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「正しい」授業と「上手い」授業

 「正しさ」と「上手さ」は同じ次元で語れない問題であるような気もしますが,

 「嘘も方便」という言葉の意味を知っていて,その効果を体感し納得した経験がある人なら,わかると思います。

 「正しさ」にこだわるとどんな問題が起こるかというと,

 なかなか開国に踏み切れなかった幕府の対応が,私の場合はまず第一に思い浮かびます。

 幕府は,アメリカとの交渉の中で,位の低い役人を高い位の役人に見せかけることに成功するなど,「正しくない」ことも実はやってのけています。つまり,目先的には,「上手く」対応しています。

 しかし,そういう「場当たり的な上手さ」では,国は救えない,ということは明らかです。

 ところが,こういう「場当たり的な上手さ」を教えるための本が,日本ではたくさん出版されています(売れています)。

 政治が三流だけど国民は一流だという国家は存在するでしょうか。

 教育は三流だけど国民は一流だという国家は存在するでしょうか。


 「道徳の授業は,必ず年間35時間を確保すること

 ことは,各学校に至上命題のように課せられた課題です。

 ここで,「正しい」対応とは何か,「上手い」対応とは何かを語るのはやめておきます。


 たとえば,道徳の授業を学級担任が行うとき,「正しい」授業のイメージは何か。

 道徳は正解がないようで,ある,そんな時間です。

 だれもが認める道徳的価値を,とくにはジレンマの状況におかれながら,体得していく。

 「こういう感想を書いてほしい」という想定通りの結果になれば,

 「道徳の授業が正しく実践できた」と教師は振り返ることになるでしょう。

 子どもの側にとって,学校で過ごしている時間のうち,「最も充実していない時間」の最有力候補は「道徳の時間」です。

 教師は,「道徳の時間」の意義を子どもにわからせることができないまま,ただひたすら時間だけをやり過ごしている,それが「道徳の時間」の実態です。

 ここで誤解されてはいけないのが,

 では子どもが「道徳の時間」の意義が認識できる授業が「上手い」授業かというと,そうでもありません。

 それも,「正しい」授業です。

 では,「上手い」道徳の授業とは何か,と言えば,それは「道徳の時間」であることを意識させない授業のことです。

 道徳で学ばせようとする価値のうち,何をあなたは最も重視しているか,と問われたら,中学生の場合は「自律の精神」「責任ある行動」と答えます。

 24分の1ではありません。

 そういう価値を重視しているということは,当然,教師の側にも強い自律性が求められてきます。

 「すぐにできる・・・」「簡単にできる・・・」なんていう俗な教育書に飛びつくような教師ではいけないのです。

 どんなに時間をかけても,今の目の前の子どもたちにとって最善の教材を,最善のタイミングで提供する。

 ですから,「年間指導計画」の細案も,「正しさ」にこだわれば途中の変更は認めない,なんてことになりかねませんが,「上手さ」にこだわろうとすれば,途中でいくらでも変更すべきです。

 「学習指導案」も同じです。

 この「案」どおりに「正しく」授業を進めるような教育実習生の授業が,「上手く」見えるはずがありません。

 これを「そこまで求める必要はない」と答える人もいるでしょうが,そういう態度が私から見れば「誤っている」のです。「正しくない」態度だと言いたいところですが,そうやって本音を言ってしまえば,聞く耳をもたなくなってしまうでしょう。

 「そこを求めなければならない」のです。

 「誤ったこと」を教えてしまったら,あとで「謝れば」よいのです。訂正すればよいのです。

 しかし,「上手くない」授業をもって,これが「正しい」授業だと受けとめた子どもは,将来,自分が教師になったときも,「上手くない」授業を繰り返すことになります。

 小手先の「上手さ」に惑わされるだけの,教師になってしまいます。

 本当に「上手い」授業を体験できた人には何も語る必要がないのですが,そうでない人に何をどう伝えたらよいのか。

 今日もこれについては上手くはいかなかったようです。

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コメント

コメントありがとうございます。

私の書いたのは,匿名様のコメントへのお返事ではありませんでした。

>スクールカウンセラーが行っている活動が,心理的虐待にあたる
???
日教組の反日自虐的イデオロギーの押しつけが心理的虐待であるといったのです。

教育のある側面が,心理的虐待にあたることを証明する,そんな学問が成立できる国になるといいですね。

スクールカウンセラーが行っている活動が,心理的虐待にあたる,なんて事例が万が一にも出てきたら,またひと騒動おこるでしょう。

正しい、正しくないで割り切れれば簡単なのですがそうでないものが実に多いということを、子供に話しても良いと思いますね。
たとえば南京事件、新聞に「南京大虐殺」などと報じられたこの件ですが、事実の検証は難しい、いろいろ資料や証拠を付き合わせると、新聞記事が狂言だったとの見方もあり、事実がどうだったということが検証できない。
そのため、この事件を教科書から外しているけれど、日教組は好んでこの問題を一方的に事件が新聞の通りと決めつけ矛盾点などを示さない。

これはオウム真理教が使ったマインドコントロールの手法でもあり、かなり要注意だといえます。感受性の強い子供にこういうマインドコントロールを仕掛けてゆくという行為は、心理的虐待であり許されないことです。

南京事件を取り上げるのなら、新聞記事以外の証拠、資料など全部調べてそれでも結論が出ないということを言うなら正しいでしょう。物事は何でも白か黒かでは割り切れないことの方が多いという事も教えたら良いと思います。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より