ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« dolceさんの「見えない」もの=ミラーに映らない「理解していない」部分 | トップページ | dolceさんはご自分の姿をブログに載せられる人ですが・・・ »

dolceさんに「見えない」もの=文章で表現されている「自分の姿」

 dolceさんが書かれた文章をお読みになるだけで,「普通の人」にはおわかりになるでしょう。

*************

>>(私の文)だから,ミラー現象と呼んで,何度もお知らせしているのに,「気づこう」という努力をなさらない。

>この文の作者(私のこと)は「ミラー現象」という状態を認識しているからこそ、こう書いているものと判断できる。

>つまり「鏡に同じものが映っている」と言っているわけだ。

>それで、私はそんなわけはないと思ったので「あなたが映っているものは何なのか、確認のために言ってください」という旨のことを書いた。

>そうしたら、その返事であろうと思われる文章があった。次の文である。

>>(私の文)ミラーに映るものがない,というのが正解

>これには驚いた。と同時に「大丈夫か?」という思いがした。

*************

 「そんなわけはないと思った」と書かれていることで,「気づこう」という努力をなさらない,という私の指摘通りであることが証明されています。

 「ミラーに映るものがない」というのは,dolceさんご本人のことを指していることに「気づこうとしない」ことを意味しています。

 dolceさんは,結局,自分で自分の状態を言ってしまっているのに,そのことに「気づこうとしない」

 人のことを批判しているつもりでも,実は自分のことを批判していること

 これが,「ミラー現象」であるという言葉の意味を「理解しようとしない」

****************

>認知症が進むと、先に挙げたように、実際にはいない人が見えたりするらしい。

>麻薬中毒者、アルコール中毒者、統合失調症の患者にもみられるらしい。

>この人(私のことです)が、何かそういう病気の患者かどうか私にはわからないが、実際にはないもの(ミラーに映るものがない)のにミラー現象を認識するというのは「もしかしたら」という思いがしてしまう

*************

 実際にあるものが,見えていない。

 ご自分の本当の姿が,見えていない。

 鏡の存在に気づいていない。

 いろいろな言い方ができます。

 実際にはないこと(dolceさんのよく使う言葉だと妄想)を書いているdolceだからこそ,「ミラー現象」と呼ばれることに,気づけないご自分の状態に,気づいて下さい,というのが,私が繰り返しているメッセージです。

 それができるようになるだけで,今までの「負債」は帳消しになるのですが。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 経営ブログ 仕事術へ

« dolceさんの「見えない」もの=ミラーに映らない「理解していない」部分 | トップページ | dolceさんはご自分の姿をブログに載せられる人ですが・・・ »

ブログネタ」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

コメント

自分のことがわかっている教師が本当に恐れているものは,「完全な本音で書かれる教師の評価」です。

しかし,日本にはそれを書かないことが美徳とされている国です。

道徳が教師にとって都合のよい使われ方をしている一面でしょう。

内田樹は,それで何が悪い,という立場の元教師です。

テスト=暗記力と決めつける人は本当に大学教育を受けたのでしょうか?
暗記する力はたしかに必要だけれどそれ以外の要素を考えないのでしょうか。

心理テストはウソでしたという本の中で適性検査といわれる、「内田クレッペリン検査」が教員採用対策ゼミでどのように解説しているかという話題、おもしろいです。

私が一番採用試験について疑問なのは、教育者の資質と関係ない試験が天下の王道のごとく使われ、採用されたら選ばれし者として武勇伝のごとく、、、

コネにしろペーパーにしろ面接にしろ、教師の資質と関係ないことで採用を決めるということ、そこが間違っているといえると思います。あたり、はずれの確率は母集団のあたり、はずれの率と大差ないのでは無いかと思えるのですがむしろ最近はずれの率が優位に高いのでは無いかと思えるのです。

新任の時はあたりもはずれも多分解りません、はずれの人を増やしているのが反日労組の存在だと思っています。教師は労働者だ!といって自分を磨くことをしない人、そういう人の集団が労組であり特に公務員である教師にこの労組(教組)が多いということですね。

また、自治体によって違いますが校長などの管理職になるには教組の推薦が必須といういかれた自治体もありますね。

反日運動なんてやる暇があったら自分を磨く事を優先するのが表に見えない裏で支える教師の資質だと思います。自分を磨く事を心得た人は子供から尊敬される先生になれます。

授業で反日自虐授業なんてやっている人は、卒業したらやっとこの馬鹿と縁が切れたと思って卒業するわけです。それを感じなくとも大学生になったとき、就職のとき、てぬき授業への怒りがこみ上げてきたりします。なんて無駄な時間をあの先生のせいでつぶされた、と。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/54417597

この記事へのトラックバック一覧です: dolceさんに「見えない」もの=文章で表現されている「自分の姿」:

« dolceさんの「見えない」もの=ミラーに映らない「理解していない」部分 | トップページ | dolceさんはご自分の姿をブログに載せられる人ですが・・・ »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より