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2012年2月

教師が犯してはならない公文書(=通知表)偽造の罪

 「指導と評価」2012年3月号で,通知表記載ミスで問われる法的責任についてのQ&Aが掲載されています。

 まず,「通知表」は呼び名が学校によってまちまちであることからわかるように,

 法律によって規定されている文書ではありません

 指導要録は,学校教育法施行規則24条で校長に作成義務が課せられ,同規則28条で学校で備えるべき公簿として位置付けられているのと対照的です。

 では,通知表は法令での定めがないものだから,記入のミスを犯しても大した責任は問われないだろう,なんて思ったら大間違い

 通知表は,学校が作成した以上は,重要な公文書である,という法的な位置付けがなされます。

 公文書についての定義は,刑法155条1項にあります。

 公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書

 が,公文書です。

 通知表には,学級担任の印とともに,校長印を押すのが通例ですね。

 通知表は,刑法でいう公文書にあたります。

 産経新聞東京朝刊に,「通知表丸写しで小学校教諭処分」(2011年11月1日)という記事が掲載されました。

 昨年3月まで担任していた5年生32人の3学期の通知表のうち,「学習の記録」と「行動の記録」に2学期の評価を丸写ししていたことが複数の保護者から指摘されて明らかになったそうです。

 この教諭は,指導要録の「学習の記録」も4年時の内容を記載していました。

 こうした行為は,

 地方公務員法33条で禁止している信用失墜行為に該当することはもちろんですが,

 刑法でいう公文書偽造の罪に問われる可能性すらあるのです。

 法的責任を負うという以前の問題として,これは教員のモラルハザードという問題です。

 こういうとき,「忙しいから仕方がない」という反応は,絶対にしてほしくない。

 教員の無責任体質を是正する方法が「法律の知識」では,あまりにも情けないです。

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ひどい教育環境をお知らせいただき,ありがとうございました

 「退職教師」様からいただいた「あまりにも劣悪な条件整備

>空調設備のない教室

 これを「あまりに劣悪」というのは,ハテナです。
 
 エアコンがない時代に学習していた私などは,夏の冷房など体調を崩すもとになります。

>40人超の生徒を相手に汗だくの授業は日常ですよ。

 汗だくで仕事をするのは教師だけではありません。

 汗だくで仕事ができる職業に魅力を感じる人もいます。

>家庭には普及しているのに洋式便器のないトイレも多く、子どもたちが学校ではトイレに行きたがらないのをご存じですか。

 しゃがむ姿勢を子どもに教えることも大事です。洋式便器が「完全なもの」ではありません。

 教育というのは,世の中の変化にすべてを合わせていくというものでありません。

>予算がないからと、教科書会社発行の指導書も学年に1冊しか購入してもらえず、困っている初任者もいます

 初任者に購入した指導書を渡せばよいのです。指導書がなければ教えられないベテランが多いのですか?

>きりがない???

 この程度で「あまりにも劣悪な環境」なのですか???

 「出張」の件について

>校務分掌関係の会議は、自習にして出張するのは当たり前のこと

 すみません,どこの自治体ですか???

 「退職教諭」様は匿名でいらっしゃるので,公開されても全く問題ないと思いますけど。

 改善しようとする意欲がないなら別です。

>そんなことに心を痛めていたら、管理職など務まらないでしょう

 子どもの授業が最優先です。

 授業者の代わりがいないのならば,無理して出張を強いることができないのが行政の立場です。

 校務優先なんですよ命令を出す上での条件をご存じですよね。

>私は生徒指導指導主事をしていたときに、4月5月だけで、10回の出張がありました。記録をみると、教育事務所主催の生徒指導指導主事研修会が2度、市教委主催の生徒指導講座が2度、社会科副読本地域教材作成委員会が3度、学校警察連絡会が1度、生徒指導主事連絡会が1度、学校安全講習会が1度。これらは学校長宛に個人名で派遣要請文書が来て、出張を命じられ、拒否することなどおよそあり得ないのです。丸1日のものも午後の半日のものもありますが、授業を自習にすることにはちがいがありません。

 小学校の先生なのですね。

 時間割の変更で対応することは100%無理でしたか?

 合同授業とか,管理職による授業とか。

 工夫をされたことはないのですか?

>出張自習を観に行ってくれる教員がいなくて、1時間中子どもたちだけ、問題が起きて大騒ぎということも珍しくない

 こんなことを放置する校長,副校長,教員,自治体はひどいものですね。

 しかし,こんな問題はすぐ改善できますよ。

 なぜ,改善のための努力をせずに,退職されてしまったのですか???

 PDCAサイクルが機能しないのは,行動力がないためなのでしょうかね。

 このひどさは,以前に記事にした「水俣病」のときの企業,行政,住民などと同じ図式ですね。

 一番弱い立場,子どもが犠牲になる。

 子どもへの教育の責任を果たさずに,給料をもらっていて,さぞ,「退職教諭」様は心苦しかったでしょう

 今なら,すぐに改善できたのに!

 日本の法律が通用するところなら。

 子どもにとって,「かなり劣悪な教育環境」であったことは,私も納得します。

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「学び合い」の学習で保障されること

 教師が説明して,子どもから

 「先生,分りません!」

 「先生,できません!」

 
 という反応をされる心配がありません。


 「先生の説明は,分かりやすかったですか?」

 という授業評価の項目をつくることができません。

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「退職教師」様へのご質問です!

 コメントをいただきまして,ありがとうございます。

 よろしければ,以下の点について,おうかがいできればと思います。

>あまりにも劣悪な条件整備の中で、毎日毎日それこそ身を削る思いで、子どもたちのために頑張っているのが正しい実状ですよ。

 私は公立学校に勤務していたとき,「あまりにも劣悪な授業」は見たことがありますが,「あまりにも劣悪な条件」というものには出会ったことがありません。

 限られた税金の中での仕事ですから,まだ省ける部分も多いと思っていました。

 「退職教師」様が現役でいらしたころ,どのようなことが「あまりにも劣悪な条件」にあてはまっていたのか,具体的な状況をお聞かせいただけますか。

 ちなみに,毎日毎日身を身を削る思いで子どもたちのために頑張るのは当たり前のことですよ。

 それこそが「公務員であること」の自負になるはずです。

 「身を削る思いで教師が頑張ってくれることだけが,子どもにとっての救い」という面もありますからね。

 年収数百万円のベテランなのに,初任者より授業が下手だ,生徒と会話ができない,という人がいる現実をご存じですね。せめて,「授業を上手にしようと努力はしている」姿を見せてほしいのに,「できないのは子どもが悪い」といって一切の研修を拒否する人がいて,本当に困った・・・すみません,これは愚痴です。

 あと,

>自習にして出張したくなくても、校長の「命令」であるかぎり、逆らえないのですよ。また、授業を自習にして教師を出張させることに、心を痛める管理職など皆無なのですよ。

 これは,どこの自治体の話なのですか?

 すべての校長が,授業が自習になることで心を痛めない地域というのは?

 それは,自習の方が授業をさせるより教育効果が高いという意味ですか?

 授業をしなければならない日で,かつ,代わりの教員がいない状況下での出張の用務は何ですか?

 「退職教師」様は,37年間,そのような不当な「命令」にただ黙って耐え続けていたのですか?

 「退職教師」様も,自習にしてもかまわないとお思いですか?

 そういう校長の扱いについて,教育委員会に問い合わせることは可能ですよ。

 コメントは非公開のままにいたしますから,ぜひ自治体名をお知らせください。

 「自習」が授業時間にカウントされているのかどうかも,確かめる必要がありそうですね。

 保護者はそういう事実を知っていましたか?

 今,外部評価結果も公表する学校が増えていますから,自習を容認する校長,あるいは教育委員会(教育長)は非常に厳しい目で見られることと思いますが?

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「見捨てる」「見捨てない」という子どもへの見方

 大学の授業ですら通用しない「学び合い」を小学生に求める人の発想の根底に,

 「一人も見捨てない」という原則があることを知りました。

 義務教育の教師なら,「一人も見捨ててはいけない」のは当然なのですが,実際には「見捨てられている子どもがいる」ことへの反省のしるしだと解釈します。

 しかし,子どもの側からすると,「教師から見捨てられている」という実感をもつにいたるには,相当のハードルがあるはずです。

 私の場合は,「学び合い」という名のもとに行われている形式的な協同学習という手段によって,「教師による指導から見捨てられている子どもたち」の方が気になります。

 中学校でも,「教師が話さない授業」ではないと,本当の学習ではない,なんて批判されるのがこわいのか,研究授業ではほぼ100%,話し合いの場面,学び合いと呼んでいる場面があります

 しかし,実態は,「話し合い」は必要ではない場面,実際には「学び合っていない」活動が目につきます

 教師が話し合い場面で適切なコメントをしなければいけないのに,放置されている・・・実際,4人1組の話し合いだと36人の学級なら9つの班ができますから,各班でどう話し合いが進行しているかの把握は難しいでしょう。

 題材が不適切だと,研究授業のように「多くの参観者たち」がいる場合は「話し合っているふり」ができるけれど,教師が一人の場合には,「放課後の遊びの相談」などが始まります。

 こういう状況をつくっている教師が,「子どもを見捨てている」のです。

 子どもの側は,ある意味では歓迎しているでしょう。
 
 自由な話し合いの時間では,好きな芸能人の情報交換も可能になる。

 「教えられるからこそ,できることがある

 「人から教えられたのではなく,自分たちで学びとれたからこそ,できるようになることがある
 
 このバランスが崩れた,あるいは,どちらも実現されていない小学校から上がってくる子どもは中学校では適応できず,成長もできません。

 語るべき内容がないのに,コミュニケーションが大事だといって意味もなく「話し合わされている」子どもたちが,「見捨てられている存在」であることに気づけない限り,学力のほとんどの面は向上しないでしょう。

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塾におまかせします!という公立学校の教師の本音?

 教師が足りない地方では,小学校の教師が中学校の教師になる場合があるようですね。

 こういう人の中に,進学指導のうち,「高校への進学指導」は自分の仕事ではない,と考えている人がいます。

 どういう発言になってくるかというと,

 >義務教育を終了して、その後、高校へ進学したいのなら、高校入試に備えて勉強するかしないかは、本人の問題

 高校入試問題というのは,中学校学習指導要領に示された内容をもとに出題されるので,中学校での学習をしていれば,そのまま高校受験はできるのです。

 この人が「修了」と書かずに「終了」と誤字のまま残していることに,すべてが象徴されている気もしますね。

 こういう人が,中学校の役割を

 >実際にある力がつくかつかないかについては、学校は必要とされている教育を行なっているか、児童生徒はその教育をどれほど身につけたかで問われる

 と解釈しているということは,以下のようなギャップが生じることは明白です。

 【学校側の言い分】

 学校は,「必要とされる教育は行った」

 生徒は,「必要とする学力を身につけていない」

 これは,生徒の責任であり,学校には責任はない。

 【生徒側の言い分】

 学校では,「力をつけるのに必要な教育は行われていない」

 生徒は,「必要とする学力を身につけていない」

 だから,塾に通う。
 
 これは,自分自身の責任もあるが,学校にも責任がある。

 学校側の,「必要とされる教育」というのが何を指しているか,これが人によってあいまいなのです。

 
 大事な点。

 高校入試問題は,中学校学習指導要領に示された内容から出題される。

 中学校の授業は,中学校学習指導要領に示された内容を学習する。

 中学校の教師は,中学校学習指導要領に示された内容を生徒に身につけさせるように指導する。

 「できない子ども」を前に,「どういう指導をしているの?

 という塾からの疑問に,「やるべきことはやっているで本当にすまされるかどうかは,授業を実際に検証しなければわかりませんが,基本的には定期考査問題の質と,量と,その得点状況で判断することができるでしょう。

 だれかさんのように,

 >義務教育ではない高校進学を前提にしているものではない

 のように切り捨てられる人は,よほどの神経の人のみでしょうね。

 繰り返しますが,高校入試は,中学校学習指導要領に示された内容から出題される。

 そして,入試得点は,当日の試験だけでなく,中学校の評定をもとにした「内申点」で決まる。

 中学校の学習成果=評定が,高校進学の材料になるのです。

 実質的に義務教育のような状況になっている高校と中学校の連続性を,簡単に無視できる神経というのが,

 公立学校の教師の「無責任体質」の証明なのです。

 校長から出張命令が出されたのだから,授業は「自習」にしてかまわない。

 こういう神経。

 いいですか。授業に支障がでるような出張は認めないのが,本来の校長のあるべき姿なんですよ!

 指導力不足で教員が学校現場から一時,去って,研修を受ける場合でも,非常勤の先生に授業してもらう状況を整えるのが先でしょう!

 授業は「自習」では力がつきません。

 どのくらい力がついていないかも判断できません。

 こんな人に,中3の担任になられたら,たまったもんじゃない

 いや,こんな人は全くあてにしないで,みんな塾の先生の言うことを聞くようになる

 そうか! あの人は,高校進学の指導は全部,塾に先生にやってもらいたいと考えているのですね・・・。自分の仕事を増やさないために。

 ようやくわかりました。

 なんだか反論めいたことを書いておきながら,塾の先生を頼っている自分がいることには気づいているのかな?

