うテスト全ての総称」ではなく、試験範囲が決まっていて、その範囲だけ暗記すればよいというテストを指します。
 
 自分の都合の良いように解釈をせばめたつもりなのでしょうが,そのようなレベルのテストを想定してしまっていること自体が,非常に古いタイプの「学力観」しかもっていないことの証明をしてしまっている。無知を暴露してしまっているのですね。dolceさんの記事を読むことで,それがよくわかるのです。

 国立大学の二次試験をご覧になったことがありますか?

 私が出題した定期考査問題を例にとると,生徒が初めて目にする室町時代の地図を見せて,「この地図は何のためにつくられたものか」とペーパーテストで問うた場合,これが「記憶力」だけで正解を表現することができると思われますか?

 授業で学習した時代区分以外に,問題用紙に示された資料をいくつか活用して,自分なりの時代区分をつくってみよう。そして,それぞれの時代の特色を簡単に述べてみよう。・・・・という問題は「記憶力」を問うものですか?

 教科書の全文を記憶しておけば,国立大学の二次試験は満点がとれますか?

 学力観が乏しいし,その上,評価に関する知識も乏しいのですね。

 dolceさんの誤解その2

 「教師にとって欠かせない優れた資質や能力をもっている人材が,記憶力が必要なペーパーテストでよい結果が出せず,はじかれてしまう[3]」と思っていないこと

  その証拠: [3]そんなことがどうして言えるんでしょう。私はそんなことを思っていません。 


  
 >ペーパーテストでは測ることができない(とdolceさんが考えている)[2]

 という部分は,「教師にとって欠かせない優れた資質や能力」を修飾する内容です。

 教師にとって欠かせない資質や能力のうち,たとえば,公正な判断力は,ペーパーテストでは測ることはできませんか。

 いくつかの資料の中から,自分の主張したいことの根拠になるものを選び出し,それらの違いや共通点をわかりやすい言葉で説明する能力・・・・これは,ペーパーテストでは測っていないのでしょうか?

 ここから先がちょっとわかりにくいかもしれませんが,

 精度の課題はあっても,全く測れないわけではない

 それなのに,実際には,測られていない

 だから,私の結論・・・・ペーパーテストではじかれてしまう「優秀な人材」がたくさんいる・・・・となるのです。

(追記) もう少し,言葉が必要なようですね。

 dolceさんは,記憶力中心のテストをどうやらプラスに評価しているらしい。

 これが,「古い学力観」をもつ人たちの代表的な姿です。

 その先のdolceさんは,思考停止です。
 
 分かりやすく言えば,思考回路が「ショート」しているわけですね。

 記憶力に大きく左右されるような試験では,「記憶力が優秀な人間」は選べるかもしれませんが,教師として欠かせない資質・能力をもった人間が選べていないのではないか,だからこそ,現状のような問題が起こっているのではないか,というのが私の考えなわけで,「ショート」している思考の結果は,ペーパーテストでは選ばず,指導力のある人からの推薦で選ぶべきだ,というのも逆の意味の極論なわけで,改善方法はすでに別のところで述べています。

 dolceさんは,学力観と評価観で多重苦に陥っているということの自覚がないのです。

 ここまで書けば,気づいていただけるものと・・・・普通の人は思われるでしょうが・・・・。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 経営ブログ 仕事術へ

« dolceさんの「見える」妄想=ミラーに映る自分に気づけない部分 | トップページ | dolceさんに「見えない」もの=文章で表現されている「自分の姿」 »

ブログネタ」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/54417496

この記事へのトラックバック一覧です: dolceさんの「見えない」もの=ミラーに映らない「理解していない」部分:

« dolceさんの「見える」妄想=ミラーに映る自分に気づけない部分 | トップページ | dolceさんに「見えない」もの=文章で表現されている「自分の姿」 »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より