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教育劣化の主因を隠す行為は,「容赦」できません

 職場を離れても,「生涯現役教師」という気持ちは捨てない。

 そういう気概を感じさせていたただきました。

 現場を支えてきたのは,教師たちである。

 自分の仕事に関して,自負がもてることはすばらしいことです。

 しかし,「おれたちは頑張ったんだぞ」と自分で言うのは「公務員」たる「教師」らしくありません。

 それは,「教育を受けてきた」国民,市民が言うことです。

 それが,「公務員」というものです。

 公務員は,「奉仕者」なのです。

 「奉仕者」は,「おれは奉仕したんだ」と威張るべき存在ではありません

 「一般の労働者」とは違います。

 「一般の労働者」が必死に働いて得た稼ぎの一部をもらって仕事をしているのが「公務員」です。

 

 さて,クラスの子どもの人数が「45人が多い」のは,たしかなことでしょう。

 40人を基準にして教室の広さをつくってありますから。

 では,「5人」なら,本当に十分満足な仕事ができるのか。

 それを自問自答する必要があります。

 「5人」を相手にしても,「40人」のときと同じような仕事しかできない教師もいます

 「5人」ではなく,「40人」だからこそ,一人一人に身につく力もあります

 小規模化すれば,教師の負担は減るかもしれませんが,教育効果が高くなるかどうかはあやしいのです

 学力面だけをとってみても,単純に,小規模校と大規模校を比較すればその意味がわかります

 行政はそれを内緒にしていますが。

 今,実質的な学級規模はどうなっているかご存知ですか?

 30人以下の学級が当たり前になっています。

 35人学級を無理におしつけようとすると,

 生徒が集まって人気がある学校に入れる子どもが少なくなってしまうという逆の問題もあるのです。

 行政の指導を,「注文や文句」という受け止め方をすることが,教育公務員が信頼されない第一の理由であることは,今までこのブログで繰り返し述べてきました。

 結局,「あまりにも劣悪な・・・」の具体例をあげればあげるほど,教師の資質や能力が問われる現実を自ら直視しなければならなくなる

 だから,具体例はあげることはできないと考えていました。

 「注文や文句」と受け止められてしまう「指導」は,法令にのっとったり,国民や市民の声をもとに行う仕事であり,義務でもあります。

 しかし,授業を放り出すような出張命令を校長に出させる,そういうことは,そもそも「教育の目標」の実現を妨げることであり,法令に背く行為ということになります。
 
 こういうことの是非はきちんと問わなければなりません
 
 自校の教員に「出張命令」を出すのは校長です。

 教育委員会が出しているのは「出張依頼」です。ここを勘違いされませんように。

 校務に支障が出る場合は,校長は命令を出しません
 
 そうでないと,法令に違反することになるのです。

 では,実際に,出張しない人は少ないのはなぜか。

 それは,出張の日は,かなり前からわかっていることですから,たとえば全員の先生が校外に研修に出る日は,午後の授業をカットして,他の日に振り返るとか,出張する人が個人なら,中学校の場合は時間割変更をするとかして事前に対応をしているからです。

 「退職教師」様のコメントを読む限り,「人手不足のため対応不可能」と読めましたが,私も小規模校勤務の経験があるからわかるのですが,それは「言い訳」にすぎません。

 さて,出張先の用務内容ですが,その内容について,直接,校長を通して教育委員会に「意味のない出張依頼はしないでほしい」という要請はされたことがありますか。

 私の指導主事時代は,次年度の研修等の計画は校長会の許可を得て,3月上旬に決定しています。そして,それぞれの内容も,あわせて3月中に各学校に周知することになっていました。だから,「意味のない出張」にならないように,あらかじめ各学校にとって必要な内容を整理し,各学校の発表等のための事前の準備が計画的にできるように配慮していました。

