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教師は「世間知らず」でよい面もある

 教師の逆コンピテンシーの最たるものは,

 「言っていることとやっていることが違う」

 ことで,それで通用してしまうのが,「世間知らず」と呼ばれる理由の一つです。

 さらにつっこんで言えば,

 多くの場合,それに気づいていないということがありますが,それに気づいていながら,改善できない,改善する気がない,そういう面が,「世間知らず」で当然の「子ども」のレベルということなのでしょう。

 「子ども」以上に手を焼くのが,「教師の引率」であるという話は先日しました。

 教師は「社会人」としていかがなものか。そういう目が,「社会」から向けられているわけです。

 教育改革の流れの中には,「学校を世間並みの場所に」という意思が作用している面があります。

 以上は,自己反省の目を教師が自らに向けた場合の,「世間知らず」対応策です。

 

 気をつけなければいけないのは,この「世間」というものが,「教育」という仕事をする上で,マイナスの作用を及ばすケースもあることです。

 「世間」におしつぶされる,そういう「世間」のあり方に,苦しめられている人々も少なくない。

 阿部謹也は

 日本には「世間」はあるが,社会など存在しない

 という主張をして,輸入学問である「社会科学」にかかわる学者たちから顰蹙を買ったことがありました。

 学者にとって,「世間」というのは,「狭い」ものです

 教師もこの仲間に入れられれば,やはり「世間知らず」ということになる。

 しかし,教育公務員という立場で仕事をする場合,この「世間知らず」という面が,プラスの意味をもつことがあります。


 「世間」を構成する大きな原理の一つ,「贈与・互酬の関係」に影響されにくい,というものです。

 「贈与・互酬の関係」から脱皮できている教師の行動原理は,「世間の一員」ではなく「社会の一員」であることを重視します。

 人間関係を円滑にする手段として,大昔から,「贈与・互酬の関係」があり,これは相手を個人としてみるというより,その地位や身分に応じてとられる行動で,学校現場でも古くは「教師への贈り物」が当然だった時代もあったと思われます。

 贈り物を受けた教師は,必ず,その「返礼」としての「良い教育」を子どもに授けなければならない。もちろん,場合によっては「成績に下駄をはかせる」などの行為になる場合も考えられますが。


 「良い教育」を行うのはそれ自体が教育公務員の仕事であるはずなのに,「贈り物」を受け取ることによって教育が成立する現状は,沖縄県の公立高校の裏手当の実態を見ればわかるようにまだ存在していますが,少なくとも私が教師になってからは,子どもの親から「贈り物」を受け取ったことはありません(卒業時の花束とか記念品はありますが)。

 教師がこうやって古い体質の「世間」から切り離され,「社会」に生きる人間,独立した「職業人」として,ただ「職務を全うする」ことに全力を傾けること,「職務専念義務」を守ることができるようになることは重要なことです。

 ここで改めて,教師にとって,「団体」がいかに教育の足を引っ張っているかを重く受け止めざるを得ません。

 自分たちの狭い「世間」をつくりだし,「仲間意識」と同時に「入らないやつは仲間とみなさない」という「古い体質の世間」を地で行くような行動原理をもっている。

 法を重んじる態度がなく,慣習の世界で生きていく教師たち。

 これが,新しい社会の人々が生きる場としての「世間」から見えば,「世間知らず」の態度です。

 新しい教師たちは,古い社会の「世間」を地で行くような教師たちからは,あえて「世間知らず」と言われるように,仕事に邁進すべきです。

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コメント

自治体によっては,生徒の成育歴まで深くつっこんで「心の教育」をやっているところがあるようですが,私には違和感があり,どの生徒にも「同じような指導」をすることを前提にしています。

もちろん,保護者などから直接「配慮してほしいこと」を聞かされる場合もありますが,そういうときにも,「他の生徒と同じように指導します」と言い切ります。

子どもはとにかく教師に姿勢に敏感です。

子どもから「あの教師は,あの生徒には手加減している」なんて思われたら,指導はできなくなります。

ちょっと文化の違う地域があるようで,私の戸惑いはなかなか払しょくできません。

逆コンピテンシー、少し思い当たることがあります。
それは「反動形成」という行動パターンで子供によく見られるのですが大人にもそれを引きずっている人がいます。知り合いで教師をやっている人にこの「反動形成」が著しい人がいます。簡単に言えばあまのじゃくということなのですが、育った環境の影響があると思います。親から十分な愛情を受け取れなかったという、気の毒な事情です。
本人が意識して直す努力をすればいいのですが「反動形成」を意地でも通すようです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より