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批判のための批判の典型

 「もうやめる」のは,正しい判断だと思われます。

 「退職教諭」様のような反応をする世代の教師に習った世代で,「これが当たり前の教師ではなかったんだ」と気づかれてしまうのは,都合が悪いでしょうから。

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なかなか理解してもらえそうにないので、もうやめようかとも思いましたが、書いてみます。
①「教師をかばう」云々について

言われるような気持ちは全くありませんよ。ただ、「今の教師はだめだ」とか、「力量不足」だとか、一部分を捉えて、「為にする」偏った批判をして欲しくないのです。

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 私の方が,「批判のための批判をしている」と決めつけたい理由はただ一つでしょう。

 自分の問題を隠したいからです。

 私の問いには答えない。

 私の問いには答えられない。

 これがすべてを物語っています。

 私がこの目で見た批判されるべき現状がある以上,批判します。

一部でも存在する以上,その廃絶が私の願いです。

 「一部だからいいじゃないか」なんていう態度が,公務員としてはとってはいけないものなのです。

 批判する権利を奪おうとすることが,あなた方の世代の最大の欠点なのです・・・というと,同じ世代のまともな人が批判したくなるでしょうが,でもその世代には同じような人が多いことは否定できないでしょう。

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②教師の「労働者論」、「公務員論」について

これも偏った記述が気になりますが、こんな論はなんの益もないのでやめましょう。ただ、なんと呼ぼうが、「働いて社会を支える人」には変わりはないのです。ですから、教員の仕事は、多くの働く人と共にあるのです。多くの父母と手を結ばないと教育実践は進まないのです。

**************************

 「多くの父母」と手を結ぶという表現は誤りです。

 目の前にいる子どもの「すべての父母」と手を結ぶのです。

 そして,こう言うのです。

 私は公務員としての職責を果たすべく,全力を尽くします。

 退職教諭様も,職に就くときに宣誓をされたでしょう。

**************************

③「教師の苦悩」について

ここでも、貴君は大変な勘違いをしておられるのは残念至極です。「教師の苦悩」は子どもたちの苦悩なのです。日々子どもたちと向き合う教師は、現実の子どもたちの苦しみ、悩みと対峙しているのです。教師の苦悩は、子どもたちとはちがうどころか、まさに子どもたちの苦悩、そのものなのです。そして、日々、子どもたちの苦悩は深まるばかりです、子どもたちの「荒れ」「不登校」「いじめ」等々は、まさに子どもたちの苦悩そのものです。その原因については、ここではふれませんが、子どもたちの喜びなくして教師の喜びがないのと同じように、子どもたちの苦悩は「教師の苦悩」なのです。

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>私が問題にしているのは,「教師の苦悩」ではなくて,「教育を受ける側の苦悩」なのです。

 という私の話が理解できていない。

 教師の言動による子どもたちの苦悩に本当に苦悩している教師なら,このブログから何かを学びとれます。

 どんな教師が子どもの信頼を失うかを発見することができます。

>「その原因は,ここではふれません」

 だめだめ。ふれなきゃだめですよ。

 特に,教師が原因の子どもの苦悩についてです。

 これを避けて通ろうとする教師が信頼を失うのです。

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④<定数の問題は,教師の質の低下が特に懸念されている今,実施するのは危ない,というのが私の見解です。>について

恐るべき呆れ果てた見解という意外にありません。こんな見解は本当に多くの父母・労働者・子ども達の切実な願いに、背を向け、文科省以下の行政に媚びるなにものでもありませんよ。貴君がどうか真っ当に子ども達や父母の願いに素直に耳を傾けられように願ってやみません。

******************************
 
 子どもたちや父母の願いは,質の低い教師を増やすことではありません。

 それに,文科省に媚びているのではないことは,私の主張から明白でしょう。

 35人学級に反対しているわけですから。

 こうやって矛盾したことを書いてしまうので,批判のための批判だということがばれてしまうのです。

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⑤「教師の質の低下」について

ご存じのように、指導力不足教員再研修制度が何年か前に発足しましたね。十分な検証がなされているとは言い難いですが、例によってなんの効果もないというのが、現実でしょう。というのも、もともと根本が誤っているからです。貴君はまるで指導力不足教員を眼の仇のような言い方をしていますが、百歩いや千歩譲って、「では貴君は指導力不足の教員ではないんですか?」と問いたいと思います。(この場合、指導主事経験なんか免罪符にはなりませんよ。)私は、自分も含めて、日本の教師はみんな指導力不足教師だと思いますよ。だからこそ、苦悩する子どもと共に苦悩するのです。一緒に苦悩する教師にだけ、子ども達は心を開きます。貴君のように「上から目線」の大人には子ども達は決して心を開かないし、父母からの信頼も得られることはないでしょう。余りに無知厚顔な行政が埒もない研修をどんなに強制しても、なんの意味もないし、じょじょに事の本質が露見してくるでしょう。貴君の「指導力不足教員」問題意識とは、かなり距離があるような気がしますが、この問題は、行政が意識的に針小棒大に流布宣伝していることも見逃せません。貴君もどうもその線上にあるのではないですか。私は、日本の教師の質も学力も基本的には大丈夫だと確信しています。なぜなら、日本の教師たちは、常に子どもたちと共に悩み喜ぶ存在だからです。どうか、行政がこれ以上おかしな施策を講じて、子どもたちや教師たちを苦しめないように願うばかりです。

******************************

>日本の教師たちは、常に子どもたちと共に悩み喜ぶ存在だ

 私も,こうなる日が一日も早く来ることを願うばかりです。

 大量採用の時代の教師が一斉に退職したとき,この日が来ると,都合が悪いでしょうね・・・・。

 でも,ご安心ください。

 小学校は今,大量採用の時代になりましたから。
 
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批判のための批判のモデルケースのご提供ありがとうございました。

私のブログに最適のサンプルをいただきました。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より