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2012年3月

教育管理職の仕事で最も大切なのは?

 匿名様は管理職だったのでしょうか。とてもくわしいですね。以下,斜体の部分が匿名様からのコメントの内容です。

>管理職の仕事は、
部下を育てる事が一番重要です。そしてやる気を無くさせないこと、やる気は子育てと同じで、やる気をつぶす行為が一番駄目で、望んでいる方向と少し違っていてもへし折らずに軌道修正を自分で行えるように誘導するのが良いでしょう。

 教育管理職としての校長や副校長は,「教員を育てる」仕事をしているでしょうか。

 それは,難しいですね。

 企業で言えば,校長は社長であり,たとえば「経営理念」をしっかりもって,それを教員に浸透させてくれるようなリーダーシップがあるのなら「教員を育てている」と言えるでしょうが,現実はどうでしょう。

 副校長は,副社長というより,「総務部長」です。

 悪く言えば,「雑用係」。

 (「雑用」にしない仕事術については,以前にも述べました)

 教育管理職としての校長や副校長は,現場の経験からすれば,ほとんど一般の教員とは「違う仕事をしている人間」になってしまっていますね。

 高校の先生は,名前すら知らない方もいたでしょうが,毎日の週案の提出の義務付け

 こういう管理の仕方は,事の起こりは「団体」による「不適切な教育」の監督が必要になった,ということでした。

 だれが,どの時間に,どんな内容のことを教えているか,管理職が把握すべきだ,なんて,真に受けていたらたいへんなことになりますね。

 しかし,本当に真面目な副校長先生は,この週案に,赤字で,欄外にはみ出すほど書き込みをして,教員に返しているそうです。

 口で説明すれば,とお思いでしょうが,教員の方に説明を聞くゆとりがないので,書いて渡す。

 小学校ではよくあるパターンですね。

 副校長先生の中には,同じようなことを,学級の児童にしていたのですが,管理職になってそれができる対象がいなくなってしまったので,若い先生に対してやっている,そんな人もいます。

 ここまで手取り足取りやることが,「管理職」としての仕事でしょうか?

>その次は予算云々の管理ですが、事務方は全てどの学校にもいますから、要求された予算の調整、そして必要な予算をきちんと説明できることであって、決して不思議なやりくりをすることでは無いということです。

 高校に比べ,小中はあまりにも財政的には乏しいのが現状ですね。消しゴム1つでも,もらいにくいという学校もありました

>そして最後に、目標の適切な設定です。目標というのはそれぞれの人に対して違うのが当然で、全体目標=不登校解消なんてやったところで、それじゃ具体的に何をすれば良いのか判断に迷うはずです。管理職が命令するだけではなかなか人は動きません、個別に適切な付加を踏まえた上でそれぞれの人にかなり努力すれば達成可能な個別目標にかみ砕いて与えます。抽象的で漠然とした目標で、部下の前で凄んでみせるような人では(パワハラ)馬鹿にされるだけです。

 以前に記事にしたことがありますので詳細は省きますが,東京都の場合,各教員が「職務目標」を「学習指導」「生活指導」「研修」などの項目で設定することになっています。
 各教師が立てた目標には,達成の難易度も示すようになっていて,難易度の検証と,その教員がやるべきことの検証を管理職といっしょにするのです。年間3~4回は面接があるでしょうか。この場面のやりとりを聞くことができれば,管理職と教員の資質や能力がわかります

>あまり関係ないかもしれないけれど、研修で出張の時は何を見てきて何を学ぶのか、個別に予習復習に付き合う必要があると思います。夏休み以外では授業時間の調整も必要でしょうね。

 出張時の授業時間の調整は,教務部の教員(だいたいどこの学校でも時間割担当がいる)が行います。

 指導主事にはあるのですが,普通の教員には「出張復命書」がありません。ここには,研修の内容,成果と課題などを書くことになっています。

 これを義務付ければ,「何を学んできたのか」が分かりますし,その内容について,研修会のこの場面でこういうことを話してくれ,という指示も出せるのですけれど。

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「頭のおかしい人」よりdolceさんへ ~私の指導力~

 dolceさんは,

>採用試験とは何か、指導力とは何かを分析して考えたことがないか、考える力がないから、こういう狂った発言(=採用試験に合格して、指導力のない教師より、コネで入って指導力のある教師のほうがいい)をすることになる。

 と発言されていますが,私は,採用試験問題の分析をしたことがあるし,指導力については「教師のコンピテンシーモデル」「逆コンピテンシーモデル」を示しているので,

 採用試験の課題

 教師の指導力不足の問題

 については,ブログの内容をお読みいただいた上で具体的に批判してもらわないと,答えようがありません。

 最後には,

>ちなみに、発言したあなたは指導力があるのか?

>どのくらいの子どもたちに尊敬されているのか?

 というおたずねなのですが,確かなことは,

 dolceさんには「わかりようがない」ということです。

 「指導力のなさ」に正対できない人には,「指導力があること」の意味が分かりません。

 dolceさんが「そうだと思う」はずはない,それで,十分です。

 dolceさんがどのような指導力をもち,子どもたちから尊敬されるような人かどうかは,次の発言からわかります。

>思考の土台が狂っているから、あとは何を発言しても信用がない。

>教育に携わる人間が、こういうバカなことを言うから、学校教育が軽く見られる。

>「教師になる人間は、頭が悪いのだ」と言われてしまう。

 dolceさんが人に投げかける言葉こそが,dolceさん自身が定義した,「ある人間」の言葉であり,このことが,docleさんのすべてを物語っているのです。

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「頭のおかしい人」よりdolceさんへ ~教員採用について~

 また「教育に情熱をかける教師のために」に「頭のおかしい人」=私が登場しました。

 久々にdolceさんによる「クリーンヒット」ですね。本領が戻ってきました。

 記事のタイトルとは何の関係もない内容で登場するあたりが,いいところです。

 私=「頭のおかしい人」による,

 「採用試験に合格して、指導力のない教師より、コネで入って指導力のある教師のほうがいい

 という,ある話題の中での極論を持ち出して,非難してくるとともに,「指導力のある教師」と「指導力のない教師」の違いがわからない,という疑問を投げかけていただいております。

 教師のコンピテンシーのほか,「指導力のある教師」だけでなく,「指導力のない教師」の事例はたくさんこのブログで紹介してきていますから,お読みいただくしかないのですが,ここではあらためて,

 「指導力のない教師」と「コネで教員になれた指導力のある教師」とどちらがいいか,考えていただきたいと思います。

 「コネ」に関していやらしいイメージしか持っていない人には,次のようなケースも考えてみてください。

 大きな手術をするのに,どんなに評判が悪い病院でも,免許をもっているのだから,医師はだれでもいい,と思うか,信頼できる人から紹介された医師を選ぶか。

 どうですか。

 「頭のおかしい」私の言いたいことは,二つあるのですね。

 現行の採用試験が,必ずしもよい人物を選抜できていないこと

 つまり,現行の採用試験で選ばれた教師の中に,極度の指導力不足や犯罪行為に走るような人物がいること。

 もう一つは,学校現場は,本当に指導力のある教師を強く求めていること

 このことから,極論ですが,コネがある=信頼できる人物のお墨付きがある人物で,そのことがあるいは合否に有利に働いて,採用試験に受かり,期待どおりに指導力を発揮する人物の方が,「ミスチョイス」した人物よりも子どものためにはなるだろう,という考え方が生まれているのです。

 「それはおかしいぞ」という意見があるのは当然,わかりますよ。

 しかし,「採用試験を通っているのだから・・・」という言葉に何の説得力もないことは,教師はともかく,子どもを学校に通わせたことがある親なら,わかることでしょう。

 現実問題として,教員採用試験で「教員として適切な仕事がこなせるとは考えにくい人」が合格しており,その見直しは「大量採用の時代」を迎えるにあたって,絶対に欠かせないことなのです。

 採用試験への合否を左右するものが何であるか,dolceさんはわかっていません。

 それは,dolceさんが一番嫌っているものなのですね。

 要は,ペーパーテストができること,これでまずはじかれてしまう「優秀な人材」がたくさんいる。

 これは,とても多くの非常勤講師の先生に接してきた私は,はっきりと断言できます。

 「早く合格してほしいな」という人がたくさんいます。

 そして現場の学校内を見れば,「こんな人でも受かっているのに」という教員がいる。大量採用の時代の人がすべてとは言いません。

 教員採用のあり方,そして,現職教員の指導力不足の問題,これに対する多面的な解決方法として,現場でかなりの経験と実績を積んでいる人物,あるいは特定の分野で非常に大きな功績を残した人物などを,積極的に登用するような採用のあり方を,民間人登用と同じように進めてほしいという願いがあるのです。

 「仕事のできる人」であるかどうかは別として,

 私は「裏方」に甘んじている,力もあれば,情熱もある,そういう非常勤講師を知っているのです。

 そういう人は,みなさんの学校現場にはいませんか?

 dolceさんのように,

>指導力があり、かつ教師としてふさわしい人が漏れてしまうような試験はおかしい。
>そんなおかしな試験をやっているのだろうか?

 といって,教員採用試験の内容も,倍率も,何もわかっていない人が,簡単に教師になれた時代ではないのです。

 ご自分がさんざん記してきた「テスト」についてのあれこれが,単に人を非難するためだけのものだったことが,こういう場面で露呈してしまうのですね。

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教育現場の負荷を減らす政策

 教師たちにとって,仕事にかかっている「負荷」とは何でしょうか?

 と問われれば,たとえば「各種調査への対応」があげられます。

 仕事量としてはそれほど多くはないのですが,「自分のため」「目の前の子どものため」の仕事ではないと感じるため,「負荷感」が大きい。

 決して表には出ない「負荷感」の大きなものは,

 「配慮を要する子ども」「配慮を要する保護者」への対応です。

 原因が学校側にあるのならまだいいのですが,そうでない場合は,「徒労感」が大きく,

 何もないときでも,「今度はどんな場面で・・・・」などという不安がまとわりつき,

 つねに「負荷」がかかった状態で過ごさなければなりません。

 「無力感」に襲われる教師の中には,悲惨な結末を迎えることになるケースすらあり得るでしょう。

 
 また,今となっては信じがたいところですが,

 昔,教卓の椅子に腰かけたまま授業をしていた教師がいました。

 こういう教師にとっては,「立ったまま話す」という身体的な「負荷」が課題だったのでしょう。

 

 教育現場には,実に様々な「負荷」があるものです。

 そして,その多くは,「取り除くことができない」ものです。

 ですので,「負荷」の絶対量を減らすことは(一般の教師にとっては)困難なのですが,

 「負荷感」を減らすことは不可能ではありません。

 そのキーワードは,

 前向きな雰囲気のもとでの

 意見交換情報交換です。

 調査結果に,どのような意味があるのか。

 調査結果が,どのような理念の実現に結びつくのか。

 子どもは,何の実現で意欲を高めるのか。

 保護者は,何の実現を求めているのか。

 こういう「理念」「理想」「目標」に関する相互の理解と納得ができて,

 たとえば筋肉への「負荷」が筋力を作り出し,その効果に気づくように,

 意味のある「負荷」という実感がもてるようになります。

 今,目の前にある「負荷」がなければよいのに,と嘆いたり,愚痴をこぼしたりしていても,実際にその「負荷」がなくならない以上は,何も始まらないばかりか,逆に「負荷」感は増していきます。

 「負荷」に対するイメージの転換ができるような教師の行動原理が,子どもの成長を支えていく原動力にもなり得ると私は考えています。

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だれからも学べない人から学べることがある

 話題をふってくれたdolceさんに感謝いたします!

 どうぞ,「頭のおかしい人」よりdolceさんへ ~教員採用について~

 と,「頭のおかしい人」よりdolceさんへ ~私の指導力~

 もお読みいただければと思います。

******

 大量採用の時代の50歳代教師に限らず,狭き門をくぐってきたはずの若い教師にも,「学べない」人がいるのは確かです。

 同じ失敗を繰り返す

 ということは,失敗を失敗と自覚できない

 自分の(なのか,ある組織の,なのか,本に書いてあったこと,なのかは判然としませんが)やり方に固執する

 批判されるのを極度におそれ,避けようとする

 ここまでなら,まだ何とかなる範囲ですが,周囲にもその「生き方」を押し付けようとしだすと,手に負えなくなります。

 教育委員会に限らず,公立の学校につとめている教師ならよくわかると思いますが,この世で一番「手がかかる」のは教師という職業の人々の教育です。

 子どもへの教育以上に,今まで,ほとんどの営みが「失敗」に終わってきたと思えてならないのが,この「教師教育」の世界です。

 教師になれた時点で,形式的にも実質的にも一人前の教師としての行動が求められるような小規模校では,特に,「失敗モデル」を目の当たりにできません。これが小規模校という環境の最も気の毒な点です。

 「完成した教師」であることを1年目から求められる

 学べる人は,もちろん実践の中で学べることがたくさんあるのですが,ときどき,「もう自分は完成した教師である」という暗示に成功した人がいて,「学ぶこと」をやめてしまう。

 大学で学んできたのだから,教育実習で単位をとったのだから,採用試験に合格できたのだから,自分は教師なのだ,と誤解している。

 大学で教えている人間は,この「失敗」による「被害」が自分にはねかえってくることがないので安穏としていられますが,現場にいる私たち教師にとっては,「教育できない教師」の存在は本当に重荷です。

 ときどき,正しい誤解?をする人がいる。

 「自分は教師に向いていないのではないか?

 これが,「正しい誤解」です。

 他の職業についている人でも,「もう辞めたくなった」と思うことが一度くらいはあるでしょう。

 そのときは,「最初にその職についたときの気持ち」=「初心」を思い起こすことで,立ち直れるのがふつうなのでしょうが,教師の場合は,「最初に教師になったときの気持ち」が誤解に基づいているものである場合,初心に戻ることがかえって状況を悪化させることにもなり得るので注意が必要です。

 こういうとき,実は頼りになるのが,「どうしてこんな人が教師を続けていられるんだろう」という人だったりします。何の進歩もしていない。教師になってから,何を学んだと言えるのか,自分でも決して説明できないだろうな,という人がいる。

 そこまで無神経というか,自分の問題をどこかに置いておける人というのは,「悟りを開いた人」にも見えるようなのです。

 これは両刃の剣で,自分も同じような「悟りを開いた人」になってしまう場合もあり,こうやって「再生産されるのだな」とも感じるのですが,多くの人は,「これではいけない」ことに気づき,ようやく「教師の社会的責任」を自覚できるようになるのです。

 あなたが教わってきた先生たちは,どのような「社会的責任」を果たしてきたのでしょう。

 こういう問われ方をすると,「教育」とは何か,ということを改めて考えさせられてしまう,という感覚になってくれれば幸いです。

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東京スカイツリーと「いじめ」

 ニュースと言えば,定番の「東京スカイツリーネタ」が,TVでもちょくちょく見られるようになりました。

 地元を訪れればわかると思いますが,あの場所は「住宅地」「工場街」でもあるのです。

 「迷惑している人たち」が,「私たちは迷惑をしている」と言えない,そういう盛り上がり方をしていることを,私は一種の「いじめ」であると考えています。

 こういう報道の「偏り方」が,日本社会の最大の特徴でもあるでしょう。

 「あんなの迷惑だ」という率直な気持ちを言葉に出せば,

 「盛り上がりムードに水をさすのか」

 という反応が必ずやってくる。だから,思っていても言葉に出せない。

 まもなく花見のシーズンになり,隅田川散策からスカイツリーに向かう人も多くなるでしょう。

 必ずTVは「開業までのカウントダウン」などを始めて,

 お祭りムードをあおっていくことになるでしょう。

 しかし,これは一種の「いじめ」でもあるのです。

 教室で,「いじめ」のような行動が,「ノリ」で広まっていく。

 そこに「やめようよ」なんて「しらける」言葉を発すれば,自分が次のターゲットになることがわかっている。

 冷静に考えてみれば,開業前の東京スカイツリー周辺に「トイレが少ない」なんて,当たり前のことです。

 でもそれが「問題」になって,慌ててトイレを増やす。

 住民へのサービスよりも,「金を運んでくる人間」へのサービスが優先される。

 そんな社会がいい意味で長続きすることはないでしょう。

 東京スカイツリー開業でお祭りムードが高まることが,地元住民に対する「いじめ」につながる。

 これは決して「飛躍」ではないという感覚が,頭から離れません。

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ニュースがないときのニュース=教員の不祥事

 テレビのニュースを見ていていつもため息をついてしまうのが,

 「ニュースらしいニュースがないときのニュース」

として,教員の不祥事が報道されるときです。

 いくらでも「ストック」があって,重要なニュースがないとき,いつでも出せるようにしてあるもの。

 何とも情けない話です。

 例の「競艇場で通知表」の先生は「依願退職」したそうですが,それを聞くと,「ふだんから問題を起こすようなタイプの先生ではなかったんだろうな」と改めて自分の直感を信じたくなってきました。

 教員バッシングが激しい時期だったら,今度は「退職金は受け取るのか」などという激しい意見が起こってもおかしくないかもしれませんが,日本ではそういう教師の行動に「熱心な先生なんだから許してあげて」という声があがるであろう「ゆとりのある社会」なので,「異動ですます」という選択肢もあったはずなのです。

 今日のニュースの中では,「遅刻が多い問題の校長」が紹介されていました。

 その事例については,背景など詳しい報道はありませんでしたから何もコメントできませんが,「校長がいなくても何の問題もない」のが「よい学校の条件である」という話が教員の側にある一方で,「管理職は何のために存在するのか」が一般の方=生徒として,校長や教頭,副校長への印象が少ない方々にはよく理解されないのも問題かなと考えています。

 おそらくどの「田舎」でも,現在の50歳代がいなくなる10年後には,「管理職人手不足」の問題がおこってきます。

 一応,東京都の場合はそれを見越して,「管理職候補者」に対する研修を強化してきましたが,やはり倍率が下がると厳しいようです。

 研修で身に付く部分以上に,教育管理職の場合は,「人望」というものや「戦略的思考」が重要になってきます。これは,なかなか「教えられるもの」ではなく,「学べるもの」でもない。

 いつの間にか,「身に付く」ものです。

 それは,どの人にも平等にやってくるチャンスではない。

 私の経験から申し上げれば,一定規模以上の学校で,学年主任の補佐として仕事をしっかり理解しながら実践してきて,成果を上げた人,でなければ,「よい管理職」になるのは難しいでしょう。

 信念が全く異質な労働者集団も,「一緒に仕事をしている」感覚がもてた人でないと,「よい管理職」はつとまらないのです。

 教育管理職の「正しい」仕事,「上手な」仕事とは,いったい何なのでしょうか。

 ニュースでは,不祥事のときに「頭を下げる人」,という印象しかない,あの人々。

 機会があれば,考えてみたいと思います。

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「正しい」授業と「上手い」授業

 「正しさ」と「上手さ」は同じ次元で語れない問題であるような気もしますが,

 「嘘も方便」という言葉の意味を知っていて,その効果を体感し納得した経験がある人なら,わかると思います。

 「正しさ」にこだわるとどんな問題が起こるかというと,

 なかなか開国に踏み切れなかった幕府の対応が,私の場合はまず第一に思い浮かびます。

 幕府は,アメリカとの交渉の中で,位の低い役人を高い位の役人に見せかけることに成功するなど,「正しくない」ことも実はやってのけています。つまり,目先的には,「上手く」対応しています。

 しかし,そういう「場当たり的な上手さ」では,国は救えない,ということは明らかです。

 ところが,こういう「場当たり的な上手さ」を教えるための本が,日本ではたくさん出版されています(売れています)。

 政治が三流だけど国民は一流だという国家は存在するでしょうか。

 教育は三流だけど国民は一流だという国家は存在するでしょうか。


 「道徳の授業は,必ず年間35時間を確保すること

 ことは,各学校に至上命題のように課せられた課題です。

 ここで,「正しい」対応とは何か,「上手い」対応とは何かを語るのはやめておきます。


 たとえば,道徳の授業を学級担任が行うとき,「正しい」授業のイメージは何か。

 道徳は正解がないようで,ある,そんな時間です。

 だれもが認める道徳的価値を,とくにはジレンマの状況におかれながら,体得していく。

 「こういう感想を書いてほしい」という想定通りの結果になれば,

 「道徳の授業が正しく実践できた」と教師は振り返ることになるでしょう。

 子どもの側にとって,学校で過ごしている時間のうち,「最も充実していない時間」の最有力候補は「道徳の時間」です。

 教師は,「道徳の時間」の意義を子どもにわからせることができないまま,ただひたすら時間だけをやり過ごしている,それが「道徳の時間」の実態です。

 ここで誤解されてはいけないのが,

 では子どもが「道徳の時間」の意義が認識できる授業が「上手い」授業かというと,そうでもありません。

 それも,「正しい」授業です。

 では,「上手い」道徳の授業とは何か,と言えば,それは「道徳の時間」であることを意識させない授業のことです。

 道徳で学ばせようとする価値のうち,何をあなたは最も重視しているか,と問われたら,中学生の場合は「自律の精神」「責任ある行動」と答えます。

 24分の1ではありません。

 そういう価値を重視しているということは,当然,教師の側にも強い自律性が求められてきます。

 「すぐにできる・・・」「簡単にできる・・・」なんていう俗な教育書に飛びつくような教師ではいけないのです。

 どんなに時間をかけても,今の目の前の子どもたちにとって最善の教材を,最善のタイミングで提供する。

 ですから,「年間指導計画」の細案も,「正しさ」にこだわれば途中の変更は認めない,なんてことになりかねませんが,「上手さ」にこだわろうとすれば,途中でいくらでも変更すべきです。

 「学習指導案」も同じです。

 この「案」どおりに「正しく」授業を進めるような教育実習生の授業が,「上手く」見えるはずがありません。

 これを「そこまで求める必要はない」と答える人もいるでしょうが,そういう態度が私から見れば「誤っている」のです。「正しくない」態度だと言いたいところですが,そうやって本音を言ってしまえば,聞く耳をもたなくなってしまうでしょう。

 「そこを求めなければならない」のです。

 「誤ったこと」を教えてしまったら,あとで「謝れば」よいのです。訂正すればよいのです。

 しかし,「上手くない」授業をもって,これが「正しい」授業だと受けとめた子どもは,将来,自分が教師になったときも,「上手くない」授業を繰り返すことになります。

 小手先の「上手さ」に惑わされるだけの,教師になってしまいます。

 本当に「上手い」授業を体験できた人には何も語る必要がないのですが,そうでない人に何をどう伝えたらよいのか。

 今日もこれについては上手くはいかなかったようです。

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結局、だれからも学べない人の特徴

教育blogを読んでいくと、人からどう見られるかに異常なほどの神経を費やすばかりではなく、自分を正当化しようとするためにその見方についてしつこい難癖をつけ続ける人がいますね。

よく読めば、「自分と対等に話ができる人間の資格」が書いてあるのです。

そしておもしろいのは、昔から自分自身にほとんど備わっていない資質が自分と対等に話せる資格だと言うのです。

教師に多い、「世間知らず」以前の「自分知らず」というやつです。

この人は、自分がだれのための何の情報を発信しているのか、わかっているのでしょうか?

