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ひどい教育環境をお知らせいただき,ありがとうございました

 「退職教師」様からいただいた「あまりにも劣悪な条件整備

>空調設備のない教室

 これを「あまりに劣悪」というのは,ハテナです。
 
 エアコンがない時代に学習していた私などは,夏の冷房など体調を崩すもとになります。

>40人超の生徒を相手に汗だくの授業は日常ですよ。

 汗だくで仕事をするのは教師だけではありません。

 汗だくで仕事ができる職業に魅力を感じる人もいます。

>家庭には普及しているのに洋式便器のないトイレも多く、子どもたちが学校ではトイレに行きたがらないのをご存じですか。

 しゃがむ姿勢を子どもに教えることも大事です。洋式便器が「完全なもの」ではありません。

 教育というのは,世の中の変化にすべてを合わせていくというものでありません。

>予算がないからと、教科書会社発行の指導書も学年に1冊しか購入してもらえず、困っている初任者もいます

 初任者に購入した指導書を渡せばよいのです。指導書がなければ教えられないベテランが多いのですか?

>きりがない???

 この程度で「あまりにも劣悪な環境」なのですか???

 「出張」の件について

>校務分掌関係の会議は、自習にして出張するのは当たり前のこと

 すみません,どこの自治体ですか???

 「退職教諭」様は匿名でいらっしゃるので,公開されても全く問題ないと思いますけど。

 改善しようとする意欲がないなら別です。

>そんなことに心を痛めていたら、管理職など務まらないでしょう

 子どもの授業が最優先です。

 授業者の代わりがいないのならば,無理して出張を強いることができないのが行政の立場です。

 校務優先なんですよ命令を出す上での条件をご存じですよね。

>私は生徒指導指導主事をしていたときに、4月5月だけで、10回の出張がありました。記録をみると、教育事務所主催の生徒指導指導主事研修会が2度、市教委主催の生徒指導講座が2度、社会科副読本地域教材作成委員会が3度、学校警察連絡会が1度、生徒指導主事連絡会が1度、学校安全講習会が1度。これらは学校長宛に個人名で派遣要請文書が来て、出張を命じられ、拒否することなどおよそあり得ないのです。丸1日のものも午後の半日のものもありますが、授業を自習にすることにはちがいがありません。

 小学校の先生なのですね。

 時間割の変更で対応することは100%無理でしたか?

 合同授業とか,管理職による授業とか。

 工夫をされたことはないのですか?

>出張自習を観に行ってくれる教員がいなくて、1時間中子どもたちだけ、問題が起きて大騒ぎということも珍しくない

 こんなことを放置する校長,副校長,教員,自治体はひどいものですね。

 しかし,こんな問題はすぐ改善できますよ。

 なぜ,改善のための努力をせずに,退職されてしまったのですか???

 PDCAサイクルが機能しないのは,行動力がないためなのでしょうかね。

 このひどさは,以前に記事にした「水俣病」のときの企業,行政,住民などと同じ図式ですね。

 一番弱い立場,子どもが犠牲になる。

 子どもへの教育の責任を果たさずに,給料をもらっていて,さぞ,「退職教諭」様は心苦しかったでしょう

 今なら,すぐに改善できたのに!

 日本の法律が通用するところなら。

 子どもにとって,「かなり劣悪な教育環境」であったことは,私も納得します。

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コメント

毎日の精力的な書き込みに敬意を表します。小生は休み休みしかできませんが、お付き合い下さい。腹を立てているようなことは全くありませんよ。むしろ若かった頃の自分の物の言い方のような感じを受けています。
さて、
空調・トイレ・指導書の類のことは単に劣悪環境の一例として挙げたにすぎません。
 >汗だくで仕事をするのは教師だけではありません。 汗だくで仕事ができる職業に魅力を感じる人もいます。
しゃがむ姿勢を子どもに教えることも大事です。洋式便器が「完全なもの」ではありません。>
こういう考え方感じ方の問題ではありません。単に劣悪の一例です。「劣悪」をあげつらうときりがないのでやめますが、最大の「劣悪」は40人という学級員定数(何年か前までは45人でした。前にも書きましたが小生は50人まで担任したことがあります。)
でしょう。40人もいては、毎時間一人の教師が全員を細かく見届けていくことは絶対的に不可能ですよ。不可能なことを行政はずっと現場に強制してきました。にもかかわらず日本の教師たち(私たちの先輩)は、子どもたちのために粉骨砕身してきたのですよ。戦後の我が国のここまでの発展に最も寄与してきたのは、識字率を初めとした民主教育の質の高さです。それを支えてきたのは45人もの子どもを受け持ち、身を粉にしてきた、日本の教師たちです。行政の力ではありません。このことは是非とも貴君には気づいて欲しいです。小生も戦後の民主教育に、37年間の教師生活の中で、ほんのわずかでも貢献できたことを密かに自負しています。ご存じとは思いますが、先進諸国の中で40人という学級定数の国はどこにもありませんよ。小学校では15人~20人の国が圧倒的です。とにかく、教育には金をかけず、現場の教師には注文や文句をつける、こういう文科省を頂点とした教育行政の長年月の悪弊が、日本の教育、学校、子どもたち、教師たちをいまだに苦しめているのです。小生は、日本の教育の悪の根源は文科省とそれに連なる都道府県教委だと思っています。
「出張」に関わる件です。
前回のコメントは、中学校勤務のときです。ま、それはともかく、前記のような出張は「教委」が命令してくるものですから、およそ現場では拒否は不可能ですよ。こんなことは指導主事経験がおありの貴君にはおわかりだと思いますが。問題は授業のある日に、およそ大して役にも立たない、こんなことを仕組んで、出席を強要してくる行政ですよ。行政が余分な出張を作りすぎなのです。前記のような出張の講師は、たいてい指導主事です。陳腐な内容(およそ自分の実践がない、実践に裏付けられていない。)、文科省の文書内容そのもののような話を聞かされる苦痛はたまったものではありません。ですから、小生は前記のような出張は大嫌いでした。嫌いでも行かねばならないのが、現場の平教員なのですよ。子どもたちと、ゆっくりたっぷり一緒にいたいのにですよ。初任者研修などはこの極み、一刻も早く改善したいものです。出張すれば、自習が増えるのは当然のことです。代替え教員のまともな授業など望むべくもありませんわな。大体、人手不足が慢性化の現場ですからね。小生の勤めた県などは、教員の法定数すら正規教員で満たさず、細切れの臨時時間給講師で凌いでいるんですよ。またまた、県名を聞きたいと思われるかも知れませんが、いろいろ差し障りが出るのであくまで匿名です。
さて、貴君以上に長くなってしまったかもしれません。ご容赦願います。貴君のコメント楽しみにしていますが、現場におられる方ですから、時間的にどうぞ、ご無理のないように。

kacchan822さん,コメントありがとうございました。
また,ブログの方も読ませていただきました。
学校という閉鎖的社会には,文句だけは一人前という人たちが同僚の足も子どもの足も引っ張ってきます。
しかし,時代は変わりました。
今まで,だまって「お荷物」の尻拭いをしてきた人たちにも余裕がなくなってきて,いよいよ「反撃」に出られるようになりました。
言語活動の充実。
これを職員間でも活発に行える,生きた集団になっていくことを望んでいます。

はじめまして.
数ヶ月前から拝読させていただいております.

退職教師さんとの一連の議論について思いましたところを,
拙文ですが,私のblogにて一筆させていただきました.
お知らせまでに.

http://kitatama.skatsuya.com/2012/02/blog-post_29.html

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より