ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「見捨てる」「見捨てない」という子どもへの見方 | トップページ | 「学び合い」の学習で保障されること »

「退職教師」様へのご質問です!

 コメントをいただきまして,ありがとうございます。

 よろしければ,以下の点について,おうかがいできればと思います。

>あまりにも劣悪な条件整備の中で、毎日毎日それこそ身を削る思いで、子どもたちのために頑張っているのが正しい実状ですよ。

 私は公立学校に勤務していたとき,「あまりにも劣悪な授業」は見たことがありますが,「あまりにも劣悪な条件」というものには出会ったことがありません。

 限られた税金の中での仕事ですから,まだ省ける部分も多いと思っていました。

 「退職教師」様が現役でいらしたころ,どのようなことが「あまりにも劣悪な条件」にあてはまっていたのか,具体的な状況をお聞かせいただけますか。

 ちなみに,毎日毎日身を身を削る思いで子どもたちのために頑張るのは当たり前のことですよ。

 それこそが「公務員であること」の自負になるはずです。

 「身を削る思いで教師が頑張ってくれることだけが,子どもにとっての救い」という面もありますからね。

 年収数百万円のベテランなのに,初任者より授業が下手だ,生徒と会話ができない,という人がいる現実をご存じですね。せめて,「授業を上手にしようと努力はしている」姿を見せてほしいのに,「できないのは子どもが悪い」といって一切の研修を拒否する人がいて,本当に困った・・・すみません,これは愚痴です。

 あと,

>自習にして出張したくなくても、校長の「命令」であるかぎり、逆らえないのですよ。また、授業を自習にして教師を出張させることに、心を痛める管理職など皆無なのですよ。

 これは,どこの自治体の話なのですか?

 すべての校長が,授業が自習になることで心を痛めない地域というのは?

 それは,自習の方が授業をさせるより教育効果が高いという意味ですか?

 授業をしなければならない日で,かつ,代わりの教員がいない状況下での出張の用務は何ですか?

 「退職教師」様は,37年間,そのような不当な「命令」にただ黙って耐え続けていたのですか?

 「退職教師」様も,自習にしてもかまわないとお思いですか?

 そういう校長の扱いについて,教育委員会に問い合わせることは可能ですよ。

 コメントは非公開のままにいたしますから,ぜひ自治体名をお知らせください。

 「自習」が授業時間にカウントされているのかどうかも,確かめる必要がありそうですね。

 保護者はそういう事実を知っていましたか?

 今,外部評価結果も公表する学校が増えていますから,自習を容認する校長,あるいは教育委員会(教育長)は非常に厳しい目で見られることと思いますが?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 経営ブログ 仕事術へ 

« 「見捨てる」「見捨てない」という子どもへの見方 | トップページ | 「学び合い」の学習で保障されること »

学校評価」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

コメント

なかなかに面白い議論ができそうなので、再度書かせてもらいます。
「あまりに劣悪な条件整備」はまさに枚挙に暇がありまんよ。というより全てがあまりにもひどいのです。書ききれるものではないので、例を少しだけあげます。空調設備のない教室はまだ普通です。30度を超えた教室で40人超の生徒を相手に汗だくの授業は日常ですよ。(ちなみに私は最大50人を担任したことがあります。)
学校は公共の建物の中では、坪当たりの建築単価がどんな公共物よりも最も安価です。くさい・汚い・ぼろいは公立学校のトイレ共通です。家庭には普及しているのに洋式便器のないトイレも多く、子どもたちが学校ではトイレに行きたがらないのをご存じですか。
予算がないからと、教科書会社発行の指導書も学年に1冊しか購入してもらえず、困っている初任者もいますよ。
きりがないので、次、「出張」の件です。
校務分掌関係の会議は、自習にして出張するのは当たり前のことですよ。どこでもどこの学校でも同じですから、そんなことに心を痛める管理職などいないわけです。いや、そんなことに心を痛めていたら、管理職など務まらないでしょう。
私は生徒指導指導主事をしていたときに、4月5月だけで、10回の出張がありました。記録をみると、教育事務所主催の生徒指導指導主事研修会が2度、市教委主催の生徒指導講座が2度、社会科副読本地域教材作成委員会が3度、学校警察連絡会が1度、生徒指導主事連絡会が1度、学校安全講習会が1度。これらは学校長宛に個人名で派遣要請文書が来て、出張を命じられ、拒否することなどおよそあり得ないのです。丸1日のものも午後の半日のものもありますが、授業を自習にすることにはちがいがありません。自習授業には管理職など代替え教員がはいることもありますが、まともな授業など望むべくもなく、出張のときに提出する自習内容のできのチエックがぜいぜです。いやいや、もっとひどい。学校は慢性的に人手不足で、出張自習を観に行ってくれる教員がいなくて、1時間中子どもたちだけ、問題が起きて大騒ぎということも珍しくないのですよ。
長くなりすぎました。またいつか聞いて欲しいと思います。

私が公立学校に入って第一に感じた疑問は,「なぜ力のない人が教員を続けられてしまうのか」ということでした。

組合には加入しませんでしたが,「組合はこういう人たちを守るためにあるんだな」というのが直観的な印象でした。

自分は時間を守らないのに,子どもには時間を守れ,という。

こんな人は,一歩学校から出てしまえば,社会人として信用されることは決してない。

学校の中はこういう人にとっての「楽園」であって,だからこそ,子どもにとって「地獄」になっているんだな,と思いました。

公立学校が信頼されるかどうかは,施設がどうのこうのではなく,教員の質こそが問われているのです。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/54094577

この記事へのトラックバック一覧です: 「退職教師」様へのご質問です!:

« 「見捨てる」「見捨てない」という子どもへの見方 | トップページ | 「学び合い」の学習で保障されること »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より