昔、遅刻してきた生徒を注意したときに「こんなに早く来られない」と逆ギレされ、「じゃあ、何時だったら来られるのだ」といういわゆる「逆ギレ返し」という技を使った教員です。

時間を守って登校していた大多数の生徒に何の相談もせずに、問題の生徒だけに照準を合わせたおかしな指導=「集合時間の変更に関する話し合い」のような愚策が繰り返される、こういう指導のどこがどのように問題であるかが全く自覚できない教師が多いのですが、これが、生徒から「見放される」教師の、あるいは教師集団の最大の特徴なのです。

聞く耳を持たない最大の理由が、新しい記事にはあますところなく書かれています。

どんなに落ち着いた学校でも、こういう教師が一人いれば、積み上げてきたものがすべて無に。

趣味を教育に持ち込もうとする段階で、すでに「組織の一員」ではないのです。

大阪府に限らない,教員のいびつな年齢構成

 公立学校の教育現場は,特に目立った政策を実行しなくても,あと10年すればがらっと変わります。

 大阪府の公立高校の年齢構成を見たときに,本当に驚きました。

 45歳以上の教員がかなりの部分を占めています。

 小中と比べても,偏り具合は尋常ではありません。

 高校では45歳以下の教員が,どの年齢をとっても,非常に少ない。

 しかし,あと10年すれば,50歳以上の教員集団が,すべて25歳~35歳くらいの教員集団と入れ替わるわけですから,すべての高校は「若返り」ます。

 以前に述べたことがありますが,あるいは,学校の諸問題は,これだけのことですっきり解決してしまうかもしれません。

 教師の力量の低下,ということが問題になっていますが,今は教師に頼らないでも子どもは育つ時代ですから,余計なことをしなければよい,という極論さえあります。

 さて,「若返り」の動きは小学校ではすでに進行していて,大阪府の場合,あと10年たてば,きれいな「富士山型」の人口構成になります。
 
 ちょっと困ることは,上の年齢の人は,すべてが管理職にならないと,管理職が足りなくなる。

 40歳代で校長,というケースも出てくるかもしれません。

 しかし,そうやって,若い人でも管理職としての資質が身に付く,そういう文化がなかったのが今までの学校でしたから,学校は変わっていくかもしれません。

 いびつな年齢構成は,大阪府だけの話ではなく,ほとんどの自治体が抱えている問題でありましょう。

 「管理職が足りない」問題は,あちこちの自治体で起こってきています。

 そこで,新しい施策が登場するかもしれません。

 今までは,「民間人校長」という程度の「新しさ」でした。

 これからは,今までとは全く違う,「学校管理職」という「専門職」が登場?

 それも,社会貢献に力を入れた企業で,経営のトップを後進に譲った人から選ばれる?

 ・・・あまり人任せではいけないのですが,管理職になって「教師でなくなる人」が多いので,やはり教員はもちろん教育委員会や自治体にもそれなりの睨みがきく,そういう人材でないと,経営は成り立たないのかもしれません。

 そこでようやく,学校の数が多すぎることに国民の共通認識が生まれ,適正規模での学校運営が可能になり,無理に教員を増やす必要がなくなる・・・。

 春のねぼけた夢のような話ではありますが・・・。

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教師であることをやめるタイミング

 「転職」は必ずしも「負け組」のしるしではなく,「転職」できるから「勝ち組」に入れる,という面があるのが今の社会です。

 教員を辞めたくなった人にも,ぜひ,人生の新しい道への希望の光を。

 ところで,教員を辞めるタイミングとしては,一年間の中で,いつが適切なのでしょうか。

 組織として,一番よいのは,異動の調整中のタイミングで辞職を決意してもらって,3月いっぱいで辞める。

 一番困るのは,実際には多いパターンの,異動してすぐに,「5月病」で学校に出られなくなり,そのまま辞めるパターン。

 教員個人として,一番よいのは,卒業式に出て,巣立っていく子どもたちを見て,何も感じなくなったか,自分が何の役にも立っていないと自覚できたとき。これがベストのタイミングです。

 組織としては困りますが,卒業式で何も感じない人間に,そのまま労働者でいられることは,少なくとも子どものためになりません。

 逆に言えば,卒業式に参列して,初めて,自分のやってきたことの意味を知る,それが教師の一面であって,ここで何も感じない人はめったにいない,ということです。

 自ら命を絶った若い教師の痛ましい事件を,自分の本を宣伝するためのネタとして使っている信じがたい教師がいますが,こういう教師は,卒業式でどんなことを考えているのでしょう。

 言い直しましょう。こういう人間は,労働者として,いかに仕事をラクにこなせるかについては本にするまで熱心に整理し,考え抜きますが,すでに「教師であること」はやめている人間です。

 教師であることをやめるタイミングとして,最も適切なのは,子どものために尽くす気持ちを忘れたときです。

 自分と同じように教師であることをやめたい人間たちに手を貸すために,わざわざ時間をさいて本の編集作業にタッチしたときが,「終わり」のときです。

 もうすぐ,次のサイクルが始まります。

 報われようと思って仕事をすることが教師としては最低ですが,せめて,それは自分がかかわる子どもが卒業式を迎えるまで待ってください。

 もし自分が最低の人間だという自覚ができるのであれば,それは,まだ辞める時ではないということです。


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教員をやめたくなったとき,だれに相談しますか?

 もし,教員採用試験の面接で,

 あなたが教員をやめたくなったとき,だれにそのことを相談しますか?

 と問われたら,何と答えますか?

 また,ここで,どのような答えをする人を採用するべきで,

 どういう答えをする人は,採用すべきではないと考えますか?

 望ましい答えとしては,

 「管理職です」・・・・?

 もちろん,NOです。

 こういう人は,「公務員向き」です。

 「教育公務員向き」ではありません。

 なぜ?

 それは,「管理職の仕事を知らない人間の答えだから」です。

 もう少し正確に言えば,「人間を知らない人間の答えだから」です。

 では,望ましい答えは?

 「私が教師を志すきっかけをつくってくれた人です

 ・・・それは,中学校時代の担任かもしれないし,教育実習のときにしごいてくれた先生かもしれないし,まずそういう事例はないでしょうが,大学の先生かもしれない。
 
 「それはどなたですか?」

 と深くつっこんできたときに,面接官に,

 「ああ,この人は簡単に教員をやめようなんて思わないタイプだな

 と思わせる応答ができるはずです。

 面接には「誘導尋問的」な質問はありますが,

 面接を受ける側が面接官を「誘導する回答」というのは,相手も想定しにくいでしょうね。

 間違っても面接では,

 「その学校で一番信頼できそうな先生に相談します」という「本当のこと」「正しいこと」を言ってはいけません。

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教育の質を落とし続けている「質の低い競争」

 企業人は当たり前すぎて何の反応もされないかもしれませんが,「競争社会」=「悪」ととらえないと気がすまない人がいます。

 これは,「質の低い競争」がどうしても目についてきてしまうからでしょうね。

 しかし,「質の高い競争」には,だれも何の文句も言えないはずです。

 そのおかげで,今のこの社会があると思えば。

 「質の低い競争」を防ぐ手立てはないのでしょうか。


 学力調査で平均点を上げるために,答えを教える学校。

 これはただの不正行為ですが,「競争させるからそんなことになるんだ」と言って,不正行為をした人間より,「競争させた」側を悪く言う程度の低さが教育現場の問題でもあります。


 私が今日,ここで取り上げたいのは,教育現場の競争ではなくて,

 教育関係の本を出す,出版業界の姿勢の話です。


 前後の見境なくといった感じて,とんでもない軽いタイトルの本を平気で出す出版社の本は,個人的には,必要のない限り,絶対に買いたくありません。

 たとえば,

 「子どもを動かす魔法の・・・・」とか,

 「これで・・・が劇的に変わる」とか,

 「だれでもできる・・・」とか,

 「すぐにできる・・・」とか。


 もちろん,出版社の言い分もわかります。

 「本が売れるかどうかは,タイトル次第である

 「字が少ない方が売れる

 「絵がたくさんある方が売れる

 しかし・・・・・こういう出版社の姿勢=編集方針が,教師のレベルをどんどん下げていくのだ,と主張したいのは私だけでしょうか。

 出版社は,こういう本を買う教師のレベルを重々承知しているのですね。

 ある編集者は,「本を読むだけまだまし」「教育書を手にとってくれるだけで御の字」と言っていました。

 「読むか読まないかはハテナです」「ベストセラーの中にも,中身がほとんど読まれていないのでは,と思われる本もある」と続けていました。

 中学生向けの問題集で,よく売れている本をご存知ですか。

 学研の「中学○○をひとつひとつわかりやすく。」シリーズと,

 文英堂の「やさしくわかりやすい○○」シリーズ。

 社会科でいうと,学研の方がマンガ入りで「わかりやすそう」なつくりになっています。

 学研の帯についているキャッチコピーは恐ろしくて,

 中学生向けの本なのに,「高校生~大人の復習・苦手克服にも!」と書かれています。

 ややレベルの高いのは,文英堂の方。

 文英堂の方は,「基礎の基礎からはじめる!」というコピーがついています。

 ある程度の勉強をしている教員の世界から言うと,「基礎の基礎」というのは,けっこう「難しいこと」をさすのですが,おそらくこの「基礎の基礎」というコピーには,何の意味もない。

 中身をみると,それだけのために出された本のパクリもしている。

 こういう本を買って,みっちり学んでくれれば,それはそれで,テスト前に必要なことを,ある程度は記憶できると思います。

 ただ,教科書の穴埋め問題と同じレベルですから,短期間の記憶には向きますが長期になるとどうでしょう。

 活用できる知識が身に付くようなつくりにはなっていないからです。

 やはり,ある一定の分量の本を読み,自らポイントを整理したり相互関係を考えたり,思考をはたらかせたりする場面があって「学力」はつくのであって,これだけの「薄さ」の本では・・・・と思いきや・・・

 「薄ければ薄いほどいい

 といった編集方針がありありと感じられます。

 売れない本ばかり出していては,会社が傾く。

 よい本でも売れない本では,意味がない。

 こういう環境を変えるためには,あるいは,もっともっと,教師が教え方を下手くそにしなければならないのでしょうか・・・?

 私の電子書籍の概念が,あるサイトで紹介されたものを見てすっかり変わりました。

 今までは,ただ文字が画面の上で変わるだけのイメージでしたが,やはり動画もあり,音声もあり,とくれば,「書籍」という「古臭いイメージ」がともなう呼び名が変わるだけで,その需要は爆発的に増えていくでしょう。

 タブレット端末がインドのように2000円まで下がらなくても,1万円程度になるだけで,教育現場にも登場するものと私は考えています。

 それでも,紙ベースで,自分の手で文字を書き,自分の手で紙をめくり,色ペンで印をつけ・・・・なんて作業は絶対に大切ですね。

 ですから,電子書籍,タブレット端末が一般化しても,紙ベースの本やノートは絶対に欠かせない。

 そういう時代の本づくりを出版業界の方々には真剣に考えてもらいたいと切に願います。

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大阪府の教員になりたくなくなった方のために

 私は東京都で生まれ,小学校から大学まで,東京都内にある学校に通っていたので,教員採用試験も東京都しか受けませんでした(東京都以外の教員にはなろうと思いませんでした)。

 本当は高校教師志望だったのですが,採用枠が「1人」だったため,中学校の教師に志望を変え,採用されることになりました。

 大阪府で生まれ,大阪府の学校でお世話になった教員志望の方の多くも,大阪府での仕事をしたいと思われていることと思います。

 郷土を愛する教育が自然な形でなされてきたのなら,そう思うのが当然だと考えてしまうのは私だけでしょうか。

 東京都のここ十数年の動きをふまえながら,大阪府の最近の動向を半分他人事のようにながめていますが,ニュースとしての価値もそこそこあり,報道もされているため,もし過大な反応をされることで夢をあきらめてしまうようなことがあったらもったいないので,一言,コメントをしておきたいと思っています。

 なお,私の基本的なスタンスは,「学校教育は失敗の連続である」というものです。

 どこでも,だれにでも,あり得るというか,なかなか上手くいっていないのが,学校教育だ,という立ち位置です。

 教育の理想が高ければ高いほど,そういう結果になりがちなのはご理解いただけると思います。

 教育の失敗の中で,個人的な問題のレベルで,たとえば教師による性犯罪,暴行などの障害事件,交通違反など,犯罪行為によって直接的にも間接的にも子どもが傷つけられるというレベルの問題は,とても重視している人…私自身も被害者の一人ですが・・・がいるのは理解しています。が,このレベルの「問題」はとりあえず除外しておきます。

 私の扱う「失敗」は,「日常的な失敗」が大部分なので,違和感を持たれる人が多いということもご承知の上,お読みいただければと思います。

 
 結論から言えば,自治体がどのような条例を出して学校現場のことをコントロールしようとしても,基本的には変われない教師というのは変われません・・・・というか,変わりません。

 よい授業ができない人は,どんなに研修を積んでもそう簡単には変わりません。

 国旗や国歌が大嫌いな人,人から強制されることが大嫌いな人,「権力」というものが嫌いな人は,どんなに論理的な説明をしてみても,何も変わりません。

 大阪府がやろうとしていることは,「問題」の教師を「変える」力にはならないと思います。

 では,そんな政策に何の意味があるのか,という話になりますが,一番大切なのは,「注目されること」にあると感じています。

 「そこに,大阪府がある」ということ。

 これを人々が意識することに,意味があるのです。

 東京都で,かつて「最底辺校」と呼ばれる学校がありました。

 高校1年生がみんなでアルファベットの書き方を学んでいる,なんて揶揄されていた高校です。

 この高校は,「注目されること」で変わっていきました。

 「注目」という表現は,ちょっと強いニュアンスがあるので,正確ではないかもしれません。

 「存在していることが認識される」。

 生徒たちにとっては,「先生が,自分を見ている」と認識する。

 「先生以外の人たちも,自分たちのことを見て,知っている」と認識する。

 これが「最底辺校」からの脱出の決定打になったと私は考えています。


 実は,教育の世界で最も問題なのは,

 「どんな教師も似たり寄ったり,同じようなものだ

 「学校は,どこも同じようなものだ

 「この学校は,落ち着いていて,『普通の生徒』が多い

 こうやって十把一絡げにされることで,実質的に,

 「存在が無視される

 という状況にありました。

 これも,ちょっと表現としては適切ではないかもしれません。

 「軽い存在」という言い方も,ちょっと違います。

 マンションにお住いの方は,二つ以上隣の部屋の住人の名字が言えますか?

 家族構成を知っていますか?

 そんな感じの「存在は知っているけど,具体的には何も知らない」存在。

 学校教育は,社会全体の中では,それほど「無関心」・・・「軽関心」?の対象であるのです。特に,公立学校はそうです。

 私立学校の場合には,雑誌広告というものも存在しますし,「制服でその学校とわかる学校」もありますから,「存在が社会から意識される対象」であり得るのです。

 公立学校は,特に高校で気の毒なところは,「地域にこんな学校は存在しないでほしい」と思われてしまう場合もあることですね。

 こういう社会全体の風潮の中で,大阪府で進んでいる「維新」は,東京都の路線とはちょっと違った意味をもっているように思えます。

 政策の実行には,「正しい」やり方と「上手な」やり方があります。

 大阪府の路線を進めようとしている側も,反対の側も,「正しさ」にこだわっているようなところがありますが,学校が変わる原動力は,最終的には,学校現場における「上手さ」がすべてです

 新しい動きは,「上手く」取り入れることで,学校は見違えるようになっていきます

 そのチャンスが到来したのが,今の大阪府だと私は感じています。

 教育という世界に,「正しさ」と「上手さ」という別々の尺度をもってくること自体に,「正しさ」にこだわる人は反対でしょうが,「上手さ」さえ発揮できれば,想像以上の成果が上がるのが教育なのです。

 歴史的な長いスパンで考えれば,その「上手さ」が,「正しさ」に変わっていく可能性すらあります

 何でもかんでも「反対する」のは,簡単なことです。

 しかし,環境を変えられて,初めて「本当の力が発揮できる」人も大勢います

 そういう「維新」の動きを体感できるのが大阪であり,特に若いうちに,こういう環境を経験できることは,恵まれていると思われてきます。

 最終的な決定は,ご自身でなさることですが,採用試験では必ず「踏絵」のような質問がされますから,条例の意図をよく理解された上で,チャレンジされる方にはぜひともチャレンジしていただきたいと考えています。

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教師は「世間知らず」でよい面もある

 教師の逆コンピテンシーの最たるものは,

 「言っていることとやっていることが違う」

 ことで,それで通用してしまうのが,「世間知らず」と呼ばれる理由の一つです。

 さらにつっこんで言えば,

 多くの場合,それに気づいていないということがありますが,それに気づいていながら,改善できない,改善する気がない,そういう面が,「世間知らず」で当然の「子ども」のレベルということなのでしょう。

 「子ども」以上に手を焼くのが,「教師の引率」であるという話は先日しました。

 教師は「社会人」としていかがなものか。そういう目が,「社会」から向けられているわけです。

 教育改革の流れの中には,「学校を世間並みの場所に」という意思が作用している面があります。

 以上は,自己反省の目を教師が自らに向けた場合の,「世間知らず」対応策です。

 

 気をつけなければいけないのは,この「世間」というものが,「教育」という仕事をする上で,マイナスの作用を及ばすケースもあることです。

 「世間」におしつぶされる,そういう「世間」のあり方に,苦しめられている人々も少なくない。

 阿部謹也は

 日本には「世間」はあるが,社会など存在しない

 という主張をして,輸入学問である「社会科学」にかかわる学者たちから顰蹙を買ったことがありました。

 学者にとって,「世間」というのは,「狭い」ものです

 教師もこの仲間に入れられれば,やはり「世間知らず」ということになる。

 しかし,教育公務員という立場で仕事をする場合,この「世間知らず」という面が,プラスの意味をもつことがあります。


 「世間」を構成する大きな原理の一つ,「贈与・互酬の関係」に影響されにくい,というものです。

 「贈与・互酬の関係」から脱皮できている教師の行動原理は,「世間の一員」ではなく「社会の一員」であることを重視します。

 人間関係を円滑にする手段として,大昔から,「贈与・互酬の関係」があり,これは相手を個人としてみるというより,その地位や身分に応じてとられる行動で,学校現場でも古くは「教師への贈り物」が当然だった時代もあったと思われます。

 贈り物を受けた教師は,必ず,その「返礼」としての「良い教育」を子どもに授けなければならない。もちろん,場合によっては「成績に下駄をはかせる」などの行為になる場合も考えられますが。


 「良い教育」を行うのはそれ自体が教育公務員の仕事であるはずなのに,「贈り物」を受け取ることによって教育が成立する現状は,沖縄県の公立高校の裏手当の実態を見ればわかるようにまだ存在していますが,少なくとも私が教師になってからは,子どもの親から「贈り物」を受け取ったことはありません(卒業時の花束とか記念品はありますが)。

 教師がこうやって古い体質の「世間」から切り離され,「社会」に生きる人間,独立した「職業人」として,ただ「職務を全うする」ことに全力を傾けること,「職務専念義務」を守ることができるようになることは重要なことです。

