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SCがもつ貴重な情報

 私の記事でもふれてきたところではありますが,「匿名」様からも学校への痛烈な批判をいただいております。

 強く同意できるのは,次のご指摘です。

○カウンセリングを受けるべき対象が子供では無く、親と教師であるケースが多い

○学校でのいじめに教師が加担するようなケースにおいては子供が自殺するなどして問題が表に出るまで学校側は責任回避行動をとります

○職務に対する責任感より保身第一
 
 東京都教育委員会の「平成24年度 東京都公立学校スクールカウンセラーの募集について」をみると,スクールカウンセラー(SC)は

 「児童・生徒や保護者、教職員に対し、専門的な知識・経験に基づいて適切に相談に応じること」が仕事のようですから,

 保護者や教職員の相談にも応じるのが職務でしょうが,子どもが通っている学校に出向いてきてカウンセリングを受ける保護者はなかなかいないでしょうね。

 余計なことですが,東京都は来年度の公立学校のスクールカウンセラーを700名募集しています。

 報酬は日額44000円だそうです。

 700人が1年間のうち,35日間,この仕事をすると,東京都が支払う額の合計は10億7800万円ですか。

 交通費を1人1000円支払うと,これに2450万円加算です。

 東京都のように規模が大きいと,金額がピンときませんね。

 学校が,この制度を本当に生かし切れているのかどうか,検証が必要です。

 スクールカウンセラーにも重い守秘義務の責任が課せられますから,なかなか「学校の問題」は表に出ることはない。

 ただ,事業の評価は適切に行う必要があります。

 スクールカウンセラーは,公教育を変えるために必要な多くの貴重な情報を握っている可能性があります。

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カウンセリングを受けるべき対象が子供では無く、親と教師であるケースが多いと考えられます。
 カウンセラーは親にカウンセリングを受ける必要があることを求めてもそれなりに成功しますが、対象が教師の場合全く歯が立たないといいますか、学校対カウンセラーという対立関係になりやすいので多分教師をカウンセリングの対象にしないのだと思います。

 教師を対象にカウンセリングできないため多発する猥褻事件などの防止が出来ません。病んでいるのは子供より親と教師、軽い場合、親には対処できても学校相手に組織ぐるみで隠蔽を平然と行える環境が整っている限り、カウンセリングは成功しません。
 児童虐待の場合親が問題ですが、親権云々の問題がありそう簡単に保護できないといえます。この点について多少法改正したみたいですが、あくまでも子供の保護だけで親に対するカウンセリングは法的不備が残っています。

 学校でのいじめに教師が加担するようなケースにおいては子供が自殺するなどして問題が表に出るまで学校側は責任回避行動をとります。
 職務に対する責任感より保身第一なんです。労働者として能力より遙かに高い賃金をもらっているわけですから、保身に回ります。

 スクールカウンセラーは大学院が必須ですから教員免許より多少ハードルが高いですが、コンプレックスを抱えた教師が多い学校からすれば消えてもらいたい存在なのでしょう。

 もう一つ言えば、精神科の医者、臨床心理士どちらもそのその人個人の能力の違いが出やすいと思います。

参考までに
症例A (角川文庫)
多島 斗志之 (著)
を一度読んでみたらかなり参考になるのでは無いかと思います。
小説ですが実にこの領域の現場でのことを忠実に再現しています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より