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尾木ママの「利用価値」 ~新聞記者・テレビ番組制作者・教師の共通点~

 尾木ママがかつてマスコミに「利用された」のを,ネットの検索から知ることができました。

 『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ)で,橋下知事(当時)が「入学式や卒業式での君が代斉唱時に起立しない教職員に対する、免職処分の基準を定めた条例案」の議会への提出を表明したことについて,尾木ママの電話取材での応答の一部が放送で流され,

 橋下知事のやり方全般を批判した言葉が,

 「式で起立しないのはおかしい」という出演者のコメントの後に流され,

 尾木ママも「君が代反対人間」であるような印象の報道になってしまった,というものです。

 尾木ママが抗議し,その後,テレビ局からお詫びの言葉が出されたとのことですが,情報は一度流れてしまうと,回収できないものです。

 学校のメディアリテラシーに関する学習では,マスコミのこうした傾向・・・本人の意図とは異なるかたちでコメントが利用され,情報が流される可能性がある・・・を学び,友達関係でも「伝言ゲーム」のようなかたちでゆがんだ情報が流れてくる場合があるので,本人への確認なしに,情報をうのみにしてはならない,という教訓とするのです。

 新聞記事も同じです。

 かつて,こういうねらいで取材に来た記者がいた。

 もう,記者の頭の中では,記事はでき上がっていた。

 取材の中で,「こういうことですよね」と自分で勝手に話して,こちらが同意したことが,そのまま記事になっていた。

 ・・・こうやって,友達関係でも,勝手に「イメージ」を作り上げ,事実でないことが情報として流れることがある。そういう情報に振り回されないように,本人の言葉を大切にすること・・・・

 そういう指導をしている教師自身は,どういう仕事をしているのか。

 「正解」に誘導するような言葉を次々に投げかけ,子どもが「理解できたことにする」ような授業はないか

 教師が用意していた路線に合うように,子どもの発言内容を「変質」させるような指導はないか。

 自分にとって都合のよいように,相手の「言葉」を利用する,そういう習慣を子どもに習得させてはいないか。

 教師の仕事の信頼性は,「教育の目標」「指導のねらい」によって保障されるものです。それに沿った指導がなされ,成果が出せれば,信頼される結果になるのです。

 こういうことを意識した仕事をしなければなりません。

 この対極にあるのが,「話し合い」という手段を目的にしてしまった「学び合い」の授業です。

 教師はほとんど何も話さないので,子どもは「何が本質か」を学ばないまま・・・つまり,「活用できる知識」を得ることなしに,時間だけが過ぎていく。

 「学び合い学習」などという言葉自体が誤解のもとなのかもしれません。

 学習環境が「学び合う」ものであることが当然であるところでは,そんな言葉は必要ないのです。

 繰り返し私の主張をすると,

 教科学習には教科の目標があるわけで,「学び合い」をするとしたら,それは教師と子どもとの関係で大事なのです。

 教科の目標に照らして「子ども」と「子ども」で「学び合えた」具体的な成果を公表することで,手段と目的を混同するためにおこる学力低下はある程度防ぐことができるでしょう。

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ゆとり世代の「成長の芽を摘んだ」教師たちの反応

 大卒の「ゆとり世代」が社会人デビューする年となりました(大学現役合格の場合)。

 彼らが平成14年に中学1年生だったとき,教科の学習時間が大幅に削減されたのと同時に,「総合的な学習の時間」がスタートしました。

 この時間は,

○ 自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。
○ 学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の在り方生き方を考えることができるようにすること。

 をねらいにしたもので,こういう力が本当に身についているのであれば,「何とすばらしい世代か」と呼ばれるはずでした。

 「頼りがいがある世代」。

 しかし,学校によっては,十分に指導しきれなかった。

 「総合の良さ」について「語れない」教師がそもそも多すぎた。

 この時間にどのようなことを学習したかは学校によって違いますから,いつかどこかでアンケートをしてみてもらいたいものです。

 「何を学んだか」
 「どんな力がついたか」

 社会人になった段階くらいで,一度,義務教育の評価を国民にしてもらうというのもいいでしょう。


 さて,この「総合的な学習の時間」は,新学習指導要領でも「無くなっていません」。

 それなのに,「総合的な学習の時間は終わった」というような捉え方をしている教師がいます。

 過去のことをその成果の検証なしに,ただ「繰り返している」だけの学校もあります。

 なぜ「ただ繰り返す」のか,というと,

 「新しいものをつくるのは準備がたいへんだから」。

 こういう教師たちは,自分の専門教科の授業づくりの準備をしっかりしているのかというと,とてもあやしいものです。

 教師たちの「学ぶ力」は,子どもたちに「伝染する」ものです。

 「ゆとり世代」が社会人として,どのような評価を下されるのか。

 「ゆとり世代」というレッテルを,「本来の意味」に「転換」させることが可能なのか。

 よく見守る必要があるのは,教育実践をした教師たちなのです。

 
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「平均」の意味は分かりますか?

 大学生の4人に1人が,「平均」の意味が分かっていない。

 偏差値50以下の大学では,2人に1人が分かっていない。

 などという記事を読むと,「そこまでひどいのか!」とうなってしまうかもしれませんが,「平均を求める問題」ではないようで,以下に改題を載せておきますので,簡単に解けるかどうか,ご覧ください。

 40人のクラスで,算数のテストをしました。

 平均点は,70点でした。

 次の文のうち,確実に正しいと言えるものをすべて選んでください。

1 70点以上の人は20人,70点未満の人も20人である。

2 全員の点数を合計すると,2800点となる。

3 点数を10点ごとに区分けすると,65点以上,75点未満の人が最も多い。

 正解は?

 
 話は変わりますが,「平均点」というのは,中学校では相変わらずけっこうこだわる面がありませんか。

 目標に準拠した評価に変わったのに,「平均と比べて上か,下か」を気にする。

 「やはり相対評価も大事なのだ」という考え方も,一理あり。

 「意味のないものだから排除し,分布表を出すようにする」という選択肢も。

 90点が20人で,50点が20人でも,平均点は70点。

 世の中には,「平均的な先生」は一人もいなかったりして。

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通知表の電子化で増えるコピペ所見

 通知表の所見を書く作業は,確かに放課後の1日ではできません。

 それでも,何日もかかる作業ではない。

 私は,通知表の所見欄が狭すぎて,書きたいことが書ききれないため,当時の校長に「小さい文字で印字したものを貼り付ける方法」を提案しましたが,却下された経験があります。
 しぶしぶ,プリントアウトしたものを0.1mmのペンで書き写し,遠くから見たら真っ黒に見えるような所見ができあがりました。

 当時の校長は,全員の所見をじっくり読んでから校長印を押すのが信条の人で,しかも「所見の所見」も公表する人でした。

 その感想の中で,「所見のパターンが3~4つしかない教員がいる」という注意(是正勧告?)がありました。
 
 もし,所見も含めて通知表が電子化されれば,「チャンス」とばかり,似たような言い回しを「使い回し」する教員が増えてもおかしくないでしょう。

 それが,「時間の節約」のためならば。

 いろいろな人がいますが,私の場合は,通知表に評定や委員会の仕事などを一人一人書き込みながら,学期を振り返って,よく観察できていた,とか,あまり見たり励ましたりすることができなかった,など反省しながら所見を書いていたものです。

 「子どもと常に一緒にいること」よりも,子どもにとっての「道徳」の時間のように,教師が自分自身ときちんと向き合いながら,教育を振り返るために,「通知表づくり」にはしっかり時間をかけるべきだと思いますが,いかがでしょうか。

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排除される側の誇り・排除する側の驕り

 産経新聞の記者が,民主党の前原誠司政調会長の記者会見から排除されたとのこと。

 排除されるなりの理由はあるのでしょうが,「排除した」「排除された」という事実は残った。

 私のコメントを排除しているブログが二つ。

 一つは時代遅れ,もう一つはピント外れ。

 新しいコメントは排除されていますが,過去のコメントは残っているので,

 「排除せざるを得ない」事情も残されている。

 このやりとりは,今読んでも,おもしろいです。

 褒め殺しコメントやよいしょコメントが好きな人々には,

 なかなか「悪い情報」は集まってこないでしょうね。

 「裸の王様」は,真実を知るまでは,本当にいい気分で過ごせるのです。

 世の中,一面的にしか見えない人にとって,「問題」はあくまでも自分の都合だけによるもの。

 人の都合,子どもの都合とは別。

 ある人は,学力に関して「総合的な学習の時間」の指導について,語ることができない。

 ある人は,そもそもそういう指導自体に意味を感じていないような記事ばかり。

 「自分にとって都合の悪いこと」は存在しないことにできる「ものの見方,考え方」

 「自分にとって都合の悪いこと」を書いている人間は「病気扱い」できる神経

 「自分に都合の悪いことは聞かない」生き方をしている人は意外なほど多く,教育の正常化の足を引っ張っています。

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だれにだまされた?~非難される尾木ママ

 新聞記者のインタビュー技術のうち,自分の「書きたいことを言わせる」というものがあるようで,もしかしたら尾木ママはそれにしてやられたのかも?

 読売新聞の記事を読む限りは,橋下市長を持ち上げるコメントをしている尾木ママ

 そこを見逃さなかった市長。

 尾木ママは,だれに利用されているのか?

 こういうとき,ママは市長を非難することはできても,

 新聞を非難することはできない

 やはり真の「権力者」は政治家や行政の長ではないようです。

 気の毒なのは,「前言撤回」のような扱いを非難されている尾木ママ。

橋下さんのは『競わせて切り捨てる』みたいなトーンなんですよ。

というコメントも,自分の首を絞めるきっかけに。

 相手の印象を極端に悪くするための技術を使ってしまった。

 こういう技術は,知っている人が目にしてしまえば,逆効果にしかならない。

 さて,今後ですが,「ママ」らしく受け流すことができるか,本当に信用を失っていくか。

 今,チャンスをにぎっているのは,「こうすれば留年になどならない!」みたいな教育や学習指導の提言ができる学校なのですけどね。

 当たり前のことを,当たり前にやってさえすれば,小学校程度の学力はつくというのに。

 秋田へ行っても,フィンランドへ行っても,「当たり前の教育が大事」という結論ばかり。

 尾木ママが「留年させない学校づくり」を語ることができれば,すむ話なのですけれど。

 いずれにせよ,尾木ママは,いろんな人に「利用される立場」になってしまった。

 ただ一人,マスコミ向け教育評論家の地位を築いてきたママですが,マスコミは「どっちつかず」を利用するときは利用して,「どっちつかず」なら使わないと決まれば縁を切ってくる。

 飽きられると,あっと言う間に「支持の対象」が「非難の対象」に変化する。

 それほど長持ちはしない話題かもしれませんが,「学力向上」「学力保障」への関心を集める道具になったと割り切ってもらって,「次の発言」を待ちたいところです。

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公務員の公務員による公務員のための教訓

 官僚が「自分の独自の意見」を表明しないこと,そもそも,そういうものを「持たない」ことは,よく知られています。
 法律(自分の仕事にかかわる法律にのみ)に従って,粛々と仕事をこなす。

 1995年のNHKクローズアップ現代で,水俣病の患者「救済」をめぐる特集が組まれ,そこで発生当時に「工場廃水を止めさせるかどうか」を議論した省庁連絡会のメンバーのインタビューが放映されたものの録画を,今でも授業で使っています。

 漁民を守る立場にあった元水産庁の役人は,会議が終わった後,「がんばるな」「日本は貿易立国でいく」「日本の海が汚れたら,外国の沖に行ってとればいいじゃないか」という「指導」を受けたそうです。

 水俣病の患者で重い症状を訴えていたのは,地元でとれる魚をたくさん食べていた人々でした。

 当時の厚生省の役人は,工場の監督権限は通産省にあり,「工場廃水を止めることを訴える立場にはなかった」と話しています。しかし,原因は有機水銀であることをつきとめており,それを海に流す可能性のある工場は一つしかなかったわけで,要望書で「最も適切な処置を」というあいまいなものだったことへの質問にも,「越権行為はできない」の一言ですませていました。

 当時,海の汚染を防止する立場にあった経済企画庁の役人は,もともと通産省から出向していた人間であり,たびたび通産省の幹部によばれて「がんばれ」「抵抗しろ」「廃水は止められない」と「指導」を受けていたことを述べています。

 元通産省の担当者は,インタビューに応じなかったようです。

 これが,行政というところです。単に縦割り,というわけでなく,「優越する省庁」「優先順位」がある。

 「行政の責任は重い」と一言で表現できても,いろんな人間に,いろんなレベルでの責任があるはずなのに,ろくにそれを果たさないうちに,退職していく。

 中野剛志は「考えるヒントで考える」(幻戯書房)の中で,次のように述べています。

 官僚の多くは,自分の思想信条のオリジナリティなどには,ほとんど価値を見いださない。何が正しいかについての関心すら薄い。彼らにとって最も関心があるのは,思想や意見がもつ影響力だ。留学したり本をたくさん読んだりする官僚は多いが,たいていの場合,それは権威や主流派の説を知っておくことで自分にハクをつけ,多くの人に認めてもらいたいという,顕示欲のあらわれなのである。
 いくら真っ当な主張をしたところで,それが世の中を動かさないのなら,単なる自己満足に過ぎない。

 これと正反対の姿勢をもつ人として,イギリスの大学教授が紹介されています。

 オリジナリティが高く評価されるというより,それが存在証明である,という姿。

 とても「専門書」とは呼べないレベルの本のタイトルだけを借りながら,自説をもっともらしく補強する癖のある人はいますが,何かの「権威」にすがらないと生きていけないのが人間の性でしょうか。

 荒れた学校に赴任した時,前任者が手こずっていた保護者が,私の出身大学名を聞いたとたんに掌を返すようによく話を聞いてくれるようになったことがありましたが,「権威」の大きさに甘えている場合ではありませんでした。

 人をどうしたら動かせるか,

 教育行政も,これまで,四苦八苦してきました。

 教員が,この世の中で最も動きが「重く」,しかし,子どもの将来への「影響力の大きい」存在であることは間違いないでしょう。

 もちろん,「重たさ」の理由は教員の怠慢だけでなくて,その使命や役割の重さも背景にあって,よほどのパワーがないと「フットワークのいい教員」にはなれないのですが。

 一方で,フットワークよく,学校の外によく出かける教員たち。
 
 小学校を見てみればわかるように,かなり大きな裁量をもち,自己流の手法で子どもを「魔法のように」動かしていく教員たち。

 教育課程の管理ができない管理職。

 官僚とは全く逆方向で,法令にのっとって仕事をしていく,という自覚のない教員たち。

 「活動」の方が「教育」よりも優先している人たち。

 法令を守っていくことで,人の命を救えなかった行政。

 法令の中身を知らずに,好きなことをしている教育現場。

 水俣病の教訓が,全く別の角度から,教育界には問われています。

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小中学生に留年はさせられない

 というのは,教員の指導力が問われてくるからです。

 不登校児童を放置しておけば,「留年」になりやすい。

 本人や保護者が納得しないまま「留年」を決定すれば,担任教師や学校の責任が問われることになるでしょう。

 また,指導上,配慮を必要とする子どもには,今以上の学習支援が必要となるのに,それを行われなければ,学校の責任となる。

 私も,教え子に「留年」を考えてみたらどうか,と話したことがあります。

 深夜徘徊を繰り返し,昼間は寝ていて学校に来ない「怠学」傾向の生徒にです。

 一生のうち,今しかできないことを学んでいる。
 
 進級させれば,その機会を奪うことになってしまう。

 一年間を取り返さないか,と。

 でも,本人も保護者も希望しませんでした。

 こうなると,無理強いができないのが今の学校,今の子ども,今の保護者でしょう。

 もし「留年」が現実のものになれば,私の予想では「1歳下の弟や妹と同じクラスで授業を受けるようなこと」は嫌がるでしょうから,転校するか,ずっと学校に来なくなることになるでしょう。