 ここで改めて,教師にとって,「団体」がいかに教育の足を引っ張っているかを重く受け止めざるを得ません。

 自分たちの狭い「世間」をつくりだし,「仲間意識」と同時に「入らないやつは仲間とみなさない」という「古い体質の世間」を地で行くような行動原理をもっている。

 法を重んじる態度がなく,慣習の世界で生きていく教師たち。

 これが,新しい社会の人々が生きる場としての「世間」から見えば,「世間知らず」の態度です。

 新しい教師たちは,古い社会の「世間」を地で行くような教師たちからは,あえて「世間知らず」と言われるように,仕事に邁進すべきです。

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1947年に小学校の保護者が望んでいたこと 【徳の面】

 以下の保護者からの要望は,あくまでも「こういう子どもに育ててほしい」というもので,「こういう教師であってほしい」というものではありませんのでご注意を。


 【生活関係,「徳」の面についての要望

○一度決めた,規律約束には,かならず,しかもすなおに従う習慣をつけること。(4人)

○さ細な仕事でも,それぞれの子どもに責任を持たせ,責任感の強い人間にすること。(5人)

○物事にあたって判断を確実にかつ速やかにできるように。(2人)

○あくまで熱意と興味をもって徹底的に物事をやり通すように。

○どうすれば能率的にできるかを工夫させ,能率のよい人間になるように。(2人)

○東京女高師の生徒らしい,きちんとした,態度,服装,あいさつ,など,礼儀正しい子どもにしつけていただきたい。(3人)

○休みの時間における男女の交際を指導奨励し,共学の実をあげること。(2人)

○人に,物に,何に対しても親切な心を常に持つように。(2人)

○正しさを尊び,実行力を養い,勤労を愛するように。(7人)

○何事もあきずに根気よく,最後までやりとげる習慣を。(4人)

○手早く身のまわりを整頓する習慣を。(8人)

○時間を守る習慣を。(2人)

○協力と依頼心を混同せぬようにして,真の協力をするように。(6人)

○早合点でそそかしい性質故,落ち着いてことにあたるように。(2人)

○心配性の点少々あり,さっぱりさせたい。(2人)

○自力,実行力のある良い点を伸ばしたい。

○環境に支配されやすい故,良友を得させたい。(2人)

○物を大切にする良い習慣を伸ばしたい。(6人)

○長上を尊敬し,情義に厚い子に。(7人)

○明朗であること。(5人)

○公徳心をたかめたい。(4人)

○質素で清潔好きであるように。(6人)

○博愛の心の深いように。

○苦難にたえ,信念の強い子に。(3人)

○虚栄心を持たぬように。

○かげ口を申さぬように。(2人)

○兄弟姉妹仲よくするように。(3人)

○目下の者もいたわるように。(2人)

○世界には,正義と愛が君臨していることを理解させたい。

○うわべで人を律せず,真実を常に見るように。

○自分には厳格で人には寛容なることを。

○知識を得るには,忍耐が必要であることを。(3人)

○自分のことは自分ですることを。(7人)

○規律正しく生活するように。(3人)

○人の能力は努力次第でいかようにも発揮することができる。天才は努力である。努力できる人こそ天才であると言うことを知らせたい。(2人)

○食事の作法について特に注意してほしい。

○正しいと思うことは,どこまでも頑張る強い気持ちを養いたい。(3人)

○言葉づかいをはっきりていねいにするように。(6人)

○口外した言葉の責任を持つように。(3人)

○中庸を得た,堅実な思想を養いたい。

○人の話を途中で取らぬように。(2人)

○いいつかったことを完了したら必ず報告する習慣をつけたい。

○自分一人のことを考えず,他の人のことも考えて,自分勝手はせぬように。(3人)

○何事にも責任感をもたせ,自由の精神を体得させたい。(3人)

○イエス,ノーを明確にするよう。

○自然に親しませ,ゆとりのある,やさしい心を養いたい。(5人)

○目的のために手段をえらばないという考え方は間違いであることをよく理解させたい。

○ずるいことはしない,立派な内観世界を築きあげるようにしつけたい。

○謙遜の気持ちを持つように。

○感謝の反省の生活をするように。(2人)

○人の喜びを喜びとすることができるように。


 【「体」「体力」の面についての要望

○その子どもに耐え得る程度の肉体労働をさせていただきたい。

○予防医学の立場から,できるだけ,消毒,予防注射等をやっていただきたい。また,爪切り日,虫くだし日,等々を設けてそれぞれ励行のこと。(4人)

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1947年に小学校の保護者が望んでいたこと 【知の面】

 私の手元に,宮地忠雄著『社会科指導の実際』(木村書院刊)という本があります。

 昭和22年=1947年の11月に発行された,東京女子高等師範学校附属小学校の「教官」による本で,小学校における「新教科」としての「社会科」をどうやってつくっていくか,この指導事例を示すために出されたものです。

 東京高等師範とか,東京女子高等師範とかいっても,ほとんどの人は分からないかもしれませんが,教員を育てるためにつくられた学校で,現在の筑波大学とお茶の水女子大学のことです。東京教育大学から筑波大学に変わった時点で,大学は変質してしまいましたが,「附属学校」は今も昔と変わらない場所で同じ使命を果たしています。

 さて,上記の本に,こんなアンケート結果が載せられているのに目が留まりました。

 1947年5月の保護者(第五学年男女組)向けの「要求調査」で,

 「お子さまを立派に育て上げるのには,どんなことを知らせたり,しつけたりしたいと思いますか。それをできるだけ箇条書にして,たくさん書いて下さい」というものです。

 敗戦後,まだ2年もたっていない時点での,小学校の保護者の声です

 該当の小学生は,3年生のときに終戦を迎えたので,2,3年生のときには学童疎開も経験しているのでしょう。

 本の中では整理されていないものが列挙されています(同じ趣旨の内容については,何人から寄せられたものかが示されています)が,ここでは学習関係,生活関係に分けてみようと思います。漢字などの表記は,現在のものに改めてあります。

 【学習関係,「知」の面についての要望

子どもの特徴を活かして,科学班,芸能班等を設けて,個人別に指導を願うこと
 (新しい学習指導要領のもとではなくなりましたが,中学校で言えば選択教科のことです。それを小学生に求めている。)

自由研究等もただ自分で自由にやると言うのではなく,ある程度まで指導し暗示を与えて,興味が湧いて研究できるように
 (総合的な学習の時間の指導には,欠かせない指導の工夫ですね)

わからぬことは徹底的に質問させて中途半端にしておかぬ習慣を

遠足,見学,農耕など,実地の指導をやっていただきたい

学級文庫は非常に結構なれど,つまらぬ読物を読まぬよう,良書の紹介,指導もお願いいたします。(8人)

社会公共のために奉仕する観念を涵養せられたい

時局を認識させるため,新聞を読むことを指導せられたい

自由主義,民主主義は放任を意味することでない事を理解させてほしい。(5人)

教官の個人的政治上の立場を児童に強要しないこと

名曲,名書等を鑑賞する機会を与え情操教育に資せられたい。(11人)

外国語教育は記憶力旺盛なる低学年より始めてほしい。(3人)
 (英語教育は5年生から始まりました。これではちょっと遅い,というのが当時の保護者の感覚です。)

科学の知識を豊富にさせたい。(5人)

適当に宿題を出してほしい

自分は頭が悪いのだと思いこんでいるこの気持ちを除去させたい

社会の実状を知らせ,正しい常識を持たせたい。(6人)
 
政治,経済,法律への関心をたかめるように

正しい批判力を与えてほしい

正しい日本語を教えてほしい

科学的なものの考え方を養成してほしい

全般の学科にテストを多くして,自ら勉強するようにし向けてほしい

全般の学科に質問時間と言ったものを設けてほしい

基礎になることだけしっかりつかませてほしい

自分から進んで勉強する気持を起こさせたい。また勉強の楽しさを味わわせるよう指導してほしい。(4人)

創造力を養うように

疎開中遅れた学科や(理科,算数)不得手なもの(体操)に特に注意して指導してほしい。(3人)

 少数意見ももちろんあるのでしょうが,著者は,以下のような感想を述べています。

 中にはまだ二,三つめこみ主義の教育を考え,古い型の保護者もいるが,とにかく傾聴に値する。

 「つめこみ主義の教育」というのは,昭和22年の時点でも問題にされていたことがわかります。
 
 次回は「徳の面」についての要求を掲載します。

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「教師は世間知らず」と言われる最大の原因

 読んでいただいて参考になりそうなことを書こうと思います。


 大学を卒業してすぐ教師になる人が,びくびくしてしまうこと。

 それは,「教師は世間知らず」という批判を浴びること。

 自分は,「世間を知らない」ように思える。
 
 だから,「お前は世間知らずだ」と言われると,反論のしようがなく,困る。

 そんな相談が今はネット上で解決できるのですね。

 回答に納得できるのかどうかはわかりませんが。

 私がもしそのように相談されたら,一般の社会人のように,「社会に出た」とは言えない立場であることは確かなので,


 「世間は広すぎて,いろんな人に出会うチャンスに恵まれないできました。でも,学校の教師になったら,お子さんたちをここまで育ててこられた保護者の方々から世間のつらさやしきたりを学ぶことができると思います。いろいろ教えてください」


 なんていう受け答えの例を紹介します。

 この受け答えで,

 「保護者や地域の声に耳を傾ける姿勢をもつ人間である」ことだけは伝えることができます。

 そうでなく,いつも独善的で,わがままなやり方でも通用してしまうのが,教員という職業である,という認識があるので,「教師は世間知らず」(でも通用する)と揶揄されるわけです。

 一般的には,教師は1年目でも30年目でも同じように,「先生」と呼ばれる立場で,言ったことに目の前の子どもたちは従ってくれる。今は少ないかもしれませんが,業者も「先生」「先生」とすり寄ってくる。「先生」と呼ばれることが当然のように,他の人にも(まるで子どもに接するように)接してしまうとき,「教師は世間知らず」と見られることが多いようです。

 他にも,

 話が長い

 子どもの学力がつかないのは子どものせいだと決めつけている

 電話に出た時の応対が悪い(名乗らない人間がいる)

 挨拶ができない

 などの「非常識さ」についての自己認識が欠如している実態があげられます。

 しかし,「教師は世間知らず」と言われる最大の原因は,

 「閉じた社会の住人である」ことだと私は考えています。

 学校は,必ずしも「閉じた社会」とは限りません

 「開かれた学校」の中にも,「学級王国」という「閉じた社会」が存在しているかもしれません。

 「開かれた学校」の中にも,「知り合いが組合の人間のみ」という人間が存在しているかもしれません。

 授業の中でも,話していることがほとんど子どもに通じていない,そんな自己の中に「閉じた」人間がいるのも学校の特色です。

 子どもたちを様々な観点で評価している教師たちですが,以下のような「行動の記録」を自分自身について評価すると,どんな結果になるでしょう。

 この自己評価をしてみるだけで,「子どもたちに求めていることは自分も実行すべきだ」ということを自覚できるようになるかもしれません。

基本的な生活習慣・・・自他の安全に努め,礼儀正しく節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする。

健康・体力の向上・・・活力ある生活を送るための心身の健康の保持増進と体力の向上に努めている。

自主・自律・・・自分で考え,的確に判断し,自制心をもって自律的に行動するとともに,より高い目標の実現に向けて計画を立て根気強く努力する。

責任感・・・自分の役割を自覚して誠実にやり抜き,その結果に責任を負う。

創意工夫・・・探究的な態度をもち,進んで新しい考えや方法を見付け,自らの個性を生かした生活を工夫する。

思いやり・協力・・・だれに対しても思いやりと感謝の心をもち,自他を尊重し広い心で共に協力し,よりよく生きていこうとする。

生命尊重・自然愛護・・・自他の生命を尊重し,進んで自然を愛護する。

勤労・奉仕・・・勤労の尊さや意義を理解して望ましい職業観をもち,進んで仕事や奉仕活動をする。

公正・公平・・・正と不正を見極め,誘惑に負けることなく公正な態度がとれ,差別や偏見をもつことなく公平に行動する。

公共心・公徳心・・・規則を尊重し,公徳を大切にするとともに,我が国の伝統と文化を大切にし,国際的視野に立って公共のために役に立つことを進んで行う。

 どこかの教育ブログを読むと,自らこのうちのいくつかを「放棄」していた教師がいるのに気づきます。

 そういう教師は,「世間知らず」というより,「責任感知らず」なのでしょう。

 「責任感」をもって「公正・公平」に「勤労・奉仕」に励んでいる教師は,「世間知らず」などという批判を受けることはないでしょう。

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国会が「学級会以下だ」と笑えるゆとりはない

 「この学校でも,いじめは起こりえます」

 と答える学校と,

 「この学校では,いじめは起こりえません」

 と答える学校では,どちらが信頼できる学校でしょうか。

 「この原子力発電所は,事故を起こす可能性があります」

 と答える会社と,

 「この原子力発電所では,絶対に事故は起こりません」

 と答える会社とでは,どちらが信頼できる会社でしょうか。

 著書『言霊』の出版が難しかったことを明かした井沢元彦だけでなく,

 今では多くの人が『言霊』文化が足を引っ張る日本の特殊性に気づいていると思われます。

 日本の政治が「三流以下」でも多くの人の批判の対象にならないのは,

 「本当のことは言えない(言わない)ものだ」

 ということがわかっているからでしょうか。

 政治だけでなく,報道の世界でも同じです。

 「本当に大事な情報は,一部の人しか握っていない。それが,経済的な面から見ても『真』である」

 ことに,多くの人が納得してしまうのではないでしょうか。

 「本当に大事な情報を握っている人かどうか」は,

 「本当に大変なこと」が起こってみなければわかりません。

 それはいつ来るのか。

 そういう話も,できないのが『言霊』の国でした。

 「本当に大変なことが起こるかもしれない」ということが言えない文化。

 『言霊』の呪縛から解放される日はくるのでしょうか。

 社会を変える手段として,大事にしたいのが教育。

 しかし,教育現場の中だけでも,本当のことが当たり前のように話せる日は,はるか彼方のように思えてなりません。

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教師が苦手な「上手な説明」 ~見るに耐えない言葉の使い方~

 まず,dolceさんに一言。  

 「見るに耐えない」という言葉の用法が気になります。

 類語辞典では,

 光景・姿などが不快であるときに使う言葉で,

 気味が悪い ・ 気色が悪い ・ 醜い ・ グロテスクな(生き物) ・ 見るに耐えない(姿) ・ 見苦しい ・ クサい(振る舞い) ・ 「愚劣の極みだ」

 という意味になってしまいます!

 ここは,せめて,「見るに忍びない」か・・・。

自分の心が誤解されてしまう人は気の毒です。

 あれだけ辞書の意味にこだわる方でも,使ってみて違和感を覚えない言葉というのはあるのですね・・・・。だからこそ,辞書が手放せなかったはずなのに・・・・。

***************

 さて,説明するが下手,という先生がいたら,

 「それでも先生?」
 
 と思われてしまう,と先生は考えます。

 だから,

 説明するのが上手,と思われたい,と先生は考える。

 でも,

 上手に説明しようと思えば思うほど,話は長くなる。

 長い話だから,説明が下手なんだ,という自覚があまりない。

 とにかく,話していれば,話し続けていさえすれば,

 何だか仕事をしている気になる。

 コミュニケーションに不安感をもっている人ほど,説明が,話が,長くなる。

 「コミュニケーションの授業」を受講すべきなのは,先生の方だ,と生徒に叫んでほしい。

 中谷彰宏著『コミュニケーションの授業』(アクセス・パブリッシング)の「まえがき」では,

 「話し方のうまい人は,たくさんの失敗を経験している

 とありますが,先生の場合は,日々の失敗を失敗として自覚する心のゆとりがない。

 だから,失敗を重ねているうちに,どんどん失敗への感度が鈍くなり,

 「上手な説明」の指導の仕方が分からなくなっていく。

 「上手な説明」の条件とは何か。

 ○内容は絞り込む

 ○前置きはしない

 ○単なる「説明台詞」は短いほどよい

 ○自分が楽しんで話す

 ○説明しながら「気づく」

 ○・・・・・

 どんな説明が上手な説明なのか。

 これは自分の授業をきちんとふり返ることで,50%くらいは気づけることかもしれません。

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テレビが生き残れる最後の場所は学校

 テレビの「敗戦」が,巨艦による決戦をもくろんだ旧日本海軍になぞらえて語られるのは,製造業の各社にとっては不本意なことかもしれませんが,教科書や資料集にも載せられるパネルの新鋭ラインの方向転換,量販店での価格破壊を見てしまうと,やむを得ないことかもしれません。

 日経の記事の中では,

 アップル、グーグル、フェイスブックが仕掛けてきた「新しい戦い」に応戦できる企業は、まだこの国に生まれていない

 と締めくくられています。

 日本を代表する製造業の企業の方針が「アナクロニズム」と切って捨てられようとしている今,社会科を教える私たち教師にとっては,背筋がぞっとする思いです。

 何度か述べたように,

 「電子黒板」はすでに時代遅れになろうとしています。

 サイズが小さいし,高さが低い,コストがかかるというデメリットをかかえている以上,

 この機能をすべての教室で,すべての教師が使える,という状況にはなりません。

 これが,天井からつるせる,あるいは台の上の高いところに固定できる大画面テレビは,今や全教室に配置できるくらい値下がりしています。

 そして,以前は映像端子は黄色,音声は赤と白・・・なんてつないでいたケーブルも,今やHDMIケーブル1本ですむ。

 さらに大画面テレビに資料を写すのに,もはやウインドウズパソコンは必要ありません。

 アンドロイドの方が,部分的な拡大等が容易にできます。

 タブレット型PCも,1万円を切るのはそう遠い将来の話ではないでしょう。

 

 
 家庭でのテレビ視聴も,大画面テレビはあってもそこでは見ずに,タブレット機を各個人がもって,机の横に立てかけてみる,キッチンの背において見ながら料理する,風呂に入りながら見る,そういう時代になろうとしています。

 近い将来,大画面テレビを実際に見たりするのは学校の教室や駅のホーム,店舗の中などに限られて来るかもしれません。

 世の中のこういった変化に,教育の世界では昔ながらの方法で教え続ける価値ももちろんあるかもしれませんが,先を読もうとする癖を子どもに身につけさせるためには,教師が何かしらを「語る」ことも大切でしょう。

 教師が「語る」べき情報の内容と質が,問われる。

 教師は,何を「語る」べきか。

 何を,「問う」べきか。

 「昔のままのことが大事だよ」

 そんなことはだれもが分かっていることですが,

 「では,これからもっと大事になることは何ですか」

 という問いを自ら遠ざけたら,

 「昔のままの大事なこと」も同時に見失うことになりかねないことを知るべきでしょう。

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「戦場」としての学校と冷戦構造

 学校現場では,今でも冷たい戦争は続いています。

 その犠牲になっているのは,子どもたちです。

 戦場に二度と子どもを送らない,というのを合言葉にしている人たちと,

 社会は戦場であり,そこで生き抜ける力をつけようとしている人たちとの間の

 対立が続き,闘争の中で置き去りにされている

 それが子どもたちです。

 そういう「戦場」としての学校現場には,いくつかの「原則」が生きており,

 基本的にはそれぞれの立場の人がそれを守ろうとするのが学校です。

 最も極端なのは小学校で,ここは教師個人主義の教育がなされ,

 担任が変わればルールが変わる

 =担任が変われば,国が変わる

 ところが小学校です。

 小学校向けの教師の本は,よく売れます。

 タイトルや副題,説明に「小学校用」と書いてないので間違って買ってしまう,という場合もあるでしょうが,

 小学校向けの本が売れる原則は,
 
 「何々小学校」とか,「何々研究会」とかの著作ではなくて,

 個人の著作であることです。

 実際には十数人が原稿を書いている本でも,有名人の編著,ということになっていて,実際にはその人は10ページくらいしか書いてない,という場合も多いのです。

 なぜ個人の本が売れるのかというと,小学校教師が手本にしたいのは,

 組織ではなくて個人

 という気持ちが強いからで,どうしてそういう気持ちになるのかと言えば,

 学校とは組織ではなくて個人で仕事をするところ

 という認識が「原則」だからです。

 こういう小学校では,冷戦構造は表面化しません。

 なぜなら,そこは「独立国家共同体」だからです。

 ですので,冷戦構造の中で「戦場」になっているのは,中学校の場合,という想定で書いています。

 中学校では,それぞれの学級王国で育ってきた,「横のつながり」という文化がない小学生を,「集団」として育てることに失敗する場合があります。

 その原因の一つが,冷戦構造です。

 しかし,難しいのは,「集団」として育てることばかりに目が向いて,「自主・自律」の精神を育てることに失敗する場合もあります。

 教師や学校が組織として一枚岩になりにくい冷戦構造化の中学校の教育の指針として私が最も重視しているのは,『孫子』十三篇のなかの「虚実篇」です。

 兵の形(あらわ)すの極は,無形に至る。(中略)其の戦い勝つや復(くりかえ)さずして,形に無窮に応ず。


 以下,宮城谷昌光著『春秋名臣列伝』(文藝春秋)より引用します。

******************

 軍の形で最良なものとは,形が無いということである。戦いの勝ちかたに二度と同じであるものはなく,相手に応じて無限に変化するのである。

 宇宙の原則を礼という形で体現してくりかえそうとする儒教に兵法がはいりこむ余地がないことがよくわかる。戦いに長じている人は,人とおなじことをしにくい性質をもち,くりかえすことがにがてであるから,平治の世は生きにくく,ややもすると低能者とみなされる。それでもこの世を戦場とみなし,人はそれぞれ独自の生きかたをし,二度と同じ生きかたはないと想念に立てば,『孫子』の兵法は,現代でも活用されうるのである。

