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尾木ママの「利用価値」 ~新聞記者・テレビ番組制作者・教師の共通点~

 尾木ママがかつてマスコミに「利用された」のを,ネットの検索から知ることができました。

 『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ)で,橋下知事(当時)が「入学式や卒業式での君が代斉唱時に起立しない教職員に対する、免職処分の基準を定めた条例案」の議会への提出を表明したことについて,尾木ママの電話取材での応答の一部が放送で流され,

 橋下知事のやり方全般を批判した言葉が,

 「式で起立しないのはおかしい」という出演者のコメントの後に流され,

 尾木ママも「君が代反対人間」であるような印象の報道になってしまった,というものです。

 尾木ママが抗議し,その後,テレビ局からお詫びの言葉が出されたとのことですが,情報は一度流れてしまうと,回収できないものです。

 学校のメディアリテラシーに関する学習では,マスコミのこうした傾向・・・本人の意図とは異なるかたちでコメントが利用され,情報が流される可能性がある・・・を学び,友達関係でも「伝言ゲーム」のようなかたちでゆがんだ情報が流れてくる場合があるので,本人への確認なしに,情報をうのみにしてはならない,という教訓とするのです。

 新聞記事も同じです。

 かつて,こういうねらいで取材に来た記者がいた。

 もう,記者の頭の中では,記事はでき上がっていた。

 取材の中で,「こういうことですよね」と自分で勝手に話して,こちらが同意したことが,そのまま記事になっていた。

 ・・・こうやって,友達関係でも,勝手に「イメージ」を作り上げ,事実でないことが情報として流れることがある。そういう情報に振り回されないように,本人の言葉を大切にすること・・・・

 そういう指導をしている教師自身は,どういう仕事をしているのか。

 「正解」に誘導するような言葉を次々に投げかけ,子どもが「理解できたことにする」ような授業はないか

 教師が用意していた路線に合うように,子どもの発言内容を「変質」させるような指導はないか。

 自分にとって都合のよいように,相手の「言葉」を利用する,そういう習慣を子どもに習得させてはいないか。

 教師の仕事の信頼性は,「教育の目標」「指導のねらい」によって保障されるものです。それに沿った指導がなされ,成果が出せれば,信頼される結果になるのです。

 こういうことを意識した仕事をしなければなりません。

 この対極にあるのが,「話し合い」という手段を目的にしてしまった「学び合い」の授業です。

 教師はほとんど何も話さないので,子どもは「何が本質か」を学ばないまま・・・つまり,「活用できる知識」を得ることなしに,時間だけが過ぎていく。

 「学び合い学習」などという言葉自体が誤解のもとなのかもしれません。

 学習環境が「学び合う」ものであることが当然であるところでは,そんな言葉は必要ないのです。

 繰り返し私の主張をすると,

 教科学習には教科の目標があるわけで,「学び合い」をするとしたら,それは教師と子どもとの関係で大事なのです。

 教科の目標に照らして「子ども」と「子ども」で「学び合えた」具体的な成果を公表することで,手段と目的を混同するためにおこる学力低下はある程度防ぐことができるでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より