 ですから,橋下市長のメッセージの真意は,教師がしっかり子どもに学力をつけさせよう,というところだと思います。

 「目標の学力水準に達しない場合は進級を認めず留年させるように」

 という要請は,

 「目標の学力水準に達するように,学校は努力するように

 という要請とイコールだと考えていたのですが,実際にはどうでしょうか。

 政治家は,戦略上,「真意」は明かしませんからね。

 芸人の仲間入りした自称教育評論家は,学力の底上げ策として賛同する考えを示した,というのが読売新聞の報道のようですが,教育課程をきめ細かく考えていけば,「進級させない」以外の選択肢が必ずあるはずです。

 公立の小中学校内で「補習」が難しければ,公的な「補習塾」,教員志望の大学生がボランティアで教える「大学生先生塾」,「地域で運営する補習教育機関」など,現実に動いているところもあります。

 東京の都立高校では,進級できない生徒が多く,多くが退学してしまうので,「つなぎとめ策」として,「留年させない」という方法を検討している(実際には,すでになされているところでもあるでしょうが)ようですが,これも賛否両論あるにせよ,「学ぶ意欲」を失わさせずに,「いいきっかけを学校で探させる」という選択肢があるのはいいことでしょう。

 「留年させるぞ」という脅し文句で嫌々授業を受けさせられる子どもたちは,どんどん学校から離れていき,もしかしやら,公立学校にNOをつきつけることで,もっと充実した教育が受けられる場所が誕生してくるかもしれません。

 以前から書いていますが,公立学校にかけるお金を民間に投じた方が,よほど充実した教育が行われるのではないか,ということが徐々に現実的なものになりつつあるというのが,大阪からみた日本の教育の姿です。

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「知的水準」で比べてほしいなら・・・

 「教師の証明」ではなく,「人間の証明」ができてしまうところが,神様・超能力者らしいところ。

 自分の記事で「~はおかしい」と書いているこそをそのまま,自分自身の記事で書いている。

 これが公立学校で批判を浴びている教師の姿そのものです。

 また,「馬鹿」「アホ」という言葉がタイトルにつく本が好きな人がいますね。

 以前,「上から目線」を気にする人の心理をご紹介したことがありますが,こういう「人を見下していたい」,相手を「知的水準の低い人間」「頭の悪い人間」とか呼びたい人が,どういう教育をしているか,想像することはそれほど難しいことではないでしょう。

 教育の質の低さを公開し,学校現場の信頼を低下させることにひたすら情熱を傾けている人がいます。

 「指導要録」に書く内容についての考えを知るだけでも十分です。

 どうして教師が信頼されないのかというと,

 「指導要録の書き方」について,

 要するに、指導要録は裁判沙汰にならないように書けということなのだ。
  (ここが本音の部分である)

 という見解を堂々と表明できる感性にあります。

 (裁判の)対策として、上からお達しがあって、現場へは「保護者が見ても不快にならないような記述にしろ」ということだった。そういう経緯で、指導要録は形骸化した・・・・

 子どもや保護者と教員との信頼関係が成り立っておらず,教育の質がかなり低い自治体の教育委員会の指導が,こういうものであったことは想像できます。

 指導要録に,

 子どもの欠点,問題点,悪口,問題行動,家庭の状況を細かく記録していた教員が多かったのでしょう。

 指導に必要な情報に関しては,金庫に保管される「指導要録」ではなく,担任の手持ち資料として管理されるのが普通です。「手持ち資料」には,口伝えによる情報=書面には残さないである場合も多い。

 「指導要録が形骸化した」などという発言は,どのような質の教師からなされるのか

 一定の「知的水準」があればわかるでしょう。

 本人や保護者が見て,不快になるような情報をもっている,それが教員の実態だということですね。

 それを,次の担任に情報として引き継ぐのは,指導の一貫性を保つために必要だとしても,わざわざ「指導要録」にまで残そうとする熱心さ。

 そんなことより,本来,指導要録に書くべき子どもの美点,指導によって伸びた部分はたくさんあるはずなのに

 多くの学校では,通知表の所見や個人面談などで本人や保護者には伝えられていることだと思いますが,その内容が,指導要録にも残されていきますよ,と言えば,指導要録が透明なものになり,わざわざ「開示請求」などされることはありません

 子ども・保護者とのコミュニケーション不全が,「開示請求」に結びつく原因であって,「指導要録に悪いことを書いたこと」が原因ではないんですね。

 大事な原因と結果の関係がお分かりになっていない。

 「指導要録には悪いことは書くな」という指導ではなくて,
 
 「子どもにまともな教育を」というのが本来の指導なのです。

 そして,その成果を残すのが,指導要録なのです。

 
 子どもや親から恨まれるのはいいけど,訴えられないようにしろ,訴えられるまでならまだいいけど,敗訴に結びつく材料だけは残すな,と指導されていると認識し,その通りに実行している教員がいたのですね。 

 指導要録が「形骸化された」と嘆くだけで,その人の「教育への情熱の質」はよくわかります。

 指導要録に書かなければ,次の担任に「指導上必要な情報は伝達されない」と考えているのであれば,

 それは教員間のコミュニケーション不全が原因です。

 そんな学校に子どもを通わせたくはないですね。

 「実践をしないことには、何も書けない」

 まさにその通り。子どもを教育してくれる学校が選ぶことができるなら,選びたいものです。

 それにしても,公立学校が抱える問題をここまで浮き彫りにしてくれる教育ブログも貴重な存在です。

 「褒め殺し」のコメントにもうならせられます。

 政府が教育を統制したいために問題が出る前提で作ったのかも。会社ではたまにやる手ですので。

 というのも秀逸。ダメ教師やダメ社員の「ダメさ加減」が隠されないですむ「統制」なら,市民や国民,消費者にとっては願ってもないことです。

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福井新聞で紹介された「専門家」の意見に対する異論

 保護者の対応で忙しくなった→教員が疲弊→教育への情熱を失う→優秀な人材が離れ学校教育の質が低下する

 こういう発想への異論です。

 いろんな保護者がいるのは当然です。

 子ども以上に大変なのは保護者であり,保護者以上に大変なのは教員なのです。行政から見れば。

 さて,異論というのは,

 「優秀な人材」のイメージです。

 私の「優秀な人材」のイメージは,こういう困難な環境でこそ教育への情熱を高める人たちです。

 「保護者対応が大変そうだから,先生になるのはやめた」

 という人間が「優秀な人材」であるとは考えられません。

 逃げたい人は,逃げればよい。

 ・・・「そんなことを言っていたら,教職希望者がいなくなる」・・・・なんて声がもし上がるとしたら,学校の数が堂々と減らせて,ようやく充実した教育が実現する可能性が生まれる,と答えたいですね。

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指導要録に関する無知 ~公務員としての資質に課題~

 教員という職業についたことがある人間の中には,(現職時代も含めて)自分が恥をかいているのに気づかない(気づけない)人がいるのが不思議です。でも,そういうことに気づけないことが,教員をやってこられた(やっている)最大の理由なのかもしれません。

 批判してきた相手の頭がおかしい,と自分に言い聞かせればそれですむのですから,心を病む心配はありません。

 指導要録の記載については,文科省が留意事項などを各教育委員会に指導しており,校長が仕事をさぼっていなければ,以下のようなことを理解した上で,教師たちは生徒一人一人の記録を残してあります。

 ですから,どこかの学校では

 私がある子どもを「積極的で良い」と書いても、別の人は「素直でない」と書くかも知れません

 などといういい加減な教師がいるかもしれませんが,普通は以下の原則に沿って記してくれます。

 太字は私が示しました。

*****************************

〔総合所見及び指導上参考となる諸事項〕

 生徒の成長の状況を総合的にとらえるため,以下のような事項などを記入する。

1.各教科や総合的な学習の時間の学習に関する所見
2.特別活動に関する事実及び所見
3.行動に関する所見
4.進路指導に関する事項
5.生徒の特徴・特技,学校内外における奉仕活動,表彰を受けた行為や活動,知能,学力等について標準化された検査の結果など指導上参考となる諸事項
6.生徒の成長の状況にかかわる総合的な所見

 記入に際しては,生徒の優れている点や長所,進歩の状況などを取り上げることが基本となるよう留意することが望まれる。ただし,生徒の努力を要する点などについても,その後の指導において特に配慮を要するものがあれば記入する
 また,学級・学年など集団の中での相対的な位置付けに関する情報も,必要に応じ,記入する。

*****************************

 評価は,指導の改善に役立てるという発想が必要なのです。

 ただ,目標管理の概念がない人は,そこが全く理解されていない。

 個人の感性だけで何となく評価するものではないのです。

 いい加減な教師が多いと,どんな評価をしているか,子どもや親から不信の目を向けられるから,指導要録の開示請求が行われ,それを拒否せざるを得ないケースに陥ることがあるのです。

 ですから,以下のような注意も徹底されているはずなのです。下線は私が引きました。

*****************************

○ 児童生徒の学習と教育課程の実施状況の評価の在り方について(平成12年12月4日教育課程審議会答申)

7 指導要録の開示の取扱い
(1)今日,個人情報に対する国民の関心の高まりなどを背景として,個人情報を保護するための条例等を制定する地方公共団体が増えてきている。また,国においては,個人情報保護基本法制に関する大綱が取りまとめられ,個人情報の本人への開示について,業務の適正な実施に支障を及ぼすおそれがあるとき等を除き開示することとされている。また,地方公共団体については,基本法制の趣旨にのっとり,必要な施策の策定・実施に努めることとされている。
 指導要録の本人への開示についても,このような個人情報保護基本法制の基本的な考え方に基づいて,対応する必要がある
(2)指導要録は,指導のための資料でもあることから,これを本人に開示するに当たっては,個々の記載内容,特に文章で記述する部分などについては,事案によっては,それを開示した場合,評価の公正や客観性の確保,本人に対する教育上の影響の面で問題が生ずることなども考えられる。既に制定されている地方公共団体の個人情報保護条例においても,個人の評価等に関する情報については,事務の適正な執行に支障を生ずるおそれがある場合,開示しないことができる旨の規定が置かれているのが一般的であり,具体的な開示の取扱いについては,その様式や記載事項等を決定する権限を有する教育委員会等において,条例等に基づき,それぞれの事案等に応じ判断することが適当である。
(3) なお,これからの評価においては,教員が評価の専門的力量を更に高め,根拠が明確で説明のできる評価をしていくことや,日ごろから,評価の内容について保護者や児童生徒に十分説明し,共通理解を図りながら指導に生かしていくことが一層大切であると考えられる。

*****************************

 以上のことをしっかり理解している教師は,「素直でない」という記述はしないのが当たり前なのです。

 また,「積極的でよい」などという漠然とした言葉を「総合所見」で書いても,何の意味もないことはだれの目にも明らかです。

教師が目標管理を知らない学校,組織的に動けない教師だらけの学校,個人個人の好き嫌いで子どもに接するような学校では,

 「人によって評価が違うのは当たり前」です。

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やっぱり分かっていなかった!

 ようやく,私のブログに反応してくださいました。

 そして,やはり,「学習の評価について,何も知らなかったこと」を暴露してくれました。

 学力が何かがわかっていないのだから,評価などできるはずはないと思っていたのですが,図星でした。
 
 指導要録が現在のようなものになったときはまだ現役の教師だったはずなのに。

 無知丸出し。ルールそのものが分かっていないし,評価の機能すら分かっていない。

 現在,学習の評価は,学習指導要領に示された目標に準拠した評価になっています。

 ですから,教師によって評価規準がばらばらではいけなくて,学校ごとにきちんと「評価規準と評価基準」に関する説明資料をつくっているのです。

 その目標を実現させるための方法は,もちろん全く同じでなくてもかまいません

 大事なのは,目標が実現されることなのです。

 以下の文を読む限り,小学校への期待は本当に裏切られてしまいますね。

 担任教師との「相性」が悪い子どもは,「泣き寝入り」するしかないようです。


***************************

小学校の先生がそれぞれ評価が異なることにクレームをつけています。

ある学校は先生によって、全く評価が同じなんてあり得ますか

指導の仕方も、人が違うのに同じってあり得ますか?

もし、そういうことが問題であるとするなら、これからは小学校はeラーニングを取り入れるべきですね。

もしくは、放送室から一斉に授業を行う、体育館で全員集めて授業をする。
評価も一人の先生だけでやるしかないですね。

教育って、いろいろな先生に会うことも大切だと思うのです。

先生によって人格も違う。

先生との相性のようなものもあります

**************************

 音楽の教師が「子どもとの相性」を問題にするのは,すごくよくわかります!

 「腹が立つ人を相手にしない選択肢もあるかも知れません」という逃げ道が用意されているようですね。

 もうとっくの昔に逃亡していくなっていたと思っていたのが,忘れられていなくてよかったです。 

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「人形」にすぎない小学生たち

 中学校では,毎日の生活班の様々な活動や行事の活動,部活動などで,いくらでも「学び合い」の場面は生まれてきます。学習場面で「話し合い活動のための話し合い活動」をするよりも,こういう場面での「話し合い」の方が,よほど充実したことができます。
 
 小学校では,運動会や学芸会の準備など,全部,先生たちがやってしまいますね。

 もし本当に子どもに「力をつけさせたい」のであれば,

 この企画や準備を,児童にやらせればいいのです。

 しっかり「話し合わせて」。

 そういう話を聞くと,「そんなばかな」「それは無理だ」という小学校教師は多いでしょう。

 中学校側から見ると,教師がすべてお膳立てした場所で動く子どもは,「人形」にすぎないのです。

 とても鍛えられた立派な演劇から,子どもたちがみんな

 「教師が操っている人形に見えてしまう

 という感想を抱くのは,私だけではないと思います。

 合唱や合奏でも,なぜ,教師が指揮をしてしまうのか

 そういう疑問が生まれないのだとしたら,それ自体が,小学校に限らず,中学校でも言えることですが,「言っていることとやっていることが違う」教育の姿なのです。

 小学校の教師は,「見た目」「仕上がり」にこだわりますよね。

 私が参観したことがある運動会や学芸会には,「失敗作」はありませんでした。

 みんな「完成されたもの」でした。

 でも,大事なのは,「見た目」とか「でき上がり」ではなく,「プロセス」なんですよね。

 ここは,否定されにくいと思います。

 でも,その「プロセス」が,いかに「見た目」と「でき上がり」を意識したものであるかは,自覚されにくいでしょう。

 「見た目」「でき上がり」のために,教師はものすごい力を注ぎこんで,子どもを教えますが,ここに,本来,子ども自身が「学びとっていけた」はずのことを,教師が「教え込んで」しまってはいませんでしたか

 子どもが「学び合い」のなかで挫折したり,失敗したりしながら,本当の意味で「学びとっていけた」はずのところを,

 「こうすればうまくいく

 「これがうまくできるコツだ

 なんてあらかじめ教えてしまって,すんなり「できる」ようにしませんでしたか?

