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塾におまかせします!という公立学校の教師の本音?

 教師が足りない地方では,小学校の教師が中学校の教師になる場合があるようですね。

 こういう人の中に,進学指導のうち,「高校への進学指導」は自分の仕事ではない,と考えている人がいます。

 どういう発言になってくるかというと,

 >義務教育を終了して、その後、高校へ進学したいのなら、高校入試に備えて勉強するかしないかは、本人の問題

 高校入試問題というのは,中学校学習指導要領に示された内容をもとに出題されるので,中学校での学習をしていれば,そのまま高校受験はできるのです。

 この人が「修了」と書かずに「終了」と誤字のまま残していることに,すべてが象徴されている気もしますね。

 こういう人が,中学校の役割を

 >実際にある力がつくかつかないかについては、学校は必要とされている教育を行なっているか、児童生徒はその教育をどれほど身につけたかで問われる

 と解釈しているということは,以下のようなギャップが生じることは明白です。

 【学校側の言い分】

 学校は,「必要とされる教育は行った」

 生徒は,「必要とする学力を身につけていない」

 これは,生徒の責任であり,学校には責任はない。

 【生徒側の言い分】

 学校では,「力をつけるのに必要な教育は行われていない」

 生徒は,「必要とする学力を身につけていない」

 だから,塾に通う。
 
 これは,自分自身の責任もあるが,学校にも責任がある。

 学校側の,「必要とされる教育」というのが何を指しているか,これが人によってあいまいなのです。

 
 大事な点。

 高校入試問題は,中学校学習指導要領に示された内容から出題される。

 中学校の授業は,中学校学習指導要領に示された内容を学習する。

 中学校の教師は,中学校学習指導要領に示された内容を生徒に身につけさせるように指導する。

 「できない子ども」を前に,「どういう指導をしているの?

 という塾からの疑問に,「やるべきことはやっているで本当にすまされるかどうかは,授業を実際に検証しなければわかりませんが,基本的には定期考査問題の質と,量と,その得点状況で判断することができるでしょう。

 だれかさんのように,

 >義務教育ではない高校進学を前提にしているものではない

 のように切り捨てられる人は,よほどの神経の人のみでしょうね。

 繰り返しますが,高校入試は,中学校学習指導要領に示された内容から出題される。

 そして,入試得点は,当日の試験だけでなく,中学校の評定をもとにした「内申点」で決まる。

 中学校の学習成果=評定が,高校進学の材料になるのです。

 実質的に義務教育のような状況になっている高校と中学校の連続性を,簡単に無視できる神経というのが,

 公立学校の教師の「無責任体質」の証明なのです。

 校長から出張命令が出されたのだから,授業は「自習」にしてかまわない。

 こういう神経。

 いいですか。授業に支障がでるような出張は認めないのが,本来の校長のあるべき姿なんですよ!

 指導力不足で教員が学校現場から一時,去って,研修を受ける場合でも,非常勤の先生に授業してもらう状況を整えるのが先でしょう!

 授業は「自習」では力がつきません。

 どのくらい力がついていないかも判断できません。

 こんな人に,中3の担任になられたら,たまったもんじゃない

 いや,こんな人は全くあてにしないで,みんな塾の先生の言うことを聞くようになる

 そうか! あの人は,高校進学の指導は全部,塾に先生にやってもらいたいと考えているのですね・・・。自分の仕事を増やさないために。

 ようやくわかりました。

 なんだか反論めいたことを書いておきながら,塾の先生を頼っている自分がいることには気づいているのかな?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より