ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 気に入った仲間同士でつるむ大人集団 | トップページ | 誤解?されているカルロスさんへ ~中学校とはどういうところか~ »

小中一貫校には,大切な時期に大切な人と出会える12歳児がいる

 小学校教師は,自意識が過剰です。

 それは,たくさんの子どもの教育の責任を自分一人で背負う習性と関係が深いでしょう。

 それだけ,心理的な負担も大きいはずです。

 だから,精神疾患にかかりやすい,のかどうかは,分りません。

 一人の人生を,自分一人による年間数百時間の授業が左右する可能性がある・・・・

 そんなに重たく考える必要はない,という考え方の人もいるでしょう。


 さて,唐突かもしれませんが,普通の小学校の6年生は,気の毒のような気がします。

 自分たちが最高学年で,異年齢集団では常に兄・姉としてふるまうことを要求される。

 しかし,この年代の子どもにとって,本当に必要なのは,自分より年少の子どもたちとのふれあいだけなのでしょうか。

 けっして,そうではない。

 12歳児にとって,最も重要なのは,自分よりほんの少し年上の,思春期の真っ最中である,お兄さん・お姉さんとのふれあいが,決定的に大事である

 ・・・・・・なんてことが証明されたら,小中一貫校は全国にどんどん増えていくでしょう。

 小中一貫校を,「小学校+中学校」と考えてはいけません。

 1年生~9年生がいる,「小中一貫校」なのです。

 小中一貫校の必要性を,あくまでも教師の側の都合から見て「よい」「悪い」と判断するのは一面的すぎます。

 子どもたちにとって,必要なことを考えてみたい。

 特に,高学年の5・6年生にとって,現在の「小学校」は,本当に自分たちの「居場所」になっているのかどうか

 「居場所」になっていることは確かだとしても,本当に「自分たちの成長にとって最適」な教育環境であるのかどうか

 こういうことを追究しようとする意欲を,ぜひとも小学校の先生方にはもっていていただきたいと思います。

 私自身としては,常に中途半端な扱いを受ける「小学校6年生」たちが,いろんな意味で成長の芽を摘まれてきている,と見ています。

 1年生~5年生のめんどうをみる,という意味での「お兄さん・お姉さん」扱いでは,6年生たちは,なぜ成長したといえないのか。これは,自分たちや,私が知っている生徒たちがそうだから,としか言いようがありません。

 たまたま,6年生のときに,中学生とまじって活動できていた子どもたちが,中学校3年生になったときのたくましさを見て,

 本当に大切な時期に,本当に目標とすべき人とふれ合うことの重要さ

 を実感しました。

 後ろ向き専門で,6年生を「利用」してきた小学校教師たちには,何の関心もないことかもしれませんが。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 経営ブログ 仕事術へ

« 気に入った仲間同士でつるむ大人集団 | トップページ | 誤解?されているカルロスさんへ ~中学校とはどういうところか~ »

教育」カテゴリの記事

学校選択制」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

学校評価」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 小中一貫校には,大切な時期に大切な人と出会える12歳児がいる:

« 気に入った仲間同士でつるむ大人集団 | トップページ | 誤解?されているカルロスさんへ ~中学校とはどういうところか~ »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より