 子どもの「自ら学ぶ力」を最も強力に奪ってきたのはだれか,ぜひとも自問自答していただければと思います。

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「言語活動の充実」によって学力が低下する

 この記事のタイトルは

 「学び合い」が学力低下の原因である

 にしようとしたのですが,内容を読まれないと誤解されるだけなので,標記のものにしました。

 「言語活動の充実」が求められている,

 さあ,話し合いだ!

 さあ,発表だ!

 などと,愚かさを絵にかいたような反応をする学校がある(今では研究会でも同じ現象が起こっている)のがたいへん気がかりです。

 「言語活動の充実」とは,何のためのものか。

 これが目的ではないことは,文字面では理解できても,本質を理解できない人が,現場には山のようにいるのです。

 「言語活動を充実させる」のは,教育の目標を実現していくための方法の一つにすぎません。

 「学び合い」も,教育の目標を実現していくための方法の一つにすぎないのです。

 小学校の高学年にもなって「学び合い」に熱心だったようなクラスの子どもは,中学校に入って相当苦労することになります。

 一人でじっくり考え抜くこと,自分の頭で考え抜くこと,人の話をしっかり聞き逃さないように聞くこと,こういう習慣がまるでついてない子どもたちが,まず中学校の学習でつまずくのです。

 いつもだれかが助けてくれて,教室内を歩き回れて,いつしゃべってもかまわない,こういう教室の「居心地の良さ」は,小学校で卒業してもらわなければなりません。特に,学習の場面でです。

 「表に出せる言語活動」の前に,「頭の中で行う言語活動」がしっかりできていない子どもが,中学校にはたくさんいます。

 一人で解決させる場面をあえて奪って,容易に「助け合ってしまう」小学校の「学び合い」は,子どもの学力向上にとって大きな「障害」となります

 ・・・・・とここまで書いて,こういう「一人でじっくり考え抜くこと」ができない人間は,小学生だけではないことがはっきりしてきました。

 「授業参観を成功させる授業の指導本」を買う教師たち。

 「子どもを魔法のように動かす指導本」に飛びつく教師たち。

 よい実践の,「指導方法」だけをまねして,失敗していく教師たち。

 全く同じ「失敗経路」をたどっています。

 この「失敗経路」は,「安易に成功を求める」というだけの「間違い」ではありません。

 「永遠に成功しない迷路」への道なのです。

 同じ学校の教師たちが,同僚の教師の本をみんなで読んで,同じように力をつけている,それなら信用しますよ。でも,もしそうだとしたら,教師個人の名前で本を出すのはおかしいことでしょう。

 いつからそういう伝統が小学校にあるかというと,そういう「古典」があるからですね。

 同じ学校の教師にはろくに目を向けないで,外ばかり見ている。

 日本人は,「内向き,下向き,後ろ向き」と批判されることがありますが,

 「外向き,上向き,本屋向き」のこういう教師たちが,小学校教育のレベルを本当に上げることができているのでしょうか。

 ここだけの話ですが,ある雑誌の編集者が,あまりに粗末な枠組みで重い話題を書けと言ってくる。この理由は,「教師は,長い文章は読まない」というのが本音のようです。

 こんな雑誌を読んで,力がつくわけがありません。

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閉鎖的職人が「本を出版する」前にしてほしいこと

 小学校教育の成果が担任教師の力量で大きく左右されてしまうことへの保護者からの批判を避けるために,毎学年,クラス替えをしているような小学校はありますか?

 一般的な保護者の感覚だと,同じ単元を学習しているのに,どうしてAとBの教師の教え方がこんなに違うのか,と疑問になりますね。

 小学校では,評価基準は学級によってまちまちなのかと。

 そんな評価はあてになるのか,と。

 小学校レベルの教育内容だと,大部分の子どもは理解できるようになりますから,そもそも差がつかなくて当然なのかもしれませんが,あるクラスは,子どもが話し合ってばかりいる。でも,あるクラスは,子どもがドリルばかりやっている。

 同じ学年の教師たちは,お互いに何をしているのか,知っているのですか?

 という疑問が生まれてくる。

 でも,小学校で優秀な教師の一部には,校内での仕事よりも,校外で知り合える人との「研究会」に熱心になってしまう現実があるのですね。

 挙句の果てが,公務員という立場で,学校の取組ではなくて,個人の取組をもとに,「本を出版する」に至る。

 役所にいって,同じ業務をしているAさんとBさんのうち,Aさんはその内容を他の役所の人も参考になることを本に書いて出版しているのに,隣の席で仕事をしているBさんは,その内容も知らないし,同じこともできるようになっていない,ということは考えられますか?

 音楽専科のように,「学校に一人しかいない」ような教師は別として,普通の教師がどうしてそこまで時間に余裕があるのか,これを皮肉を込めて表現すると「暇な教師たち」ということになるのです。

 中学校教師の場合は,「人にすすめるほどの成果も出せていない」という現実もありますが,そもそも「学校を離れる」こと自体が憚られることが多い。

 学校内で発生する様々な問題を解決するために,ほとんどすべての教師の力を必要としているからです。

 万が一,成果が出た場合には,その教師の個人名で,というよりも,その学校の名前で出される,というのが筋だ,と考えてしまいますね。

 小学校に通う子どもたちは,「学級王国」という「狭い世間」への国籍取得から始まり,その王国の決まりごとに従って教育が行われる傾向がありますが,授業が終わればすぐに「王国」から解放されるので,保護者は安心して子どもをいつでも塾に通わせることができる点で,小学校には感謝しているかもしれません。

 「本に出版できるような内容」が,なぜ校内で普及し,学校全体の質が向上しないか

 それは,学校の中にあるのはあくまでも「宗教や文化が異なる他国」であって,「学級経営の方針」からして同じ学年の中でも大きく異なる場合がある。やさしい教師たちは,「他国への内政干渉」を避けるために,学校外に出て,「同じ宗教や文化の国の国王」を探さなければならない。

 こうやって,「帝国」や「皇帝」が生まれたり,「連合王国」が生まれたりする

 出版社側は,「皇帝」の権威だけで「資金の回収」が見込めるため,次々に「帝国」の「広報」兼「営業」に精を出すことになる。

 しかし,保護者として最も望んでいるのは,やはり同じ学校の教師たちが,いい教師の影響を受けて,あるいは指導を受けて,みんないい指導ができるようになってくれることなのです。

 そういう仕組みを作ってくれること,そして,その仕組みによる成果がしっかり出ているかどうかを,授業参観では見てみたい(・・・・すみません,これはもう行政の立場からの見方でしたかね・・・・)。

 残念ながら,小学校で成果を残す教師たちの大きな「勲章」は,「校内で活躍することではなく,学校の外にどれだけ呼ばれるか」で決まるという現実があり,本来の保護者の望みは届きにくい。

 こうした閉鎖的職人たちが育てた子どもたちが,中学校でどのようなタイプの生徒になるか,本人たちはあまり確認しようと思っていない(たまにわざわざ自宅あてのアンケートを送るような人もいるようですが,子どもたちは小学校時代に学んだ「正しい態度」で,「礼儀正しく」回答することでしょう)のでしょう。

 これはまた別の機会で述べることにしましょう。

 小学校の教師一人一人を,信用しない,という単純なものではなく,小学校という組織そのものもを,組織としてみることが困難である,それが小学校教育が信用できない,また,小中連携を困難なものにしている原因の一つなのです。

 小学校の校長に,どのような資質を求めるか,一般的な人にはわかりにくいかもしれませんね。

 裁判で負けた高校の校長は,「生徒に近い存在」をアピールしていました。

 小学校の校長でも,同じようなことをしている人がいたとしたら,それはそれで悪いこととは言いませんが,それは教員の仕事であり,校長らしい仕事をしてくれ,と言える「学校経営に関する知識がある保護者」を増やすことが,小学校教育の改善には最も必要なことなのかもしれません。

 小学校の校長先生は,どんな仕事をしているのか,一般の方にはお分かりになりますか?

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小学校の教師が信用できない理由

 授業で指導力がないのを見るのがその最大の原因なのですが,

 たとえば,「授業参観で見せる授業を何しよう

 なんて考えるあたりが,「授業がいかに計画的に行わなれていないか

 「普段の授業がいかに適当なものか

 が見え見えになってしまうのですね。

 逆に,中学校の教師の場合は,「普段通りの授業をやる」と宣言して,本当に普段通りのダメな授業を堂々と参観してもらって,うまくいかない理由を子どもの低学力のせいにする,ということが起こるのですが,それはおいておきます。

 アマゾンで検索したら,「授業参観用の授業の本」なんていうのが売られているんですね。

 これ,中身を見ていないので授業自体を批判することはできないのですが,

 親がそういう本の存在そのものを知った場合,まず第一に思うのは,

 「私たちは,普段,どういう授業をしているのかを見に来たのだ」という気持ちが,教師には伝わっているのだろうか?

 という心配なのです。

 小学校の教師の中には,「保護者参加型の授業を」と言う人もいますが,

 保護者は,授業に参加しに来るのではなくて,

 「普段の授業での自分の子どもの学習状況を見に来る」のではないですか?

 それが,授業公開,授業参観の意味ではないですか?

 もちろん,学校の教育方針として,

 保護者参加型の学習を研究しよう,というのなら,話は別ですが,

 授業参観のときに

 プリントの答え合わせをしていた先生,

 冊子をつくるために紙を綴る作業を延々と子どもにさせていた先生を見た

 と証言している小学校教師もいますから,トンデモない小学校はいくらでもあることは確かです。

 教師が自意識過剰状態から抜け出せば,

 「普段より子どもの活動が多くなる授業」とか,

 「子どもが今まで学んだことを生かして自分の考えを述べる時間が多い授業」などが

 授業参観には向いているだろう,と発想できるはずですが,

 この場合,「力をつけさせてあげられなかった子ども」の現状が参観したすべての親にわかってしまいますから,そういうのは「避けたい」という気持ちは,子どもの側に立っているのであれば,許されるような気がします。

 いずれにせよ,こういう「授業を見た後の感想や意見」をきちんととっているのか,そういう「感想や意見」をどうふまえて,今の授業があるのか,といった「やりとり」がない学校では,参観する側の親の「見る力」も育たないでしょうから,学力向上は難しいでしょう。

 小学校までですよ。親の力が子どもの学力に反映するのは。

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「パワハラ」を絶対に「パワハラ」と言わせない「パワハラ」

 行政の場合は,法令が最大の武器ですから,どんなに強い指導をしても,それは「パワハラ」には該当しません。

 そもそも,そういう「圧力」に抵抗してまで,自分のやりたいようにやる,という気概のある人は官僚にも公務員にもなりませんから・・・というか,そういう人は法改正をするために議員になるべきなのでしょうが,ある程度の裁量が認められる範囲の問題については,行政の担当者も苦慮する場合があるのです。

 校長が判断に迷うことの例として,インフルエンザに感染している人の「試験を受ける機会」は奪えるのか,どうかという問題があります。

 中学校や高校で,定期試験のときに体調不良の生徒がいた場合,「保健室受験」とか「別室受験」という対応がとられているはずです。

 つまり,「出席停止」の扱いとするのは,「ほかの生徒への感染を拡大させないため」であり,特別な事情がある場合には,「ほかの生徒への接触ができないような処置」をとる方法もあるのです。

 これを,入学試験のときにはやらない,と宣言してしまうと,どういうことが起こるかというと,

 「インフルエンザに感染していることを隠して受験する」生徒が出てくる・・・・それは,当然のことでしょうね。特に,熱が下がったばかりのタイミングなら,出席停止中だから受験=志望校への進学をあきらめる,なんてなかなかできないことでしょう。

 これが,新型インフルエンザなんかの場合はとくに怖かった。

 私が問い合わせた当時の教育委員会の答えは,「中学校の校長が,出席停止扱いにしているのだから,インフルエンザに感染した生徒は受験会場には来ない」というものでした。

 こういう答え方なら,責任は受験生の学校の校長に負わせることができる。

 「中学校の校長」と「受験生である中学生」を信頼する,という何とも「美しい」言葉での回答ですが,私の危惧は当然のことであり,そもそも,「インフルエンザだから受験機会を失う」というのも,受験生,そして中学校側からすると,「納得できない」ものでした。

 生徒が受験する可能性のある高校,前任校で進学した先の高校に,「隠れ患者への対応」「事前に申し出て対応を相談できるか」と問い合わせたところ,すべての学校が,「教育委員会の指示待ち」になってしまって,結局は質問した私に対する教育委員会からの恫喝となり,上司でもなんでもない公務員から「お前の学校の受験生に不利になるぞ」と言われる結果となりました。

 まさか私がその声を録音していたとは思っていないでしょうが,ちょうどそのころ,恫喝で有名だった人間が内部にいるのを知っていたので,そこで育った人は同じような対応をするのを予想していた私は,「受験生が不合格になったときのため」に証拠をとっておいたのです。

 教育委員会から,名指しで電話がかかっているというのは,めったにないことですからね。

 結局,私は,内部で学んだ知恵をはたらかせて,「感染症対策本部」というところを動かして,「適切な対応」をとってもらうことに成功したので,恫喝した人間も「事なきを得た」のです。

 「お前の将来がどうなってもいいのか

 という公務員が使うパワハラというのは,精神的に弱い人には効き目があるのでしょうが,

 私のように好んで教育委員会にいたわけではない教師の場合は,

 「自分の将来よりも子どもの将来の方が大事だ

 という気持ちの方が強いので,内部にいて言われても「パワハラ」としては認識しなかったでしょう。

 ただ,やはり,「お前のところの子どもがどうなってもいいのか」にはハラハラさせられる。

 本当のパワハラというのは,パワハラだと訴えさせないくらい,強力にやる必要があるのです。

 そして,中途半端に相手に響くのではなく,立ち直れないくらい刺激の強い言葉を浴びせないと,パワハラだと訴えられてしまうので,徹底的にやるのです。

 そういう人が,今の行政にはいませんか。

 「お前の大学にはもう金はやらないぞ」

 と言われた人はいませんか。

 行政では,パワハラと訴える人がいなければ,「パワハラは存在しない」と言えるのです。

 いじめもそうですね。アンケートで「ない」という結果が出たら,「ない」ことになるのです。

 子どもが「いじめではない」と答えたら,いじめは「ない」ことになるのです。

 でも,人の記憶から消え去ることはありません。

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「話し合い」「学び合い」が不適切な場合

 何でも「話し合わせておけばよい」「教師がほとんどしゃべらない授業はすごい」などと単純に考えて,指導を放棄している怠慢な教師に,次のことを自問自答していただきたいと思います。

1 今,子どもが話し合っている内容は,既習の学習内容や子どもの体験を生かして進めることができるものか?

2 今,子どもが話し合っている内容は,結論が明確すぎることがらではないか?

3 今,子どもが話し合っている内容の総括を教師自身がきちんとしてあげることができるか?

