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「見捨てる」「見捨てない」という子どもへの見方

 大学の授業ですら通用しない「学び合い」を小学生に求める人の発想の根底に,

 「一人も見捨てない」という原則があることを知りました。

 義務教育の教師なら,「一人も見捨ててはいけない」のは当然なのですが,実際には「見捨てられている子どもがいる」ことへの反省のしるしだと解釈します。

 しかし,子どもの側からすると,「教師から見捨てられている」という実感をもつにいたるには,相当のハードルがあるはずです。

 私の場合は,「学び合い」という名のもとに行われている形式的な協同学習という手段によって,「教師による指導から見捨てられている子どもたち」の方が気になります。

 中学校でも,「教師が話さない授業」ではないと,本当の学習ではない,なんて批判されるのがこわいのか,研究授業ではほぼ100%,話し合いの場面,学び合いと呼んでいる場面があります

 しかし,実態は,「話し合い」は必要ではない場面,実際には「学び合っていない」活動が目につきます

 教師が話し合い場面で適切なコメントをしなければいけないのに,放置されている・・・実際,4人1組の話し合いだと36人の学級なら9つの班ができますから,各班でどう話し合いが進行しているかの把握は難しいでしょう。

 題材が不適切だと,研究授業のように「多くの参観者たち」がいる場合は「話し合っているふり」ができるけれど,教師が一人の場合には,「放課後の遊びの相談」などが始まります。

 こういう状況をつくっている教師が,「子どもを見捨てている」のです。

 子どもの側は,ある意味では歓迎しているでしょう。
 
 自由な話し合いの時間では,好きな芸能人の情報交換も可能になる。

 「教えられるからこそ,できることがある

 「人から教えられたのではなく,自分たちで学びとれたからこそ,できるようになることがある
 
 このバランスが崩れた,あるいは,どちらも実現されていない小学校から上がってくる子どもは中学校では適応できず,成長もできません。

 語るべき内容がないのに,コミュニケーションが大事だといって意味もなく「話し合わされている」子どもたちが,「見捨てられている存在」であることに気づけない限り,学力のほとんどの面は向上しないでしょう。

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コメント

コメントありがとうございました。
ご質問を記事にしてあります。

恨みつらみは、ないと言ったら嘘になります。

荒れた学校の話は、何度か記事にしておりますので、ご興味がおありでしたらお読み下さい。

教育の成果が出せないのを、条件のせいにする人が多い学校では、本当に苦労しました。

一番大事な条件は、教師のやる気、本気、根気なのですけれどね。それが全部なくて、文句ばっかり言っている人がいて、結局、それが子どもに大きな悪影響を与えていたのです。

「荒れた学校」なんてレッテルを貼られて一番気の毒なのは、生徒たち、卒業生たちですよね。

授業を平気で自習にできる校長は、今は、外部評価でつぶせますよ。

気がかりなのは、子どもや保護者が自習の方を歓迎してしまうケースです。

最近時々読ませて貰っています。
私は中学校22年、小学校15年計37年の教師生活を定年退職して3年目の者です。
貴君の文章を読んでいると、まるで現役の日本の教師に恨みつらみでもあるのだろうかと思いたくなります。日本の教師たちは貴君が思っているほど捨てたものではないですよ。圧倒的に多くの教師は、あまりにも劣悪な条件整備の中で、毎日毎日それこそ身を削る思いで、子どもたちのために頑張っているのが正しい実状ですよ。

一つだけ、具体的に貴君の文章に反論しておきます。
教師本人が、自習にして出張したくなくても、校長の「命令」であるかぎり、逆らえないのですよ。また、授業を自習にして教師を出張させることに、心を痛める管理職など皆無なのですよ。貴君は余りにも現場がおわかりでないのではありませんか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より