******************

 何とかの一つ覚えの行動しかしない団体の人たち,昨年やって成功したんだからという理由だけで同じことを繰り返そうとする人たち,そういう人たちを納得させることができる最後の手段が,「勝つ」こと。

 勝負の世界は,だから「割り切り」がしやすい。

 「勝ち負け」がない,あるいは,「勝」「負」にもさまざまな意味を持たせることができる学校では,これも定かではない。

 目の前の子どもをしっかりみて,おかしな原理や原則を子どもに押し付けることなく,必要なルールを必要に応じて子どもに考えさせる,そういう教育を実践していくのが最も難しいのは,「荒れていない学校」です。

 しかし「荒れていない学校」の中で「見失われている子どもたち」に目を向けなければ,子どもたちは救われません。

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ニュースにならない高校教師の「裏手当」

 報道の大小で重要性を判断してはならない,というのは中学生にも教えているメディアリテラシーです。

 マスコミの事なかれ主義はだれもが知るところですが,

 「たたきやすい相手」はとことんたたき,

 「たたくと他のほこりが出そうだ」というときには

 手を緩める,か,手を引く。

 高校で行われている「裏手当」は,時期が時期だけに,もう

 「お蔵入り」する話題かもしれません。

 どうやら,沖縄県だけの話ではなさそうです。

 「学校」「保護者」「教育委員会」すべて了解のもと,「特別報酬」が公立学校の教師にわたっている仕組みは,「当たり前のこと」だったのかもしれません。

 

 それにしても,PTA会費が教師への「報酬」として渡ってしまうのが当然の世の中なら,

 いっそのこと,学校内での兼業・兼職は大幅に認め,その分,基本給はカットする,そういう「施策」も考えてみたらどうでしょう。

 「部活動の手当てを10倍に」なんてことになったら,

 顧問をいやいややってきた教師たちにはインパクトがあるでしょう。

 親からしても,土日も祝日も面倒をみてくれる教師には,「ボランティアでやってもらっている」とすると,どこかしら後ろめたさがありますが,いっそのこと,おカネを払ってやってもらおう,というのはそれほど抵抗感があることではないかもしれません。

 もちろん法改正が必要になります。

 学力向上の決め手も,

 「どれくらい親から金を集め,教師が放課後に補習をやってくれるかにかかっている」

 なんてものになったらおもしろいでしょうね。

 「塾より安く,効果が10倍の補習教室」なんて宣伝文句で。

 授業中は自習をさせておいて,補習で張り切る教師も登場するでしょう。

 話はずいぶん脱線していますが,普通の勤務時間に,受験や就職用の特別授業(講座)を開いて,親から金をとる,そういう実態を放置したい人は,政府の中にもいる,ということです。

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3・10だけではない,3・11だけではない

 東京大空襲,東日本大震災・・・・

 一度にたくさんの尊い命が奪われた日の記憶は多くの人が共有しています。

 多くの人が語り継ぐ分,人々の記憶は残りやすい。

 しかし,空襲や震災によって人が亡くなったのはその日だけではありません。

 東京の空襲は,半年間続けられています。

 人が関心を保てる範囲は限られているかもしれませんが,その多くは,語り継がれること,映像や写真によって,記憶に残されるのです。

 今,NHKスペシャルで東京大空襲の未公開写真が紹介されています。

 消火を義務付けられていた市民たちのバケツリレー

 火災現場に向かう消防車

 原宿や銀座,有楽町における消火活動

 10万人が犠牲になった3・10とは別に,数十人から数千人規模の人が犠牲になる,B29による爆撃,焼夷弾による火災

 アメリカが行った市民に対する無差別攻撃に関する資料もアメリカで見つかっています。

 最も効率的に燃やし尽くせる地域を示した地図

 アメリカはわざわざ木造家屋を密集させて建て,屋内のふすまや布団までをつかって実験し,最大の効果が出る爆弾や投下方法を開発していたそうです。

 東京大空襲については,当時の米軍パイロットが,「効果的な攻撃だった」「原爆を投下したあとのように,何も残っていなかった」と証言していました。

 焼夷弾の直撃で姉を失った少女は,亡くなる直前まで,その事実を子どもたちに語り継いでいました。

 貴重な写真や資料,証言です。

 犠牲者が生まれるに至るプロセス,犠牲者が生まれた後の人々の行動。

 資料にふれるだけも十分な学習になるのが歴史です。

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「普通の学校」と「普通の生徒」

 「普通の学校」の「普通さ」に最も満足感を抱きやすいのは,教員です。

 特に,比較できる学校の勤務がある場合は。

 生活指導がめちゃくちゃたいへんではない学校。

 進学指導でプレッシャーを非常に強くかけられることがない学校。

 管理職の指導が徹底しすぎていない学校。

 保護者の要求が強すぎない学校。

 
 こういう経験のできない子どもたち,保護者たちにとっては,自分の学校が「どんな学校か」はなかなかわかりません。
 
 「特色のある教育」という「教育課程で示している決め事」が何かを知っている,あるいはそういう教育を受けている実感をもてている,そういう学校は別として,部活動の戦績などでしか比較ができないのが公立学校の特徴です。

 しかし,そういう意味でも,学校というのは「ふつう」であるのが「ふつう」なのでしょう。

 「いい学校」であることの評価は,子ども,保護者,教員一人一人によってとらえ方がまちまちで,特定の評価を強いる必要はないのです。

 問題は,学校ではなく,児童や生徒が「ふつう」と表現されるときです。

 教師が「普通の子ども」と表現した時点で,一人一人の子どもの特徴を知る努力を怠る名目になっている場合は,注意が必要です。

 こう考えてみると,もしかしたら「普通の学校」のとらえ方も考え直してみなければならないかもしれません。

*******************

雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。

参考 「楽毅」第四巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
177頁


 教師の失敗-53
   「普通の子どもです」と言ってしまう

 教育現場にいると、見えていないものの本当の大きさに愕然とさせられることが多くあります。

 見えているもので一喜一憂するような人間や、事件に飛びつく商売の人たちにはほとんど関心のない部分に、教育の真価が問われるものが点在しています。

 毎日汚れたシャツを着てきている生徒がいれば、家庭内の不和が予想できるように、不幸を味わっている者はわかりやすいサインを発する場合があります。サインだらけの「荒れた学校」を見ると、「教師は何をしているんだ」「どんな親なんだ」と外部の方は言いたくなるかもしれませんが、そんな甘えた成長途上人よりも、それなり
に精神的に成長して、悩みをもちながらも他の人に心配をかけないように生きている多くの子どもたちには目が向けられにくいことが問題です。

 以前ここで書いた、「数に入れられていない」子どもたち、「普通の」子どもたちです。

 個性を重視すると教育課程でうたっておきながら、「普通の子」と平気で「個性がないこと」を強調するようなことを言う教師がいます。

 崖を滑り落ちようとしている子どもを救うのももちろん必要ですが、崖下の人間と引っ張り合いをしている場合でないことも認識しなければいけません。

 子どもとともに雲の上を目指せるような教師でありたいと思います。

*********************

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いい学校と普通の学校の線引き

 教科書通りに授業をすると,生徒から

 「そんなの授業じゃありません」

 と言われる学校は,

 「いい学校」

 「学力向上への意欲が高い生徒が集まる学校」


 一方,教科書通りでない授業をすると,生徒から

 「そんな授業じゃ困ります」

 と言われる学校が,

 「普通の学校」か,「課題のある学校」

 「学力向上という考え方への枠が狭い教師が集まる学校」

 「指導力が『ふつう』の教師が集まる学校」

 「教科書通りに授業をしなくても,教科書に書かれたような内容は習得させることができる授業をすることが,教師に求められていることがわからない人がいる学校」

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嫌味と批判の区別がつかない人

 あなたの授業は授業になっていない。

 こういう言葉を「嫌味」ととる人は,

 「相手は自分を不快にさせるためにそんなことを言うのだ

 と考えているわけです。

 これを「批判」ととる人は,

 「どうすればあの人に『いい授業だったね』を言われるようになるのか,考えてみよう

 などと,「先に進める」。

 「どこがどうして,どのように課題だったのだろうか,聞いてみよう」

 などと,コミュニケーションをとるきっかけになる。

 たしかに,もう現場に戻れない人に対して,
 
 「あなたの指導は間違っていた

 と批判しても,その人には「次」がないから,どうしようもない,ととられることもあるでしょうが,

 たとえば,一度,きちんと自分の実践を振り返ってみて,

 「ああ,間違いだった」

 と気づけば,

 「こんな失敗は繰り返してはならない

 というメッセージを,これから教師になろうとする人に発信して,

 「こんな間違いはしないように」

 と注意を喚起することができるのです。

 
 自分が言われて嫌な思いをした言葉,嫌な思いをするだろうなと思う言葉を,

 ブログのタイトルにまでつけて繰り返す人がいますね。


 
 気の毒な人です。


 この人は,人格を攻撃対象にする。

 自分自身も,人格が攻撃対象にされていると勘違いする。

 
 違うのです。

 書いている言葉が,おかしいと批判されている。

 言っている言葉が,おかしいと批判されている。

 その指導が,おかしいと批判されている。

 
 人格を批判しているのではないのです。

 だれでも間違うこと,失敗すること,失言をすることはあるのです。

 
 でも,批判されるようなおかしい言葉を書く人は,頭がおかしい,と考えてしまう。
 
 こういう人が,本当に困ったとき,助けてくれるはずの人が助けてくれないのがおかしい,という反応をしてしまう。

 天は,だれを助けるのですか?


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学校からウィンドウズが消える日

 アンドロイド・タブレット端末が2000円で買えるような時代になった(インドでは昨年10月に発売開始)ときのことを考えると,学校での教室の学習はどのように変わってくるでしょうか。

 生徒の机は,天板を上げると三面鏡のように開いて3つのディスプレイが現れ,手元のタブレット端末の操作を通して必要な3種類の画面を開くことができるようになります。

 ウィンドウズは,限られた面積のディスプレイを想定したソフトのつくりですが,ディスプレイがたくさんあれば,重ねずに作業をすることが可能になる。

 操作性としては,タッチパネルの方が格段によいので,基本操作はタブレット,拡大画面が正面に,手元にはキーボード,左右には教科書や資料集,他の生徒が参照している画面などを見ることができる,そんな環境になっていくことが考えられます。

 正面のディスプレイの上にはカメラが付いていて,よくわからないで困っている生徒には,別の生徒が説明に訪れることができる,そういうこともできます。

 机を動かして,みんなで話し合い,という原始的な方法もいいのですが,グループが固定化すると思うように発言できない子どもも出てくるため,いつでもだれとでも話し合いはできる方がよい。そんな環境ができあがる。

 電子黒板は,大きさの問題も含めて,後ろの生徒が見えにくい,そして黒板だけに,教師が書いているとき,操作しているときは,生徒の様子が見えない,などの問題があります。

 これが,手元のタブレット端末で内容を示せて,追加の項目を書けて,参照箇所から資料に直接とんでいくなどの操作ができれば,子どもの方を向きながら授業を進めることができる。

 教室の液晶ディスプレイの大きさも,60型に近づいてきており,40人学級なら,プロジェクターが必要ない見やすさになっています。

 アンドロイド・タブレット端末での利用を想定した「電子教科書」が,これから増えていくでしょう。

 ウィンドウズパソコンが授業現場から去るのも,そう遠い日ではないかもしれません。

 そういう危機感を一番強く抱いているのは,マイクロソフトの人なのでしょうか。

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全公立高校の民営化を!

 これは真面目に議論されたことはあるのでしょうか。

 高校無償化にしても,「PTA会費」が増えて,教員の「収入」が増えるだけになる?

 高校無償化にすると費用がかかる分を節約するために,すべての高校を民営化してしまえばよい・・・なんて意見の人はいるでしょうか。

 高校を民営化・・・つまり,すべて「私立学校」にしてしまう方が,生徒が集まりさえすればもうそれぞれ好き勝手なことができるし,「学習指導要領」など最初からあってないようなものだし・・・・大歓迎だ,なんて人はいないでしょうか。

 これを実現すると,どのくらい「安上がり」でかつ「充実した」教育ができる学校が増えるでしょうか。

 公立学校同士の競争なんて,たかが知れているわけで,全部を私立学校にして,どこも授業料が低くなれば,本当にいい先生の取り合い,いい生徒の取り合いになって,全体のレベルが上がるのではないか・・・・

 という幻想が描けない一番の理由は,もう言うまでもないですね。

 でも,もうどこの国の高校だか分からないような,「日教組立高校」をつくりたい人は多いでしょう。

教育委員会なんかの「監視」や「指導」から逃れられれば,本当に「生き生きとした教育」ができる。

 国旗も国歌も学習指導要領も無視して,教育ができる。

 公立学校って,いったい何なのでしょう。

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公立高校=悪代官イメージの誕生

 沖縄県の教育公務員が悪役としてデビューすることは,めったになかったものと記憶しています。

 PTA会費が教師の懐に入っていく仕組みは,沖縄県だけの話ではないでしょう。

 特に,部活動の引率にかかわる費用などは危ない。

 高校だけではないかもしれません。

 これは,「会計を表に出す」だけですむ問題ではないでしょうね。

 全国に飛び火します。

 学校によっては,PTA(保護者会)の同意を得て,堂々と教員が現金を受け取って補習などを行っているケースがあるかもしれません。

 勤務時間内にやっていたら,完全にアウトです。

 「まためんどうな調査が来るな」とうなっているのは副校長先生方でしょうね。

 「どうやってごまかすか」

 あとは知恵比べです。

 こういう事件が起こると,第三者機関を主体とした「学校監査システム」が事業として成立する基礎が整ってしまうかもしれませんね。

 教育委員会にいた私が言うのも何ですが,「教育委員会」はこういう問題には何の役にも立ちません。

 法に触れた人間の処分を決定することくらいしかできません。

 教育委員会とは別の,「監査システム」が出来上がると,またその「監査システム」を監査するシステムが必要になってしまうかもしれません。

 また,いかに真実を外部にもらさずにやるかという,「情報隠蔽システム」のプロも登場するかもしれません。

 ・・・しかし・・・お金の問題は,本当にやっかいですよ。 

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長すぎる答辞と送辞の問題

 卒業式の諸問題について,子どもが卒業してしまう保護者は意見を言う場がありません。

 謝恩会が卒業式の後にある場合は,「謝恩会」だけあって,もはや「意見」を言うことは許されない。

 しかし,トラックバックしていただいた記事からは,あまりにも残念な「学年主任の所作と言葉」がうかがわれました。

 実は私も,転任したばかりの学校で,三年学年主任(一年目から,教員七年目の教員が,三年の学年主任をつとめる学校がどのような学校だったのかは,ご想像にお任せします)として卒業式の指導に臨んだとき,ちょっとした問題を経験しました。

 卒業式はなるべく簡素化したい・・・というか,儀式としての意味を重んじるべき,と考え,合唱発表会のような内容などはカットできたのですが,長すぎる答辞を事前の指導で短くさせたつもりが,当日,本番でいきなり違う内容を読まれたときは,「やられた」という思いでした。

 もちろん多くの内容を盛り込みたい子どもの気持ちは分かるのですが,常識から考えてあまりにも長いものはいかがなものかと,事前に指導をしていたのです。

 生徒会の代表は優秀な生徒でしたから,かなり前に原稿はでき上がっていて,前日の予行も最初と最後しか読まないので,本番に他の教員によって差し替えられていたことには気づきませんでした。

 「してやった」教員たちは例のごとく生徒たちといっしょに異動ですから,もうこれは「やったもの勝ち」「やり逃げ」です。

 荒れた学校の特徴は,基本的に,何かを例年とは違う形にしようとすると,抵抗する人がいることです。

 幸いにも,元凶的な悪習は廃絶できたのですが,卒業式を「儀式」としてではなく,「送る会」みたいにしたい教員たちの抵抗は大きなものでした。

 ですから,「送る会」としての「プレ卒業式」を事前にすませたのですが,それでも気が済まなかったようです。

 もう10年以上たってますから時効でしょうから言いますが,学校はたった一人,「おかしな人」がいなくなるだけで,がらっと変わります。

 学校を変えるのに,特に優秀な人が必要なわけではありません。

 部活動の引率先で,生徒と離れて競艇場に行き,そこで通知表をつけている教員は,私の予想ではかなり「優秀な人」です。賭け事の合間に本務ができる人は貴重です。

 関西には,こういう人を「仕事熱心」と笑い倒すおおらかさがあるのでしょう。

 ただ,もしこの教員が,学校でも同じような迷惑をかけているようなら,すぐに辞めてもらえる厳罰主義を徹底しなければなりませんね。

 問題は,そうすると教員が一人もいなくなるのではないかと本気で心配しかねない学校があることです。

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卒業式の事前指導で学校は立て直せる

 公立中学校では間もなく卒業式を迎えます。


 今の学校現場というのは,どういうところがうまくいっているかというと,

 「学校生活は楽しかった」

 「学校生活は充実したものだった」

 と思い込ませる「暗示機能」です。

 では,学校生活の,何がどう楽しかったのか。

 まるで「道徳」の授業の「正解」のように,みんな同じような答えが返ってくるでしょう。

 「友達との時間が・・・」

 実は,教育課程で学校が子どもに「こういう力をつけさせますよ」とうたっていることの最終的な検証は何もなく,だれかが記事にしていたように,「3歳,歳をとったので,さようなら」になっているのが今の学校です。

 「何がどこまで不十分だったのか」

 子どもには「通知表」で結果が知らされますが,学校ではふつう,その結果に終わったのは本人の責任である,ということをきちんと「暗示」にかけて卒業させていますね。

 でも,そういう学校では出会ったこともない教師に上級校で,あるいは大学生になって実習校で出会ってしまう人たちは,「真実」を知ってしまうわけです。

 卒業式前に,きちんと謝罪しておいた方がいいですね。

 もちろん,形式的な謝罪ではなく,心からの謝罪です。

 これが,荒れた学校を立て直すための第一歩です。

 日本の社会の特徴は,「終わりではすべてを水に流す」ことにありますが,

 これが学校では顕著です。


 卒業式の前の日まで破壊活動を行っていた生徒が,卒業式では大泣きして,担任に感謝して去っていく。

 こういう「水に流す」社会は,「恨みの連鎖」「報復の連鎖」のある社会よりは,とても「平和」な世の中と言えるかもしれません。

 しかし,「それはおかしいぞ」という感覚がどこかにないと,

 特に荒れた学校は,いつまでたっても正常化しません。


 中学校では「卒業式までの我慢」「嵐が去るのを待つ」なんていう非常に消極的な対応になり,

 そういう教師の指導方針?のもとで生活している上級生の状況を知っている下級生によって,延々と「荒れ」は繰り返されることになるのです。

 卒業式前に毅然とした生活指導ができる学校でないと,「荒れ」は消えることはありません。

  
 私が経験した荒れた中学校は,以前から教員の多くが3年で入れ替わっていたそうです。

 つまり,転入してきた人間がみんなで中1をもち,持ち上がって,荒れて最悪の状況を3年間我慢して,卒業させるのと同時に中学校を去っていく。

ご卒業おめでとうございます」は,子どもの心に届かせる言葉ではなくて,教師のためにある言葉である学校が,「荒れた学校」です。

 こんな学校が簡単にまともになるわけがありません。


 正常化の過程で多少の抵抗を受けたのは,卒業式までの厳格なきまりについてです。

 生徒が守ってくれたので,次の学年以降に示しがつきましたが,この学校では「下の学年への示しがつく指導」がしきれなかったのが最大の弱点でした。


 荒れている子どもたちの面倒を,自分たちは必死で見てきたんだ,というアピールを,卒業式間際になってはりきってしたがる教師もいることでしょう。

 でも,違うんですね。この勘違いに,最後くらいは気づいてほしいものです。

 そして,この最後の段階で「示しをつける」ことで,学校は立て直すことが可能です。


 必死で見てあげなければならなかったのは,荒れている子どもではなくて,教師たちが荒れている子どもに気を取られている間でも,まじめに学習や生活を送ろうとした子どもたちの方なのです。

 ですから,罪滅ぼしのためにも,卒業式前くらいは,荒れている子どもではなくて,3年間,ひどい環境の中で耐えてきた他の子どもたちが本当に満足できる時間を過ごさせてあげなければならないのです。

 そこに集中しなければならないのです。

 荒れている学校は,問題行動を起こす生徒が多いから荒れているのではないのです。


 勘違いしている人が,今も近くにいませんか。

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精神衛生上,よくないブログ

 子どもたちにとって,今の教育環境が最高だ,と考えている教師なら,そもそも私のブログなど見向きもしないですみます。

 子どもたちにとって,今の教育環境に課題がある,と考えている教師のうち,その課題の多くが教師自身にある,という自覚がある教師なら,私のブログは共感できる部分があり,何とかするためのヒントはないか,と考えていただけるでしょう。