4 今,子どもが話し合っている内容は,子どもがひとりで静かに考え,学ぶことの方が適当ではないか?

5 子どもに話し合わせる時間的な余裕があるのか?

6 子どもたちの集団の人間関係に課題はないか?

7 子どもたちは,話し合いを行う明確な目的・目標を認識しているか?

8 話し合いをスムーズに進行させるための司会者の資質は育っているか?

9 ただ,話し合わせているだけでなく,記録をきちんととらせているか?

 最後の,「記録をとる」ことをおろそかにしている小学校が,私の経験だと90%以上ですね。

 先生が,黒板に一生懸命書いている様子は70%くらいの割合で目にします。

 記録も子どもにとらせるべきです。

 そうすれば,本当に相手の話を理解して自分の話をしているのか,相手の話のポイントがどこにあると認識できているのかを教師の側が評価することができます。

 先生が黒板に書いてしまう行為を「総括」「まとめ」と考えることもできますが,結局,自分の都合のよい意見を拾ったり,子どもの発言を自分の都合のよいように「まとめ直す」か「あらかじめ自分が用意したまとめを写す」という作業になっています。

 話すことと書くことがきちんとリンクしているなら,「話し合い活動」は効果が高い学習形態となるでしょう。

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小学校レベルの「話し合い活動」にならないようにするために

 話し合い活動をさせる際には,司会役,あるいは進行役,ファシリテーターをきちんと決めているでしょうか。

 そして,その役割の意味を理解させているでしょうか。

 その役割が果たせる子どもを育てているでしょうか。

 私の勤務校の「バイブル」には,以下のような内容(若干,私が手を加えています)が「司会者の資格」として規定されています。

 ○広い常識をもっていること。

 ○公平な立場を保てること。

 ○その場の空気をとらえて,気分転換を図ることができること。

 ○部分に気をとられず,全体を見通すことができること。

 ○感情をすぐに表に出さないこと。

 ○自分の意見や立場を前面に出さないこと。

 ○発言の時間が調整できること。

 ○発言が独占されないように抑制できること。

 ○話題や論点からそれた場合,本筋に戻すことができること。

 ○発言者が発言しやすいように配慮できること。

 ○論が出された場合,その根拠をはっきりさせること。

 ○重複した論点を整理して,話の進行を促せること。

 ○必要に応じて,話のポイントをまとめて明示できること。

 これでもまだ一部です。

 ただ,これくらいのチェック項目でないと,授業中の「話し合い活動」の評価は難しいですね。

 以上の点が,最も「守れていない」のは,教師の方かもしれません。

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校内研修会ではぜひ定期考査問題の出題の意図に関する情報交換を

 適切な指導ができない限り,適切な評価はできない。

 適切な評価をしよう,という前に,適切な指導をしよう,という動きがなければならない。

 しかし,適切な指導のイメージが,

 板書をわかりやすく書く,とか,

 子どもに話し合いをさせる,とか,

 調べ活動をさせる,などのレベルでは,

 絶対に「適切な評価をするためのテスト」はできません。

 テスト=暗記という何とかの一つ覚えのことしか書けない人には,

 何とかの一つ覚えでしかない「指導」しか頭の中にない。

 こういう人に,「評価問題」の話をいくらしても無駄です。

 中学校の教師の指導力を評価したければ,定期考査問題を分析すればよい。

 こういうことを書かれて困る人が,現場には何%くらいいるか。

 一度,校内研修会で,定期考査問題の出題の意図と傾向について情報交換する機会をもてれば,それだけで授業が改善できる教師が出てくるかもしれません。

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165票でつぶされる少女

 推定年収4億円?

 CM1本3000万円?

 「売れっ子」のターニングポイント。

 たった「165票」が,少女を破滅に導く?

 芸能人は,バッシングと無縁ではありえません。

 しかし,7歳の少女をバッシングにさらすことはあまりにもむごい。

 7歳の少女を守れるのはだれか。

 小学校の担任教師に,「学校外」の社会的活動で「批判される少女」はどう守れるか。

 公的なメッセージを発することができるか。

 「教育機関」は何ができるのか。

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<公立高入試>の「正しい見直し」の方法

 入試制度が複雑になっている理由を,行政の立場から説明すると,次のようになります。

 平成9年の中教審第二次答申。

 テーマは,「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」。

 ここで,「今後の教育改革の指針」の一つとして,

 過度の受験競争の緩和を図る観点から、大学・高等学校の入学者選抜の改善を推進すること

 が示され,大学では

 学力試験の偏重を改め、選抜方法・尺度の多様化の推進

 高校では

 選抜方法の多様化、評価尺度の多元化(同一高校での複数の選抜基準の導入、子どもや保護者の自己申告書の活用など)

 「生きる力」の育成を目指す中学校以下の教育を尊重(調査書の活用、推薦入学の推進など)

 などがすすめられたのです。

 今振り返れば,「過度の受験競争」とは何を指していたのか,これを具体的に示す指標があったのか,ということが大きな疑問として浮上します。

 人気のある学校があれば,どうやっても競争は激しくなるのです。

 過度の受験競争をなくすためには,「どの学校も同じくらい入りたくない学校」ようにすればよいのですが,それは冗談です。

 学習指導要領が,この後,二度,改訂されました。

 知識基盤社会を生きる上では,「確かな学力」を身に付けさせることが欠かせない。

 だから,やはり学力検査を重視する方向へ,転換しなければなりません

 「学力試験に偏重」という表現はマイナスイメージですが,「学力試験に重点を置く」といえば,強いメッセージを発することができます。

 そして,入試の見直し方法として最も力を入れなければならないのは,思考力・判断力・表現力の有無をしっかり判断できる問題をつくること,と言いきれるでしょう。

 現場の大目標は,テストと言えば,暗記,という単細胞人間を,教師からも子どもからも根絶するのです。

 テストと言えば,「思考力を使い,表現力がなければできない問題」のことだと思われるような土壌を現場でつくるのです。

 センター試験のような,選択式でやさしすぎる問題ではだめなのです。

 すると,どういう障害が出てくるかというと,「採点に莫大な時間を要する」ということですが,そもそも人を正しく評価するためには,そういう時間と労力がかかるものなのです。

 当たり前ですが,作問をする側にも,とてつもない時間と労力,思考力,表現力,創造力などの能力が必要となります。

 学校現場にも,定期考査などで,「どれだけの良問が作れるか」という課題がのしかかります。

 これは,つまり,「どれだけよい授業ができているか」と同じ課題なのです。
  
 昔,「入試が変わらなければ指導は変わらない」という言葉がはやりました。

 そんな言い訳ができない「入試」は,本気になれば実現できるはずです。これが喫緊の課題です。

 中教審第二次答申のときのような「いい加減ですまされる」時期ではないのですから。

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高校入試改革に関心のある人が多い地域?ランキング

 昨日,yahooニュースからのリンクで訪問された方の都道府県別人数と割合は,以下の通りです。

 高校入試の改革や,学力論,総合的な学習の時間などに関心をもたれた方のご訪問だったとしたら,そういう話題に関心が高い地域だということになるでしょうか。

 わざわざ訪問していただいて,ありがとうございました。

++++++++++++++

1位 東京 189人  20.7%

2位 神奈川 56人  6.1%

3位 愛知   52人  5.7%

3位 大阪   52人  5.7%

5位 三重   31人  3.4%

6位 茨城   30人  3.3%

7位 埼玉   29人  3.2%

8位 長野   28人  3.1%

9位 京都   26人  2.8%

9位 鹿児島  26人  2.8%

11位 福島   24人  2.6%

++++++++++++++

 三重県といえば,日教組組織率トップの県ですね。

 何か関係があるのでしょうか?

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全国学力検査の問題を知らない素人教育評論家たち

 「テスト=暗記」という知識しか持っていない

 「老害患者」は,

 一度,中高一貫校の適性検査問題とか,全国学力検査のB問題をご覧になるべきですね。

 自己修正機能がついていれば,低ビットでも,何とかなるでしょう。

 テストの機能を矮小化して語ることによって,何をねらっているかは明白。

 以上。

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非常勤講師が体罰をできる学校とは?

 真岡市の中学校の非常勤講師の先生が起こした体罰(子どもは腹水をたまらせ入院)のニュースが入ってきました。

 怪我をさせたからダメ(怪我さえさせなければ体罰してもよい)

 というわけではもちろんないのですが,普通に考えれば,

 「非常勤の先生が体罰をふるえる学校」

 という「学校風土」とはどのようなものか,と疑問に感じる人が多いのではないでしょうか。

 私が一番気になっているのは,まさかそんなことはないと信じたいですが,

 「体罰ができて一人前」という空気はなかったか,

 常勤の先生が体罰をしている場面を,その非常勤の先生は全く見たことがなかったのか,

 ということが知りたいです。

 非常勤,というのが意外だったのですが,「なぜ先生が体罰をするにいたるか」という問いに対しては,本当におこした人だけの責任ではなく,学校の全教員が何らかのかたちで答えていくことが必要だと思います。

 当然のことですが,

 「もう二度といたしません」

 という答えだけでは,だめなのです。

 愚かな教員は,体罰の問題があった後,わざわざ生徒に対して

 「私たちは体罰は決してしません」などと宣言してしまいますが,

 こういう行為は,子どもと教師との間の信頼関係にさらなる溝を深めていくだけです。

 「脱体罰宣言」をしたために,以前にも増して荒れ放題になった中学校があるのを知っています。

 「体罰はなぜ起こってしまったのか」ということをつきつめて考えることなしに,子どもと教師との間の信頼関係というのは成立しません。

 「問題をおこした人を切る」

 のではなくて,「どうしてそのような問題が起こったのか」を考え抜くのです。

 そうやって,子どもを育てているのと同じように。

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<公立高入試>学力検査が復活・拡大 その2

 このニュースについての私見を述べると,公立高校の推薦入試に合格する中学生というのは,基本的に「内申点」が高い生徒のことですね。

 内申点とは,中学校の「5・4・3・2・1」の「評定」という評価を計算して出した点数です。

 学力検査のない実技教科は,やや比重を重くして算出されるなどの工夫がされています。

 さて,高校が学力検査を拡大するねらいですが,これは分かりやすく言えば,中学校の評定が参考にならない,という判断がもとになっていると考えられます。

 本当は,拡大なんかしたくはないんですよ。

 だって,採点の手間が増えるから。

 楽をしてすませられるのなら,進んで「苦労する」方向へと歩み出すなど,決してしないのが公立学校の労働者たちなのです。

 「推薦で受かった子なのに(=中学校の成績はよかったのに),どうしてこんなに学力が低いんだろう

 この言葉がすべてを語っているのです。

 ちなみに,公立の中高一貫校は,小学校の成績(3・2・1の評定)を合否判定に入れますが,私立の学校でそんなことをしているところはほとんどないでしょうね。

 小学校の先生には気の毒ですが,あのたくさん書くことがあってたいへんな書類,全く読まない,という学校も多いのですよ。名前と住所のチェックだけです。ときどき誤字を見つけて,「この人,大丈夫なのかなあ」と心配するくらいで。

 中学校の成績があてにならない最大の理由を,私は「観点別学習状況の評価」に集約して考えています

 ろくな指導をしないで,「活動があった」だけで「理解している」ことにする,などという暴挙がいかに多いか。

 評定があてにならないのは,評価があてにならない=指導があてにならないからなのです。

 だから,一斉に学力検査で審査した方が,よほど「公平で客観的な力が測定できる」,そういう持論の人も多いことでしょう。

 トップ校は,内申よりも,学力検査の得点重視,しかも,難易度の高い問題を独自に使う,この判断が認められているのですから,もう何も言うことはないでしょう。

 「多様であれば,それでいい」というのは,組織全体を見たときの話ですね。

 個別に見て,「これが一番いい」という方向に,右へならえ,の可能性も大いにあるでしょう。

 公立高校の推薦という制度は,私立にいい生徒が抜ける前に,公立で早めに囲い込んでしまおう,というねらいがあるのはおいておき,その選抜方法の中にも「本当に基礎・基本が身についているのか」が分かるくらいのテストはすべきだろう,という声は,正しいものと認識している,というのが,私の結論です。

 まずは,中学校で,適切な指導を行うこと。

 適切な指導があるから,妥当な評価ができ,そしてそれが妥当であれば,信頼される。

 今は,最初のボタンがずれているので,高校側の動きに抵抗するのは無理でしょう。

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<公立高入試>学力検査が復活・拡大

 公立高校で学力検査(試験)を伴わない入試の見直し(=廃止・縮小の方向)が行われている,という毎日新聞の調査結果がYahooニュースで紹介され,そこに私のブログへのリンクが貼られていた関係で,本日は2000人近くの方にご訪問いただきました。

 皆さん,下の「蚊帳の外にいた・・・」という記事にふれていただいたのですね。

***********************

・ [意識調査]公立高校の入試、学力試験があったほうが良い? - クリックリサーチ

◇「全員に学力検査」広がる
・ 入試制度はどう変わる? 「新入試制度解説」 なぜ全員に学力検査? - 中萬学院
・ 広がる公立高校の学力試験なしの推薦入試廃止 - プロチューNAVI
・ 高校入試情報 各県の選抜方法 - 新学社

◇教育現場では
・ 15歳の春・異変:高校受験の現場から/上 首都圏「脱ゆとり」鮮明 - 毎日新聞(2月15日)
・ 「新学習指導要領」 「脱・ゆとり」本格実施 - 産経新聞(2011年9月7日)

◇「学力重視への回帰」は必要か
・ ゆとり教育と詰め込み教育 - ドーなってるの?ゆとり教育
・ 「日本人はバカになった」は本当か 世界が嗤っている - 現代ビジネス(2010年2月10日)
・ 徹底検証 学力低下に歯止めはかかったか? - All About(2008年12月15日)
蚊帳の外にいた人に「学力観」は語れない - 教育失敗学から教育創造学へ(1月27日)
・ 『ゆとり教育と詰め込み教育(2)』 - 思考アパート ~考えて考えて、ひらめくblog~(2010年4月12日)

◇関連トピックス
・ 学力低下 - Yahoo!トピックス

**********************

 私のブログを以前からお読みの方は,お気づきのことと思いますが,この記事は,「学力観」について質問してこられたdolceさんがいつまでたっても私の問い合わせに返事をよこさない(あるいは記事にしない)ので,しびれをきらして書いたもので,おそらく上のカテゴリーに含まれるのにはあまり適当でない気がします。

 それでも,次の点を満たす教育ブロガーは他にはいないと思われるので,これを機会に興味のあるページをめくっていただければ幸いです。

======================

 初めてご訪問いただいた皆様へ。

 私は 現役の中学校教師。

 都道府県教育委員会で指導主事をしていた。
 教育課程の管理については,うるさい。
 小学校・中学校・高校の授業をたくさん参観することができた。

 文部科学省の仕事にも10年以上,たずさわっている。
 観点別評価の見直しを強力に訴えるなど,かなり文科省には刃向っているにもかかわらず。

 毎年,全国の先生に授業を公開している。
 OBの先生方に,しぼられながら。

 行政の限界を痛いほど知り,現場の大問題を痛いほど知り,1人でも「骨のある」教師をつくっていこうと,毎年,教育実習生を大勢受け入れている。

 教職を志す人に,何が足りないかと言えば,現場の「教育の失敗」の実態に関する正しい知識だと考え,「おかしなことを書いている教育ブログの記事」を徹底して批判している。

 こんな書き手です。

 下の「教育論・教育問題」をクリックしていただくと,「教育」について,最も洗練されたブログをご覧いただくことができます。こちらの方も,ぜひのぞいてみて下さい。

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開いた口がふさがらない「学び合い」の実践事例

 これ,書名を挙げたら編集者の大学教授に気の毒なので,ふせておきますが,

 「公立学校が馬鹿にされている」どころではない,

 「国立大学の教育学部が馬鹿にされる」とんでもないレベルの原稿が活字になっていることにびっくりしました。

 この世のものとは思えないほどひどい授業で「開いた口がふさがらない」状態になったことはありますが,活字にするようなものは,どんなに実践能力がなくても「書くだけは書ける」のが大学教授だったはずで,本を読んで開いた口がふさがらなくなったのは,「仕事術」以来のことでした。

 そのまま引用すると問題があると思うので,内容をふせて,どうやって「指導事例」を紹介しているか,以下でご覧いただきましょう。

 なぜか,冒頭には「教師用指導書の目標」とあります。

 中学校の教師で,「教師用指導書」を使って授業する人は,初任者くらいの話でしょうに・・・。

 ここでは,「Aの理由を,Bと関連させて理解している」というのが,教師用指導書の目標。

 子どもにわかりやすい目標に言葉を換えると?

