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だれからも学べない人から学べることがある

 話題をふってくれたdolceさんに感謝いたします!

 どうぞ,「頭のおかしい人」よりdolceさんへ ~教員採用について~

 と,「頭のおかしい人」よりdolceさんへ ~私の指導力~

 もお読みいただければと思います。

******

 大量採用の時代の50歳代教師に限らず,狭き門をくぐってきたはずの若い教師にも,「学べない」人がいるのは確かです。

 同じ失敗を繰り返す

 ということは,失敗を失敗と自覚できない

 自分の(なのか,ある組織の,なのか,本に書いてあったこと,なのかは判然としませんが)やり方に固執する

 批判されるのを極度におそれ,避けようとする

 ここまでなら,まだ何とかなる範囲ですが,周囲にもその「生き方」を押し付けようとしだすと,手に負えなくなります。

 教育委員会に限らず,公立の学校につとめている教師ならよくわかると思いますが,この世で一番「手がかかる」のは教師という職業の人々の教育です。

 子どもへの教育以上に,今まで,ほとんどの営みが「失敗」に終わってきたと思えてならないのが,この「教師教育」の世界です。

 教師になれた時点で,形式的にも実質的にも一人前の教師としての行動が求められるような小規模校では,特に,「失敗モデル」を目の当たりにできません。これが小規模校という環境の最も気の毒な点です。

 「完成した教師」であることを1年目から求められる

 学べる人は,もちろん実践の中で学べることがたくさんあるのですが,ときどき,「もう自分は完成した教師である」という暗示に成功した人がいて,「学ぶこと」をやめてしまう。

 大学で学んできたのだから,教育実習で単位をとったのだから,採用試験に合格できたのだから,自分は教師なのだ,と誤解している。

 大学で教えている人間は,この「失敗」による「被害」が自分にはねかえってくることがないので安穏としていられますが,現場にいる私たち教師にとっては,「教育できない教師」の存在は本当に重荷です。

 ときどき,正しい誤解?をする人がいる。

 「自分は教師に向いていないのではないか?

 これが,「正しい誤解」です。

 他の職業についている人でも,「もう辞めたくなった」と思うことが一度くらいはあるでしょう。

 そのときは,「最初にその職についたときの気持ち」=「初心」を思い起こすことで,立ち直れるのがふつうなのでしょうが,教師の場合は,「最初に教師になったときの気持ち」が誤解に基づいているものである場合,初心に戻ることがかえって状況を悪化させることにもなり得るので注意が必要です。

 こういうとき,実は頼りになるのが,「どうしてこんな人が教師を続けていられるんだろう」という人だったりします。何の進歩もしていない。教師になってから,何を学んだと言えるのか,自分でも決して説明できないだろうな,という人がいる。

 そこまで無神経というか,自分の問題をどこかに置いておける人というのは,「悟りを開いた人」にも見えるようなのです。

 これは両刃の剣で,自分も同じような「悟りを開いた人」になってしまう場合もあり,こうやって「再生産されるのだな」とも感じるのですが,多くの人は,「これではいけない」ことに気づき,ようやく「教師の社会的責任」を自覚できるようになるのです。

 あなたが教わってきた先生たちは,どのような「社会的責任」を果たしてきたのでしょう。

 こういう問われ方をすると,「教育」とは何か,ということを改めて考えさせられてしまう,という感覚になってくれれば幸いです。

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コメント

コメントありがとうございます。明日の記事でご紹介させていただきます。

文科省関係では,以下の資料が参考になりそうです。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo11/001/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2012/03/22/1318853_1_1.pdf

> 子どもへの教育以上に,今まで,ほとんどの営みが「失敗」に終わってきたと思えて>ならないのが,この「教師教育」の世界です。

私が一番疑問なのは、教師の養成課程である教育学部のカリキュラムが異常なほど少ないということです。

ほかの学部にいて、無理して教職の単位を取る学生と比べたらこの差は明らかで、所属する学部が理系の場合もっと極端です。

また、提出物なども教育学部は工学部と比べて極端に少ないのです。
教育学部という存在に疑問を持ちます。
医学部、薬学部、工学部、理学部で博士のひとのほうが、小学校教員免許を持っているひとより遙かに優秀で、説明する能力が高いのはなぜか、考えてみたら解ることですが、その差はすでに学生の時にどれだけ多くを学んで、解らない課題に向き合って解決し、それを他の人に伝えて残すということをやってきた人たちが博士なのです。

教員養成課程である教育学部、たとえ小学生が相手のことであっても十分な良識と教養が必要だと思います。

教養も良識もどちらも磨くすでをしらないまま一人前の教師として教壇に立つことになるというのが問題の根っこにあると容易に想像がつきます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より