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小中学生に留年はさせられない

 というのは,教員の指導力が問われてくるからです。

 不登校児童を放置しておけば,「留年」になりやすい。

 本人や保護者が納得しないまま「留年」を決定すれば,担任教師や学校の責任が問われることになるでしょう。

 また,指導上,配慮を必要とする子どもには,今以上の学習支援が必要となるのに,それを行われなければ,学校の責任となる。

 私も,教え子に「留年」を考えてみたらどうか,と話したことがあります。

 深夜徘徊を繰り返し,昼間は寝ていて学校に来ない「怠学」傾向の生徒にです。

 一生のうち,今しかできないことを学んでいる。
 
 進級させれば,その機会を奪うことになってしまう。

 一年間を取り返さないか,と。

 でも,本人も保護者も希望しませんでした。

 こうなると,無理強いができないのが今の学校,今の子ども,今の保護者でしょう。

 もし「留年」が現実のものになれば,私の予想では「1歳下の弟や妹と同じクラスで授業を受けるようなこと」は嫌がるでしょうから,転校するか,ずっと学校に来なくなることになるでしょう。


 ですから,橋下市長のメッセージの真意は,教師がしっかり子どもに学力をつけさせよう,というところだと思います。

 「目標の学力水準に達しない場合は進級を認めず留年させるように」

 という要請は,

 「目標の学力水準に達するように,学校は努力するように

 という要請とイコールだと考えていたのですが,実際にはどうでしょうか。

 政治家は,戦略上,「真意」は明かしませんからね。

 芸人の仲間入りした自称教育評論家は,学力の底上げ策として賛同する考えを示した,というのが読売新聞の報道のようですが,教育課程をきめ細かく考えていけば,「進級させない」以外の選択肢が必ずあるはずです。

 公立の小中学校内で「補習」が難しければ,公的な「補習塾」,教員志望の大学生がボランティアで教える「大学生先生塾」,「地域で運営する補習教育機関」など,現実に動いているところもあります。

 東京の都立高校では,進級できない生徒が多く,多くが退学してしまうので,「つなぎとめ策」として,「留年させない」という方法を検討している(実際には,すでになされているところでもあるでしょうが)ようですが,これも賛否両論あるにせよ,「学ぶ意欲」を失わさせずに,「いいきっかけを学校で探させる」という選択肢があるのはいいことでしょう。

 「留年させるぞ」という脅し文句で嫌々授業を受けさせられる子どもたちは,どんどん学校から離れていき,もしかしやら,公立学校にNOをつきつけることで,もっと充実した教育が受けられる場所が誕生してくるかもしれません。

 以前から書いていますが,公立学校にかけるお金を民間に投じた方が,よほど充実した教育が行われるのではないか,ということが徐々に現実的なものになりつつあるというのが,大阪からみた日本の教育の姿です。

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コメント

尾木ママが攻撃を受けてしまっているようです。

あの記事を読む限り,記者にしてやられた?という印象があります。

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» 「小、中学校留年」橋下徹市長の”本意”を理解すべし [世事熟視〜コソダチP]
大阪市の橋下徹市長が、小中学生が目標の学力水準に達しない場合、進級を認めず”留年”させることを検討するよう市教委に要請したものだから、また注目を浴びちゃってる。 尾木ママ(尾木直樹氏)が、新聞紙上で「小学校で九九ができなければ、留年させてでも面倒をみる。留年させても府民の子供の力をつけてもらう、というのを橋下さんが出してきたら僕は大喝采します」と述べたことに橋下市長が食いついての出来事だそうです。 情報番組では街角で人々に賛否をアンケートしてましたが、小生は「小、中学校留年」に”大賛成”... [続きを読む]

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より