 というパターンで,「言い換え」が行われています。

 「全員が,Aの理由を,Bと関連づけて,皆さんに納得してもらえるようにわかりやすく自分の言葉で説明することができる

 これ,もうすでに「評価の観点」がすり替わってしまっていることに,お気づきになりましたか?

 子どもにわかりやすい目標に変換したとたん,目標が変化してしまいました

 この程度は,序の口。

 次が,爆弾発言。

 手立ては?

 「みんなと相談しながら,やってみよう」・・・・!!!

 図書館から役立ちそうな本や国語辞典を持ってきておく???

 ・・・(絶句)・・・驚愕の「指導法」ではないですか???

 こんなことが書かれている本を,2000円近く出して払った人は,怒りませんか?

 中学校の歴史だと,Aに入る言葉も,Bに入る言葉も,「辞書を引けば出てくる」ものではないのですよ!

 小学校で,本からノートに「平行移動」しただけの言葉を子どもが発表しているのをよく耳にしますが,そのレベルで中学校の学習を捉えているこの大学教授は,間違いなく,元小学校教員だ!・・・・と思ったら,元中学校の理科の教員でした。

 子どもたちは,教科書と副読本,図書館にある役立ちそうな本を読んで,「みんなと相談しながら考える」ことで,「Aの理由を,Bと関連させて理解する」ことができる?なんてことを本で書いてしまうから,そしてそれを読んだ教師がその通りにやってしまうから,学校が「こんなこと」になってしまうのではないですか???・・・という批判を受けざるを得ない本になっている。

 「全員が~」

 「みんなで相談」

 を何よりも大切にしたい,という気持ちはわかりますが,

 何も,教科学習でそれにこだわる必要はないのです。

 7・5・3の法則通りにやろう,と言いたいわけではありません。

 「全員」とか「相談」にこだわれば,

 絶対的に「時間が足りなくなる」のですよ!!!

 私はこうやって小学校の授業をしてきて,江戸時代までしか終わらず,明治時代以降はビデオを見ただけでした・・・・という子どもを中学校でたくさん見てきているのです。

 これをもし中学校で繰り返したら,

 「反乱」を起こされても文句は言えないでしょう。

 中学生たちは,「反乱」ではなくて,「逃散」して塾という「荘園」で伸び伸び学習しているのかもしれませんね。

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塾の先生には得られないもの

 生徒がお世話になっている塾の側から「学校」をながめると,塾の先生はどういうところが「気にかかる」のか,教育ブログを通して知ることができます。

 やはり一番大きいのは,「教師がつけられて当然の学力をつけていないこと」,

 「その原因が,子どもの努力不足というより,教師の努力不足によるところが大きいと考えられること」

 のようですね。

 これを,努力不足でなく,能力不足である,ととらえることも,もちろんできるわけです。

 ただ,こういうタイプの批判は,「本来,自分たちは必要のない存在だ」ということを認めてしまうことになりかねないので,「やりきれなさ」は,単純に「教師の側の問題」にあるとも言えなさそうです。

 「もっと優秀な子を,さらに優秀にするために」という意気込みの持ち方も,「優秀な子どもは人に頼らず自分で勉強できる」ことから考えれば,微妙なところ。

 おそらく,「わざわざお金を払ってこんな簡単なことを教わる必要もないはずなのに,もったいない」というのは,どの塾の先生も思うところではあるでしょう。

 「うちの塾と同じことを学校でやれば,もっと学力は向上するのに」

 というのも,もっともな感覚で,「学力向上」をテーマにした学校の教師と塾の講師の研究会,教材の情報交換会などは行われてよいはずです。

 私も塾講師のアルバイトをやっていたので,現場で,「この教科の教え方は自分の方がうまくできるぞ」なんて思ってしまうこともあります。

 ただ,塾の講師をしていては絶対に見えないものがある。

 それは,子どもたちが使い分ける「顔」,何かの結果の「表情」のバリエーションです。

 やはり,子どもたちは,塾には,「勉強」しに通っている。

 大人の側の感覚で言えば,「仕事」に向かうのと似ています。

 塾で子どもは,「勉強」する顔になっているはずです。

 学校は違うの?と言われるかもしれませんが,学校には,勉強以外にすることがたくさんあります。

 実技教科以外にも,学級活動,生徒会活動などがさかんな学校では,「自治的活動」の場が案外,たくさんあるのです。

 「自治的活動」の場では,生徒たちは様々な役割をこなし,それぞれの達成感や充実感を得て成長していく。

 私はあまり好きな言葉ではありませんが,子どもが「輝いて見える」場面がたくさんあるのです。

 それだけでなく,「くじけている」顔,「いらいらした」顔,「くもった」顔・・・・学校は,人間の表情の博物館です。

 これらのうち,やはり学校の教師をしていると一番うれしくなるのが,「輝く」顔に出会ったとき。

 おそらく,塾などで「輝く」子どもは,ごくごく限られていることでしょう。
 
 「できないことができるようになった喜び」

 「わかった!という実感」

 程度のことを「輝き」とは呼んでいません。

 やはり,長い苦労の連続を知っている人間が見るから,他の人には感じ取れない「輝き」が見えてくる。

 多くの困難にぶつかり,自分の力で克服する,あるいは,仲間の助けや協力で乗り越えていく,こういう生活体験によって,子どもには「協調性」が身についていきます。

 「協調性」は無批判に従う「服従性」とは違います。

 塾では,子どもの「協調性を伸ばす」ことを経営上の目的にはしていないでしょう。

 戦略的な協調行動は頭のいい子ならすぐにできますが,本当の意味での「協調性」は,だれかから「無理な注文」がつけられるような空間でないと,育てるのは困難です。

 ・・・・なんていう学校観を強くもっている教師は,塾の先生が「教育の何がわかる?」という言動をとってしまいがちなのですが,今の学校には,本当の意味での「協調性」を育てられる教師がどのくらいいるのか,という方が心配だ,というのが私のオチでした。

 最も大事なものを,現場の教師が「得られていない」ために,特に都市部では,魅力的な職業として見られないのでしょう。教員採用試験の倍率が,目も当てられないほどの低さになっていますね。

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「個性重視」という「きれいごと」

 子どもを評価しようとするとき,それは「普遍性」「規準に照らしてみた現状」という見方をするのか,「個性」「独自性」という見方をするのか,どちらか,と問われたら,学習などの場合は特に,前者だと答える人が圧倒的でしょう。

 そうでなければ「嘘」になってしまうからです。

 そもそも教師たち自身が,普遍的なもの,というより,だれかが成功したものの物まねをしようとする。

 どこにも「個性」などありません。


 ・・・いや,決してそんなことはない。

 「普遍性」と「個性」は「創造的なもの」かどうかととらえることによって,それぞれが相互補完的なものとなる。

 そういうものの考え方もあります。


 学校経営もこれと同じです。

 「現状維持」こそがよいと「保守的」にとらえようとするか,

 「現状に満足しない」と「創造的」にとらえようとするか。

 学校の教師の議論がなかなかかみ合わないのは,

 もののとらえ方,考え方がそもそも食い違っていることが原因であることが多いのです。

 立脚点は,「保守的な学校」なのか「創造的な学校」なのか。

 この共通理解を得ることだけでも,学校という組織は困難な場所なのかもしれません。

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「やる気を引き出すため」の「学び合い」は失敗する

 「学び合い」をした結果,子どもたちがこうなった。

 という話は問題ありません。

 問題は,子どもたちを「~」の状態にするために,「学び合い」を取り入れる。

 こういう発想の人が出てくることです。

 「学び合い」などの本を買う人のほとんどは,こういうタイプなのではないでしょうか。

 「本当にうちのクラスの子どもはやる気が出てこないなあ」

 →「学び合いをすると,やる気がでるようになりますよ」

 →「じゃあ,学び合いをやらせてみよう」

 ・・・・こういう「思考形態」の小学校教師は大勢いますよね。

 KJ法の川喜田二郎も,「野生の復興」という本の中で,次のような話をしています。

 「わが社がKJ法に力を入れるのは,別によい結果を得るためではないのです。KJ法を使ったって,別に問題が解決できるわけじゃありません。しかしあれをやると,社員がヤル気を出します。だからモラールアップのためなんですよ」
 これはまったく見当違いである。こういう教育担当者は,まともなKJ法を何も知らないのである。問題解決のためにKJ法があるのに,まったくふざけた話である。
 真剣に問題解決と取り組み,達成の醍醐味を得たときには,「結果的に」ひじょうに士気が揚がる。ところが,結果的に揚がる士気高揚を,「目的に」してひと仕事をやるのは,見当違いなのだ。それにはどことなく「いや味」も伴う。

 私の場合,研究授業などで,どれだけ「いや味」を感じたことか。

 小学校の教師たちというのは,こういう「いや味」は慣れっこになっているのか,自分では完全に感覚がマヒしているのか。割り切って,ねらってやっているのか,純粋にわかっていないのか。判断できません。

 いずれにせよ,非常にいやらしい「操作主義」がそこ・ここに感じられる。

 純粋な子どもたちが,(授業者にとっては)おもしろいように「踊らされている」。

 教材研究をろくにしないで,ただの「話し合い」をさせれば何かの成果が得られると期待する,そういう姿勢だけは一掃してもらいたいものです。

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教師の「忙しさ」の相対評価

 以下の項目に全部あてはまる人がいたら,「忙しい教師」として認定いたします。
 (あくまでも,1人の教師の話です)
 

1 学年主任として,「学年だより」を毎日出している。

2 学級担任として,「学級だより」を毎日出している。

3 40人分の「生活の記録」に,毎日コメントを5行以上,記入している。

4 400人分の「今日の授業で学んだこと」のプリントに,週2回,コメントを記入して返却している。

5 400人分の授業プリントを,1週間に4種類以上,作成し,印刷している。

6 1日8時間以上,生徒たちの前にいる。

7 1週間で10冊以上,本を読んでいる。

8 1か月に1本以上,論文を書いている。

9 個人的なブログの記事を1週間に10本以上,書いている。

10 1週間に10回以上の会議に参加している。

11 1日に10回以上の電話対応をしている。

12 区市町村教育委員会の依頼で,1年に10回以上の出張がある。

13 都道府県教育委員会の依頼で,1年に10回以上の出張がある。

14 文部科学省の依頼で,1年に10回以上,会議に出席している。

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学校評価の「お薦め自由記述内容」

 もう「年度末評価」しかやっていない学校でも,「学校評価」(「学校の自己評価」のこと)の調査自体は終わっていることでしょう。

 (もし,まだやっていない学校があったら,そこの管理職は「D評価」です)

 「学校評価」には,最後に「自由記述欄」があるはずです。

 そこでは,「学校評価」の「機能の評価」を記入することが効果的です。

 教育課程の評価は教育課程編成までに終わっているはずですが,「学校評価」はより広範な内容を含むので,学校が「組織らしく」動いているのかをチェックする上では最大の機会です。

 「機能の評価」をする上で,最も参考になるのは,「最も組織らしい動きをしている学校の,学校評価のチェック項目や,成果を示している評価結果」です。

 その情報を知ることと,それと自校のチェック項目や成果を比較すること

 これを要望するのです。

 教育課程だけでなく,学校運営の管理を真剣にやっている学校は,年度内にこれをまとめることができるはずです。

 隠れた目的は,最も優秀な学校経営をしている校長と,自校の校長との相対評価を行うのです。

 学校評価の情報をもっているのは,教育委員会です。

 どういう動きが学校という組織では最適なのか,わかっていない教員の意識改革になりますし,けっこう大きいのは,校長の管理職としての質を向上させることにつながることです。

 このような要望を,校長がどう受け止めるか。

 校長が他の校長と比較されるのを嫌がるようでは,そもそも「児童生徒による授業評価」などは認めないタイプの教師でしょう。

 どういう学校評価が,「よい学校」を生み出しているか。

 学校評価に基づくどのような「行動指針」が成功したか。

 学校が変わる,とは,どういうことか。

 相対評価というのは,案外,役に立つものだ,ということがわかることも大事です。

 「目標」は,どこにあるかわからない「絶対的なもの」より,「そこにあるもの」の方がいいのです。

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「児童・生徒による授業評価」に反対している教師たちへ

 授業改善に役立つ児童・生徒による評価とはどのようなものでしょうか。

 このような検討を校内で行おうとするとき,まず立ちはだかる壁が,

 「児童・生徒による評価」そのものに反対する教師たちです。

 こういう教師たちの姿勢こそが最も改善すべきこと,
 
 こういう教師たちの授業こそが最も改善されるべきもの

 であることが多いのですが,この壁は厚い。

 では,どうしたらこの壁を壊せるのか。

 まず,壁を「薄くする」にはどうしたらよいか。

 児童・生徒による授業の評価は,あくまでも「授業」の評価であって,「教師」の評価ではないこと。

 もちろん,教師が授業の中でどのような役割をどう果たすべきかを検討することにはなりますが,「授業」は教師一人で成立するものではありません。

 具体的にこういう質問項目を,というのはあえて出しませんが,

 授業は教師一人で成立するものではない(当たり前のことなのですが)

 ことが児童・生徒が自覚できること,教師自身も強く自覚できるようになる

 ような結果になるだけでも,「評価」の意味は大きいものになります。

 児童・生徒が「授業に参加していない」授業の根絶が,まずは「評価」の第一歩となります。

 こういった授業の対極に,「学び合い」という名のもと行われている「授業になっていない授業」がある。

 「授業になっていない授業」の方が,児童・生徒からは高く評価されるのではないか,という恐れがある。

 そういう「恐れ」も,「児童・生徒による評価」に反対する理由の一つでしょう。

 しかし,

 授業の目標が何であり,授業の結果,目標に照らして何がどの程度,達成されたかが授業評価の柱の一つですから,「誤った学び合い」の化けの皮がはがされるのは明白です。

 授業はどうあるべきか。

 この問いの答えを追究するのは,教師だけの仕事ではない

 こういう姿勢を学校が示すことが,授業改善の第一歩なのです。

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「忙しそうな教師」になってはいけない

 教職を希望する若い人,民間等に勤めている人にとって,

 「忙しい教師」はうらやましいですか?

