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閉鎖的職人が「本を出版する」前にしてほしいこと

 小学校教育の成果が担任教師の力量で大きく左右されてしまうことへの保護者からの批判を避けるために,毎学年,クラス替えをしているような小学校はありますか?

 一般的な保護者の感覚だと,同じ単元を学習しているのに,どうしてAとBの教師の教え方がこんなに違うのか,と疑問になりますね。

 小学校では,評価基準は学級によってまちまちなのかと。

 そんな評価はあてになるのか,と。

 小学校レベルの教育内容だと,大部分の子どもは理解できるようになりますから,そもそも差がつかなくて当然なのかもしれませんが,あるクラスは,子どもが話し合ってばかりいる。でも,あるクラスは,子どもがドリルばかりやっている。

 同じ学年の教師たちは,お互いに何をしているのか,知っているのですか?

 という疑問が生まれてくる。

 でも,小学校で優秀な教師の一部には,校内での仕事よりも,校外で知り合える人との「研究会」に熱心になってしまう現実があるのですね。

 挙句の果てが,公務員という立場で,学校の取組ではなくて,個人の取組をもとに,「本を出版する」に至る。

 役所にいって,同じ業務をしているAさんとBさんのうち,Aさんはその内容を他の役所の人も参考になることを本に書いて出版しているのに,隣の席で仕事をしているBさんは,その内容も知らないし,同じこともできるようになっていない,ということは考えられますか?

 音楽専科のように,「学校に一人しかいない」ような教師は別として,普通の教師がどうしてそこまで時間に余裕があるのか,これを皮肉を込めて表現すると「暇な教師たち」ということになるのです。

 中学校教師の場合は,「人にすすめるほどの成果も出せていない」という現実もありますが,そもそも「学校を離れる」こと自体が憚られることが多い。

 学校内で発生する様々な問題を解決するために,ほとんどすべての教師の力を必要としているからです。

 万が一,成果が出た場合には,その教師の個人名で,というよりも,その学校の名前で出される,というのが筋だ,と考えてしまいますね。

 小学校に通う子どもたちは,「学級王国」という「狭い世間」への国籍取得から始まり,その王国の決まりごとに従って教育が行われる傾向がありますが,授業が終わればすぐに「王国」から解放されるので,保護者は安心して子どもをいつでも塾に通わせることができる点で,小学校には感謝しているかもしれません。

 「本に出版できるような内容」が,なぜ校内で普及し,学校全体の質が向上しないか

 それは,学校の中にあるのはあくまでも「宗教や文化が異なる他国」であって,「学級経営の方針」からして同じ学年の中でも大きく異なる場合がある。やさしい教師たちは,「他国への内政干渉」を避けるために,学校外に出て,「同じ宗教や文化の国の国王」を探さなければならない。

 こうやって,「帝国」や「皇帝」が生まれたり,「連合王国」が生まれたりする

 出版社側は,「皇帝」の権威だけで「資金の回収」が見込めるため,次々に「帝国」の「広報」兼「営業」に精を出すことになる。

 しかし,保護者として最も望んでいるのは,やはり同じ学校の教師たちが,いい教師の影響を受けて,あるいは指導を受けて,みんないい指導ができるようになってくれることなのです。

 そういう仕組みを作ってくれること,そして,その仕組みによる成果がしっかり出ているかどうかを,授業参観では見てみたい(・・・・すみません,これはもう行政の立場からの見方でしたかね・・・・)。

 残念ながら,小学校で成果を残す教師たちの大きな「勲章」は,「校内で活躍することではなく,学校の外にどれだけ呼ばれるか」で決まるという現実があり,本来の保護者の望みは届きにくい。

 こうした閉鎖的職人たちが育てた子どもたちが,中学校でどのようなタイプの生徒になるか,本人たちはあまり確認しようと思っていない(たまにわざわざ自宅あてのアンケートを送るような人もいるようですが,子どもたちは小学校時代に学んだ「正しい態度」で,「礼儀正しく」回答することでしょう)のでしょう。

 これはまた別の機会で述べることにしましょう。

 小学校の教師一人一人を,信用しない,という単純なものではなく,小学校という組織そのものもを,組織としてみることが困難である,それが小学校教育が信用できない,また,小中連携を困難なものにしている原因の一つなのです。

 小学校の校長に,どのような資質を求めるか,一般的な人にはわかりにくいかもしれませんね。

 裁判で負けた高校の校長は,「生徒に近い存在」をアピールしていました。

 小学校の校長でも,同じようなことをしている人がいたとしたら,それはそれで悪いこととは言いませんが,それは教員の仕事であり,校長らしい仕事をしてくれ,と言える「学校経営に関する知識がある保護者」を増やすことが,小学校教育の改善には最も必要なことなのかもしれません。

 小学校の校長先生は,どんな仕事をしているのか,一般の方にはお分かりになりますか?

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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