 気の毒なのは,今の教育環境に課題はあるが,それは行政や家庭の責任であり,教師たちはみんなしっかりやっている,と自分に言い聞かせたい方々です。

 こういう方々にとっては,読めば読むほど腹が立つ内容ばかりでしょう。

 自分たちがいかに「勘違い」していたのかが,次々に明るみになってしまうわけですから。

 以前に,ある小学校の教師が,卒業生たちにしたアンケートの内容と結果を私がご紹介したことがありました。

 気の毒だったのは,この教師が「真実」だと勘違いした「アンケート結果」という「社交辞令」の「本音」=「真実」の部分を私が知る立場にあったことです。

 本人を知っていますから,アンケートをねつ造したとか,自分の都合のよいデータだけ出したとか,そういうことではないと思われます。子どもの言葉をもとに,自説を展開していました。ただ,それは卒業してもなお,子どもたちが思考を働かせて返した「先生が期待している言葉」だったのです。

 子どもは,教師の期待通りに動く。

 これは,指導力のある教師ほど,よくあてはまることでしょう。

 いえ,指導力のない教師にも,あてはまります。

 期待していない通りの結果になる。

 さて,学校現場にいた過去を消し去るのを最後の逃げ道にしようとしている人のことは置いておき,実際に教師として教育活動を行ってきて,本当に満足したまま教員生活を終えた人がいたとしたら,本人はとても幸せな人だったと思われます。

 ただ,教育に限った話ではないと思いますが,教える方が満足するものではなくて,教えられる方が満足したかどうかが大事なことです。

 子どもの本音を知ることは,教師にとってとてもつらいことですね。

 15年しか生きていない子どもに,教師だけでも30年近くしている人間が否定的な言葉をかけられたら,やはりショックでしょう。

 ある評論家はそれをきっかけに教師を辞めたと過去を振り返っていましたが,

 どんなにつらい言葉でも,自分のためではなく子どものために仕事をしている人間なら,真実を知ろうとしなければなりません。

 何が,なぜ,どうだめだったのか,そういうことの知識を持って教師になるのと,持たずに教師になってしばらくした後に真実を知るのと,どちらがよいでしょうか。

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期待されないことを期待する教師と子ども

 「後ろ向き専門委員会」のブログが更新されたので,こんな記事を書きました。

 教員という名で呼ばれる人とたくさんふれあうような場にいると,自分が親の立場でみたときに,

 こういう人に子どもを教えてほしい

 こういう人に教わる子どもはかわいそうだ

 と直感でわかるものです。

 その基準というのは人それぞれであることはもちろんですが,

 私の基準は,その人が

 後ろ向きの人間か

 前向きの人間か

 ということです。

 後ろ向きの人間の特徴は,

 たいした成果がないのに,現状で満足,あるいは現状を肯定しようとすることです。

 期待されることを好まない人間です。

 こういう教師たちには,東北地方の復旧や復興に関する情報を道徳や特別活動の時間に組み入れて指導することを通して,子ども以上に本人たちの変革への刺激を与えたい気持ちになります。

 (道徳や特別活動に,こういう効果があることを自覚しながら学年経営を行っている主任はどのくらいいるでしょうか)

 残念なことに,未来のある子どもたちの多くが,「後ろ向き人間」になりつつあるのは,現場にいる人なら気づいていることでしょう。

 わかりやすく言えば,

 向上心がない

 そういうタイプの人間が,増えています。

 そして,

 向上心がない教師に囲まれていた方が,居心地がよい

 そういうタイプの子どもも,増えています。

 成長への期待をされないこと,これが,心理的には一番楽なのです。

 こうして負のスパイラルに陥っている学校が,再生する道は一つしかありませんね。

 教師は子どもに成長の期待をかける。

 教師は子どもの成長のために,できる限りのことを行う。

 教師は嫌われることを厭わない。そういうことです。

 向上心のない人間に囲まれながら,自分なりに目標を立てて,向上心をはぐくむ子どもももちろんいるでしょう。

 しかし,成長を期待されない子どもは成長しくにくいものです。

 教師が毎日,自問自答すべきこと

 「自分には向上心があるか

 「子どもに成長の期待をかけているか

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教員は引率が大変

 パロディネタですみません。

 経験がある方,旅行業者の方は,よくお分かりだと思いますが・・・。

 20年くらい前に,私が初めて経験した「職員旅行」というものの第一印象は,

 「教員は人の言うことを聞かない」

 「自分勝手に好きなことをしたがる」

 というもので,幹事の先生たちは,日頃,苦労している生活指導の何十倍もの「苦労」を知るわけです。

 教員というのは「手に負えない客の代表格」というのが,「業者の常識」であることは後で知りました。

 次の学校では,「途中でいなくなってしまう」教員に出会いました。

 バスに乗り遅れているのにほかの教員やバスガイドさんが気づかない,というのも考えものでしたが。

 今,私がかかわっている研究会では,「現地調査」ということで動くのですが,それぞれの興味を抱く点が異なるため,集団で動きにくいという特徴があります。

 結果,時間が遅れがちになり,大事なところに着いたときには暗くなっていたりする。

 こういうのを「研究熱心さ」ということで割り切ってよいのか,「予定を守らないのはだめだ」と怒るべきか,圧倒的に前者の考え方の人が多いので,うまくいっているのでしょうが・・・。けっこう他の人には迷惑をかけているんですね。

 とにかく,教員は集団行動が苦手です。

 あんなに上手く生徒の集団行動を指導できる人たちが,自分たちだけになると,統制不可能な状況に陥る。

 学校は大変なところですね。

 私のように,授業をもつ人がいなくなるから,そんな出張依頼は断ってくれ!と校長に頼む教員もいれば,「はいはい」と従う教員もいる。

 校長の命令には従わなければならない,などと言っている人が,職務命令に背いてでも,国歌斉唱のときに起立しなかったりする。

 はたから見れば,教員は本当にコントロールが難しい人間の見本市のようなものです。

 だから,今の多くの管理職のように,そもそも統制しようとする気持ちをなくせば,悠々と校長室でお茶を飲んで過ごせるようになるんですね。

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正しい指導と上手な指導を混同しない

 若い時代は,「正しい指導」を貫こうとして,かえって子どもの反発を買い,成果が得られなかったりします。

 ベテランになると,「上手な指導」ができるようになって,小手先の技術で動かそうとする結果,子どもの心が離れていくことがあります。

 この順序は,なかなか逆にはしにくいものですが,やはり

 若い教師は「上手な指導」を心がけ,

 ベテランは「正しい指導」を心がけてくれることで,

 「正しさ」=使命感と「上手さ」=戦略をバランスよくコントロールして,子どもに向き合えるようになると思われます。

 学校全体として生活指導の一貫性が整っている印象を醸し出しているところには,「正しさ」を押し通すのではなく,「上手さ」を追い求めるのでもない,子どもをよく見ることによって成り立っている指導の柔軟性があるのです。

 一人でこれを使い分け,ときには「正しさ」で押し,ときには「うまく」流し・・・なんてことができるようになれば,本当の意味でのベテランになります。


 この記事は,以下の本の一節をヒントに書きました。

******************

 中西輝政著『情報を読む技術』サンマーク出版

 「正しさ」と「上手さ」を混同しない ~「使命感」と「戦略」の両面から見る~

 後醍醐天皇と足利尊氏の政治の対比が上手に描かれています。

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情報は最大の武器である

 中学校で新しい学年の準備をしている先生方は,小学校からの引き継ぎをすでに終えているところだと思います。

 学校選択自由化によって,対象となる小学校が多くなるため,実際に会ってではなく,特定の用紙への記入をもって,情報を集めるケースが一般化しているかもしれません。

 そこで,問題です。

 より確かな情報を集めるために,学級担任以外からも情報を収集するとしたら,だれを対象にしますか?

 ・・・・・・・・・・・

 正解は,養護教諭の先生です。

 小中の養護教諭の先生間では,健康に関する情報交換をしますが,引き継ぎをするとき,たとえば学年主任も,必ず養護教諭の先生には会っておくべきです。

 アレルギーなどの知識だけでなく,養護教諭の先生は,「保健室に来る回数が多い」とか,「実はいじめを受けていた」とか,担任が知らない情報をもっていることが多いのです。

 子どもの保護者が担任と折り合いが悪い時,保護者の相談を受けられる有力者は養護教諭だったります。

 養護教諭が担任にこのことを内緒にしている(保護者の要望を忠実に守って)場合もそうですが,中学校の教師が聞いて初めて,小学校は担任と養護教諭の間の情報交換が密ではなかったことに気づいてしまう場合もあります。

 養護教諭から得られた情報によって,中学校で起こっていたかもしれないトラブルを未然に防げたというケースがあります。

 この逆のケースもあります。

 情報が小学校から何も上がってこなかったために,防げたはずの問題が防げなかった。原因の究明に時間がかかったために,問題がより深刻化してしまった・・・のような。

 情報は,最大の武器なのです。

 特に,指導力の弱い学校にとっては。

 指導力があれば,何とか乗り切ることはできるのでしょうが,未然に防げるにこしたことはありません。

 

 この記事は,以下の本の一節をヒントに書きました。

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 中西輝政著『情報を読む技術』サンマーク出版

 「情報は弱者にとっての最大の武器である ~経済・軍事などの物理的な力に勝る力~」

 イギリスがインテリジェンス先進国になりえた背景がわかりやすくまとめられています。

 日本ももう少し,朝鮮半島に近いところに位置していたら,イギリスのようになっていた???

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これが「現場を混乱させる人」らしい言葉?

 「おかしな人」の正体が明らかになろうとしているとき,こんな記事が登場しました。

 もし私が「おかしな人」の仲間になっている疑いがあったら,どなたかに指摘していただくと助かります。

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中には子どもでも、精神的な高さ(大人のような)を感じさせる演奏をする者もいますが、概して、子どもは子どもだという当たり前のことを言っています。

 しかし、いわゆる東京にある有名な音大と、地方の音大と違うのは、地方の音大では大学生なのに中学生が演奏しているような演奏を聴くことがあります。
 もちろん、全部がそうとは言いませんが、概してそのような傾向が強く、先生の嘆きもそこにあるようです。

 楽器は根気よく正しい方法で練習すれば、弾けるようになるものですが、なかなかどうにもならないのが、精神的に大人かどうかというところだと思います。

 そういう意味では、音楽はまさに人生であり、いろいろな教養が影響すると感じているわけです。

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 上の内容からは,

 地方の音大の大学生は,正しい方法で練習させても,精神的に大人でないので,どうにもならない。

 東京にある有名な音大の大学生とは,教養が異なる。

 全部はそうとは限らないが,そういう傾向は強い。

 そう読めます。

 東京と地方というだけの違いで,「どうにもならない」ほどの「教養の違い」が生まれるのでしょうか?

 dolceさんがいる愛知県というのは,「地方」の仲間に入るのでしょうか?

 どなたか,この記事に解説を加えていただくことはできるでしょうか。

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「言語活動の充実」という「観点」が「観点別評価」の問題を浮き彫りにする

 観点別学習状況の評価を適正に行おうとして,多くの「評価のための情報」を収集し,その「多さ」「複雑さ」に辟易して,

 「より簡便な評価」

 「より効率的な評価」

 を求めようとする。

 本来,学習指導要領が示す内容に基づいた学習指導を行うことが,最も「簡便な指導」であり,「効率的な指導」であるはずで,その評価も同じような位置づけができるはずなのです。

 もし,大枠の目標しか示されておらず,内容の明示がなければ,教科書もできません。

 すべての教員が,自分で教材を探し,教科書に変わるテキストを作り・・・・なんてことは不可能ですね。

 本来,考えうる最も「簡便」でかつ「効率的」に行っている学習指導による評価が,簡便でもなく効率的にもできない,そうなっている最大の原因は,繰り返し述べているように,観点別の学習状況の評価という評価の方法がとられているからです。

 大学入試で点数をとることを主目的とした指導や評価の話は,ここでは除外しておきましょう。

 学習指導要領に示された目標を実現するため,あらかじめ示された内容をしっかり指導している現場の話です。

 「言語活動の充実」という「方向性」は,誤っていないと思います。

 そもそも,「言語活動が十分に行われていなければ,学習指導要領に示された目標は実現されない」はずだからです。

 しかし,力がついたかどうかをきちんと評価してこなかった人たち・・・正確にいうと,力をつけるための指導をしてこなかった人たちのことなのですが・・・・は,「言語活動の充実」が叫ばれるようになったので,「言語活動の充実」を図ろうとするようになります。

 そして,やっと,気づくのです。

 言語活動の充実が図られている,目の前のこの学習活動では,何を評価すればよいのだろう

 関心・意欲・態度?

 思考・判断・表現?

 資料活用の技能?

 知識・理解?

 以下に紹介する文章は,「指導と評価」2012年3月号の「言語活動の充実 ~改善の考え方とポイント~」,著者は京都女子大学の井上一郎教授です。

 あまり現場では使われない表現も見られますが,大事なことを指摘しています。

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 言語活動の充実は,一つ一つの言語活動も大切にしている。だが,より重視しなければならないのは,まとまった一連の連続体であるということだ。「思考-判断-表現」といった各要素の連続体でもあるし,それを課題解決の過程として見れば,<学習力,思考力,表現力>の統合された一体的な活動でもある。各教科等の評価の観点には,「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」及び「技能」を位置付けている。「知識・理解」とともに,これらが一体化してこそ学力が向上することは周知のことだ。

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 「一体化する」のではないのです。
 
 そもそも,学力は「統合された一体としてのもの」なのです。

 そういう「学力」を,「要素」に分けて評価しようとしているので,「学力」が何だか分からなくなってしまったのです。

 言語活動が充実している状況は,統合された一体としての「学力」が見えている状態です。

 一日も早く,評価の仕組みを変えていく必要があるのです。

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SCがもつ貴重な情報

 私の記事でもふれてきたところではありますが,「匿名」様からも学校への痛烈な批判をいただいております。

 強く同意できるのは,次のご指摘です。

○カウンセリングを受けるべき対象が子供では無く、親と教師であるケースが多い

○学校でのいじめに教師が加担するようなケースにおいては子供が自殺するなどして問題が表に出るまで学校側は責任回避行動をとります

○職務に対する責任感より保身第一
 
 東京都教育委員会の「平成24年度 東京都公立学校スクールカウンセラーの募集について」をみると,スクールカウンセラー(SC)は

 「児童・生徒や保護者、教職員に対し、専門的な知識・経験に基づいて適切に相談に応じること」が仕事のようですから,

 保護者や教職員の相談にも応じるのが職務でしょうが,子どもが通っている学校に出向いてきてカウンセリングを受ける保護者はなかなかいないでしょうね。

 余計なことですが,東京都は来年度の公立学校のスクールカウンセラーを700名募集しています。

 報酬は日額44000円だそうです。

 700人が1年間のうち,35日間,この仕事をすると,東京都が支払う額の合計は10億7800万円ですか。

 交通費を1人1000円支払うと,これに2450万円加算です。

 東京都のように規模が大きいと,金額がピンときませんね。

 学校が,この制度を本当に生かし切れているのかどうか,検証が必要です。

 スクールカウンセラーにも重い守秘義務の責任が課せられますから,なかなか「学校の問題」は表に出ることはない。

 ただ,事業の評価は適切に行う必要があります。

 スクールカウンセラーは,公教育を変えるために必要な多くの貴重な情報を握っている可能性があります。

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カウンセリングを受けるべき対象が子供では無く、親と教師であるケースが多いと考えられます。
 カウンセラーは親にカウンセリングを受ける必要があることを求めてもそれなりに成功しますが、対象が教師の場合全く歯が立たないといいますか、学校対カウンセラーという対立関係になりやすいので多分教師をカウンセリングの対象にしないのだと思います。

 教師を対象にカウンセリングできないため多発する猥褻事件などの防止が出来ません。病んでいるのは子供より親と教師、軽い場合、親には対処できても学校相手に組織ぐるみで隠蔽を平然と行える環境が整っている限り、カウンセリングは成功しません。
 児童虐待の場合親が問題ですが、親権云々の問題がありそう簡単に保護できないといえます。この点について多少法改正したみたいですが、あくまでも子供の保護だけで親に対するカウンセリングは法的不備が残っています。

 学校でのいじめに教師が加担するようなケースにおいては子供が自殺するなどして問題が表に出るまで学校側は責任回避行動をとります。
 職務に対する責任感より保身第一なんです。労働者として能力より遙かに高い賃金をもらっているわけですから、保身に回ります。

 スクールカウンセラーは大学院が必須ですから教員免許より多少ハードルが高いですが、コンプレックスを抱えた教師が多い学校からすれば消えてもらいたい存在なのでしょう。

 もう一つ言えば、精神科の医者、臨床心理士どちらもそのその人個人の能力の違いが出やすいと思います。

参考までに
症例A (角川文庫)
多島 斗志之 (著)
を一度読んでみたらかなり参考になるのでは無いかと思います。
小説ですが実にこの領域の現場でのことを忠実に再現しています。

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子どもにとって,スクールカウンセラーは必要か?

 ある自治体では,「スクールカウンセラーはうちにはいらない」と強硬に主張されました。

 「予算がつくので・・・」と言っても,

 「カウンセラーが常駐できる場所がない」

 「必要ない」

 「カウンセラーだけがそのうちカウンセリングを必要とするようになる」

 という答えで,私もなるほど,と思いながら,「全校配置」をうたいたい教育委員会の側に立って,いろいろ調整にまわったのを覚えています。

 スクールカウンセラーにかけている費用は莫大なものです。

 雇用対策になっている,という説明もできますが,大切なのはその実態と評価です。

 カウンセラーは,自分で直接的に子どもの問題の解決にあたる立場ではありません。

 あくまでも,「子ども自身をを変える」ことが仕事です。

 「重い気分を軽くする」

 「自分の責任を自覚させる」

 「新たな一歩を踏み出そうという気にさせる」

 ・・・・そういうことで一定の「成功」と言えるのでしょうが,

 万が一,

 「スクールカウンセラーのところに行っても,何も変わらなかった」

 ばかりか,

 「解決しないことに余計,いら立ちを覚えるようになった」

 などということが起こっていないか。

 以前は,友達に話せていていっしょに解決できたことが,

 今ではカウンセラーにしか話せなくなって,そして,解決できなくなった・・・

 なんてことはないか。

 カウンセラー依存症・・・・なんて症状はないのか?

 スクールカウンセラーの存在が,ますます「人間関係の希薄化」に拍車をかけているのでは?

 ・・・・・・・

 いろいろ疑問が生まれてしまいます。

 この記事は,以下の本をヒントに書きました。

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 日垣隆著『常識はウソだらけ』WAC

 第8話 カウンセラーは本当に必要か

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保護者を「色分け」して考える教師

 小学校の教師というのは,「学級」という「王国」単位でものを見るのが定着しているせいか,

 子どもたちの親をひとまとめにして,

 「今年の」保護者がどうとか,

 「去年と比べて」どうとかが気になるようですね。

 教育というのは,

 「学級」という単位ではなく,「子ども」一人一人に目を向けて仕事をすることが,最大の「攻略法」のはずです。

 そもそも,親が

 教育に熱心か,熱心でないか

 は,何を根拠に決めているのでしょうか。

 経済的に裕福か,そうでないかの

 線引きは,何をもってするのでしょうか。それに何の意味があるのでしょうか。

 小学校の学級担任というのは,

 年ごとのこうした「保護者のカラー」で「攻略法」を変えているのでしょうか。

 「カラーに合わせた柔軟な学級経営」とうのは,

 学級だよりを頻繁に出す出さないという変化のことを言っているのでしょうか。

 根本的なところがずれています。

 こういうボタンの掛け違えのような現象が,どうして起こるのかが私の関心の対象です。

 王国の中心にいる小学校教師は,保護者に依頼しているアンケートが,自分に対する「評価」だと勘違いしていますね。

 そもそも「評価規準」が定まっていないアンケートに,「日頃のお礼」「お世辞」以外の何が書けるというのでしょう?

 以前も記事にしていますが,日本のように「本音と建て前」を分けなければ生きていけない世の中では,アンケートに書かれたことなど意味はないのです。

 相手が機嫌よく仕事がしれくれさえすれば,それでよいのです。

 国旗をきちんと掲揚せずに,掲揚したことにして,何ともない顔をしていられる人間がいる国なのです。

 正直に書いてはいけない,というのが「暗黙の了解」なのです。


 こうした小学校の教師には,「上手な担任」という言葉を使う神経があるのですね。

 こういう「裏の事情」は,公開しないのが日本の「しきたり」だったのでは?

