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退職した今だからできること

 それは,「教師をかばう」ことだけではないでしょう。

 私の言いたいことは,

 教師は,自分のことよりも子どものことを考えよう。

 それに尽きます。

 教師のことよりも子どものことを優先に考えようとしている私への非難が,「だから教員はだめなんだな」と思われてしまうきっかけになるのを十分に理解した上でのことで,

 現場にいるときに「目を覚ましてほしかった」というのが本音です。

 まず,特に「内容」はない,以下のことについて,

********************

<「奉仕者」は,「おれは奉仕したんだ」と威張るべき存在ではありません。 「一般の労働者」とは違います。>についてです。
威張るつもりで書いたのではありませんよ。貴君が、あまりにも現役教師や私たちの先輩教師の功績・苦悩等々に無理解に論じられるので、わかって欲しいと思うのです。
それから、教師も一般の労働者となにも変わりませんよ。企業利益からか税金からかの違いだけで、日々、教育労働者として働く労働者です。そして、圧倒的に多くの教師は教育労働者として強い誇りを持っていますよ。貴君は教職をなにか特別なものに考えていませんか。公務員という用語をよく使われますが、たしかに公務員ではあるが、その前に、子どもたちのために働く教育労働者であるんですよ。このことをしっかり腹に入れておかないと、多くの労働者=多くの父母と手を結んだ教育実践はできず、一人よがりの実践になってしまうのです。

********************

 このブログの趣旨は,「教育失敗学から教育創造学へ」なのです。

 教師たちの功績をたたえる情報は,そこらじゅうに転がっているでしょう。

 現役の教師なのに,自分の「実績」を本にして売る人までいるんですから。

 私が問題にしているのは,「教師の苦悩」ではなくて,「教育を受ける側の苦悩」なのです。

 「労働者」は,特別な団体の人が使う用語ですね。

 「労働者」という言葉を使えば,「労働者の権利」の話ができるから。

 「公務員」だと,「全体の奉仕者」だから,都合が悪い。


 私と「退職教諭」様の決定的な考え方の違いは,「退職教諭」様の以下の言葉でわかります。

企業利益からか税金からかの違いだけで、日々、教育労働者として働く労働者です

 これ,違います。

 どこからお金を得ているか,という違いだけではありません。

 「何のために働くか」「だれのために働くか」が決定的に違っているのです。

公務員ではあるが、その前に、子どもたちのために働く教育労働者である
 
 こういう言葉で自分たちの何が「主張できるか」が,見え見えである以上,以上のようなコメントは,本当の意味で「子どもたちのために働く」人の足を引っ張っているとしか考えられません。

 次です。

**************************** 

<今,実質的な学級規模はどうなっているかご存知ですか? 30人以下の学級が当たり前になっています。>

良く知っていますよ。「30人以下があたりまえ」などということは、全国的には全くありませんよ。小学校低学年・中1だけは35人といったように、僅かずつ部分的に改善が進んでいるのが正しい現実です。
それも長い年月の間、多くの広範な父母・教職員の切実な願いを署名などの方法で行政に訴え続けてきた賜です。こうしたことがなかったら、行政は決して学級定数削減に理解を示そうとはしなかったでしょう。
しかし、まだ道半ば、いえいえまだスタートしたばかりです。子どもたちの幸せのために、この運動はまだまだ続くでしょう。貴君もよくご理解くださって、署名の一筆なりともご協力下さることを切に願うものです。

<「5人」を相手にしても,「40人」のときと同じような仕事しかできない教師もいます。
 「5人」ではなく,「40人」だからこそ,一人一人に身につく力もあります。
 小規模化すれば,教師の負担は減るかもしれませんが,教育効果が高くなるかどうかはあやしいのです。>
この種の議論は、40人という大人数学級を押しつける行政を擁護するためにするものであり、コメントに値しません。貴君が教師と言うよりは余りにも行政よりであること、(たかが指導主事を経験されるとそうなるのでしょうか。)、現役教師を悪く言われることが悲しいです。圧倒的多くの現場の教師たちは、本当に日々頑張っておられるのですよ・・・・・・。

