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長すぎる答辞と送辞の問題

 卒業式の諸問題について,子どもが卒業してしまう保護者は意見を言う場がありません。

 謝恩会が卒業式の後にある場合は,「謝恩会」だけあって,もはや「意見」を言うことは許されない。

 しかし,トラックバックしていただいた記事からは,あまりにも残念な「学年主任の所作と言葉」がうかがわれました。

 実は私も,転任したばかりの学校で,三年学年主任(一年目から,教員七年目の教員が,三年の学年主任をつとめる学校がどのような学校だったのかは,ご想像にお任せします)として卒業式の指導に臨んだとき,ちょっとした問題を経験しました。

 卒業式はなるべく簡素化したい・・・というか,儀式としての意味を重んじるべき,と考え,合唱発表会のような内容などはカットできたのですが,長すぎる答辞を事前の指導で短くさせたつもりが,当日,本番でいきなり違う内容を読まれたときは,「やられた」という思いでした。

 もちろん多くの内容を盛り込みたい子どもの気持ちは分かるのですが,常識から考えてあまりにも長いものはいかがなものかと,事前に指導をしていたのです。

 生徒会の代表は優秀な生徒でしたから,かなり前に原稿はでき上がっていて,前日の予行も最初と最後しか読まないので,本番に他の教員によって差し替えられていたことには気づきませんでした。

 「してやった」教員たちは例のごとく生徒たちといっしょに異動ですから,もうこれは「やったもの勝ち」「やり逃げ」です。

 荒れた学校の特徴は,基本的に,何かを例年とは違う形にしようとすると,抵抗する人がいることです。

 幸いにも,元凶的な悪習は廃絶できたのですが,卒業式を「儀式」としてではなく,「送る会」みたいにしたい教員たちの抵抗は大きなものでした。

 ですから,「送る会」としての「プレ卒業式」を事前にすませたのですが,それでも気が済まなかったようです。

 もう10年以上たってますから時効でしょうから言いますが,学校はたった一人,「おかしな人」がいなくなるだけで,がらっと変わります。

 学校を変えるのに,特に優秀な人が必要なわけではありません。

 部活動の引率先で,生徒と離れて競艇場に行き,そこで通知表をつけている教員は,私の予想ではかなり「優秀な人」です。賭け事の合間に本務ができる人は貴重です。

 関西には,こういう人を「仕事熱心」と笑い倒すおおらかさがあるのでしょう。

 ただ,もしこの教員が,学校でも同じような迷惑をかけているようなら,すぐに辞めてもらえる厳罰主義を徹底しなければなりませんね。

 問題は,そうすると教員が一人もいなくなるのではないかと本気で心配しかねない学校があることです。

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コメント

愚痴る相手がどこにもいない人間というのも、つらいものかもしれませんね。

こんにちは。読んでいただいてありがとうございます。
同じように感じていただく教育者がいらっしゃることに救われた気持ちです。
一人の母親として、小学校から中学校と山ほど考えさせられることばかりでした。
子どもをいかに人として心あるように育てるか。
私の場合は家庭教育はそこに重点を置いて大人、教師)へのいます。
でも、これは学校では指導されるどころか、
9年間かけて人間(大人、教師)への不信感を育てていただいた感じです。
今や、子どもたちは学校は人としておかしい人間が結構な確率で居る場所と認識している様子。
全員が変じゃないのも明らかにわかっている様子。
ある意味、学校で世の中と人の汚さをちゃんと教育され、
世の中しっかり渡っていける子どもとなって義務教育を終えられます。
何事も経験、解釈次第ということで、プラスにできる(してみせる)のです。
親の教育者としての負担は大きくなるばかりですが。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より