 「何で忙しいかによる」ですって?

 教育ブログ『公立学校の現状』のコメント欄に寄せられてきている「忙しさ」で,その教師の特徴がわかります。

 私の経験から言って,

 仕事ができる人は,「忙しい」という言葉を使うこともないし,そう感じることもありません

 さらに仕事ができる人は,人に「忙しそう」と思われることもありません

 人間は仕事に集中しているときは,「忙しさ」を感じないのです。

 しかし,人に「忙しそう」と思われてしまうと,「今,言わない方がいいか」と判断されて,重要な情報が届かなくなってしまうことがあるのです。前の記事とも関連があります。

 ものごとには,優先順位というのがあります。

 同じ優先順位なら,時系列ですましますが,優先順位が高い情報が後から入った場合,今,対応しているものは,いったん,保留になります。

 こうやって二重三重の課題に対応している姿を,人は「忙しそう」と思うかもしれません。

 しかし,やっている本人は,やるべきことを,やるべきときにやっているだけなのです。

 こういう「忙しい教師」と評価されてしまう人がいる一方で,そうでもない教師は,いくらでもいますよ。

 そうでもない教師というのは,「忙しいわけでもないのにいつも忙しいと言っている人」のことです。言っている間に,できる仕事はいくらでもあるのに。

 「忙しい」と言葉にすることのメリットは,自分に仕事が来なくなることです。楽ができます。

 「忙しいと感じる暇」のある人は,決して忙しくはありません。

 「忙しいわけでもないのに忙しいと言っている人」の特徴は,仕事をする能率が悪い,段取りが悪い,能力が低い,優先順位がわかっていない,ただそれだけのことです。

 また,組織としての仕事ができない。それも致命傷になりますね。


 「忙しい芸能人」と「暇な芸能人」はどっちがうらやましいですか?

 ちょっと意地悪な質問をすると,時給が同じなら,

 「忙しいお店」と「客が来ないお店」では,どちらで働きたいですか?

 前者で働きたいと思えるような人に,教職についてほしいです。

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教師や管理職が悪い知らせを聞くときの態度

 教師や管理職になろうとする人の資質として,とても大事だと私が考えているのは,これです。

 どんな態度で「悪い知らせ」に接するか。

 演技ではすぐにバレますので,これは本物の資質か,そういう体験を通して,少しでも早く理想に近づくことが重要です。

 悪い知らせを聞いて「心を痛める」のは,人間として,当然のことです。

 しかし,あくまでも,「人のために心を痛める」人間でなくてはなりません。

 教師自身,管理職自身がダメージを受けているなあ,と感じさせてはいけません。

 悪い知らせにダメージを受けるような教師や管理職には,やがて,「悪い知らせ」が入ってこなくなるからです
 
 それは,「思いやり」からです。

 「人を傷つけてはいけない」と教わっている子どもや教師のうち,優先順位が分からない人は,「悪い知らせを届けて相手を傷つけてはならない」という心理的圧迫に勝てず,「報告しない」という選択肢をとるようになります。

 そうすると,教師や管理職が知らないところで,問題が深刻化していくケースが,学校現場には多くあります。

 結局,大きな問題に発展し,対処が難しくなって「傷つく」のは「思いやり」をもらった教師や管理職なのです。

 では,「悪い知らせ」を聞いたとき,どのような態度をとるか。

 こういう態度をとるべきだ,とは言いません。

 態度というのは,気持ちや姿勢が表面に出たものです。

 どのような気持ちや姿勢をもつべきか。

 「自分の出番が来た」と思うことです。

 まあ,このあと,適切な対処をしないことが続くと,やっぱり「悪い知らせ」は届かなくなるものですけれど・・・。

 教師や管理職というのは,だれにでもなれる,という職業や立場ではありませんね。

 ・・・・・こういう気持ちや姿勢でいるから,トンデモ記事が教育ブログに出たとき,黙っていられなくなるのですけれど・・・・。

 子どもたちや若い教師たちにとって「ためにならない本」を堂々と出す小学校教師たちも何とかしたいものですが・・・。

 私にとっては,そういう本の出版自体が,「悪い知らせ」なのです。

 それで採算がとれるかどうかは知りませんが,採算がとれることをねらってのこと(当然か?)だったら,なおさら「悪い知らせ」です。

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「補助学習費」利用のコーディネーター登場!?

 コーディネーターっていう仕事はウィキペディアでは23種類も紹介されていましたね。

 将来有望なのは,「補助学習費」利用のコーディネーター?・・・なんてものは存在しませんけれど。

 文科省が,年収400万円未満の家庭でも,公立中に通っている子ども1人当たりに17万7千円(すべての家庭の平均は22万9千円)かけている,なんて結果を発表したら,お金をかけていない保護者のうち,学力に不安をおぼえている方の中には,早速,塾にしようか,通信添削にしようか,などと悩み始めるでしょうね。

 教育産業の側の勧誘行動にも,気合が入ってくるでしょう。

 では,費用対効果が最も高い「補助学習費」の使いみちは,どうやったらわかるのでしょう。

 とりあえず,何かをやらせてみる?

 教員をしていると,・・・・うちの子は,塾に通わせた方がよいでしょうか?・・・・・

 なんていう質問をされることがよくあります。

 私の答えは,「そんな暇が子どもにあるのですか?」でした。

 もし,暇があるのだとしたら,本人が希望すればなんでもいいでしょう。

 でも,部活動の時間,読書の時間,学校での学習の復習の時間,趣味の時間などで,子どもの予定はうまってしまうのではないですか?

 ・・・・なんていう自分は,夜10時から夜中までの家庭教師をやっていたのですが,こっちの体がもたなくなりました。

 結局,自分で机に向かう習慣がつくれない子どもの場合には,「強制」が必要だという認識が親にはありますよね。

 「景品」でつっても,やがて提出しなくなる「通信添削」を知っている親は,やはり塾に通わせるのが一番「安心」なのかもしれません。 

 教育ブログの中には,「宣伝」になってしまっているものがありますので,判断は容易ではないかもしれませんが,「こうして成功した」という親の体験談など,参考になるかもしれません。

 しかし,親として本当に納得して決めるためには,まず「学校ではどんな教育をしているのか」をとことん知ることが大切でしょう。

 地域の塾の中には,特定の教師の「過去問」をしっかりストックしておいて,ちゃっかり売ってもうけてしまう,という著作権法違反の業者があるかもしれませんが,これをねらって通わせるなんて,あまりにも情けない。

 こういう教師のタイプなら,こういう家庭学習,予備の教材が役に立つ,なんていう情報を専門に扱う「コーディネーター」は現れないでしょうか。

 結局,その人が自分の塾の優位性を強調する,ということでもかまわないような気がしています。

 dolceさんは「暗記」と「本当の思考」を完全に二分して学力をとらえてしまっていますが,そんな簡単なものではないでしょう。

 「話し合い」は子どもも楽しいし,時間がたつのはあっという間ですけれど,これは雑談と似たようなもので,結局,後には何も残らない,ということがたくさんある。だから,日本ではきちんとしたカリキュラムが登場したのですね。

 優秀な子どもは,一斉授業の中でも頭を高速回転させて,いろんなシミュレーションをして「対話」しているんですよね。しっかり聞いて,考えているから,質の高い「疑問」が生まれ,「何がわからないか」がわかるようになってくる。

 それを「一人も置き去りにしない」などという発想で教育をすると,大勢の子どもが「置き去りにされる」結果になる。ちょっと想像すれば,わかるようなものです。

 小学校時代に,質の高い教育を受けると,これは一生の財産になりますね。

 お金がいくらでも自由に使えるのなら,スーパーで安い商品を探して苦労することより,高級専門店をゆっくりまわりながらたくさん買い物をする方を選びますよね。

 そういう高級店を案内してくれる人がいたら,夢のような話です。

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塾代をもとにした,ヘンな計算結果

 文部科学省が2010年度「子どもの学習費調査」(・・・・どんなふうに実施した調査?)の結果を発表。

 それによると,公立中に子どもを通わせている家庭のうち,年収400万円未満のところでも,1人当たり17万7000円の「補助学習費」(塾や家庭教師,通信添削,参考書購入など)をかけているとのこと。

 この費用は,たとえば全校生徒が600人の学校だと,総額1億620万円。

 このお金を,もし学校に支払っていただくとすると,若い教師なら十数人,雇えることになります。

 30人の教師が,40人以上に増える・・・・。

 学校が集めている教材費もけっこうばかになりませんが,1人につき毎月1万円,「授業料」をはらってくれるだけで,先生は増やせるのですけどね・・・。

 公立学校の教師が,信頼されていれば,教育改革は何でもできそうなのに・・・・もったいないことです。

 ・・・まあ,落ち着いて考えれば,「数ではない」ことは明らかで,「質」が高いところにお金は流れていくものなのですね。

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自分が成長した通りに子どもを成長させるのは無理

 そもそも,自分自身がきちんと成長しているのかどうか,あやしいところ。

 子どもの可能性を信じる大人は,その「信じる」という心の持ち方だけで,子どもを成長させることができる・・・子どもの可能性を信じない大人は,こういう考え方には否定的でしょうね。

 でも,そういう大人は,なかなか子どもの成長をみとることができない。

 「自己教育力」なるものの存在を否定している教師は少なくありません。

 全部,教師が教えないと子どもは成長しないと考えている人がいる。

 こういう教師の姿勢だからだめなんだ,というのが科学で証明される時代になっても,かつてご自分が教師たちに服従してきたことの価値を失われないために,それを子どもに押しつけ続ける。

 これは,指導力のない教師にとって,最後の「自分の存在証明」であるのです。
 
 自分はこうして,ここまで来た。
 
 君たちも,私と同じようにしていれば,ここまで来れる・・・

 違うのですね。

 ご自分の発達パターンと未来を生きる子どもの発達パターンを同じにしてはいけません。

 昔,「不易と流行」の言葉の意味をご存じなかった教育ブロガーがいました。

 伝統産業に生きる人たちも,「流行」を大事にしています・・・という話も,おそらく伝わらない人たち。

 時代の変化にきちんと対応できる力があるから,「伝統」になった・・・ということが信じられない人たち。

 「不易と流行」の意味がわかっていない教師は,単純に「昔やって成功した」ことに固執し,そしてそれが通用しなくなったら子どものせいにし,自分の指導力はいっさい振り返ることがない

 こういう教師に目を覚まさせる方法はないのでしょうか。

 気持ち,姿勢次第なのですけれどね。

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指導力のない教師が子どもに「服従」を強いるとき

 教育ブロガーの中で,dolceさんと正反対の位置にいるのが,madographosさん。

 共通点は,私からのコメントの書き込みが禁止になっていることです。
 
 あと,過去のコメントのやりとりを消去していないところですね。
 
 どういう考えをもっている人か,私が精一杯引き出した跡がご両人ともに残っている。

 さて,今の教育現場に足りないのが,「服従力」である,というmadographosさんの記事は,何とも大胆は御提言ですね。

 反発を想定された上での記事なので,ここでは遠慮なく反発させていただくことにします。

 子どもの「服従する力が足りない」。

 このように,教師が自らの責任を果たせなくなると,「言うことを聞かない子どもが悪い」という発想になっていく。

 この方には何度も申し上げたのですが,dolceさん同様,「だから公立学校が信頼されなくなる」というお話が理解されない。

 こういう記事があると,普通の人の発想は,

 「そもそも教師自身の辞書に服従という文字はないだろう」

 というものでしょう。

 教師たちには,教育の法令に服する,という自覚があまりない,というか,そういう意識がない。
 
 学校教育法に示された義務教育の目標がいくつあるか,答えられる教師は少ないだろうと言いましたが,そういう規定があること自体,ご存じない人がいるかもしれません。
 
 自分は上に服従しない人間が,下には服従を強いる
 
 これが現在の学校現場が信用されない最大の原因の一つです。

 こういう現状のもと,一番きついかもしれないのは,「私立学校」という選択肢が少ない小学校現場です。

 中学校,高校になれば,公立学校をあてにしない人は,私立学校に子どもを通わせられますが,小学校ではなかなかできない。

 dolceさんはご自分の実践を詳しく述べるタイプの方ですが,madographosさんは,そこが不明瞭な不思議な方です。

 記事の内容からは,小学校の教師に典型的な言葉が数多く示されているのですが,ご本人は否定されました。

 さて,服従力がない,という教師の嘆きは,そのまま「指導力がない」ことのあかしであることは置いておき,どうして子どもに責任を負わせる発想になるのかというと,一番大きな理由は,子どもの可能性を信じていない,というのが根本にあるのですね。

 このあたりは,次の記事の内容とします。

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「教育のプロです」と言える,気概のある人が増えてほしい

 それが主婦であろうと,学習塾の講師であろうと,「教育のプロです」と言える気持ちが大事ですね。

 what型思考のdolceさんは否定される記事をわざわざ書いていらっしゃいますが。

 dolceさんの論法だと,教師も「教育のプロ」ではないのですよね。

 教師が職業としているのは,学校教育です。

 ですから,「学校教育のプロ」とは言えても,「教育のプロ」とは言えない?

 小学校の教師の場合は,「全科」なので,教科指導については「プロ」ではない?
 
 社会科とか,理科の免許があるわけではないから?