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教え方が「上手い・下手」以前に正しい情報・姿勢が必要

 子どものことがよくわかっている教師と,わかっていない教師との間には,決定的な差があります。

 たとえば,あることがらについて強烈な拒否感をもっている子どもがいたとします。

 そこに,「指導技術ナンバーワン」の教師がやってきて,授業をする・・・・。

 どんな失敗が待ち受けているかは,ご想像にお任せします。


 中程度の経験をもつ教師の落とし穴は,「技術」によって子どもを動かそうと考えてしまうことです。

 まるで小学生を相手にしているような,露骨に「こうすればできる」ことを訴える本のタイトルが散見されますね。

 そういうのに飛びつく教師は小学生レベルなのです。

 一人一人の子どもを知れば知るほど,教師によっては身動きができなくなりますが,「ブレ」なく,一定の態度で接してさえいれば,無意味に子どもを刺激したり混乱させたりすることはなくなります。

 絶対にブレてはいけないのは,教師たちは自分たちをことを「知ろう」と思ってくれている,そう実感させることです。

 子どもを知ることが,授業をする上では大前提で,たとえば教育実習などで初めて子どもと接する大学生などにとっては,最初に指導教諭から与えられる情報が,「生命線」となる場合すらあります。

 授業を通して,子どもを知る。

 子どもの考え方を知る。

 子どもの理解度を知る。

 子どもの関心の方向性,傾向性を知る。

 子どもと子どもの関係性を知る。

 こういうことを「知ろうとする」態度,姿勢,意欲,言動が,子どもを変えていきます。

 ある子どもが「強烈な拒否感」を抱く事例の一つが,「言っていること,やっていることがコロコロ変わること」。

 しかも,それが,正しい情報を根拠とせずに,感情のまま,変化すること。

 こういう大人に育ててはいけません。

 この記事は,以下の本の一節をヒントに書きました。

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 中西輝政著『情報を読む技術』サンマーク出版

 「交渉や戦いの巧拙よりも,情報の有無が勝負を決める」

 ・・・ロシアの送り込んだフランスの記者が,日本でつかんだ情報を,ロシアに伝えていた。もしこの情報がなければ,乃木軍が苦戦することはなかったかも。

 ・・・イギリスから,「ロシア皇帝の気が変わった」という情報が入らなければ,「日本はもう戦えないから,どんな不利な条件でも合意せよ」といった当初の命令に従って,南樺太も得ることなく,小村寿太郎は帰国することになったかも。

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ダメだし百科全書としての「メモ」

 日経電子版の記事に「仕事ができるメモの鉄則」が紹介されていました。

 以前に読んだ「苫米地 思考ノート術」と似ているところがあります。

 それは,普通の人が「メモ」(「ノート」)と考えている「メモ」(「ノート」)の概念を捨てること。

 でも,これが実践できる人は,やはりある程度の経験を経ていないと無理か?

 というのが感想です。 

 私は基本的にメモをとらないタイプだったのですが,仕事柄,それをとることが「仕事」のようになってしまった時期がありました。

 「あのとき,ああ言った,言わない」の押し問答は経験せずにすみましたが,「何かあったときのため」にとるメモは苦痛なものでした。

 教育実習で,授業参観のときにとる私の「メモ」は,「ダメだし百科全書」のつもりで書きます。

 「子どもの反応に気づけず,流れを止めた」

 「質問の意図が子どもに伝わっていない」

 「考える対象の範囲(指定)があいまい」

 「考える時間を確保していない」

 「子どもの反応に気づけず,展開の変化のきっかけを失う」

 「子どもの言っていることを勝手に(自分の都合のいいように)言い換えている」

 「結論を急ぎすぎる」

 「隣の人に聞いている子どもに気づいていない」

 「落ち着かないある生徒が視界に入っていない」

 「どこを見ればよいか子どもがわかっていない」

 「自分の結論を押しつけている」

 「考えている子どもの邪魔をしている」

 「作業中に声をかけるのは邪魔」

 「適切な資料の選択を誤った」

 「黒板に書く位置が違う」

 「子どもが違うものを答えの根拠にしている」

 「もっといいところに着眼している子どもに気づかない」

 「説明が速くて子どもが資料を探せずにいる」

 ・・・・・

 次々に「課題」が出てきます。

 この例は,まだ「まとも」に授業が進んでいる方。

 「どうしたらよいか」を大学生でも一応,考えることができます。

 逆に,こういう「メモ」がとれない授業もあります。

 その一つは,そもそも子どもに何をさせたいのかがわからない授業。

 子どもも私も戸惑うばかり。

 あと一つは,熱中しすぎて,メモすることすらできない授業。

 ノートを書く暇もないほど,頭を使っていなければいけない授業をたくさん経験した子どもは伸びていくでしょう。

 でも,いったん,立ち止まって,自分の考えを書きとめる時間は大事ですね。

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研究授業をして,協議会を開いた後にすべきこと

 「匿名」様の見方は,「偽物」とは違っていることがよくわかりますね。

 関連する一例を。

 教育実習は,おそらく最後の方に実施する研究授業の協議を終えた後,

 「次に同じ授業をしたら今より何カ所か優れている」

 と言ってもらえるような指導案を作成して提出し,その出来をもって「評価」を出す,

 そういう指導をしている人はいるでしょうかね。

 母校実習などでは力がつかないというのなら,こういう課題をしっかり出せるところが教育実習を請け負わなければなりません。

 でも,受け入れ側にも負担は大きいのですね。

 もちろん,教員ではなく,生徒の負担です。

 教員は養成段階での「未成熟度」があまりに大きく,だから「期間を伸ばす」とか「回数を増やす」とか言われるわけですが,これによって大きな被害を受けるのは受け入れ校の子どもたちです。

 でも,教師の卵は育てていかなければならない。
  
 痛いジレンマです。

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映画の「はやぶさ」ご存じでしょうか、フィンクションでは無く実話です。
この映画の中で、「失敗の積み重ね」を「成果」といっていること、失敗を成果にする
ということは、どこが失敗だった、何が原因でうまくいかなかった、この次はこうしたら出来るかもしれない、、、と事実を確実に分析して、隠さないで公表し次のチャレンジャーに知識を与えるのです。

残念ながらこういうやり方が出来るのは、日本では一部の研究者だけのようですが、大学教育では、論文=感想文ではなく必ず成果を残すという事が求められていたはずでした。

しかし、教育学部とかの論文?は失敗を知恵に変えるという成果を残すようなものは少ないと思います。実際感想文やプレゼンはさせるけど、失敗を分析して成果にするということはあまり行われていないといえるでしょう。

 それ故、失敗を隠す失敗があれば終わりだと決めつけている、だから最初から問題と向き合わない、問題を察知したら、あたかもなにも無かったかのごとく無反応という態度で押し切る、そういう先生いますよね。子供が自殺して初めて知ったかのごとく報道するようにしている学校というのはごく当たり前に存在しています。

 この現象は、子供にも転移して、出来ない問題、初めてやる問題、そういうのを完全にスルーしてしまう子供たち、学力の衰弱と言っているようですが、この衰弱した学力の子が大人になり、それが教師になり、(ハードル低いし、給料めちゃ高い、コネさえあれば採用確実)さらなる衰弱を、、、確実にデフレスパイラルのごとく侵攻しています。

このスパイラルを止める第一歩は組合の強制解散では無いかと思います。都合のいいように解釈をねじ曲げ、本来は聖職者のはずが労働者、これではいい教育は出来るわけがありません。

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「おかしい人」を自ら判断する「話し合いをしても無駄な人」

 教員にそういう人が多いのは,経験のある人なら納得されるでしょう。

 dolceさんが私のことを批判してきたので,お答えしておきましょう。

自らの身を挺して,「おかしい人」の具体例をお示しいただいていることへの感謝を込めて。

 dolceさんが「おかしい人」と規定しているのが,


1.重要度のランクがつけられない人

2.程度がわからない人

3.バランス感覚のない人

4.自分がおかしなことをやっているのに、他人がすると怒る人

 ・・・・で,私がどれに該当するかというと,

>1はプライオリティとも言われますが、例えば、今回の東日本の災害のように、原発の事故があったという場合、緊急に会議をするので、授業を自習にしておくという場合「授業はどうするの?」とか「子どもにとって、一番大切な授業を放棄するとは何ごとだ」と譲らない人のようなもの。

 ・・・・授業を自習にすることは,荒れた学校を経験した教師なら分かるように,絶対に避けなければなりません。

 特に,あらかじめ出張することが分かっていて,あるいはあらかじめ病院に行くなど予定が決まっていて,学校を離れなければならないときには,時間割の変更などの対応をすべきなのです。

 学校の重要度は,授業があくまでも最優先事項であり,教員の出張はその次なのです。

 これを「命令が出たら従わなければならない」と一貫して譲らないのが「退職教諭」様やdolceさんですが,

 出張というのは,学校運営上あるいは職員が職務を遂行するために必要であると校長が判断した場合に命ぜられるもので,旅行命令は上司の職務命令にあたります。ですから,従わなければならないのは公務員としては正しい。しかし,「自習にしていいから出張してきて」というのが公立学校の当たり前の姿であるという認識はおかしいのです。

 「職務の遂行」のうち,最も重要なことが「授業」であるというプライオリティの認識がない校長,教員がいる学校があるから,公立学校は信用されないのです。

 自分が通える学校がそういうところしかない子どもや保護者は本当に気の毒でなりません。

>2は、子どもを優先するのはいいのだけれど、そのために先生が犠牲になる場合「子どものために、苦しいが頑張るか」という気持ちが大切なのは、常識人ならわかることですが、それも程度ものということがわからない人。

戦前は、教師をしている人の肺結核が多かったと言います。現代では、そういう話はめったに聞きませんが、いくら子どものために頑張ると言っても、先生が健康を害するというのは考えものです。場合によっては、労働基準法に抵触します。でも「子どもはどうするんだ」と一点張りの人がいるんですね。

 ・・・・健康を害するリスクがあるのは,教員だけではありません。

 震災のとき,毛布が足りなければ,自分のものは子どもに与える。

それで自分が肺炎になっても,生徒が肺炎になるよりはまし,と考える。

 教員としては当たり前の行動です。

 逆に,子どもの権利より教員の権利を優先する。このプライオリティがdolceさんたちの共通項です。

 
>3.現実に即した対応ができないということです。だから、おうおうにして、こういう人は実践の場(現場)から離されるということがあります。当然、自分の実践はなくなります。
そうしなければ、ことが進まないからです。みんなが困ってしまうからです。
要するに、現実感(リアリティ)がないのです。現場から離されるから、なおのこと現場の人の気持ちがわからないということもあるのでしょう。そのため、話は空想ばかりになりやすいと言えます。

小学生は朝、集団登校を行なっている学校は多いと思いますが、その時は上級生がリーダーになって学校まで集団を率いるわけですが、学校は前もって「先生がいなくても、リーダーの言うことを聞いて、また、リーダーはみんなのことを考えて・・・」という指導をするのですが「教師がいないとは何ごとだ」とか「子どもに丸投げをしている」などと言い出す人もいます。

 ・・・・「リーダーの言うことを聞いてうんぬん」の批判を私がしたのは,教室での話

 これを,集団登校という「学校外」の話にすり替えてしまう

また,出張のために授業を自習にしてしまう,という話を,「震災が起こって緊急の会議を開くときに・・・」などという極端なケースにすり替えてしまう神経。

 こういう「空想」「飛躍」が好きな人が,どういうことになるかはご自分で紹介されています。

>4の人は、全く自分勝手と言うか、いや、人はそういうこともありますが、普通は自分がおかしいと気づくのに、全く自分の行動には感知しないというところが変です。こういう人にかかると、それこそ自分のことは棚にあげて、と喧嘩になりやすいので気をつけることです。

 ・・・・まさにこれが,私の名づけたミラー現象です。

 >まとめとして、世の中には話し合いをしてもムダな人がいるということを、頭に入れておいた方がよいと思います。

 ・・・・まさにその通りです。

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評定「5」の具体例を生徒・保護者に開示せよ!

 同窓生の集まりがあった帰りの車の中で,話題が今の中学校の話になったので,評価のことについて聞いてみたところ,やはり大きな不信感をもっている親がいることがわかりました。

 現在,取り組まれている観点別学習状況の評価のほころびは,小学校では見えにくいのです。
  
 A・B・Cの3段階を3・2・1の3段階に総括するだけだから。

 これが,中学校のように,A・B・Cの3段階を5・4・3・2・1の5段階に総括することになると,とたんに?がつきだしてくる。

 繰り返しになりますが,誤解のないように説明すると,

 Aは4と同じ「十分満足」なレベルを表しますから,4観点でAAAAは4でもいいのです。

 5は「十分満足の中でも特に程度の高いもの」なのですが,そもそも,そういう高い質のものが,授業の場面や定期考査の問題の解答で得られているのか?ということが課題となります。

 成績の付け方に関する情報開示で最も大切なのは,こういう授業での状況が「5」のレベル,こういう定期考査の問題でこういう答えを書いているのが「5」のレベルだ,ということを生徒や保護者に知らせることです。
 
 そうすれば,「ひいき」だの何だのという苦情はなくなります。

 しかし,今度は「その程度の答えが本当に十分満足の中でも特に程度の高いものなのか」という批判が加えられるようになります。
 
 それにどう答えられるかが,教師の力量ということになる。

 しかし,こういう力量も,教師にはじめから備わっているわけではありません。

 校内の過去のデータで,あるいは,他校のデータで,こういう作品が「5」に該当するのだな,というイメージができていることが大切です。

 あくまで,学習指導要領の目標や内容に照らして評価するのですが,目標や内容はそれほど厳密なものではありませんから,質的な評価は,多様な質の作品をたくさん見ることで,妥当性・信頼性が高いものになるのです。

 さらに言えば,そういう「多様な質の作品」を生み出すには,それなりの指導が必要となります。

 穴埋めプリントをつくって,そこに文字を教科書や板書からコピペするだけの授業で,「多様な質の作品」ができるわけがありません。

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最も簡便な「学力向上を図っているかどうかの調査」

 小学校でもかまいません。

 いつも「学び合い」だけでごまかしている教師,「教えたのでできているはず」という教師ばかりでないのであれば。

 「学び合い」の結果,「教えた」結果,どのような学力が身についたか,それぞれの子どもの学力がどのように向上したかを調べるために,市販のテスト以外に,きちんと自分で作問して,過去の子どもとの比較を地道に行っている教師が,どれくらいいるかを調査するのもよいでしょう。

 タイトルの調査を実行してほしいのは,中学校です。

 どうやって調査すればよいのか。

 定期考査問題の「模範解答」を教育委員会が提出させ,分析をすればよいのです。

 問題と一緒に分析するのがベストでしょうが,それだと渋る教員が多いはず。

 量も膨大になる(と感じる人がいる)。

 ですから,模範解答だけでよいのです。

 解答用紙だけでもだいたいわかりますが,やはり解答例を知りたい。

 言語活動の充実を図っていますよ,という学校が,どれだけ「考えさせる問題」「表現させる問題」をつくっているのか

 より精密な調査をするなら,テストの結果=得点分布も提出してもらえるとよいですね。

 どういうレベルの問題で,どういう結果が出ているのか。

 これと,観点別学習状況の評価の結果をじっくり比較すれば,

 きっとこの学習評価の方法は,破綻していることが明確になるだろう,というのが私の予想です。

 公立高校の入試得点と,学校が出してきている評価・評定の関係は公立高校がすべてにぎっているわけなので,高校が「観点別学習状況の評価」はあてにできないことをすでに知っているのです。

 できれば,新しい学習指導要領による指導が始まる4月より前に,評価の見直しを進めてほしいのですが。

 私はこの評価の仕組みが,学力低下,そしてさらにその原因となる教師の指導力の低下を引き起こしていると考えている一人です。

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自ら考え,自ら学ぶ力とは何か

 「若い教師の仕事術」というタイトルで記した記事を再掲いたします。

 この記事にたくさんをアクセスをいただいたので,改めて,別のタイトルでご紹介します。

 自ら考え,自ら学ぶとは,どういうことか,特に若い先生方には自問自答してほしいことです。

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 マニュアル人間が増えていることを助長しているのが,中途半端な経験をもった人間の「時間術」とか「仕事術」などのいかがわしい本です。

 「いいやり方があるよ」

 「時間をかけない方法だよ」

 「効果的な方法だよ」

 などという言葉につられてまねをするような人間に,本当に効果的な仕事ができるはずがありません。

 教育という仕事に効率とか簡略化とかいう概念をもってこようとする人間が,子どもをどう見ているか,容易に想像がつきます。

 「カンタンにうまくいく教え方」

 などの甘い言葉につられる人間は,そうやって子どもを育てていくのがよいと考えているのでしょうか?

 若いときしかできない,独身のときしかできない「時間のかけ方」があり,実際に本を書いている人間はそういう無駄な時間を過ごしたからこそ,自分で実践できるようになったことがあることも知っているはずです。

 とにかく若いうちは,ありとあらゆる方法を自分で考えて,試行錯誤することです。

 子どもの反応なり動きなりを,しっかり見つめることです。

 毎日の活動の中で,教師として「やりたいこと」がどんどん出てこないのであれば,それは教師には向いていないということです。

 知識が足りないことに気づいたのなら,ひらすら調べることです。

 そういう手間を省くような本を出す神経が,「教育者らしくない」ことになぜ気づかないのでしょうか?

 「どうしたらうまく授業ができるかわからないと相談された先生に,いい方法を教えられなかったのは残念だ」なんて,そもそも「学ぶ」ことの意味がわかっていない人間のせりふです。

 すぐ答えを知りたいと思う子どもとか,いい方法を人から聞いてまねしたいと思う子どもが増えているのは,そういうタイプの教師と,そういうタイプの教師を応援する教師がいるのが最大の原因でしょう。

 小学校の教師にその傾向が顕著です。

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批判のための批判の典型

 「もうやめる」のは,正しい判断だと思われます。

 「退職教諭」様のような反応をする世代の教師に習った世代で,「これが当たり前の教師ではなかったんだ」と気づかれてしまうのは,都合が悪いでしょうから。

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なかなか理解してもらえそうにないので、もうやめようかとも思いましたが、書いてみます。
①「教師をかばう」云々について

言われるような気持ちは全くありませんよ。ただ、「今の教師はだめだ」とか、「力量不足」だとか、一部分を捉えて、「為にする」偏った批判をして欲しくないのです。

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 私の方が,「批判のための批判をしている」と決めつけたい理由はただ一つでしょう。

 自分の問題を隠したいからです。

 私の問いには答えない。

 私の問いには答えられない。

 これがすべてを物語っています。

 私がこの目で見た批判されるべき現状がある以上,批判します。

一部でも存在する以上,その廃絶が私の願いです。

 「一部だからいいじゃないか」なんていう態度が,公務員としてはとってはいけないものなのです。

 批判する権利を奪おうとすることが,あなた方の世代の最大の欠点なのです・・・というと,同じ世代のまともな人が批判したくなるでしょうが,でもその世代には同じような人が多いことは否定できないでしょう。

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②教師の「労働者論」、「公務員論」について

これも偏った記述が気になりますが、こんな論はなんの益もないのでやめましょう。ただ、なんと呼ぼうが、「働いて社会を支える人」には変わりはないのです。ですから、教員の仕事は、多くの働く人と共にあるのです。多くの父母と手を結ばないと教育実践は進まないのです。

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 「多くの父母」と手を結ぶという表現は誤りです。

 目の前にいる子どもの「すべての父母」と手を結ぶのです。

 そして,こう言うのです。

 私は公務員としての職責を果たすべく,全力を尽くします。

 退職教諭様も,職に就くときに宣誓をされたでしょう。

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③「教師の苦悩」について

ここでも、貴君は大変な勘違いをしておられるのは残念至極です。「教師の苦悩」は子どもたちの苦悩なのです。日々子どもたちと向き合う教師は、現実の子どもたちの苦しみ、悩みと対峙しているのです。教師の苦悩は、子どもたちとはちがうどころか、まさに子どもたちの苦悩、そのものなのです。そして、日々、子どもたちの苦悩は深まるばかりです、子どもたちの「荒れ」「不登校」「いじめ」等々は、まさに子どもたちの苦悩そのものです。その原因については、ここではふれませんが、子どもたちの喜びなくして教師の喜びがないのと同じように、子どもたちの苦悩は「教師の苦悩」なのです。

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>私が問題にしているのは,「教師の苦悩」ではなくて,「教育を受ける側の苦悩」なのです。

 という私の話が理解できていない。

 教師の言動による子どもたちの苦悩に本当に苦悩している教師なら,このブログから何かを学びとれます。

 どんな教師が子どもの信頼を失うかを発見することができます。

>「その原因は,ここではふれません」

 だめだめ。ふれなきゃだめですよ。

 特に,教師が原因の子どもの苦悩についてです。

 これを避けて通ろうとする教師が信頼を失うのです。

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④<定数の問題は,教師の質の低下が特に懸念されている今,実施するのは危ない,というのが私の見解です。>について

恐るべき呆れ果てた見解という意外にありません。こんな見解は本当に多くの父母・労働者・子ども達の切実な願いに、背を向け、文科省以下の行政に媚びるなにものでもありませんよ。貴君がどうか真っ当に子ども達や父母の願いに素直に耳を傾けられように願ってやみません。

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 子どもたちや父母の願いは,質の低い教師を増やすことではありません。