 地域の教育の充実のため,教育委員会と学校が一体となって努力している,そういう姿がないのは,悲しいことです。

 特に,「上から下にしか情報が流れない古すぎる体質の自治体は,早く改善しなければなりません。

 今は,そういう時代ではないのです。

 教育委員会も評価されて当然の時代です。

 「退職教師」様の言いたいことは,

 「ひどいことを要求されている。でも,逆らえないから仕方がない

 これに尽きるのだとしたら,水俣病を起こした原因企業の労働者と同じレベルと言わざるを得ません。

 評価されるべきなのは,県だけでなく,市町村もです。

 そういう問題を「隠す」罪は,退職をされているにしても,軽いものではないはずですよ。

 結局,守りたいのは子どもではなくて自分。そんな公務員は存在の本旨からはずれています。

 ですから,「匿名」なのに「問題の自治体」を隠す,かばう,そういう行為は「容赦」できません

 実は,私が,「退職教師」様に,怒りを覚えているのです。

 大切なのは,だれなのか。

現場を離れたあとも,守るべきものは何なのか。
 
 もし,「生涯現役教師」という気概をもっていらっしゃるのだとしたら・・・。

*********************

「退職教師」様からのコメント

毎日の精力的な書き込みに敬意を表します。小生は休み休みしかできませんが、お付き合い下さい。腹を立てているようなことは全くありませんよ。むしろ若かった頃の自分の物の言い方のような感じを受けています。

さて、
空調・トイレ・指導書の類のことは単に劣悪環境の一例として挙げたにすぎません。
 >汗だくで仕事をするのは教師だけではありません。 汗だくで仕事ができる職業に魅力を感じる人もいます。
しゃがむ姿勢を子どもに教えることも大事です。洋式便器が「完全なもの」ではありません。>

こういう考え方感じ方の問題ではありません。単に劣悪の一例です。「劣悪」をあげつらうときりがないのでやめますが、最大の「劣悪」は40人という学級員定数(何年か前までは45人でした。前にも書きましたが小生は50人まで担任したことがあります。)

でしょう。40人もいては、毎時間一人の教師が全員を細かく見届けていくことは絶対的に不可能ですよ。不可能なことを行政はずっと現場に強制してきました。にもかかわらず日本の教師たち(私たちの先輩)は、子どもたちのために粉骨砕身してきたのですよ。戦後の我が国のここまでの発展に最も寄与してきたのは、識字率を初めとした民主教育の質の高さです。それを支えてきたのは45人もの子どもを受け持ち、身を粉にしてきた、日本の教師たちです。行政の力ではありません。このことは是非とも貴君には気づいて欲しいです。

小生も戦後の民主教育に、37年間の教師生活の中で、ほんのわずかでも貢献できたことを密かに自負しています。ご存じとは思いますが、先進諸国の中で40人という学級定数の国はどこにもありませんよ。小学校では15人~20人の国が圧倒的です。とにかく、教育には金をかけず、現場の教師には注文や文句をつける、こういう文科省を頂点とした教育行政の長年月の悪弊が、日本の教育、学校、子どもたち、教師たちをいまだに苦しめているのです。小生は、日本の教育の悪の根源は文科省とそれに連なる都道府県教委だと思っています。

「出張」に関わる件です。
前回のコメントは、中学校勤務のときです。ま、それはともかく、前記のような出張は「教委」が命令してくるものですから、およそ現場では拒否は不可能ですよ。こんなことは指導主事経験がおありの貴君にはおわかりだと思いますが。問題は授業のある日に、およそ大して役にも立たない、こんなことを仕組んで、出席を強要してくる行政ですよ。行政が余分な出張を作りすぎなのです。前記のような出張の講師は、たいてい指導主事です。陳腐な内容(およそ自分の実践がない、実践に裏付けられていない。)、文科省の文書内容そのもののような話を聞かされる苦痛はたまったものではありません。ですから、小生は前記のような出張は大嫌いでした。嫌いでも行かねばならないのが、現場の平教員なのですよ。子どもたちと、ゆっくりたっぷり一緒にいたいのにですよ。初任者研修などはこの極み、一刻も早く改善したいものです。出張すれば、自習が増えるのは当然のことです。代替え教員のまともな授業など望むべくもありませんわな。大体、人手不足が慢性化の現場ですからね。小生の勤めた県などは、教員の法定数すら正規教員で満たさず、細切れの臨時時間給講師で凌いでいるんですよ。またまた、県名を聞きたいと思われるかも知れませんが、いろいろ差し障りが出るのであくまで匿名です。
さて、貴君以上に長くなってしまったかもしれません。ご容赦願います。貴君のコメント楽しみにしていますが、現場におられる方ですから、時間的にどうぞ、ご無理のないように。

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コメント

実に精力的な書き込みに改めて敬意を表したいと思います。
貴君の書かれた大量な記事を今、少しずつ読んでいます。
非常に危険性を感じるものが多いですが、中でも「道徳の教科化」
の考えにはなんとしても組することはできませんね。
あまりにも危険で非人間的だからです。
さて、これ以上はまた後日論ずるとして、

