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指導力不足の校長 ~職員会議の前の会議が勝負どころ~

 一昔前に教職についたばかりの人は,「職員会議のときだけ立派そうな人」を見たことがあると思います。

 「反対」「反対」で議事が進まないことが多く,結局,現行のような位置づけになったのは,「会議など早く終わらせたい」と思う教師にとっては大歓迎でした。

 もしかしたら,今も「伝統的な職員会議」を行っている学校・・・・というより,そこでだけはりきる教員がどこかにいるかもしれませんが,そういう教員がなぜ「仕事ができない人」なのか,簡単にまとめておきたいと思います。

 まず,学校には分掌なり学年なりの組織があり,いくら「鍋蓋式」とはいっても,一応,主任や主幹という立場の教員がいて,こういう人は職員会議の前に,管理職と一緒に学校運営のための会議をもっているのが普通です。

 ですから,職員会議の議題は実質上,ここで決まるわけで,基本的には先生方に伝わるときは,各分掌,学年からの提案をもとにほぼ9割方,決定しているものと言えます。

 もめそうな議案については,管理職はあらかじめ主任等に伝えておいて,一応の了承をとっておく,というのが会議を滞りなく進めるコツです。

 もし,反対の意見をもっている教員がいるとしたら,すでにその意見は分掌や学年でよく話し合われているはずで,その経緯は管理職には事前に伝えられるため,対応もすぐなされるはずなのです。

 都立高校で,「挙手で採決をすることができない」とされたのは,すでに各組織で了承済みのことを,分掌等では発言しなかった教員がいきなり反対を言い出して採決を迫る,という「無駄な時間」を防止し,スムーズに学校運営を進めるための約束事です。

 ですから,どうしても反対したいことがあれば,分掌や学年の意見としてとりまとめて,別案を検討してもらえるように働きかけることが,そもそも職員会議の前にやっておくべきことなのです。

 「仕事ができない人」というのは,小さい会議でダメだったことを大きな会議で実現しようとする。実現できるわけがありません。

 「立案」段階でつまづいている人なのです。

 テレビの報道では,学校のそういう「組織的な動き」のことにいっさいふれないので,いかにも教育委員会や校長が「強権的」にふるまっているかのような印象を残しますが,学校には「職員会議しかない」わけではないのです。

 たとえば,NHKの討論番組を想像していただければよいのですが,あそこでは各自,話せる時間がかなり限られてきますよね。発言したくても,ほとんどあてられない人がいる。一言,言えればいい方,ということになる。

 十数人くらいしか教員がいない小規模校などは別として,都立高校のような規模になると,そういうイメージになる。

 そこで,ある教員が持論をぶちまけて,その方向性を強く要望し,校長に採決を要求する,なんてことを討論番組でやられたらどうですか。

 まず,時間内に終わることができないのは当然として,「なんであなたばかりそんなに話すのだ」という目で見られることになる。

 「もっと前から言っておけ」ということです。

 もっと前から,主任と議論するなり,管理職に別案を提示するなり,仕事をしておけということです。

 なぜ「不規則発言」が「妨害行動」にあたるのか,会議というものの性格をお分かりの方なら,理解していただけるでしょうが,一般の方にはまだお分かりいただけないかもしれません。

 工場で,製品を製造し,これから出荷しよう,というときに,「私が売りたかったのはこんなものではないので,別の商品をつくりましょう」と言っているような従業員,というイメージではいかがでしょうか。

 学校で言えば,その従業員には,製品の企画から参加する権利があったのです。

 製造の段階でも,意見を言う権利があったのです。

 それを,出荷の段階になって,「こんな商品いやだ」と言う。

 裁判で負けた元都立高校の校長は,こういう教員がいてよい,というスタンスでした。

 会議でも寝ている人は多いでしょうから,積極的に参加しようとする教員を評価したい気持ちは分かりますが,やはり組織で仕事をすることを教えるのが管理職だとしたら,この校長は,生徒や親に気に入られる教員レベルで精一杯だったということで,管理職失格だったというのが私の解釈です。

 テレビでは,校長が生徒と一緒に活動している場面がよく映っていましたが,それは一般の教員でもできるのです。校長は,そういう態度を,一般の教員に対してしなければいけなかった。そして,校長独自の判断で,分掌などとは別の「提案機関」をつくってあげればよかったのです。

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コメント

職員会議前の校長と主任の会議を企画調整会議といいますが、
はっきり言うと、ほとんど機能していません。校長が人事評価を
するようになってから、校長に意見をする教員が全くいなくなって
しまいました。企画会議で意見を言うと、長引くから他の主任から
白い目で見られます。結果として、職員会議の議題はこんな感じです
という意味のない会議です。

校長も2~3年で異動ですから、現場の教員に任せっきりで、自分自身
で学校の方針を言い、その結果に責任を持つ人なんていません。
生徒の要望や学力さえ分からないまま退職される校長もいることを
知ってください。

校長を含む都立高校の管理職は、授業や子供相手が嫌いな人が多く、
はっきり言って2流教師であることが多いのは事実です。挨拶もできない
人も少なくありません。

自分の出世を第一に考え、教育委員会に向き合って、現場と向き合わない
人が多いことが問題ですね。

自分の人権しか考えない日教組も問題ですが、こういう校長もより大きな問題
です。

>>生徒や親に気に入られる教員レベルで精一杯だったということで,
>>管理職失格だったというのが私の解釈です。

教育委員会に気に入られ、自分の出世だけを考えている多くの校長よりは
はるかにましですよ。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より