***************************

 誤解していただきたくないのは,私が問題にしているのは,「失敗している」現役教師であって,「すべての現役教師」ではありません。「失敗している教師」「いかにも信頼を得られそうにない教師」を「悪く言う」のは仕方のないことですよね。

 「頑張ってるんだから,悪く言わないで」は子どもレベルの話です。
 

 繰り返しになりますが,「本当に日々頑張る」のは,当たり前のことなのです。

 ヒットが出なくて苦しむ野球選手も,「本当に日々頑張っている」のです。

 でも,批判はされて当然なのですよ。結果が十分にでないときには。

 「退職教諭」様の論理だと,「教育,だめだね。でも,教師は日々頑張っているのだから,仕方ないか

 で終わりになってしまいます。

 それに,今,問題になっているのは,「日々頑張っている」と呼ばれない教師がいることなのですね。

 定数の問題は,教師の質の低下が特に懸念されている今,実施するのは危ない,というのが私の見解です。

**************************

<行政の指導を,「注文や文句」という受け止め方をすることが,教育公務員が信頼されない第一の理由であることは,今までこのブログで繰り返し述べてきました。>
ここらも全く見解の相違があります。
端的に言えば、本来行政のすべきことは、「指導」ではなく、教育現場の「支援」・物心両面での「環境整備」なのですよ。このことは戦後、教育が「不当な力に支配されない」ために守られねばならない大原則なのです。行政の現場への過剰な介入が、どれだけ子どもたちや教師を苦しめてきたことか、これまた、枚挙に暇がありませんよ。そしてさらに不幸なことには、行政が現場に押しつけてきた教育政策なるものに、何一つまともなものがなく、何一つ定着せず、現場を苦しめるだけになっていることです。
ちょつと振り返ってみても、特設道徳、クラブ活動(部活ではないですよ)、総合、選択授業、ゆとり教育等々、まともに機能し定着したものは殆どないのです。これを貴君はいったいどう思いますか!!

***************************

 やはり,こうした一面的すぎる教員の「ものの考え方」が,信頼を失う最大の原因なのですね。

 「まもとに機能し定着している」学校はいくらでもあるんですよ。

 ただ,残念なのは,それは,「指導力のある教師のいる」学校だけの話なんです。

 100ます計算みたいな,どんなに力のない教師にでも真似ができる「学習」ではなく,「総合」のような学習はよほどの指導力がないと,定着しません。

 私はどう思いますか・・・・という問いには,

 教師の指導力を向上させなければならない

 としか答えられません。

 ですから,まずは,

 「どんな状況が問題の状況なのか」

 を明らかにしなければなりません。

 多くの指導力不足教師は,「自分の何が問題なのか」に気づいていないことが多いのです。

 これは,日本の悪い癖ですね。

 悪い意味の「思いやり」です。

 もっと若いころに,「そんな授業じゃだめだね」と言われていれば,どうにか改善の努力にこぎつけたかもしれない。

 でも,「思いやり」のある人は,だめな人に「あなたはだめな人ね」とは言わない。

 それが逆効果になるとわかっているから。

 逆効果になるのが,「指導力不足の教師」になり,

 そうではない人が,もしかしたら「伸びていく教師」になる。
 
 せめて,学習指導要領の解説に書かれていることが読めて,理解できている人を教員に採用しないとだめです。

*************************

さて、最後は「出張」云々です。
貴君の言うようなことは、失礼ながら、全く現実的に馬鹿馬鹿しい気がします。市町村教委・都道府県教委・文科省に限りなく弱いのが現場の管理職であることを、貴君は知らないのですか?!

*************************

 ということは,「退職教諭」様が校長だったとしても,黙って従うしかなかったということですね。

 そういう「怒り」は,退職した今なら,「正しい教育の在り方」を直接的に指摘・提言できる立場にあるわけですよね。 

 何か取り組まれていますか?
 
