ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「問題はない」ことにするのが最善策 | トップページ | 批判のための批判の典型 »

こういう教師が一人でもいたら,放置してはいけません

 こういう教師が学校に一人でもいたら,黙って放置するのは許されません。

 しかし,そういう教師がいることに,同じ学校の教師でも気づかない場合があるのが小学校です。

 中学校の場合は,帰りの会で様々な反省が出されたり,学級日誌に記入されることから,どこかの授業が問題だなということを担任が気づくことができます。

 しかし,小学校は担任だけがほとんどの情報を握っているので,子どもが話さない限り

 「情報が漏れる」

 心配がない。

*********************************

その先生は、授業中気まぐれで、市長の娘を褒めちぎってみたり、教科書にある解らない単語を調べさせて、毎回当たるだけという授業でした。調べるだけなら国語辞典や百科事典を使って調べます。肝心の授業らしきことは全くといっていいほど何も無く、南京事件の百人切りの話をしたり、根拠の不明確なことばかりを押しつけ、大変混乱させられました、授業中はったりで俺は何でも知っているから質問してみろみたいな事があって、だれかが教科書にあった「アルマイトの鍋」という記述があり、「先生アルマイト、って何ですか?」と質問したら。その先生ははったりで、「アルミに鈴をメッキしたものだ」と答えたので、私は「先生それ違います、アルマイトはアルミに電気分解で酸化皮膜を付けたものです」と、国語辞典にも載っているほど簡単なことなのでそのページを開いて先生のところに詰め寄りました。

ごまかし、嘘、はったり、気まぐれのほめ言葉(当時は政治家のコネ派当たり前、市長からのコネで入った先生と丸わかりでした)
そして逆ギレ、精神構造はだだっ子そのものという先生でした。

子供にとって困るのは、気まぐれで態度が豹変すること、同じ事をして、褒められること
逆ギレされる子がいるという事実。子供にとって必要なことは変わらない態度であると思います。悪い点があればはっきり注意すればいいのですが、その注意のしかたも、気まぐれ、時につるし上げやさらし者にするということは平然のごとく行われていました。

**********************************

 こういう話を,「ああ,いた,いた」

 と笑って振り返ることができる余裕のある人間が多いのは平和なこの国の象徴的なことですが,傷ついている人がいても,

 「それはその人の心の持ち方の問題だ」

 「みんなが気にしなければ,それでいいのだ」

 といって「個が抹殺」されるのはいつでもどこでも起こり得るのが学校現場というところです。

 同調性圧力の強さに抵抗することで起こるいじめは,こういう教師には防げません

 だから余計に,こういう教師を放置してはいけないのです。

 今回,匿名さんからのコメントで私がなるほどと思ったのは,

 以下の内容です。

**********************************

大人の陰口をきかされる事も、私はいいことでは無いかもしれないけれど、少なくとも私には許容範囲です。ネガティブな部分を全て隠すという不自然な人は信用できないと思います。

子供時代を振り返ると、学校で発言や、作文という課題に対して、歯の浮くような美辞麗句をならべることばかり強制されていたようで、長くそういう経験があると、バランス良く物事を考えるのに支障が出てくることが解りました。

ネガティブなことを全てカットして出来たことが顕著に解るのが英語の教科書です。
いわゆる俗語を全部排除してジョン万次郎のころのコミュニケーションだけで押し切っています。

コミュニケーションにはバランスが必要で、ポジティブな用語だけで何でも伝わるというわけにはいかないのです。

ネガティブな感情、「怒り、悲しみ、憎しみ、拒絶、不安」などを出さない子を求め、それを美徳として育てられたらどうなると思いますか?

授業中、ネガティブな感情を全く出さない子供たちへの授業というのがうまく上手に出来た授業であると勘違いしている先生というのが多いと思います。

一人一人理解度も異なり解らなくなったところがそれぞれ違います。それ故ネガティブな「不安、拒絶」を出してくれる方がどこで解らなくなっているか把握しやすいのです。

子供にも、先生のネガティブな面を少し見せられると、「先生も同じ人なんだ」という認識を持てるようになると思います。(量的質的問題は極力注意する必要があり絶えず自分自身にフィードバックする必要があります)

子供が不安を持っているとき重要なのは先生がその個別の不安に逃げではなく、状況によって優しくも、力強くも、その子にあった後押しをすれば良いのです。
意外と、同じところでつまずいているという状況が多いと思います。特殊なケースは個別にフォローするのがいいかもしれません。

*********************************

 学校の教師が,自らの問題を問題として認識できない理由が,少しずつ解明できそうなヒントをいただきました。

*********************************

やる気のスイッチですが、「池上章」氏の解説、上手だと思いませんか?
かれは興味をそそるような問題の投げかけ、状況の解説を先に行います。
そして、「皆さんこういうときどうしますか」と自分だったらこう考えるというタイミングを与え、詳しい解説を始めます。やる気のスイッチというのは、一瞬で入るものでは無く、徐々に気持ちが高まる効果が必要なのだと考えています。

*********************************

 スイッチというたとえは,四コマ漫画の「起承転結」でいえば,「転」にあたる部分ですね。

 徐々に気持ちを高める指導ができる学校で教育できる先生は,それだけで幸せです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 経営ブログ 仕事術へ

« 「問題はない」ことにするのが最善策 | トップページ | 批判のための批判の典型 »

いじめ問題」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

学校評価」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/54158890

この記事へのトラックバック一覧です: こういう教師が一人でもいたら,放置してはいけません:

« 「問題はない」ことにするのが最善策 | トップページ | 批判のための批判の典型 »

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より