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結局、だれからも学べない人の特徴

教育blogを読んでいくと、人からどう見られるかに異常なほどの神経を費やすばかりではなく、自分を正当化しようとするためにその見方についてしつこい難癖をつけ続ける人がいますね。

よく読めば、「自分と対等に話ができる人間の資格」が書いてあるのです。

そしておもしろいのは、昔から自分自身にほとんど備わっていない資質が自分と対等に話せる資格だと言うのです。

教師に多い、「世間知らず」以前の「自分知らず」というやつです。

この人は、自分がだれのための何の情報を発信しているのか、わかっているのでしょうか?

昔、遅刻してきた生徒を注意したときに「こんなに早く来られない」と逆ギレされ、「じゃあ、何時だったら来られるのだ」といういわゆる「逆ギレ返し」という技を使った教員です。

時間を守って登校していた大多数の生徒に何の相談もせずに、問題の生徒だけに照準を合わせたおかしな指導=「集合時間の変更に関する話し合い」のような愚策が繰り返される、こういう指導のどこがどのように問題であるかが全く自覚できない教師が多いのですが、これが、生徒から「見放される」教師の、あるいは教師集団の最大の特徴なのです。

聞く耳を持たない最大の理由が、新しい記事にはあますところなく書かれています。

どんなに落ち着いた学校でも、こういう教師が一人いれば、積み上げてきたものがすべて無に。

趣味を教育に持ち込もうとする段階で、すでに「組織の一員」ではないのです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より