 それに,文科省に媚びているのではないことは,私の主張から明白でしょう。

 35人学級に反対しているわけですから。

 こうやって矛盾したことを書いてしまうので,批判のための批判だということがばれてしまうのです。

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⑤「教師の質の低下」について

ご存じのように、指導力不足教員再研修制度が何年か前に発足しましたね。十分な検証がなされているとは言い難いですが、例によってなんの効果もないというのが、現実でしょう。というのも、もともと根本が誤っているからです。貴君はまるで指導力不足教員を眼の仇のような言い方をしていますが、百歩いや千歩譲って、「では貴君は指導力不足の教員ではないんですか?」と問いたいと思います。(この場合、指導主事経験なんか免罪符にはなりませんよ。)私は、自分も含めて、日本の教師はみんな指導力不足教師だと思いますよ。だからこそ、苦悩する子どもと共に苦悩するのです。一緒に苦悩する教師にだけ、子ども達は心を開きます。貴君のように「上から目線」の大人には子ども達は決して心を開かないし、父母からの信頼も得られることはないでしょう。余りに無知厚顔な行政が埒もない研修をどんなに強制しても、なんの意味もないし、じょじょに事の本質が露見してくるでしょう。貴君の「指導力不足教員」問題意識とは、かなり距離があるような気がしますが、この問題は、行政が意識的に針小棒大に流布宣伝していることも見逃せません。貴君もどうもその線上にあるのではないですか。私は、日本の教師の質も学力も基本的には大丈夫だと確信しています。なぜなら、日本の教師たちは、常に子どもたちと共に悩み喜ぶ存在だからです。どうか、行政がこれ以上おかしな施策を講じて、子どもたちや教師たちを苦しめないように願うばかりです。

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>日本の教師たちは、常に子どもたちと共に悩み喜ぶ存在だ

 私も,こうなる日が一日も早く来ることを願うばかりです。

 大量採用の時代の教師が一斉に退職したとき,この日が来ると,都合が悪いでしょうね・・・・。

 でも,ご安心ください。

 小学校は今,大量採用の時代になりましたから。
 
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こういう教師が一人でもいたら,放置してはいけません

 こういう教師が学校に一人でもいたら,黙って放置するのは許されません。

 しかし,そういう教師がいることに,同じ学校の教師でも気づかない場合があるのが小学校です。

 中学校の場合は,帰りの会で様々な反省が出されたり,学級日誌に記入されることから,どこかの授業が問題だなということを担任が気づくことができます。

 しかし,小学校は担任だけがほとんどの情報を握っているので,子どもが話さない限り

 「情報が漏れる」

 心配がない。

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その先生は、授業中気まぐれで、市長の娘を褒めちぎってみたり、教科書にある解らない単語を調べさせて、毎回当たるだけという授業でした。調べるだけなら国語辞典や百科事典を使って調べます。肝心の授業らしきことは全くといっていいほど何も無く、南京事件の百人切りの話をしたり、根拠の不明確なことばかりを押しつけ、大変混乱させられました、授業中はったりで俺は何でも知っているから質問してみろみたいな事があって、だれかが教科書にあった「アルマイトの鍋」という記述があり、「先生アルマイト、って何ですか?」と質問したら。その先生ははったりで、「アルミに鈴をメッキしたものだ」と答えたので、私は「先生それ違います、アルマイトはアルミに電気分解で酸化皮膜を付けたものです」と、国語辞典にも載っているほど簡単なことなのでそのページを開いて先生のところに詰め寄りました。

ごまかし、嘘、はったり、気まぐれのほめ言葉(当時は政治家のコネ派当たり前、市長からのコネで入った先生と丸わかりでした)
そして逆ギレ、精神構造はだだっ子そのものという先生でした。

子供にとって困るのは、気まぐれで態度が豹変すること、同じ事をして、褒められること
逆ギレされる子がいるという事実。子供にとって必要なことは変わらない態度であると思います。悪い点があればはっきり注意すればいいのですが、その注意のしかたも、気まぐれ、時につるし上げやさらし者にするということは平然のごとく行われていました。

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 こういう話を,「ああ,いた,いた」

 と笑って振り返ることができる余裕のある人間が多いのは平和なこの国の象徴的なことですが,傷ついている人がいても,

 「それはその人の心の持ち方の問題だ」

 「みんなが気にしなければ,それでいいのだ」

 といって「個が抹殺」されるのはいつでもどこでも起こり得るのが学校現場というところです。

 同調性圧力の強さに抵抗することで起こるいじめは,こういう教師には防げません

 だから余計に,こういう教師を放置してはいけないのです。

 今回,匿名さんからのコメントで私がなるほどと思ったのは,

 以下の内容です。

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大人の陰口をきかされる事も、私はいいことでは無いかもしれないけれど、少なくとも私には許容範囲です。ネガティブな部分を全て隠すという不自然な人は信用できないと思います。

子供時代を振り返ると、学校で発言や、作文という課題に対して、歯の浮くような美辞麗句をならべることばかり強制されていたようで、長くそういう経験があると、バランス良く物事を考えるのに支障が出てくることが解りました。

ネガティブなことを全てカットして出来たことが顕著に解るのが英語の教科書です。
いわゆる俗語を全部排除してジョン万次郎のころのコミュニケーションだけで押し切っています。

コミュニケーションにはバランスが必要で、ポジティブな用語だけで何でも伝わるというわけにはいかないのです。

ネガティブな感情、「怒り、悲しみ、憎しみ、拒絶、不安」などを出さない子を求め、それを美徳として育てられたらどうなると思いますか?

授業中、ネガティブな感情を全く出さない子供たちへの授業というのがうまく上手に出来た授業であると勘違いしている先生というのが多いと思います。

一人一人理解度も異なり解らなくなったところがそれぞれ違います。それ故ネガティブな「不安、拒絶」を出してくれる方がどこで解らなくなっているか把握しやすいのです。

子供にも、先生のネガティブな面を少し見せられると、「先生も同じ人なんだ」という認識を持てるようになると思います。(量的質的問題は極力注意する必要があり絶えず自分自身にフィードバックする必要があります)

子供が不安を持っているとき重要なのは先生がその個別の不安に逃げではなく、状況によって優しくも、力強くも、その子にあった後押しをすれば良いのです。
意外と、同じところでつまずいているという状況が多いと思います。特殊なケースは個別にフォローするのがいいかもしれません。

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 学校の教師が,自らの問題を問題として認識できない理由が,少しずつ解明できそうなヒントをいただきました。

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やる気のスイッチですが、「池上章」氏の解説、上手だと思いませんか?
かれは興味をそそるような問題の投げかけ、状況の解説を先に行います。
そして、「皆さんこういうときどうしますか」と自分だったらこう考えるというタイミングを与え、詳しい解説を始めます。やる気のスイッチというのは、一瞬で入るものでは無く、徐々に気持ちが高まる効果が必要なのだと考えています。

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 スイッチというたとえは,四コマ漫画の「起承転結」でいえば,「転」にあたる部分ですね。

 徐々に気持ちを高める指導ができる学校で教育できる先生は,それだけで幸せです。

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「問題はない」ことにするのが最善策

 タイトルのような考え方の教師,あるいは管理職がいる学校では,本当に苦労が絶えないことでしょう。

 力のない教師や管理職のとる手が,「問題はない」と断言してしまう方法です。

 言霊文化の最悪の面です。

 「ない」と言えば「ない」ことになる。

 という考え方。

 「ある」と言えば,「ある」ことになってしまう。

 事実を言っているので当たり前のことなのですが。

 「今の現場には問題がある」というだけで,

 「必死に頑張っているのだ」という,問いの答えにはなっていない反応をする人間がいるのです。

 こういうタイプの教師に「やられた」経験がある先生方は多いことでしょう。

 一部の人たちが,「教育委員会がプレッシャーをかけたので学力テストの答えを教える先生が生まれたのだ」

 と,子どもに答えを教えてしまう教師の問題は「なかったこと」にして,

 「教育委員会によるプレッシャー」

 「学力テストを実施するという政策」

 が問題なのだ,主張しました。

 こういうタイプの人は,問題を隠そうとするか,なかったことにするのが常套手段です。

 あるクラスの子どもの問題を,「それは大したことじゃない」

 保護者が対応のまずさに本気で怒っているのに,「おおげさな親だ」などと
  
 という対応をとって,

 「私のクラスに問題はありません

 などと断言した教師がいました。

 次々に明るみになる事実により,

 「問題がなかった」とは言えないことが明らかになると,大変なのは「学校という組織の責任」を問われることになった後のことです。

 管理職が「担任の言うことを信じていました」なんて言えば,今度はそういう管理職を管理する教育委員会にまで火の粉は飛んできます。

 以上のような問題ですら,「その程度のことはたいした問題にはならない」なんていうレベルの学校が,現実にあることをふまえた対策をとらなければなりません。

 取り返しのつかないところまでいかないと,「問題」を「問題」として認識できなかった学校に転任した私が見た世界のことを,具体的に告げる機会が最近増えました。

 「授業の話をする以前に,確認したいことがあります

 と切り出す講師は,私です。

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「教育失敗学」は老舗ブランドですか?

 記事に当ブログタイトルをつけてくださったおかげで,興味深いお話が読めました。

 感謝いたします。

 そのブログの中で,「他人の失敗」という言葉があって,今,ふと自分なりに気づいたことは,

 私は「失敗している人」は「他人」と思っていなかったということです。

 私にとっての「他人」とは,たとえばその人のブログの記事は読まない,そういう人のことです。

 ブログの記事を読んでしまうと,その時点で「他人」ではなくなってしまいます。

 そもそも,「教育」にたずさわっている(たずさわってきた)方々は,みなさん「他人」ではありません。

 だから,気になるのです。

 「そういう書き方が,教員はだめだな,と思わせる原因だ」

 なんて気にするタイプなのです。

 これは,「そういう書き方はするな」というのではなく,「そういうものの考え方を見直してほしい」と感じているからです。

 いまだかつて成功したことはありませんが,そうやってきて感じたことは,

 「ブログに記事を書くような人は,自分のものの考え方を簡単には変えられる人ではない」

 という仮説が立てられるのではないか,ということです。

 老舗と評価してくれたブログでふれていますが,どうしようもない人が2人います。

 私は,こういう人が放置しておけないのです。

 「どうしようもない人」ですが,決して「他人」ではない。

 さて,では,「自分の失敗」とは何か?

 そういうことを読みたい方もいらっしゃるかもしれませんが,自分自身で失敗しているからこそ,こういうことが書けるのだな,とよい意味で解釈していただくことを願っております・・・・・ということにしておきます。

 変なオチですみません。

 教育の世界の中では,「他人」の失敗は「私」の失敗でもあるのです。

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退職した今だからできること

 それは,「教師をかばう」ことだけではないでしょう。

 私の言いたいことは,

 教師は,自分のことよりも子どものことを考えよう。

 それに尽きます。

 教師のことよりも子どものことを優先に考えようとしている私への非難が,「だから教員はだめなんだな」と思われてしまうきっかけになるのを十分に理解した上でのことで,

 現場にいるときに「目を覚ましてほしかった」というのが本音です。

 まず,特に「内容」はない,以下のことについて,

********************

<「奉仕者」は,「おれは奉仕したんだ」と威張るべき存在ではありません。 「一般の労働者」とは違います。>についてです。
威張るつもりで書いたのではありませんよ。貴君が、あまりにも現役教師や私たちの先輩教師の功績・苦悩等々に無理解に論じられるので、わかって欲しいと思うのです。
それから、教師も一般の労働者となにも変わりませんよ。企業利益からか税金からかの違いだけで、日々、教育労働者として働く労働者です。そして、圧倒的に多くの教師は教育労働者として強い誇りを持っていますよ。貴君は教職をなにか特別なものに考えていませんか。公務員という用語をよく使われますが、たしかに公務員ではあるが、その前に、子どもたちのために働く教育労働者であるんですよ。このことをしっかり腹に入れておかないと、多くの労働者=多くの父母と手を結んだ教育実践はできず、一人よがりの実践になってしまうのです。

********************

 このブログの趣旨は,「教育失敗学から教育創造学へ」なのです。

 教師たちの功績をたたえる情報は,そこらじゅうに転がっているでしょう。

 現役の教師なのに,自分の「実績」を本にして売る人までいるんですから。

 私が問題にしているのは,「教師の苦悩」ではなくて,「教育を受ける側の苦悩」なのです。

 「労働者」は,特別な団体の人が使う用語ですね。

 「労働者」という言葉を使えば,「労働者の権利」の話ができるから。

 「公務員」だと,「全体の奉仕者」だから,都合が悪い。


 私と「退職教諭」様の決定的な考え方の違いは,「退職教諭」様の以下の言葉でわかります。

企業利益からか税金からかの違いだけで、日々、教育労働者として働く労働者です

 これ,違います。

 どこからお金を得ているか,という違いだけではありません。

 「何のために働くか」「だれのために働くか」が決定的に違っているのです。

公務員ではあるが、その前に、子どもたちのために働く教育労働者である
 
 こういう言葉で自分たちの何が「主張できるか」が,見え見えである以上,以上のようなコメントは,本当の意味で「子どもたちのために働く」人の足を引っ張っているとしか考えられません。

 次です。

**************************** 

<今,実質的な学級規模はどうなっているかご存知ですか? 30人以下の学級が当たり前になっています。>

良く知っていますよ。「30人以下があたりまえ」などということは、全国的には全くありませんよ。小学校低学年・中1だけは35人といったように、僅かずつ部分的に改善が進んでいるのが正しい現実です。
それも長い年月の間、多くの広範な父母・教職員の切実な願いを署名などの方法で行政に訴え続けてきた賜です。こうしたことがなかったら、行政は決して学級定数削減に理解を示そうとはしなかったでしょう。
しかし、まだ道半ば、いえいえまだスタートしたばかりです。子どもたちの幸せのために、この運動はまだまだ続くでしょう。貴君もよくご理解くださって、署名の一筆なりともご協力下さることを切に願うものです。

<「5人」を相手にしても,「40人」のときと同じような仕事しかできない教師もいます。
 「5人」ではなく,「40人」だからこそ,一人一人に身につく力もあります。
 小規模化すれば,教師の負担は減るかもしれませんが,教育効果が高くなるかどうかはあやしいのです。>
この種の議論は、40人という大人数学級を押しつける行政を擁護するためにするものであり、コメントに値しません。貴君が教師と言うよりは余りにも行政よりであること、(たかが指導主事を経験されるとそうなるのでしょうか。)、現役教師を悪く言われることが悲しいです。圧倒的多くの現場の教師たちは、本当に日々頑張っておられるのですよ・・・・・・。

***************************

 誤解していただきたくないのは,私が問題にしているのは,「失敗している」現役教師であって,「すべての現役教師」ではありません。「失敗している教師」「いかにも信頼を得られそうにない教師」を「悪く言う」のは仕方のないことですよね。

 「頑張ってるんだから,悪く言わないで」は子どもレベルの話です。
 

 繰り返しになりますが,「本当に日々頑張る」のは,当たり前のことなのです。

 ヒットが出なくて苦しむ野球選手も,「本当に日々頑張っている」のです。

 でも,批判はされて当然なのですよ。結果が十分にでないときには。

 「退職教諭」様の論理だと,「教育,だめだね。でも,教師は日々頑張っているのだから,仕方ないか

 で終わりになってしまいます。

 それに,今,問題になっているのは,「日々頑張っている」と呼ばれない教師がいることなのですね。

 定数の問題は,教師の質の低下が特に懸念されている今,実施するのは危ない,というのが私の見解です。

**************************

<行政の指導を,「注文や文句」という受け止め方をすることが,教育公務員が信頼されない第一の理由であることは,今までこのブログで繰り返し述べてきました。>
ここらも全く見解の相違があります。
端的に言えば、本来行政のすべきことは、「指導」ではなく、教育現場の「支援」・物心両面での「環境整備」なのですよ。このことは戦後、教育が「不当な力に支配されない」ために守られねばならない大原則なのです。行政の現場への過剰な介入が、どれだけ子どもたちや教師を苦しめてきたことか、これまた、枚挙に暇がありませんよ。そしてさらに不幸なことには、行政が現場に押しつけてきた教育政策なるものに、何一つまともなものがなく、何一つ定着せず、現場を苦しめるだけになっていることです。
ちょつと振り返ってみても、特設道徳、クラブ活動(部活ではないですよ)、総合、選択授業、ゆとり教育等々、まともに機能し定着したものは殆どないのです。これを貴君はいったいどう思いますか!!

***************************

 やはり,こうした一面的すぎる教員の「ものの考え方」が,信頼を失う最大の原因なのですね。

 「まもとに機能し定着している」学校はいくらでもあるんですよ。

 ただ,残念なのは,それは,「指導力のある教師のいる」学校だけの話なんです。

 100ます計算みたいな,どんなに力のない教師にでも真似ができる「学習」ではなく,「総合」のような学習はよほどの指導力がないと,定着しません。

 私はどう思いますか・・・・という問いには,

 教師の指導力を向上させなければならない

 としか答えられません。

 ですから,まずは,

 「どんな状況が問題の状況なのか」

 を明らかにしなければなりません。

 多くの指導力不足教師は,「自分の何が問題なのか」に気づいていないことが多いのです。

 これは,日本の悪い癖ですね。

 悪い意味の「思いやり」です。

 もっと若いころに,「そんな授業じゃだめだね」と言われていれば,どうにか改善の努力にこぎつけたかもしれない。

 でも,「思いやり」のある人は,だめな人に「あなたはだめな人ね」とは言わない。

 それが逆効果になるとわかっているから。

 逆効果になるのが,「指導力不足の教師」になり,

 そうではない人が,もしかしたら「伸びていく教師」になる。
 
 せめて,学習指導要領の解説に書かれていることが読めて,理解できている人を教員に採用しないとだめです。

*************************

さて、最後は「出張」云々です。
貴君の言うようなことは、失礼ながら、全く現実的に馬鹿馬鹿しい気がします。市町村教委・都道府県教委・文科省に限りなく弱いのが現場の管理職であることを、貴君は知らないのですか?!

*************************

 ということは,「退職教諭」様が校長だったとしても,黙って従うしかなかったということですね。

 そういう「怒り」は,退職した今なら,「正しい教育の在り方」を直接的に指摘・提言できる立場にあるわけですよね。 

 何か取り組まれていますか?
 
*************************

<私の指導主事時代は,次年度の研修等の計画は校長会の許可を得て,3月上旬に決定しています。そして,それぞれの内容も,あわせて3月中に各学校に周知することになっていました。だから,「意味のない出張」にならないように,あらかじめ各学校にとって必要な内容を整理し,各学校の発表等のための事前の準備が計画的にできるように配慮していました。>

こんな「配慮」で役に立つと思っているのですか?なんの役にも立ちませんよ。現場に
本当に必要なものなど出て来ませんよ。はっきり言って、現場には指導主事等やっかいものであり、指導主事訪問などはlご機嫌とって気分良くお帰りいただく、そんなことに腐心しているのです。半日やそこらの教育活動をみて、悪く言われたのでは、現場の管理職はたまりませんからね。ですから、帰られたあとは、たいてい批判ゴーゴーが多いですね。前述の「出張」云々も、実は指導主事の仕事を作ってやっている側面が強いですね。

**************************

>指導主事訪問などはlご機嫌とって気分良くお帰りいただく、そんなことに腐心している

 地方では,まだそういう空気が残っているところも多いのでしょうね。

 でもそれだけでは,あくまで「礼」の一種であって,「実」がないことはおっしゃる通りです。
 
 指導主事の在り方については,私の経験をふまえて,また後日,記事にしたいと思います。

 
 私からの要望は,

 では,「退職教諭」様は,何をされますか?