<「奉仕者」は,「おれは奉仕したんだ」と威張るべき存在ではありません。 「一般の労働者」とは違います。>についてです。
威張るつもりで書いたのではありませんよ。貴君が、あまりにも現役教師や私たちの先輩教師の功績・苦悩等々に無理解に論じられるので、わかって欲しいと思うのです。
それから、教師も一般の労働者となにも変わりませんよ。企業利益からか税金からかの違いだけで、日々、教育労働者として働く労働者です。そして、圧倒的に多くの教師は教育労働者として強い誇りを持っていますよ。貴君は教職をなにか特別なものに考えていませんか。公務員という用語をよく使われますが、たしかに公務員ではあるが、その前に、子どもたちのために働く教育労働者であるんですよ。このことをしっかり腹に入れておかないと、多くの労働者=多くの父母と手を結んだ教育実践はできず、一人よがりの実践になってしまうのです。

<今,実質的な学級規模はどうなっているかご存知ですか? 30人以下の学級が当たり前になっています。>

良く知っていますよ。「30人以下があたりまえ」などということは、全国的には全くありませんよ。小学校低学年・中1だけは35人といったように、僅かずつ部分的に改善が進んでいるのが正しい現実です。
それも長い年月の間、多くの広範な父母・教職員の切実な願いを署名などの方法で行政に訴え続けてきた賜です。こうしたことがなかったら、行政は決して学級定数削減に理解を示そうとはしなかったでしょう。
しかし、まだ道半ば、いえいえまだスタートしたばかりです。子どもたちの幸せのために、この運動はまだまだ続くでしょう。貴君もよくご理解くださって、署名の一筆なりともご協力下さることを切に願うものです。

<「5人」を相手にしても,「40人」のときと同じような仕事しかできない教師もいます。
 「5人」ではなく,「40人」だからこそ,一人一人に身につく力もあります。
 小規模化すれば,教師の負担は減るかもしれませんが,教育効果が高くなるかどうかはあやしいのです。>
この種の議論は、40人という大人数学級を押しつける行政を擁護するためにするものであり、コメントに値しません。貴君が教師と言うよりは余りにも行政よりであること、(たかが指導主事を経験されるとそうなるのでしょうか。)、現役教師を悪く言われることが悲しいです。圧倒的多くの現場の教師たちは、本当に日々頑張っておられるのですよ・・・・・・。

<行政の指導を,「注文や文句」という受け止め方をすることが,教育公務員が信頼されない第一の理由であることは,今までこのブログで繰り返し述べてきました。>
ここらも全く見解の相違があります。
端的に言えば、本来行政のすべきことは、「指導」ではなく、教育現場の「支援」・物心両面での「環境整備」なのですよ。このことは戦後、教育が「不当な力に支配されない」ために守られねばならない大原則なのです。行政の現場への過剰な介入が、どれだけ子どもたちや教師を苦しめてきたことか、これまた、枚挙に暇がありませんよ。そしてさらに不幸なことには、行政が現場に押しつけてきた教育政策なるものに、何一つまともなものがなく、何一つ定着せず、現場を苦しめるだけになっていることです。
ちょつと振り返ってみても、特設道徳、クラブ活動(部活ではないですよ)、総合、選択授業、ゆとり教育等々、まともに機能し定着したものは殆どないのです。これを貴君はいったいどう思いますか!!

さて、最後は「出張」云々です。
貴君の言うようなことは、失礼ながら、全く現実的に馬鹿馬鹿しい気がします。市町村教委・都道府県教委・文科省に限りなく弱いのが現場の管理職であることを、貴君は知らないのですか?!

<私の指導主事時代は,次年度の研修等の計画は校長会の許可を得て,3月上旬に決定しています。そして,それぞれの内容も,あわせて3月中に各学校に周知することになっていました。だから,「意味のない出張」にならないように,あらかじめ各学校にとって必要な内容を整理し,各学校の発表等のための事前の準備が計画的にできるように配慮していました。>

こんな「配慮」で役に立つと思っているのですか?なんの役にも立ちませんよ。現場に
本当に必要なものなど出て来ませんよ。はっきり言って、現場には指導主事等やっかいものであり、指導主事訪問などはlご機嫌とって気分良くお帰りいただく、そんなことに腐心しているのです。半日やそこらの教育活動をみて、悪く言われたのでは、現場の管理職はたまりませんからね。ですから、帰られたあとは、たいてい批判ゴーゴーが多いですね。前述の「出張」云々も、実は指導主事の仕事を作ってやっている側面が強いですね。

少し過激にすぎ、また長くなりすぎました。ゆっくり長くお付き合い下さることを期待しています。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より