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嫌味と批判の区別がつかない人

 あなたの授業は授業になっていない。

 こういう言葉を「嫌味」ととる人は,

 「相手は自分を不快にさせるためにそんなことを言うのだ

 と考えているわけです。

 これを「批判」ととる人は,

 「どうすればあの人に『いい授業だったね』を言われるようになるのか,考えてみよう

 などと,「先に進める」。

 「どこがどうして,どのように課題だったのだろうか,聞いてみよう」

 などと,コミュニケーションをとるきっかけになる。

 たしかに,もう現場に戻れない人に対して,
 
 「あなたの指導は間違っていた

 と批判しても,その人には「次」がないから,どうしようもない,ととられることもあるでしょうが,

 たとえば,一度,きちんと自分の実践を振り返ってみて,

 「ああ,間違いだった」

 と気づけば,

 「こんな失敗は繰り返してはならない

 というメッセージを,これから教師になろうとする人に発信して,

 「こんな間違いはしないように」

 と注意を喚起することができるのです。

 
 自分が言われて嫌な思いをした言葉,嫌な思いをするだろうなと思う言葉を,

 ブログのタイトルにまでつけて繰り返す人がいますね。


 
 気の毒な人です。


 この人は,人格を攻撃対象にする。

 自分自身も,人格が攻撃対象にされていると勘違いする。

 
 違うのです。

 書いている言葉が,おかしいと批判されている。

 言っている言葉が,おかしいと批判されている。

 その指導が,おかしいと批判されている。

 
 人格を批判しているのではないのです。

 だれでも間違うこと,失敗すること,失言をすることはあるのです。

 
 でも,批判されるようなおかしい言葉を書く人は,頭がおかしい,と考えてしまう。
 
 こういう人が,本当に困ったとき,助けてくれるはずの人が助けてくれないのがおかしい,という反応をしてしまう。

 天は,だれを助けるのですか?


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コメント

DSM-IVの基準のどれかにそういうのがあったと思います。
クラスタB群の傾向が強いのでしょう。
ほんとに気の毒だと思います、いくらまじめに考えても何か自分の理想(なりたい自分)とミスマッチが指摘され、それが具体的であればあるほど、敵対していると考えてしまうようです。それ故、表面的な事ばかりが重要視され、中身が希薄化してゆくようですね。

 ブログでやりとりしても難しいばかりです。周囲の人も大体は解っていて、表面上、お世辞で塗り固めておくという対応をとることになり、その結果、ますます希薄な対人関係になると思います。○○で賞をもらったとかに、すがりつくのもそのあたりが原因でしょう。また、部活で賞をもらうことだけが全てであるかのような錯覚もとても気の毒です。部活は本業では無いことを忘れてしまい、本業の授業が、、、、というのは子供まで気の毒です。まあ、小学校はほとんど学力云々を付ける必要が無いとまで思っているようで、それも?ですね、学力を後送りにされた子は後にすごく苦しみます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より