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「やる気を引き出すため」の「学び合い」は失敗する

 「学び合い」をした結果,子どもたちがこうなった。

 という話は問題ありません。

 問題は,子どもたちを「~」の状態にするために,「学び合い」を取り入れる。

 こういう発想の人が出てくることです。

 「学び合い」などの本を買う人のほとんどは,こういうタイプなのではないでしょうか。

 「本当にうちのクラスの子どもはやる気が出てこないなあ」

 →「学び合いをすると,やる気がでるようになりますよ」

 →「じゃあ,学び合いをやらせてみよう」

 ・・・・こういう「思考形態」の小学校教師は大勢いますよね。

 KJ法の川喜田二郎も,「野生の復興」という本の中で,次のような話をしています。

 「わが社がKJ法に力を入れるのは,別によい結果を得るためではないのです。KJ法を使ったって,別に問題が解決できるわけじゃありません。しかしあれをやると,社員がヤル気を出します。だからモラールアップのためなんですよ」
 これはまったく見当違いである。こういう教育担当者は,まともなKJ法を何も知らないのである。問題解決のためにKJ法があるのに,まったくふざけた話である。
 真剣に問題解決と取り組み,達成の醍醐味を得たときには,「結果的に」ひじょうに士気が揚がる。ところが,結果的に揚がる士気高揚を,「目的に」してひと仕事をやるのは,見当違いなのだ。それにはどことなく「いや味」も伴う。

 私の場合,研究授業などで,どれだけ「いや味」を感じたことか。

 小学校の教師たちというのは,こういう「いや味」は慣れっこになっているのか,自分では完全に感覚がマヒしているのか。割り切って,ねらってやっているのか,純粋にわかっていないのか。判断できません。

 いずれにせよ,非常にいやらしい「操作主義」がそこ・ここに感じられる。

 純粋な子どもたちが,(授業者にとっては)おもしろいように「踊らされている」。

 教材研究をろくにしないで,ただの「話し合い」をさせれば何かの成果が得られると期待する,そういう姿勢だけは一掃してもらいたいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より