 ということです。

 このブログを読むよりも,もっと「すべきこと」がありませんか。

 逆に,こんなブログを書くよりも,「すべきこと」はないのか,と逆襲されてしまうかもしれませんが,今回のようにコメントをいただいたりすることで,より教育現場の問題が浮き彫りになって「教育の世界の透明性」が高まることに意味があると思うので,続けていきたいですね。

 今のところ,「退職教諭」様の一連の発言は,もちろんすべてではありませんが,「これが先生という職業の人の伝統的なものの考え方だな」というメッセージとして教職に就こうとしている人たちの参考になっていると思います。ありがとうございました。

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パワハラ(で訴えられないための)対策としての常套文句

 コメントへの回答が前後して申し訳ありませんが,ある発表会の全国大会に参加していて,ちょうどその反省会で同じような愚痴を聞いてきたばかりなので,こちらでご紹介させていただきます。

 本物でいらっしゃるかどうか,私の方で確かめようはないですが,「都立教員」さんからのコメントです。

 太字は私の方でつけさせていただきました。

*******************************

職員会議前の校長と主任の会議を企画調整会議といいますが、
はっきり言うと、ほとんど機能していません
。校長が人事評価を
するようになってから、校長に意見をする教員が全くいなくなって
しまいました
。企画会議で意見を言うと、長引くから他の主任から
白い目で見られます。結果として、職員会議の議題はこんな感じです
という意味のない会議
です。

校長も2~3年で異動ですから、現場の教員に任せっきりで、自分自身
で学校の方針を言い、その結果に責任を持つ人なんていません。
生徒の要望や学力さえ分からないまま退職される校長もいることを
知ってください。

校長を含む都立高校の管理職は、授業や子供相手が嫌いな人が多く、
はっきり言って2流教師であることが多いのは事実
です。挨拶もできない
人も少なくありません。

自分の出世を第一に考え、教育委員会に向き合って、現場と向き合わない
人が多いことが問題ですね。

自分の人権しか考えない日教組も問題ですが、こういう校長もより大きな問題
です。

>>生徒や親に気に入られる教員レベルで精一杯だったということで,
>>管理職失格だったというのが私の解釈です。

教育委員会に気に入られ、自分の出世だけを考えている多くの校長よりは
はるかにましですよ。

******************************
 
 組合員よりも管理職の方が学校の癌になってしまった。

 そしておおもとの癌は,教育委員会の方から転移している。

 そういう趣旨の愚痴は2時間にわたりました。

 パワハラは,教育委員会→校長→副校長→主幹

 の順におりてきていますね。

 もし校長が,「これは校長の立場として,主幹に言っているんだからな

 と前置きをして,ひどいことを言っている校長は,「パワハラ(で訴えられないための)対策」をとりつつ「パワハラ」をする人ですから,要注意です。
 
 私の場合は,「実際に教育するのは自分だから,とにかくだれも文句が言えないような仕事をするのみ」というスタンスで,管理職から実害を受けたことはないのですが,

 心配なのは,「管理職のせい」「教育委員会のせい」にすることで,「自分のいたらなさ」をカモフラージュしようとしていないか,と常に自らに問う姿勢を失ってはいないか,ということです。

 「都立教員」さんのコメントは,「退職教諭」さんと似ているのですが,

 私の質問は,「あなたは何をしましたか」ということに尽きます。

 「都立教員」さんのコメントのような事情は,どこでも「あり得ること」です。

 では,そういうとき,一教員はどうすればいいのか。

 「何もできない」とあきらめるしかないのか,と自問してほしい,ということです。

 管理職がいかに教育的指導力に欠いている人・・・・・たとえば主任や主幹を大声で罵倒してしまうとか・・・・であっても,それが直接的に子どもへの被害になることは少ないでしょう。

 どうしても,理想の管理職に近づいてほしいときは,

 管理職が現場に向き合い,取り組むべきことはこれですよ。

 という発言を,ぜひしてください。

 このコメント欄でもけっこうですよ。

 そういう声が,心ある人に届いたとき,教育を変えることに協力してくれるかもしれません。

 でもこう申し上げては恐縮ですが,

 現場の教育を支えるのは,校長ではありません。

 生徒と直接向き合っている教師です。

 むしろ,校長が生徒の前にのこのこ暇そうに出てきてもらうのはやめてもらって,出張に励んでくれる方が,やりやすくないですか。

 そういう学校の方が,高い教育水準を維持できる,という実例を出してほしいです・・・というか,実際にそういう学校がいい学校ではないでしょうか。

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1つの質問に,1分以上話し続けたら,不採用ですよ

 「匿名」様が学校の教員になられるのであれば,コメントを読ませていただく限り,特別支援学校が一番向いているかもしれませんね。

 けっこう戦えるときは戦えるし,協力し合うときは,協力し合う。

 そういう待ったなしのぶつかり合いの中で,人間が本来もっているエネルギーを引き出すことが可能になります。

 何より,組合人間もそうでない人間も,子どもたちからものすごく多くのことを「共に」学び取ることができます。

 子どもからエネルギーをもらって育つのが教師という職業なのですね。


 しかし,いただいたコメントから,トンデモ教師や組合への嫌悪感は多大なものをお持ちのよう(それは,私と全く同じ境遇だということ)ですが,そういう人と実際には一緒に仕事をしなければいけないとき,毎日,面と向かって

 お前の授業はでたらめだ!

 なんて言っていたら仕事にならないわけです。

 
 いろいろな意味で,一緒に「戦う」

 その中で,自分にも,相手にも,「変化」が生まれる

 こういうやり方でしか,「本当の教育」は追求できません。

 【白か黒か、全か無かという思考パターンに引きずり込まれていると思います】

 こういうご指摘を,私は「ミラー現象」と呼んでいます。

 「頑強に反抗する教師にたのもしさを感じる」という私の言葉の裏には,「それだけのエネルギーをもっている教師がかけている」ことへの嘆きがあるのです。ですから,引用されるときは,一部を抜き出すのはご法度です。

 このうしろに,何と書いてありましたか。大事なことは,そっちの方なのですね。

**********************

>相変わらず,頑強に反抗する教師にも,どこかしら,たのもしさを感じます。
これは歪んでいると思いますよ。頼もしいのではなく単に決まりやルールを守らないことで自己主張をしているに過ぎないと、冷めた目で子供たちは見ていると思います。
そういう教師に限って、授業がデタラメ、猥褻行為やりたい放題という実例ともいえる教師を自分が中学生の時実感しました。

いつの間にか白か黒か、全か無かという思考パターンに引きずり込まれていると思いますが、いかがでしょうか、一度冷静に見直してみる必要があると思います。

インパクトのある先生は必要ないと思います。

***********************

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子どもが最も聞きたくない言葉は?

 「匿名」様へ

 ようやく「本心」を明かしていただいてありがとうございました。

組合大嫌い人間なのですね。

 組合を相手にご苦労なさった経験がおありでしょうか。

 「退職教諭」様と同じで,「実力排除」できればよくなる学校があるかもしれませんが,それもできず,ただただ悲しい現実を嘆くことしかできないのもむなしい話ですね。
 
 でも,私は組合に入っていなくても,組合の人から直接的に批判されたりすることはありませんでしたし,学年主任だったときも,学年経営にはとても協力的で助かりました。

 ちょっとしたスイッチが入ると大変な場合も(特に対・管理職で)ありますが,勉強熱心で「弱い者への思いやり」に満ちた人は,基本的に教師向きです。

 さて,

>短いインパクトのある話?そんなことでは授業は成り立たないでしょう。

 そういうご指摘ですが,「やる気のスイッチ」を入れる教材は,私のような社会科教諭には欠かせないものです。

 もちろん,単なる興味本位ではありません。

 「顔で日本の歴史を説明する」というのも,はじめはふざけて乗ってきてくれる子どもも,本当に説明ができて,時代の流れが理解できてしまえば,「本時の目標」は達成されます。

 教科書に書いてあるようなことをグダグダ説明してみても,何も始まりません。

 話題の転換,話材のストック,反応への対処,そういう素質があるかどうかは,先ほどご紹介した,「スカイツリーと東京タワー」でも確認することができます。

>インパクトで採用を決めると、演技性人格障害といえるような人を採用してしまいます。

>自治体によって多少のばらつきはありますが採用する側に見る目が無い

 見る目がない,というのはあり得ますね。

 授業のような生きたやり取りを普段からしていない人が,目の前にいる人の能力の何かを引き出すのはそう簡単なことではありません。

 ですから,「本当に授業が上手な人の技」を,同じ面接の場面で感じることの積み重ねが,面接官の資質向上には大切です。

 インパクトというのを,テレビ番組のような低レベルでとらえられているのは残念ですね。

 短い言葉でわかりやすく,本質を突く。

 こういう訓練を受けられる職業は,あまりありません。

 「匿名」さんは,どのようなご職業の方なのでしょうか。

 子どもたちが最も「聞きたくない」と思っている言葉は何でしょうか。

 面接でそう問われたら,何とお答えになりますか。

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教育劣化の主因を隠す行為は,「容赦」できません

 職場を離れても,「生涯現役教師」という気持ちは捨てない。

 そういう気概を感じさせていたただきました。

 現場を支えてきたのは,教師たちである。

 自分の仕事に関して,自負がもてることはすばらしいことです。

 しかし,「おれたちは頑張ったんだぞ」と自分で言うのは「公務員」たる「教師」らしくありません。

 それは,「教育を受けてきた」国民,市民が言うことです。

 それが,「公務員」というものです。

 公務員は,「奉仕者」なのです。

 「奉仕者」は,「おれは奉仕したんだ」と威張るべき存在ではありません

 「一般の労働者」とは違います。

 「一般の労働者」が必死に働いて得た稼ぎの一部をもらって仕事をしているのが「公務員」です。

 

 さて,クラスの子どもの人数が「45人が多い」のは,たしかなことでしょう。

 40人を基準にして教室の広さをつくってありますから。

 では,「5人」なら,本当に十分満足な仕事ができるのか。

 それを自問自答する必要があります。

 「5人」を相手にしても,「40人」のときと同じような仕事しかできない教師もいます

 「5人」ではなく,「40人」だからこそ,一人一人に身につく力もあります

 小規模化すれば,教師の負担は減るかもしれませんが,教育効果が高くなるかどうかはあやしいのです

 学力面だけをとってみても,単純に,小規模校と大規模校を比較すればその意味がわかります

 行政はそれを内緒にしていますが。

 今,実質的な学級規模はどうなっているかご存知ですか?

 30人以下の学級が当たり前になっています。

 35人学級を無理におしつけようとすると,

 生徒が集まって人気がある学校に入れる子どもが少なくなってしまうという逆の問題もあるのです。

 行政の指導を,「注文や文句」という受け止め方をすることが,教育公務員が信頼されない第一の理由であることは,今までこのブログで繰り返し述べてきました。

 結局,「あまりにも劣悪な・・・」の具体例をあげればあげるほど,教師の資質や能力が問われる現実を自ら直視しなければならなくなる

 だから,具体例はあげることはできないと考えていました。

 「注文や文句」と受け止められてしまう「指導」は,法令にのっとったり,国民や市民の声をもとに行う仕事であり,義務でもあります。

 しかし,授業を放り出すような出張命令を校長に出させる,そういうことは,そもそも「教育の目標」の実現を妨げることであり,法令に背く行為ということになります。
 
 こういうことの是非はきちんと問わなければなりません
 
 自校の教員に「出張命令」を出すのは校長です。

 教育委員会が出しているのは「出張依頼」です。ここを勘違いされませんように。

 校務に支障が出る場合は,校長は命令を出しません
 
 そうでないと,法令に違反することになるのです。

 では,実際に,出張しない人は少ないのはなぜか。

 それは,出張の日は,かなり前からわかっていることですから,たとえば全員の先生が校外に研修に出る日は,午後の授業をカットして,他の日に振り返るとか,出張する人が個人なら,中学校の場合は時間割変更をするとかして事前に対応をしているからです。

 「退職教師」様のコメントを読む限り,「人手不足のため対応不可能」と読めましたが,私も小規模校勤務の経験があるからわかるのですが,それは「言い訳」にすぎません。

 さて,出張先の用務内容ですが,その内容について,直接,校長を通して教育委員会に「意味のない出張依頼はしないでほしい」という要請はされたことがありますか。

 私の指導主事時代は,次年度の研修等の計画は校長会の許可を得て,3月上旬に決定しています。そして,それぞれの内容も,あわせて3月中に各学校に周知することになっていました。だから,「意味のない出張」にならないように,あらかじめ各学校にとって必要な内容を整理し,各学校の発表等のための事前の準備が計画的にできるように配慮していました。

 地域の教育の充実のため,教育委員会と学校が一体となって努力している,そういう姿がないのは,悲しいことです。

 特に,「上から下にしか情報が流れない古すぎる体質の自治体は,早く改善しなければなりません。

 今は,そういう時代ではないのです。

 教育委員会も評価されて当然の時代です。

 「退職教師」様の言いたいことは,

 「ひどいことを要求されている。でも,逆らえないから仕方がない

 これに尽きるのだとしたら,水俣病を起こした原因企業の労働者と同じレベルと言わざるを得ません。

 評価されるべきなのは,県だけでなく,市町村もです。

 そういう問題を「隠す」罪は,退職をされているにしても,軽いものではないはずですよ。

 結局,守りたいのは子どもではなくて自分。そんな公務員は存在の本旨からはずれています。

 ですから,「匿名」なのに「問題の自治体」を隠す,かばう,そういう行為は「容赦」できません

 実は,私が,「退職教師」様に,怒りを覚えているのです。

 大切なのは,だれなのか。

現場を離れたあとも,守るべきものは何なのか。
 
 もし,「生涯現役教師」という気概をもっていらっしゃるのだとしたら・・・。

*********************

「退職教師」様からのコメント

毎日の精力的な書き込みに敬意を表します。小生は休み休みしかできませんが、お付き合い下さい。腹を立てているようなことは全くありませんよ。むしろ若かった頃の自分の物の言い方のような感じを受けています。

さて、
空調・トイレ・指導書の類のことは単に劣悪環境の一例として挙げたにすぎません。
 >汗だくで仕事をするのは教師だけではありません。 汗だくで仕事ができる職業に魅力を感じる人もいます。
しゃがむ姿勢を子どもに教えることも大事です。洋式便器が「完全なもの」ではありません。>

こういう考え方感じ方の問題ではありません。単に劣悪の一例です。「劣悪」をあげつらうときりがないのでやめますが、最大の「劣悪」は40人という学級員定数(何年か前までは45人でした。前にも書きましたが小生は50人まで担任したことがあります。)

でしょう。40人もいては、毎時間一人の教師が全員を細かく見届けていくことは絶対的に不可能ですよ。不可能なことを行政はずっと現場に強制してきました。にもかかわらず日本の教師たち(私たちの先輩)は、子どもたちのために粉骨砕身してきたのですよ。戦後の我が国のここまでの発展に最も寄与してきたのは、識字率を初めとした民主教育の質の高さです。それを支えてきたのは45人もの子どもを受け持ち、身を粉にしてきた、日本の教師たちです。行政の力ではありません。このことは是非とも貴君には気づいて欲しいです。

小生も戦後の民主教育に、37年間の教師生活の中で、ほんのわずかでも貢献できたことを密かに自負しています。ご存じとは思いますが、先進諸国の中で40人という学級定数の国はどこにもありませんよ。小学校では15人~20人の国が圧倒的です。とにかく、教育には金をかけず、現場の教師には注文や文句をつける、こういう文科省を頂点とした教育行政の長年月の悪弊が、日本の教育、学校、子どもたち、教師たちをいまだに苦しめているのです。小生は、日本の教育の悪の根源は文科省とそれに連なる都道府県教委だと思っています。

「出張」に関わる件です。
前回のコメントは、中学校勤務のときです。ま、それはともかく、前記のような出張は「教委」が命令してくるものですから、およそ現場では拒否は不可能ですよ。こんなことは指導主事経験がおありの貴君にはおわかりだと思いますが。問題は授業のある日に、およそ大して役にも立たない、こんなことを仕組んで、出席を強要してくる行政ですよ。行政が余分な出張を作りすぎなのです。前記のような出張の講師は、たいてい指導主事です。陳腐な内容(およそ自分の実践がない、実践に裏付けられていない。)、文科省の文書内容そのもののような話を聞かされる苦痛はたまったものではありません。ですから、小生は前記のような出張は大嫌いでした。嫌いでも行かねばならないのが、現場の平教員なのですよ。子どもたちと、ゆっくりたっぷり一緒にいたいのにですよ。初任者研修などはこの極み、一刻も早く改善したいものです。出張すれば、自習が増えるのは当然のことです。代替え教員のまともな授業など望むべくもありませんわな。大体、人手不足が慢性化の現場ですからね。小生の勤めた県などは、教員の法定数すら正規教員で満たさず、細切れの臨時時間給講師で凌いでいるんですよ。またまた、県名を聞きたいと思われるかも知れませんが、いろいろ差し障りが出るのであくまで匿名です。
さて、貴君以上に長くなってしまったかもしれません。ご容赦願います。貴君のコメント楽しみにしていますが、現場におられる方ですから、時間的にどうぞ、ご無理のないように。

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立腹されるのも,ご尤も

 やるせない思いをせっかくぶつけていただいたのに,

 「あなたは何をしようとし,何ができたのですか

 なんて,現場では耳にしたこともない「切り返し」に,「退職教師」様はきっとご立腹のことでしょう。

 これは,自治体あげての問題ですから,責任をご自身で引き受けすぎないよう,お願いいたします。
 

 私は,たとえ青空教室だったとしても,よい教師が存在すれば,教育は成立すると思うのです。

 自費をはたいてでも,より効果的な教育を目の前の子どもに。

 そういう教師の存在が,教育を支えているのだと考えています。

 どんなに施設が整っていても,そこによい教師がいない限り,教育は成り立ちません。


 「教えないこと」に生きがいをかけようとした教師たちもいましたが,

 教えないと学びとれないものや,教えずに学びとらせるべきもののが判断できない教師は,子どもの成長にとってはただの「邪魔者」です。

 
 しかし残念ながら,よほどの荒れた学校に勤務しないと,直接的に「邪魔者扱い」される経験はできません。

 こういう経験は一度はしてみるべきでしょう。

 
 どういう意味で,自分は子どもたちにとって「必要な存在」と言えるのか。

 自問自答できるはずです。

 「なぜ,自分が,この子どもたちの前で,話ができるのか」

 「自分が,この子どもたちの前で,何を語ることができるのか」

 
 荒れた学校でなくても,学校選択自由化が実現し,教師が「選ばれる存在」になることによっても,初めてそういう問いを自分に投げかけることができるようになるでしょう。

 
 自分は,どういう責任を子どもたちに対して果たすことができたと言えるのか。

 
 私にとって「邪魔な情報」は,卒業時になると必ず渡してくれる「感謝状」です。

 うれしいとは思いますが,何の役にも立ちません。

 現状満足にいたらずにすむような,より役に立つ情報を,どのようにして集めればよいのか。


 そういう意識で学校評価が行われていれば,

 学校は変わることができたはずです。

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面接でわかる教師への適性

 「匿名」さんからは,またご丁寧な長いお話をいただきました。ありがとうございます。
 
 残念なことに,面接というのは,こういう話ができない,歯がゆいものなのですね。

 ですから,印象的で,インパクトがあり,思わずうなずいてしまうような,短い話ができることが求められる。

 実は,これは教師には特に必要な力です。

 5分の「説教」よりも,「20秒の説諭」。

 金八先生のような「長い話」では,生徒はついてこないのですね。

 いちいち辞書の意味などご開陳するような「堅物」では,荒れた学校は立ち直れないのです。

 オーデションに合格するような,優秀な中学生しか,教師を相手にしてくれません。

 面接では,短いインパクトのある話で,子どもをひきつけられるか,そういう「力」も問われているわけです。

 もちろん,そんな「力」が備わっている人はまれなのですけれど。

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「匿名」さんへのお願い ~面接での「切り返し」技への対応~

 ここのところ,コメントをいただく機会が増えました。

 ありがたいことです。

 さて,初めて,「教員採用試験 合否を分ける(?) 質問例」への回答をお寄せいただきました。

 結論から申し上げれば,「長すぎるので不合格」です。

 これを,20秒以内で話せる長さに要約してください。

 「匿名」さんへのお願いであるとともに,教員採用試験を受ける方への練習問題です。

 もちろん冗談ですけれど。

 これだけ語れる方は,「受験生」ではないですね。

 途中の太字のところは,特に大事だと思ったところです。

 こういう話が通用する人が面接官だといいのですが,ただの事務方の素人が相手だと,かえって印象が悪くなるおそれがあります。
 
 短い言葉で本質をつく。

 「公務員向きの人間」であることが伝わるフレーズを入れる。

 具体的な話は,またいつか。

 また,こういう練習も必要です。

 「東京スカイツリー」は,住宅街の中にできていることをご存知ですか。
 
 地域の住民にとっては多大な「迷惑施設」であると言えますが,それについてのあなたのお考えを聞かせてください。

 私なら,こういう質問を次に投げかけます。

 「匿名」さん,どうやってきりかえしますか? 

******************

>1.あなたは,東京タワーと東京スカイツリー,どちらのような教師になりたいですか?

もちろん、東京スカイツリーと答えます。
理由は、新しい事への挑戦、同じものと作るのでは無く、1歩進んだものを作る。
これは簡単なようで実は、既存の技術を網羅的に修得した上でさらなる課題に取り組まなければならないからです。
高さだけでも2倍ぐらい違います。東京タワーと同じに作れるかというとNoです。
スカイツリーでは地震の時の共振の問題を徹底的に解決しようと新技術が提案され最後は、やったことの無い仕事に挑戦することになります。
 教育においても既成の枠にはめて(指導要領の鵜呑み)授業するのと子供たちに興味を持たせるように授業するのでは、教える側の教養の広さ深さが問われます。
 今の日本の特に小学校教育においては枠にはめて授業をしようとする教師が傑出して多いのが現状だと思います。少数派だと思いますが仮説授業という形態の授業を行っている人もいます。実際のところ枠にはめて覚えさせるというのは学習効果が低く、覚える方もストレスが多いです。
 これは人間の脳が常に受け身で知識を詰め込まれるのと、教師と子供との間で円滑なコミュニケーションによって獲得される知識の習得に明らかな違いがあります
脳科学的にも受け身だけで覚えたことと言うのは忘れても良い記憶として脳の中で扱われますが、疑問や仮説という観点を投げかけて、その上で実はこうなんだと説明する携帯の方が脳のなかでは必要な記憶として残りやすくなります。
 昔ながらの通りに授業を行い丸暗記に集結させるのだったら、教師は必要ありません。
ここで典型的な例題を考察してみようと思います。
30Kmの道のりを時速60Km/hで往復したら所要時間は何分かかるか?という設問 普通往復で60Kmあるのをじそく60Km/hで走行したのだから単純に割り算して1時間=60分と回答するのが今の小学校教育だと思います。

 しかし、3mの道のりを時速60Km/hで往復したら、という設問に変えた場合同じやり方が通用するでしょうか。時速60Km/hを瞬間的に反転させて移動出来る乗り物はありませんし、仮にあったとしてターンの加速度はどうなるのでしょう、人間が乗っていたらその加速度に耐えられるのでしょうか?
そういう疑問を提示してもいいと思うのです。実際なにか物作りをするときそういう公式で与えられていない問題の解決をしなければなりません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より