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「知的水準」で比べてほしいなら・・・

 「教師の証明」ではなく,「人間の証明」ができてしまうところが,神様・超能力者らしいところ。

 自分の記事で「~はおかしい」と書いているこそをそのまま,自分自身の記事で書いている。

 これが公立学校で批判を浴びている教師の姿そのものです。

 また,「馬鹿」「アホ」という言葉がタイトルにつく本が好きな人がいますね。

 以前,「上から目線」を気にする人の心理をご紹介したことがありますが,こういう「人を見下していたい」,相手を「知的水準の低い人間」「頭の悪い人間」とか呼びたい人が,どういう教育をしているか,想像することはそれほど難しいことではないでしょう。

 教育の質の低さを公開し,学校現場の信頼を低下させることにひたすら情熱を傾けている人がいます。

 「指導要録」に書く内容についての考えを知るだけでも十分です。

 どうして教師が信頼されないのかというと,

 「指導要録の書き方」について,

 要するに、指導要録は裁判沙汰にならないように書けということなのだ。
  (ここが本音の部分である)

 という見解を堂々と表明できる感性にあります。

 (裁判の)対策として、上からお達しがあって、現場へは「保護者が見ても不快にならないような記述にしろ」ということだった。そういう経緯で、指導要録は形骸化した・・・・

 子どもや保護者と教員との信頼関係が成り立っておらず,教育の質がかなり低い自治体の教育委員会の指導が,こういうものであったことは想像できます。

 指導要録に,

 子どもの欠点,問題点,悪口,問題行動,家庭の状況を細かく記録していた教員が多かったのでしょう。

 指導に必要な情報に関しては,金庫に保管される「指導要録」ではなく,担任の手持ち資料として管理されるのが普通です。「手持ち資料」には,口伝えによる情報=書面には残さないである場合も多い。

 「指導要録が形骸化した」などという発言は,どのような質の教師からなされるのか

 一定の「知的水準」があればわかるでしょう。

 本人や保護者が見て,不快になるような情報をもっている,それが教員の実態だということですね。

 それを,次の担任に情報として引き継ぐのは,指導の一貫性を保つために必要だとしても,わざわざ「指導要録」にまで残そうとする熱心さ。

 そんなことより,本来,指導要録に書くべき子どもの美点,指導によって伸びた部分はたくさんあるはずなのに

 多くの学校では,通知表の所見や個人面談などで本人や保護者には伝えられていることだと思いますが,その内容が,指導要録にも残されていきますよ,と言えば,指導要録が透明なものになり,わざわざ「開示請求」などされることはありません

 子ども・保護者とのコミュニケーション不全が,「開示請求」に結びつく原因であって,「指導要録に悪いことを書いたこと」が原因ではないんですね。

 大事な原因と結果の関係がお分かりになっていない。

 「指導要録には悪いことは書くな」という指導ではなくて,
 
 「子どもにまともな教育を」というのが本来の指導なのです。

 そして,その成果を残すのが,指導要録なのです。

 
 子どもや親から恨まれるのはいいけど,訴えられないようにしろ,訴えられるまでならまだいいけど,敗訴に結びつく材料だけは残すな,と指導されていると認識し,その通りに実行している教員がいたのですね。 

 指導要録が「形骸化された」と嘆くだけで,その人の「教育への情熱の質」はよくわかります。

 指導要録に書かなければ,次の担任に「指導上必要な情報は伝達されない」と考えているのであれば,

 それは教員間のコミュニケーション不全が原因です。

 そんな学校に子どもを通わせたくはないですね。

 「実践をしないことには、何も書けない」

 まさにその通り。子どもを教育してくれる学校が選ぶことができるなら,選びたいものです。

 それにしても,公立学校が抱える問題をここまで浮き彫りにしてくれる教育ブログも貴重な存在です。

 「褒め殺し」のコメントにもうならせられます。

 政府が教育を統制したいために問題が出る前提で作ったのかも。会社ではたまにやる手ですので。

 というのも秀逸。ダメ教師やダメ社員の「ダメさ加減」が隠されないですむ「統制」なら,市民や国民,消費者にとっては願ってもないことです。

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コメント

法律や答申の内容が,「すべて上からの押しつけ」のように感じてしまうのは,法律や答申ができるまでの経緯を知らない人なら無理もないかもしれませんが,この国が独裁主義の国ではないことをお忘れなく。

そこには,できて当たり前のことばかりがたくさん書かれているのです。

どうしてこんなことまで法律で決める?と疑問をもつものもありますが,それは「まともに指導できない教員たちがたくさんいる」ことが前提なので,仕方ないかと。

指導要録は形骸化したなど,そこに書くべきことを本当に知っている人間なら,絶対に口にしないでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より