*************************

<私の指導主事時代は,次年度の研修等の計画は校長会の許可を得て,3月上旬に決定しています。そして,それぞれの内容も,あわせて3月中に各学校に周知することになっていました。だから,「意味のない出張」にならないように,あらかじめ各学校にとって必要な内容を整理し,各学校の発表等のための事前の準備が計画的にできるように配慮していました。>

こんな「配慮」で役に立つと思っているのですか?なんの役にも立ちませんよ。現場に
本当に必要なものなど出て来ませんよ。はっきり言って、現場には指導主事等やっかいものであり、指導主事訪問などはlご機嫌とって気分良くお帰りいただく、そんなことに腐心しているのです。半日やそこらの教育活動をみて、悪く言われたのでは、現場の管理職はたまりませんからね。ですから、帰られたあとは、たいてい批判ゴーゴーが多いですね。前述の「出張」云々も、実は指導主事の仕事を作ってやっている側面が強いですね。

**************************

>指導主事訪問などはlご機嫌とって気分良くお帰りいただく、そんなことに腐心している

 地方では,まだそういう空気が残っているところも多いのでしょうね。

 でもそれだけでは,あくまで「礼」の一種であって,「実」がないことはおっしゃる通りです。
 
 指導主事の在り方については,私の経験をふまえて,また後日,記事にしたいと思います。

 
 私からの要望は,

 では,「退職教諭」様は,何をされますか?

 ということです。

 このブログを読むよりも,もっと「すべきこと」がありませんか。

 逆に,こんなブログを書くよりも,「すべきこと」はないのか,と逆襲されてしまうかもしれませんが,今回のようにコメントをいただいたりすることで,より教育現場の問題が浮き彫りになって「教育の世界の透明性」が高まることに意味があると思うので,続けていきたいですね。

 今のところ,「退職教諭」様の一連の発言は,もちろんすべてではありませんが,「これが先生という職業の人の伝統的なものの考え方だな」というメッセージとして教職に就こうとしている人たちの参考になっていると思います。ありがとうございました。

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コメント

なかなか理解してもらえそうにないので、もうやめようかとも思いましたが、書いてみます。
①「教師をかばう」云々について

言われるような気持ちは全くありませんよ。ただ、「今の教師はだめだ」とか、「力量不足」だとか、一部分を捉えて、「為にする」偏った批判をして欲しくないのです。

②教師の「労働者論」、「公務員論」について

これも偏った記述が気になりますが、こんな論はなんの益もないのでやめましょう。ただ、なんと呼ぼうが、「働いて社会を支える人」には変わりはないのです。ですから、教員の仕事は、多くの働く人と共にあるのです。多くの父母と手を結ばないと教育実践は進まないのです。

③「教師の苦悩」について

ここでも、貴君は大変な勘違いをしておられるのは残念至極です。「教師の苦悩」は子どもたちの苦悩なのです。日々子どもたちと向き合う教師は、現実の子どもたちの苦しみ、悩みと対峙しているのです。教師の苦悩は、子どもたちとはちがうどころか、まさに子どもたちの苦悩、そのものなのです。そして、日々、子どもたちの苦悩は深まるばかりです、子どもたちの「荒れ」「不登校」「いじめ」等々は、まさに子どもたちの苦悩そのものです。その原因については、ここではふれませんが、子どもたちの喜びなくして教師の喜びがないのと同じように、子どもたちの苦悩は「教師の苦悩」なのです。

④<定数の問題は,教師の質の低下が特に懸念されている今,実施するのは危ない,というのが私の見解です。>について

恐るべき呆れ果てた見解という意外にありません。こんな見解は本当に多くの父母・労働者・子ども達の切実な願いに、背を向け、文科省以下の行政に媚びるなにものでもありませんよ。貴君がどうか真っ当に子ども達や父母の願いに素直に耳を傾けられように願ってやみません。

