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塾の先生には得られないもの

 生徒がお世話になっている塾の側から「学校」をながめると,塾の先生はどういうところが「気にかかる」のか,教育ブログを通して知ることができます。

 やはり一番大きいのは,「教師がつけられて当然の学力をつけていないこと」,

 「その原因が,子どもの努力不足というより,教師の努力不足によるところが大きいと考えられること」

 のようですね。

 これを,努力不足でなく,能力不足である,ととらえることも,もちろんできるわけです。

 ただ,こういうタイプの批判は,「本来,自分たちは必要のない存在だ」ということを認めてしまうことになりかねないので,「やりきれなさ」は,単純に「教師の側の問題」にあるとも言えなさそうです。

 「もっと優秀な子を,さらに優秀にするために」という意気込みの持ち方も,「優秀な子どもは人に頼らず自分で勉強できる」ことから考えれば,微妙なところ。

 おそらく,「わざわざお金を払ってこんな簡単なことを教わる必要もないはずなのに,もったいない」というのは,どの塾の先生も思うところではあるでしょう。

 「うちの塾と同じことを学校でやれば,もっと学力は向上するのに」

 というのも,もっともな感覚で,「学力向上」をテーマにした学校の教師と塾の講師の研究会,教材の情報交換会などは行われてよいはずです。

 私も塾講師のアルバイトをやっていたので,現場で,「この教科の教え方は自分の方がうまくできるぞ」なんて思ってしまうこともあります。

 ただ,塾の講師をしていては絶対に見えないものがある。

 それは,子どもたちが使い分ける「顔」,何かの結果の「表情」のバリエーションです。

 やはり,子どもたちは,塾には,「勉強」しに通っている。

 大人の側の感覚で言えば,「仕事」に向かうのと似ています。

 塾で子どもは,「勉強」する顔になっているはずです。

 学校は違うの?と言われるかもしれませんが,学校には,勉強以外にすることがたくさんあります。

 実技教科以外にも,学級活動,生徒会活動などがさかんな学校では,「自治的活動」の場が案外,たくさんあるのです。

 「自治的活動」の場では,生徒たちは様々な役割をこなし,それぞれの達成感や充実感を得て成長していく。

 私はあまり好きな言葉ではありませんが,子どもが「輝いて見える」場面がたくさんあるのです。

 それだけでなく,「くじけている」顔,「いらいらした」顔,「くもった」顔・・・・学校は,人間の表情の博物館です。

 これらのうち,やはり学校の教師をしていると一番うれしくなるのが,「輝く」顔に出会ったとき。

 おそらく,塾などで「輝く」子どもは,ごくごく限られていることでしょう。
 
 「できないことができるようになった喜び」

 「わかった!という実感」

 程度のことを「輝き」とは呼んでいません。

 やはり,長い苦労の連続を知っている人間が見るから,他の人には感じ取れない「輝き」が見えてくる。

 多くの困難にぶつかり,自分の力で克服する,あるいは,仲間の助けや協力で乗り越えていく,こういう生活体験によって,子どもには「協調性」が身についていきます。

 「協調性」は無批判に従う「服従性」とは違います。

 塾では,子どもの「協調性を伸ばす」ことを経営上の目的にはしていないでしょう。

 戦略的な協調行動は頭のいい子ならすぐにできますが,本当の意味での「協調性」は,だれかから「無理な注文」がつけられるような空間でないと,育てるのは困難です。

 ・・・・なんていう学校観を強くもっている教師は,塾の先生が「教育の何がわかる?」という言動をとってしまいがちなのですが,今の学校には,本当の意味での「協調性」を育てられる教師がどのくらいいるのか,という方が心配だ,というのが私のオチでした。

 最も大事なものを,現場の教師が「得られていない」ために,特に都市部では,魅力的な職業として見られないのでしょう。教員採用試験の倍率が,目も当てられないほどの低さになっていますね。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より