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「戦場」としての学校と冷戦構造

 学校現場では,今でも冷たい戦争は続いています。

 その犠牲になっているのは,子どもたちです。

 戦場に二度と子どもを送らない,というのを合言葉にしている人たちと,

 社会は戦場であり,そこで生き抜ける力をつけようとしている人たちとの間の

 対立が続き,闘争の中で置き去りにされている

 それが子どもたちです。

 そういう「戦場」としての学校現場には,いくつかの「原則」が生きており,

 基本的にはそれぞれの立場の人がそれを守ろうとするのが学校です。

 最も極端なのは小学校で,ここは教師個人主義の教育がなされ,

 担任が変わればルールが変わる

 =担任が変われば,国が変わる

 ところが小学校です。

 小学校向けの教師の本は,よく売れます。

 タイトルや副題,説明に「小学校用」と書いてないので間違って買ってしまう,という場合もあるでしょうが,

 小学校向けの本が売れる原則は,
 
 「何々小学校」とか,「何々研究会」とかの著作ではなくて,

 個人の著作であることです。

 実際には十数人が原稿を書いている本でも,有名人の編著,ということになっていて,実際にはその人は10ページくらいしか書いてない,という場合も多いのです。

 なぜ個人の本が売れるのかというと,小学校教師が手本にしたいのは,

 組織ではなくて個人

 という気持ちが強いからで,どうしてそういう気持ちになるのかと言えば,

 学校とは組織ではなくて個人で仕事をするところ

 という認識が「原則」だからです。

 こういう小学校では,冷戦構造は表面化しません。

 なぜなら,そこは「独立国家共同体」だからです。

 ですので,冷戦構造の中で「戦場」になっているのは,中学校の場合,という想定で書いています。

 中学校では,それぞれの学級王国で育ってきた,「横のつながり」という文化がない小学生を,「集団」として育てることに失敗する場合があります。

 その原因の一つが,冷戦構造です。

 しかし,難しいのは,「集団」として育てることばかりに目が向いて,「自主・自律」の精神を育てることに失敗する場合もあります。

 教師や学校が組織として一枚岩になりにくい冷戦構造化の中学校の教育の指針として私が最も重視しているのは,『孫子』十三篇のなかの「虚実篇」です。

 兵の形(あらわ)すの極は,無形に至る。(中略)其の戦い勝つや復(くりかえ)さずして,形に無窮に応ず。


 以下,宮城谷昌光著『春秋名臣列伝』(文藝春秋)より引用します。

******************

 軍の形で最良なものとは,形が無いということである。戦いの勝ちかたに二度と同じであるものはなく,相手に応じて無限に変化するのである。

 宇宙の原則を礼という形で体現してくりかえそうとする儒教に兵法がはいりこむ余地がないことがよくわかる。戦いに長じている人は,人とおなじことをしにくい性質をもち,くりかえすことがにがてであるから,平治の世は生きにくく,ややもすると低能者とみなされる。それでもこの世を戦場とみなし,人はそれぞれ独自の生きかたをし,二度と同じ生きかたはないと想念に立てば,『孫子』の兵法は,現代でも活用されうるのである。

******************

 何とかの一つ覚えの行動しかしない団体の人たち,昨年やって成功したんだからという理由だけで同じことを繰り返そうとする人たち,そういう人たちを納得させることができる最後の手段が,「勝つ」こと。

 勝負の世界は,だから「割り切り」がしやすい。

 「勝ち負け」がない,あるいは,「勝」「負」にもさまざまな意味を持たせることができる学校では,これも定かではない。

 目の前の子どもをしっかりみて,おかしな原理や原則を子どもに押し付けることなく,必要なルールを必要に応じて子どもに考えさせる,そういう教育を実践していくのが最も難しいのは,「荒れていない学校」です。

 しかし「荒れていない学校」の中で「見失われている子どもたち」に目を向けなければ,子どもたちは救われません。

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コメント

nogaさんコメントありがとうございます。

私が現在,勤務している学校はかなり特殊なところで,校外における大きな行事でも個人がすべてお膳立てして,成立させます。

協力していただく方は,皆さんボランティアなので,基本的には行事をつくる「個人」による「顔つなぎ」が重要です。

こうやって成り立っていく社会では,「意思が見える個人」と個人とのつながりがすべてです。

「立場」とか「役柄」ではなく。

ただ,どうしようもない場合は,「立場」や「役柄」をもつ人にお願いすることになります。

「意思」ではなく,「人」でつながっていく,というのが日本社会の特徴であると考えれば,従来型の政治を完全否定することは難しいかもしれません。

しかし,従来の政治では,行き詰まることは目に見えています。

政治の面でも大きな「変化」が必要なことを受け止めていくための「変化」をたくさん経験することが,ここから先は大切なのかもしれません。

問題の解決には、意思が必要である。(Where there’s a will, there’s a way).
社会問題の解決には、政治指導者の意思決定が必要である。
そこで政治指導者を選出することになるが、意思のない社会においては、個人選びは個人の意思選びにつながるはずもない。
選挙は、いわゆる地盤 (組織)・看板 (名声)・カバン (資金) による選択になり、その結果は意思を離れた家畜の品評会のようなものになる。政治音痴の原因となっている。
日本人には、意思選びができない。何回選挙をしても意思決定には手間がかかる。
党員も個人の意思そのものを認めていないのだから、民主主義も形骸化している。党内野党もできて混沌となる。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より