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<公立高入試>学力検査が復活・拡大 その2

 このニュースについての私見を述べると,公立高校の推薦入試に合格する中学生というのは,基本的に「内申点」が高い生徒のことですね。

 内申点とは,中学校の「5・4・3・2・1」の「評定」という評価を計算して出した点数です。

 学力検査のない実技教科は,やや比重を重くして算出されるなどの工夫がされています。

 さて,高校が学力検査を拡大するねらいですが,これは分かりやすく言えば,中学校の評定が参考にならない,という判断がもとになっていると考えられます。

 本当は,拡大なんかしたくはないんですよ。

 だって,採点の手間が増えるから。

 楽をしてすませられるのなら,進んで「苦労する」方向へと歩み出すなど,決してしないのが公立学校の労働者たちなのです。

 「推薦で受かった子なのに(=中学校の成績はよかったのに),どうしてこんなに学力が低いんだろう

 この言葉がすべてを語っているのです。

 ちなみに,公立の中高一貫校は,小学校の成績(3・2・1の評定)を合否判定に入れますが,私立の学校でそんなことをしているところはほとんどないでしょうね。

 小学校の先生には気の毒ですが,あのたくさん書くことがあってたいへんな書類,全く読まない,という学校も多いのですよ。名前と住所のチェックだけです。ときどき誤字を見つけて,「この人,大丈夫なのかなあ」と心配するくらいで。

 中学校の成績があてにならない最大の理由を,私は「観点別学習状況の評価」に集約して考えています

 ろくな指導をしないで,「活動があった」だけで「理解している」ことにする,などという暴挙がいかに多いか。

 評定があてにならないのは,評価があてにならない=指導があてにならないからなのです。

 だから,一斉に学力検査で審査した方が,よほど「公平で客観的な力が測定できる」,そういう持論の人も多いことでしょう。

 トップ校は,内申よりも,学力検査の得点重視,しかも,難易度の高い問題を独自に使う,この判断が認められているのですから,もう何も言うことはないでしょう。

 「多様であれば,それでいい」というのは,組織全体を見たときの話ですね。

 個別に見て,「これが一番いい」という方向に,右へならえ,の可能性も大いにあるでしょう。

 公立高校の推薦という制度は,私立にいい生徒が抜ける前に,公立で早めに囲い込んでしまおう,というねらいがあるのはおいておき,その選抜方法の中にも「本当に基礎・基本が身についているのか」が分かるくらいのテストはすべきだろう,という声は,正しいものと認識している,というのが,私の結論です。

 まずは,中学校で,適切な指導を行うこと。

 適切な指導があるから,妥当な評価ができ,そしてそれが妥当であれば,信頼される。

 今は,最初のボタンがずれているので,高校側の動きに抵抗するのは無理でしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より