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大阪府の教員になりたくなくなった方のために

 私は東京都で生まれ,小学校から大学まで,東京都内にある学校に通っていたので,教員採用試験も東京都しか受けませんでした(東京都以外の教員にはなろうと思いませんでした)。

 本当は高校教師志望だったのですが,採用枠が「1人」だったため,中学校の教師に志望を変え,採用されることになりました。

 大阪府で生まれ,大阪府の学校でお世話になった教員志望の方の多くも,大阪府での仕事をしたいと思われていることと思います。

 郷土を愛する教育が自然な形でなされてきたのなら,そう思うのが当然だと考えてしまうのは私だけでしょうか。

 東京都のここ十数年の動きをふまえながら,大阪府の最近の動向を半分他人事のようにながめていますが,ニュースとしての価値もそこそこあり,報道もされているため,もし過大な反応をされることで夢をあきらめてしまうようなことがあったらもったいないので,一言,コメントをしておきたいと思っています。

 なお,私の基本的なスタンスは,「学校教育は失敗の連続である」というものです。

 どこでも,だれにでも,あり得るというか,なかなか上手くいっていないのが,学校教育だ,という立ち位置です。

 教育の理想が高ければ高いほど,そういう結果になりがちなのはご理解いただけると思います。

 教育の失敗の中で,個人的な問題のレベルで,たとえば教師による性犯罪,暴行などの障害事件,交通違反など,犯罪行為によって直接的にも間接的にも子どもが傷つけられるというレベルの問題は,とても重視している人…私自身も被害者の一人ですが・・・がいるのは理解しています。が,このレベルの「問題」はとりあえず除外しておきます。

 私の扱う「失敗」は,「日常的な失敗」が大部分なので,違和感を持たれる人が多いということもご承知の上,お読みいただければと思います。

 
 結論から言えば,自治体がどのような条例を出して学校現場のことをコントロールしようとしても,基本的には変われない教師というのは変われません・・・・というか,変わりません。

 よい授業ができない人は,どんなに研修を積んでもそう簡単には変わりません。

 国旗や国歌が大嫌いな人,人から強制されることが大嫌いな人,「権力」というものが嫌いな人は,どんなに論理的な説明をしてみても,何も変わりません。

 大阪府がやろうとしていることは,「問題」の教師を「変える」力にはならないと思います。

 では,そんな政策に何の意味があるのか,という話になりますが,一番大切なのは,「注目されること」にあると感じています。

 「そこに,大阪府がある」ということ。

 これを人々が意識することに,意味があるのです。

 東京都で,かつて「最底辺校」と呼ばれる学校がありました。

 高校1年生がみんなでアルファベットの書き方を学んでいる,なんて揶揄されていた高校です。

 この高校は,「注目されること」で変わっていきました。

 「注目」という表現は,ちょっと強いニュアンスがあるので,正確ではないかもしれません。

 「存在していることが認識される」。

 生徒たちにとっては,「先生が,自分を見ている」と認識する。

 「先生以外の人たちも,自分たちのことを見て,知っている」と認識する。

 これが「最底辺校」からの脱出の決定打になったと私は考えています。


 実は,教育の世界で最も問題なのは,

 「どんな教師も似たり寄ったり,同じようなものだ

 「学校は,どこも同じようなものだ

 「この学校は,落ち着いていて,『普通の生徒』が多い

 こうやって十把一絡げにされることで,実質的に,

 「存在が無視される

 という状況にありました。

 これも,ちょっと表現としては適切ではないかもしれません。

 「軽い存在」という言い方も,ちょっと違います。

 マンションにお住いの方は,二つ以上隣の部屋の住人の名字が言えますか?

 家族構成を知っていますか?

 そんな感じの「存在は知っているけど,具体的には何も知らない」存在。

 学校教育は,社会全体の中では,それほど「無関心」・・・「軽関心」?の対象であるのです。特に,公立学校はそうです。

 私立学校の場合には,雑誌広告というものも存在しますし,「制服でその学校とわかる学校」もありますから,「存在が社会から意識される対象」であり得るのです。

 公立学校は,特に高校で気の毒なところは,「地域にこんな学校は存在しないでほしい」と思われてしまう場合もあることですね。

 こういう社会全体の風潮の中で,大阪府で進んでいる「維新」は,東京都の路線とはちょっと違った意味をもっているように思えます。

 政策の実行には,「正しい」やり方と「上手な」やり方があります。

 大阪府の路線を進めようとしている側も,反対の側も,「正しさ」にこだわっているようなところがありますが,学校が変わる原動力は,最終的には,学校現場における「上手さ」がすべてです

 新しい動きは,「上手く」取り入れることで,学校は見違えるようになっていきます

 そのチャンスが到来したのが,今の大阪府だと私は感じています。

 教育という世界に,「正しさ」と「上手さ」という別々の尺度をもってくること自体に,「正しさ」にこだわる人は反対でしょうが,「上手さ」さえ発揮できれば,想像以上の成果が上がるのが教育なのです。

 歴史的な長いスパンで考えれば,その「上手さ」が,「正しさ」に変わっていく可能性すらあります

 何でもかんでも「反対する」のは,簡単なことです。

 しかし,環境を変えられて,初めて「本当の力が発揮できる」人も大勢います

 そういう「維新」の動きを体感できるのが大阪であり,特に若いうちに,こういう環境を経験できることは,恵まれていると思われてきます。

 最終的な決定は,ご自身でなさることですが,採用試験では必ず「踏絵」のような質問がされますから,条例の意図をよく理解された上で,チャレンジされる方にはぜひともチャレンジしていただきたいと考えています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より