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dolceさんが紹介してくれた中学校教師の「ひどい一言」

 dolceさんは「思い出の夏~また夏がやってくる」という記事の中で,ご自分の勤務していた小学校の良さをPRするために,こんなことを紹介されています。

>教師と児童との取り組みは、当然のように効果に反映した。

>それは、子どもが卒業して中学校へ行くと、小学校で培ったパワーが中学校に相当な影響を与えたことでわかった。

>しばしば、中学校の先生から話があった。

>例えば、授業中に「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」ということがあったという。
>それは、あまりにも早く出来てしまうので、待たせることがあったという。

 小学校の教師の感覚というのは,こういう「中学校の先生からの話」は,

 「うれしいこと」になるのですね。

 しかし,中学校の教師は,ふつう,

 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね

 などという指示は出しません。

 出身小学校で子どもをくくり,区別する,ということはしません。

 これは,小中連携をしっかりやってきた中学校の教師ほど,気をつけていることです。

 「課題ができた子は,待っててね」でよいのです。それが,全員,特定の小学校出身者であっても,子どもが知るべき情報ではないのです。

 万が一,ほかの小学校が「崩壊学校」であったとしたら,

 中学校の教師によって,私たちは「差別される」という強烈な印象を与えられることでしょう。

 学校間格差を子どもに直接的に伝えるような行為を中学校の教師が「当たり前のように」「空気のように自然に」しているのであったら,小中連携のあり方は失敗に終わっているとしか考えられない一言です。

 そもそも,特定の小学校の出身者だけが,「あまりにも早く出来る」課題とは何のことをさしているのでしょう?

 それは,その小学校の出身者だけがもつ,特定の能力を,その他の小学校の出身者に対して認識させるための課題なのでしょうか?

 中学生というのは,教師の一言にとても敏感に反応する子どもたちなのです。

 そういう子ども理解がないことを象徴的に示す言葉が,

 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね

 という言葉です。

 この言葉は,dolceさんが中学校の教師から聞いたという話だそうですから,

 事実としてそういうことがあったというわけではなく,

 そういう話を聞いたらdolceさんという小学校教師は喜ぶのだと想像した教師が,

 dolceさんを喜ばせるために話した「つくり話」であると信じたい気持ちでいっぱいです。

 「教育に情熱をかける教師」が,思わずもらしてしまいそうな,しかし,あまり語ってほしくない言葉。

 それが,中学校における,

 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね

 の一言です。

 独善的な美談は,読んでも何の参考にもなりません。

 残念なことに,私の,このタイトルのブログには,最適の話なのですが。

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コメント

少し話題がそれてしまうのですが
http://2log.jp/newsplus/1333494278
↑このリンクの記事、いまの公立学校の70%ぐらいの実態では無いかと思えるのです。

いろんな既成事実を成果と偽り、足固めをしてゆくそういう実態があると思います。

 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」

これはやはり武勇伝を語り尽くそうとしたゆがみのような事だといえるでしょう。
なかなか出来ないで手こずっている子がいたら、何人か見回って、どこで行き詰まっているのか分析して、皆に解説するのが本来の姿です。

また、出身校で違うなら出来ない子はどこが欠落しているのか比較的簡単に解ることです。授業であらかじめそういう点をカバーしておくのが公正なやり方です。

まずい点があってもそれをあたかも成果であるがごとく偽装するというのは人としてどうなのかとさえ思います。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より