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「教師は世間知らず」と言われる最大の原因

 読んでいただいて参考になりそうなことを書こうと思います。


 大学を卒業してすぐ教師になる人が,びくびくしてしまうこと。

 それは,「教師は世間知らず」という批判を浴びること。

 自分は,「世間を知らない」ように思える。
 
 だから,「お前は世間知らずだ」と言われると,反論のしようがなく,困る。

 そんな相談が今はネット上で解決できるのですね。

 回答に納得できるのかどうかはわかりませんが。

 私がもしそのように相談されたら,一般の社会人のように,「社会に出た」とは言えない立場であることは確かなので,


 「世間は広すぎて,いろんな人に出会うチャンスに恵まれないできました。でも,学校の教師になったら,お子さんたちをここまで育ててこられた保護者の方々から世間のつらさやしきたりを学ぶことができると思います。いろいろ教えてください」


 なんていう受け答えの例を紹介します。

 この受け答えで,

 「保護者や地域の声に耳を傾ける姿勢をもつ人間である」ことだけは伝えることができます。

 そうでなく,いつも独善的で,わがままなやり方でも通用してしまうのが,教員という職業である,という認識があるので,「教師は世間知らず」(でも通用する)と揶揄されるわけです。

 一般的には,教師は1年目でも30年目でも同じように,「先生」と呼ばれる立場で,言ったことに目の前の子どもたちは従ってくれる。今は少ないかもしれませんが,業者も「先生」「先生」とすり寄ってくる。「先生」と呼ばれることが当然のように,他の人にも(まるで子どもに接するように)接してしまうとき,「教師は世間知らず」と見られることが多いようです。

 他にも,

 話が長い

 子どもの学力がつかないのは子どものせいだと決めつけている

 電話に出た時の応対が悪い(名乗らない人間がいる)

 挨拶ができない

 などの「非常識さ」についての自己認識が欠如している実態があげられます。

 しかし,「教師は世間知らず」と言われる最大の原因は,

 「閉じた社会の住人である」ことだと私は考えています。

 学校は,必ずしも「閉じた社会」とは限りません

 「開かれた学校」の中にも,「学級王国」という「閉じた社会」が存在しているかもしれません。

 「開かれた学校」の中にも,「知り合いが組合の人間のみ」という人間が存在しているかもしれません。

 授業の中でも,話していることがほとんど子どもに通じていない,そんな自己の中に「閉じた」人間がいるのも学校の特色です。

 子どもたちを様々な観点で評価している教師たちですが,以下のような「行動の記録」を自分自身について評価すると,どんな結果になるでしょう。

 この自己評価をしてみるだけで,「子どもたちに求めていることは自分も実行すべきだ」ということを自覚できるようになるかもしれません。

基本的な生活習慣・・・自他の安全に努め,礼儀正しく節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする。

健康・体力の向上・・・活力ある生活を送るための心身の健康の保持増進と体力の向上に努めている。

自主・自律・・・自分で考え,的確に判断し,自制心をもって自律的に行動するとともに,より高い目標の実現に向けて計画を立て根気強く努力する。

責任感・・・自分の役割を自覚して誠実にやり抜き,その結果に責任を負う。

創意工夫・・・探究的な態度をもち,進んで新しい考えや方法を見付け,自らの個性を生かした生活を工夫する。

思いやり・協力・・・だれに対しても思いやりと感謝の心をもち,自他を尊重し広い心で共に協力し,よりよく生きていこうとする。

生命尊重・自然愛護・・・自他の生命を尊重し,進んで自然を愛護する。

勤労・奉仕・・・勤労の尊さや意義を理解して望ましい職業観をもち,進んで仕事や奉仕活動をする。

公正・公平・・・正と不正を見極め,誘惑に負けることなく公正な態度がとれ,差別や偏見をもつことなく公平に行動する。

公共心・公徳心・・・規則を尊重し,公徳を大切にするとともに,我が国の伝統と文化を大切にし,国際的視野に立って公共のために役に立つことを進んで行う。

 どこかの教育ブログを読むと,自らこのうちのいくつかを「放棄」していた教師がいるのに気づきます。

 そういう教師は,「世間知らず」というより,「責任感知らず」なのでしょう。

 「責任感」をもって「公正・公平」に「勤労・奉仕」に励んでいる教師は,「世間知らず」などという批判を受けることはないでしょう。

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コメント

以前は「縁故採用」が犯罪防止の抑止力になっていたはずですが,「恩知らず」が当たり前の世の中になると,全く無意味というが百害あって・・・の悪習でしかないわけですね。

「広島の公教育はなぜほうかいしたのか」
ISBN4-88201-067-4 c0037
この本に、大体の事情が詳しく説明されています。

また、報道などの情報で、教師による性犯罪が多発していることも挙げられます。
広島県、佐賀県なんてそういうネタのメッカです。
http://logsoku.com/thread/raicho.2ch.net/newsplus/1299280858/
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1707796.article.html

常識では考えられない知能の低さとも思える犯罪が報道され、教師の一部であるとはいえ確実に、その手の行為が行われているということです。やくざよりレベルが低いとも思えます。
地元が師範学校で労組の力が強すぎということや、採用する教育委員に歪んだ思想や歪んだ価値観を持つ人が多い、血縁者最優先で採用が決まることなど常識では考えられない事ばかりです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より