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公務員の公務員による公務員のための教訓

 官僚が「自分の独自の意見」を表明しないこと,そもそも,そういうものを「持たない」ことは,よく知られています。
 法律(自分の仕事にかかわる法律にのみ)に従って,粛々と仕事をこなす。

 1995年のNHKクローズアップ現代で,水俣病の患者「救済」をめぐる特集が組まれ,そこで発生当時に「工場廃水を止めさせるかどうか」を議論した省庁連絡会のメンバーのインタビューが放映されたものの録画を,今でも授業で使っています。

 漁民を守る立場にあった元水産庁の役人は,会議が終わった後,「がんばるな」「日本は貿易立国でいく」「日本の海が汚れたら,外国の沖に行ってとればいいじゃないか」という「指導」を受けたそうです。

 水俣病の患者で重い症状を訴えていたのは,地元でとれる魚をたくさん食べていた人々でした。

 当時の厚生省の役人は,工場の監督権限は通産省にあり,「工場廃水を止めることを訴える立場にはなかった」と話しています。しかし,原因は有機水銀であることをつきとめており,それを海に流す可能性のある工場は一つしかなかったわけで,要望書で「最も適切な処置を」というあいまいなものだったことへの質問にも,「越権行為はできない」の一言ですませていました。

 当時,海の汚染を防止する立場にあった経済企画庁の役人は,もともと通産省から出向していた人間であり,たびたび通産省の幹部によばれて「がんばれ」「抵抗しろ」「廃水は止められない」と「指導」を受けていたことを述べています。

 元通産省の担当者は,インタビューに応じなかったようです。

 これが,行政というところです。単に縦割り,というわけでなく,「優越する省庁」「優先順位」がある。

 「行政の責任は重い」と一言で表現できても,いろんな人間に,いろんなレベルでの責任があるはずなのに,ろくにそれを果たさないうちに,退職していく。

 中野剛志は「考えるヒントで考える」(幻戯書房)の中で,次のように述べています。

 官僚の多くは,自分の思想信条のオリジナリティなどには,ほとんど価値を見いださない。何が正しいかについての関心すら薄い。彼らにとって最も関心があるのは,思想や意見がもつ影響力だ。留学したり本をたくさん読んだりする官僚は多いが,たいていの場合,それは権威や主流派の説を知っておくことで自分にハクをつけ,多くの人に認めてもらいたいという,顕示欲のあらわれなのである。
 いくら真っ当な主張をしたところで,それが世の中を動かさないのなら,単なる自己満足に過ぎない。

 これと正反対の姿勢をもつ人として,イギリスの大学教授が紹介されています。

 オリジナリティが高く評価されるというより,それが存在証明である,という姿。

 とても「専門書」とは呼べないレベルの本のタイトルだけを借りながら,自説をもっともらしく補強する癖のある人はいますが,何かの「権威」にすがらないと生きていけないのが人間の性でしょうか。

 荒れた学校に赴任した時,前任者が手こずっていた保護者が,私の出身大学名を聞いたとたんに掌を返すようによく話を聞いてくれるようになったことがありましたが,「権威」の大きさに甘えている場合ではありませんでした。

 人をどうしたら動かせるか,

 教育行政も,これまで,四苦八苦してきました。

 教員が,この世の中で最も動きが「重く」,しかし,子どもの将来への「影響力の大きい」存在であることは間違いないでしょう。

 もちろん,「重たさ」の理由は教員の怠慢だけでなくて,その使命や役割の重さも背景にあって,よほどのパワーがないと「フットワークのいい教員」にはなれないのですが。

 一方で,フットワークよく,学校の外によく出かける教員たち。
 
 小学校を見てみればわかるように,かなり大きな裁量をもち,自己流の手法で子どもを「魔法のように」動かしていく教員たち。

 教育課程の管理ができない管理職。

 官僚とは全く逆方向で,法令にのっとって仕事をしていく,という自覚のない教員たち。

 「活動」の方が「教育」よりも優先している人たち。

 法令を守っていくことで,人の命を救えなかった行政。

 法令の中身を知らずに,好きなことをしている教育現場。

 水俣病の教訓が,全く別の角度から,教育界には問われています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より