⑤「教師の質の低下」について

ご存じのように、指導力不足教員再研修制度が何年か前に発足しましたね。十分な検証がなされているとは言い難いですが、例によってなんの効果もないというのが、現実でしょう。というのも、もともと根本が誤っているからです。貴君はまるで指導力不足教員を眼の仇のような言い方をしていますが、百歩いや千歩譲って、「では貴君は指導力不足の教員ではないんですか?」と問いたいと思います。(この場合、指導主事経験なんか免罪符にはなりませんよ。)私は、自分も含めて、日本の教師はみんな指導力不足教師だと思いますよ。だからこそ、苦悩する子どもと共に苦悩するのです。一緒に苦悩する教師にだけ、子ども達は心を開きます。貴君のように「上から目線」の大人には子ども達は決して心を開かないし、父母からの信頼も得られることはないでしょう。余りに無知厚顔な行政が埒もない研修をどんなに強制しても、なんの意味もないし、じょじょに事の本質が露見してくるでしょう。貴君の「指導力不足教員」問題意識とは、かなり距離があるような気がしますが、この問題は、行政が意識的に針小棒大に流布宣伝していることも見逃せません。貴君もどうもその線上にあるのではないですか。私は、日本の教師の質も学力も基本的には大丈夫だと確信しています。なぜなら、日本の教師たちは、常に子どもたちと共に悩み喜ぶ存在だからです。どうか、行政がこれ以上おかしな施策を講じて、子どもたちや教師たちを苦しめないように願うばかりです。

まだまだ尽きませんが、今日はここらで筆止めとします。

>>企業利益からか税金からかの違いだけで、日々、教育労働者として働く労働者です

 これ,違います。

 どこからお金を得ているか,という違いだけではありません。

 「何のために働くか」「だれのために働くか」が決定的に違っているのです。
-----------------------------------------------------------------
企業は特に製造業などの場合、未完成品や欠陥品は許されません。
しかし、公務に関して言えば、予算消化だけだったり、教育に関しては、学力より
部活の優勝だったり。社会に出てアンマッチな人間を作り出しているに過ぎません。

努力は確かに認めたい気持ちはありますが、欠陥品では企業は成り立ちません。
たとえ、社員がものすごく努力したとしても、製品として完成していなければ、販売できません。

また、完成していても時代遅れでは売り物になりません、放送終了したアナログテレビなどは作っても売れません。

教育現場も、大学に押しつけるだけで無く、すこしでも完成度を向上させる必要があります。

今の子供たちは学力の低下ではなく、学力の衰弱、壊死しはじめています。

教師の指導力=子供が先生の言うことを効くこと。
と勘違いしている先生がかなりの割合で存在していると実感します。
タイプとして
1.子供に暴言や脅しのような行為を行い従わせるタイプ
2.子供にモラルハラスメントを押しつけて従わせるタイプ
3.上記の混合型
そして子供が思い通りになったら自分が指導力のある教師だと大いなる勘違いをする
教育学の先駆者たちの多くがタイプ2の先生であった事にも関係があるように思えます。

私が経験した良い先生は、失敗しても安心できる先生でした。いつも変わらない態度と振る舞いで、失敗をしないための知恵も与えてくれるし、失敗したらどこをどうしたらうまくいくのかも教えてくれました。

公務員の中でも特に、今の日本では教師は聖職者である以前に労働者であるという認識を持つ先生がかなり増えていると思います。そして労働者=搾取者であるとエスカレートしてゆきます。

http://shadow9.seesaa.net/article/143972907.html
上記の記事のような先生が現実にかなりの割合で存在しているという現実は、とても悔しいし嘆かわしい、もし私がその森田被告と同僚だったら、強烈なこき下ろしをしてしまうと思います。どうしてもちゃんと間島にやっている先生もいると言いたくなると思います。

採用時点で排除できなかった事も悔しくて憤りを感じます。教育者一族の血縁者出会ったこと、なんで公正に選抜しなかったのだろうとやはり、怒りを覚えます。

子供に少しばかり愚痴をこぼして、子供は傷つくのでしょうか、実のところよくわかりません、人間として許せない人はそれ相応の罰を受けなければならないと言ってしまうでしょうね。

教師とて感情を持つ人間であるという主張はすると思います。しかしながら教師とて労働者をいうのは反吐がでます。

100歩退いて、
>多くの指導力不足教師は,「自分の何が問題なのか」に気づいていないことが多いのです。
のところですが、愛着障害の問題を抱えているのでは無いかと思えるようにもなりました。ただし困難きわまりないです。可能ならば採用の時点で排除するのが望ましいと
思います。子供は気まぐれでキレたり褒めたりする大人に非常に当惑され、傷つきます、愚痴や陰口よりもっと激しく傷つきます。

子供が逆ギレするケースの多くはあのときああ言っていたのに、このときだけ攻められたという事が原因であることが多いと思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より