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dolceさん流のネガティブキャンペーンに応えて

 Aさんが正しいと思っていることが,Bさんから見ると,正しいようには見えない。

 だから,Bさんは,それは正しくない,とAさんに向けて表現する。

 こういう文化が日本的でないということは,小学校の教師なら支持するでしょうか。
 
 Bさんは愚痴や嫌味を言っているわけではなく,自分の考えを表現したまでなのです。

 これを嫌味と受け取るは,あくまでもAさんの側の事情なのですね。

 相互不理解。簡単に言えば,そういうことです。

 dolceさんは,高コンテキスト社会では生きてこなかった方のようで,文字化されたものだけをごらんになっています。

 高コンテキスト社会の側からdolceさんのブログを読むと,

 「こんな本ばかり読んでいる人だから,よほど人間関係のことで苦労してきたんだなあ

 と想像されてしまうわけです。特にそのことを気にかける様子がないのが,逆に気にかかってしまう人なのですね。


 小学校では,「それは間違っている」というような語法がないのが,私の経験上,肌感覚で理解できました。

 それを面と向かって話す文化はないのですが,陰口をたたく文化は,立派にある。

 職員室の「魔の会話」

 これこそが純日本風の「ムラ社会的職場環境」です。

 これが私の最も嫌うところでした。

そして,小学校教師の中には,こういう職場環境への不満が我慢の限界にきている人も,少なくないはずだ・・・・・というのが,私がこういう記事を「嫌味」としてではなく「警句」として書いている理由でもあります。

私が,小学校の内部になぜ詳しいか。

 ただ,子どもから耳にしたこと,ばかりが情報源ではありません。

 家内が小学校の教師だから?・・・違います。職業は違うけど,情報を知り得る立場ではありますが。

 私の父が,PTAなどの仕事をしながら,校長の言うことを聞かない教師たちの懐柔役で,小さい時から

 「教師だけにはなるな」と言われてきたこと,内部の話を聞かされてきたこと? いえいえ。

 教育長や校長たちの愚痴をたくさん聞いていたから? 違います。

 では,どうして・・?

 一番大きかったのは,初任者の指導を通して,一年間,学校を見てきたからでしょうね。

 あとは,初任者研修で,小学校の教師と一緒に研修ができたからでしょう。

 それはまた別の機会に。


 dolceさんは,人を名指しで批判することがありません。

 これが,小学校流の礼儀なのでしょう。

 しかし,だれがその相手なのかは明白です。

 コメント欄には「心理的近親者」しかいないわけですから。

 陰口の仕方そのものが,その人らしさを全面的に明らかにしている・・・・・人を非難する行為そのものが,自分が非難される結果に結びついている。これが,ミラー現象です。

 もっと,堂々と反論すればよいのに。

 
 中学校にある「面と向かって批判する」文化は,小学校からは「野蛮」に思えるでしょうね。

 中学校に実際にいたひどい先生は,生徒の前で別の先生の問題点を指摘していました。

 民間人から教員になった人なので,抵抗感がなかったのかもしれません。

 子どもはおもしろがって聞いていたようです。

 中学生にもなると,わざわざ先生から教えてもらわなくても,だれがどんな問題を抱えているのかは「文字化」はできなくても,「感覚」で理解しています。「文字化」できる生徒も,当然,表現しないのがマナーです。

 批判された生徒が,どこからか聞きつけて,「全面戦争」になることもありますが,それが,なぜか「いい方向」「いい意味」での競い合いに発展していく可能性もある。

 どちらのグループ,派閥に属するか,という選択をせまられることもある。

 なかなか,神経を使う職場です。

 だからこそ,鍛えられる。

 教育論議がさかんにできる中学校は,今,どのくらいあるでしょうか。

 話がそれました。

 中学校には,どうしようもない人がいる分,バランスがとれている。

 しかし,小学校では,どうしようもない人がいると,それだけで救われない子どもたちがいることになる。

 小学校は,とても厳しい職場です。

 だから,職場内では,厳しさが忘れられるような話題だけが好まれ,やがて,「裸の王様」になっていく。

 ミラー現象という語法は高コンテキスト文化に支えられたものなので,これからはもう少しやさしめの,「相互不干渉原則に基づく学級王国の,「裸の王様」たち,と表現することにしましょうか・・・・。

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コメント

改善の見込みのないものが世の中にあることを,子どもに知らせるというのも教育の役割かもしれません。
公教育の役割の問い直しが始まるとき,既得権を手放したくない人たちが猛烈な反抗をすることも目に見えていますが,子どもをだきこんでそういう動きをすることだけは阻止しなければなりません。
組合に入らない若い人たちが,自分なりによい情報源をもって,しっかり勉強してくれることを望みます。

もっともな意見だと思います。

職場を厳しいと受け止め、反省や改善に結びつける人と全くそうで無いひとも、見て見ぬ振りの人いろいろだと思います。

組織が大きくて安定している(公務員、大企業)ということ、と仕事に対する意欲や熱意は反比例するように思えて成りません。

また、仕事に対する結果の評価が難しい場合(小学校)、手抜きは途方も無く増える傾向があり、労組を始めとして、この手抜き行為を正当化するための理屈をこねてはさらなる手抜き、子供が卒業して就職するとき初めてその手抜きを実感し、挫折に導くのです。

手抜き教育を回避する唯一の手段は現在では、塾にゆだねられており、公的な初等教育だけしか受けられずに成人すると、大変なハンディを背負うことになります。
小学校での体験学習が単なる企業への丸投げであり、受け入れ企業への交渉こそすれど、そこから先は全く関知しない、何かやったという既成事実を作るだけの授業になってしまっています。

この既成事実だけに執着して、全く役に立たない事を行わせるという考えが以前騰げた「斎藤喜博」の考えだと思います。彼の『風と川と子どもの歌』に見られるような、世間一般で全く通用しないような、作曲家からクレームがつくようなそういう仕上がり、そういうことが指導だと勘違いするほとイカレた人がそのクローンを作るという悪循環。
既成事実を作ったことで肝心な基礎学力を平気でへし折り駄目にするそういう人が小学校に多いのは事実だと思います。

橋下徹氏はおそらく公的教育だけで外国人に負けない日本人を育てたいという思いがあるのでしょう。教組の掲げるイデオロギーが日本を破滅に導いているということが認識出来ないといけません。

広島の公教育はなぜ崩壊したか―検証「人権」「平等」30年の“果実” [単行本]
鴨野 守 (著)

という本に教組の歪んだ考え方や、問題解決を自己の認識を歪めることで知らん顔する教師の姿が浮き彫りになっています。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より