 教科の専門家は音楽専科くらいですか。(ただ,音楽専科の人が「プロ」としての仕事をしてくれているかというと,そういう記事を最近読みましたが,あやしい人がいるのは確か)

 自信のない人には難しいかもしれませんけど,やはり小学校の教師にも,教科指導は「プロ」としてやっている,という自覚はもっていてほしいものです。

 dolceさんは「自分から言うべき言葉ではない」とおっしゃっていますが,「自覚をもって仕事をしてもらう」という意味では,非常に重要なことだと考えています。

 学校の教師にとって,非常に痛いところは,自分が「教育のプロ」と呼んでもらえるような仕事が学校現場でできていないことですよね。

 だから,そういう現状のもとで「私は教育のプロです」と自分から言うことは難しいのはわかります。

 ただ,「プロとしての自覚をもって教育している」という姿勢だけは見せてほしい。

 dolceさんは,「学力」をめぐる記事から完全に逃げましたね。
 知識の乏しさが記事の端々から見えてしまうから仕方ないのですが,こういう姿勢だけは,学んでほしくない。

>自分の力を自負するなら、NHKで放送していた塚原卜伝のように他流試合をしてみるべきでしょう。
>実際の学校に赴いて、模範授業をして、やって見せることです。

 とおっしゃっていますが,そういう授業が今,実現していることをご存知でしょうか。

 学習指導においては,「塾の講師の方がプロらしい」と言われても,おかしくない現状を直視できない人は,what型思考=思考停止状態に陥るのです。

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教育は軽く見られている

 日本では,教育は軽く見られています。

 たとえば,議員にとって。

 教育では票は集まりません(組織票がある政党や,公立学校のだらしなさをPRして票が稼げる人は別として)。

 たとえば,政府にとって。

 教育予算を大幅に増やすことは,ほとんど望み薄ですね。

 子どもの数もどんどん減っているので,「これから多くの予算が必要になってくるおそれ」はない。

 団塊の世代の教師が退職すれば,人件費も,ぐっと下がってくる。

 政府が教育を軽く見ている現状は,ある意味では,よいことかもしれません。

 もし教育を重く見ようとすると,まず標的になるのは教師の質ですからね。

 教育公務員の質が悪化しすぎて,国民のほとんどが「公教育不信に陥っている」というところまではいっていないうちは,国が教育改革に本腰を入れることはないでしょう。

 幸いなことに,日本では,教育産業が育っています。

 子どもへの携帯電話の普及率と,塾などに通っている子どもの割合は,どっちが高いでしょう。

 子どもの総数は減っていきますが,まだ成長への期待がもてる分野が教育産業ではないでしょうか。

 競争原理がはたらいているのもいいですね。

 教育を重く見ているのは,もしかしたらこういう産業に携わる人と,利用している人だけかもしれません。

 親は,教育を重く見ているでしょうか。

 「学校にまかせっきり」の人は少なくないでしょう。

 学校の教師が困っているのは,家庭で教育すべきことも含めて「学校にまかせっきり」になっている現状ですね。

 最後に,教師自身は教育を重く見ているでしょうか。

 dolceさんは,「学校教育で定められている目標に,きれいごとなんて全く存在しません」と勢いよく書いていますが,学校教育法の第21条に掲げられている目標がいくつあるか,そしてそれがどんな内容か,すぐに答えられる教育公務員は何%くらいいますかね。

 遵法意識より以前の問題として,法の内容を知っているのでしょうか。

 そして,教師は,教育の目標を本当に意識して仕事をしているのでしょうか。 

 単なる「きれいごと」と批判されないように,「目標がこれだけ達成できている」と学校はPRできているでしょうか。

 もしそれができていないのであれば,少なくとも公立の学校教育は軽く見られている,という批判は「お前がやってみろ」という言い方では決してかわせないことに気づくべきでしょうね。

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1対1でモノが言えない教師に「学び合い」の指導はできない

 学校評価で,とりわけ,最も効率の悪い「年度末評価」で,初めて管理職に対して重要な投げかけをする教師がいます。

 「ここぞ」とばかりの投げかけです。

 昔は,職員会議でそれができました。

 今は,それができるのは「学校評価」だけになりました。

 「だけ」と言いましたが,それは学校内で最も「無責任」かつ「仕事の仕方を知らない」教師に限った話です。

 目の前に救われるべき子どもがいるのを放置して,何ヶ月か後に,「あのときだれだれはなぜ何何をしなかったのか」などと言っても意味はありません。

 同じようなことを「無責任」かつ「仕事の仕方を知らない」教師たちはやっているのです。

 多くの自治体で「職務面接」が行われていると思いますが,やはり,4月,7月,12月,2~3月の4回は少なくとも必要です(時期については異論があるかもしれませんが)。

 そこで1対1になったときには,何も言えない教師がいる。

 「集団の力」で管理職に対抗できるのが昔の職員会議でした。

 管理職に面と向かって,自分の考えを述べ,納得させる,そういう努力はいつでもできるはずなのです。

 ここでの「自分の考え」とは,校長に言っても何も始まらないようなことは含まれません。

 新しい学習指導要領の趣旨に反対だ,なんていうことを校長に言っても始まりません。

 職務命令ひとつで終わりです。

 教育課程届けに書かれた目標なり指導の重点をしっかり見つめたとき,個人としては何をどこまで実現することができているのか。それを阻んでいる要因は何か。多くの角度からの検証が欠かせません。

 分掌,学年,教科という集団で,しっかり話し合うことです。

 その話し合いで登場した着眼点,小さな話題,ひっかかり,こういうことが,学校改善の突破口になるような,解決の糸口になるものが隠れているのです。

 これを見いだし,校長や副校長に届けることができるか,どうかです。

 経営のことだけを考えていられるのは,管理職だけです。
 
 経営の改善に役立つ情報をもっているのは,本当は分掌や学年,教科という組織なのです。

 校長の側も,もっと教師からの情報収集につとめてもらってもよいでしょう。

 授業観察など,自分の目で見るものの価値はもちろん高いでしょうが,効率が悪い。

 組織を生かせば,それだけで学校評価で「堂々と公表できることがら」が次々に生まれてくるでしょう。

 こういう組織的な動きができない教師が,子どもに「学び合い」を勧めていることがナンセンスなのです。


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子どもが最も求めているのは教師との学び合い

 子どもたちが教室で学び合い,支え合う。

 教師がやさしく見守っている。

 このような陳腐なコメントが寄せられる茶番を何度か目にしたことがあります。

 子どもたちにとって決定的に足りないのは,優れた教師であり,優れた教材です。

 では,優れた教師と優れた教材,どちらかしか選べなかったら,どうするか。

 もし,優れた教材さえ手に入ればそれでよいのなら,優れた教師がつくった優れた教材をだれもがつかえばよいのです。

 優れた教師の実践記録を読めば,どんな教師でもよい授業ができるのか。

 そんなことはありません。

 優れた教材を活かすも殺すも,教師次第です。

 優れた教材にするのは,優れた教師です。

 優れた教材は,授業の中でも生産されていきます。


 子どもたちが話し合い活動をしています。

 優れた教師は,その話し合いの中で生まれた「優れた教材」を聞き逃すことなく,

 全員に「話し合い」をやめさせ,一斉にその「優れた教材」へと注意を向けさせ,「指導」を始めるのです。

 「指導」を受けたことがない,あるいは,「指導」の成果を信じていない,「指導」の意味を感じない子どもたちは,話し合いをやめることはないでしょう。

 話し合っている,という「状況」こそが楽しいのであって,先生の質問に真剣に頭をひねるなんて,意味はない,そういう子どもたちがときどき中学校に上がってきます。

 「優れた指導」への期待を知らない子どもたちは,何とも哀れです。


 「優れた教材」は,子どもたちが次々に生産してくれます。

 これを上手に活用してくれるのは,優れた児童にでも無理です。

 教材を活用するのは教師の仕事なのです。

 子どもは,何のために子ども同士の学び合いをするのか。

 それは,教師との学び合いのための材料を生み出すためにするのです。

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アンケートによって「いじめ」が増加?

 いじめが4年ぶりに増加したと文部科学省が発表したそうですが,その理由が,

 「いじめが起きていないかどうかのアンケートを実施した学校が2割増えたから」???

 ということは,これまでもアンケートをとっていさえすれば,いじめはたくさんあったはず,と考えることもできますね。

 いじめは,その数が多い少ないでどうこうというものではないことは,現場の教師が一番よく分かっていることです。

 100個くらいある,「どうでもいい」いじめと,1つくらいしかない,「何とかしなければならない」いじめが同列に扱われるのはおかしいことです。

 そして,こういう「1つ」に限って,実は数字には上がっていないことが多いのです。

 学校が調査の数字で出しやすい「いじめの数」は,「上手に指導してなくなったと言えるもの」の数です。

 教師が指導して簡単になくなるようないじめは,実は根っこの部分で質の悪いいじめを育む結果になっている場合がある。そして,それは見えないいじめになる。

 子どもたちが,どうして子どもたちを「いじめ」なければならないのか。

 その答えは,小学校時代から積み重ねられた「先生が望む児童・生徒のふり」の「金属疲労」にあります。

 地域によっては,家庭でも,「親が望む子どものふり」で疲れている子どももいるでしょう。

 水は低いところに流れるもの。

 精神が疲れた先に見えるのは,自分より「弱いもの」,「弱そうなもの」で,そういう相手をいじめることで,とりあえず,自らの精神の安定を図る。

 しかし,結局,「してはならないはずのこと」をわかってやっていることがわかるようになり,ますます金属への亀裂が深いものになっていく。

 「いじめられている子どもだけでなく,いじめている子どもの方も深く傷ついていく」というのはそういう意味です。

 「学び合い」によってストレスをためていく子どもたちの逃げ場が,「いじめ」になっている事例に早く気づくことを願っています。

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内田樹が勧めている生存戦略

 私(教師)からの権力的,抑圧的な攻撃からの被害を最小化するためには,「熱心に授業を聞いている恭順な学生」のふりをすることこそ,諸君にとってベストの生存戦略なのである。

 権力を持つ人間の前には決して「素顔」をさらさない。これは弱い立場にある人間の自己防衛の基本である。

 だれの言葉ですか?

 と思われるかも知れませんが,これは内田樹『期間限定の思想』角川文庫の「なぜ教室で私語をしてはいけないのか」の核心的部分です。

 以下の「原則」にあてはまるのが,大学生だけとは限らないことは,他の文章などから類推することができます。

 教室における教師と学生の関係は,非対称的な関係である。
 教師が一方的にしゃべり,学生は黙ってその話を聞く,というのが基本の構図である。

 
 小学校の教師なら,そんなことは不可能だ,というでしょう。不可能だ,というより,不健全だと。

 ただ,こういう教育観を持っている内田樹を好むタイプの教師は少なくないと思われます。その理由も,だいたい想像がつきます。

 私の今日の話は,内田樹の言っていることが正しいとか誤っているとかいうことではなくて,小学校の児童は,みんなこれを無意識に実践しているのだろう,ということです。

 「熱心に授業に取り組むふりをする」こと。これが,児童たちにとって,最善の生存戦略です。

 「いい評価ねらい」の児童も,同じことをします。

 私が小学校の授業を参観をするとき,注意深く見ていたのは,授業の始まる前と後の数分間の児童の変化です。

 「きりかえ」を子どもたちはどのようにしているのかを観察していました。

 あるクラスでは,役者が「役に入る」かのような変化を見せてくれました。

 こうやって,「営業スマイル」は訓練されていくのか,と実感したのです。

 もちろん,中には「熱心に授業に取り組むふり」ができない子どももいます。

 しかし,その子は,「自分らしく」生きているのです。

 児童の「自分らしさ」はいつ,どのような場で発揮されるのか,マジメに研究したことがある人はいるかどうか分かりませんが,私の場合は「元児童」にいつでも聞けるので,「本音」が非常に言いにくかった「小学校時代」のつらさに共感することができました。

 確かに,子どもが言いたいことをみんな言うようになったら,小学校の教師は厳しいでしょうね。それを分かっている子どもは,言いたいことを言わずにがまんする。

 もっと「やさしい」児童は,「言いたいことがあると思わせない」ように努力する。

 たった一人の権力者にほとんどすべての時間が握られている小学校というところは,人間にとって大切な何かを失わせていく場所のような気がしてぞっとしました。
 
 こういうのは,「妄想」であってほしいですね。

 でも,小学校時代に「学校を休めなかった」子どもが,中学校に入ると「休めるようになる」理由がわかったような気になる方は少なくないのではないでしょうか。

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ドイツにおける「私立ブーム」の行方

 EU唯一の「勝ち組」とよばれるドイツにおける「人材不足」の現状が,日経「地球回覧」で記事になっていました。

 ドイツには,移民流入政策による「ドイツ語を話せない子どもの増加」の問題,
 
 教育制度が各州政府の所管であり,その結果,教育改革も州ごとにまちまちで,学校の種類も10種類以上に増えてしまっているという制度上の問題など,

 日本とは異なる点が教育には多い。

 ただ,公教育が信頼を失い,教育産業が伸びるという現象は同じです。

 ドイツ企業の側からすると,「補習塾か私立教育に金をかけること」で危機から脱することができる・・・とのこと。

 日本と同様,学力問題の引き金は,PISA調査の結果だったそうです。

 「公教育の教師を知っている人は,ある程度,経済的に苦しくても,公教育に子どもは任せていない」と言われてしまうかも知れませんが,今までそういう感覚がなかった人たちも,「生きていくための学力保障」を改革が進まない公教育より私立教育,教育産業を選んでいく傾向にある,という意味では日本と同じでしょう。

 これが単なる「私立ブーム」で終わるのか,それとも「公教育の復権」はあるのか,連邦政府による「介入」はあるのか,日本とは異なる興味で見ていくことになります。

 一つ,参考になるかもしれないのは,「ドイツ語を話せない子どもたち」と,どうやって同じカリキュラムで教育していくのか,ということ。

 日本でも,大泉町のようなところがあります。

 日本が将来,移民流入政策をとるとしたら,第一候補は南米日系人でしょう。大泉町の教育が徐々に注目されてくるかもしれません。

 教育改革について,学力向上をテーマにすると,「協調性」とか「思いやり」とか,心のテーマにすりかえて,自分が経験したこともないのに,現在の「教育産業」の優位性の話から逃避する人がいます。

 現場の教師の中にもそういうタイプの人がいて,実はその本人こそが「協調性」のない張本人だったりする。

 「思いやり」という名目のもと,子どもにやりたい放題やられている教師たちにそっぽを向いてしまっているのは,自分が「やさしく」しているはずの子どもたちであることに気づけない人たち。
 
 いつまでたっても英語が使えるようにならない日本の大学生にそっぽを向き,留学生の獲得に邁進しようとする企業。

 公教育は,施設はいいのに人材がいない,人材を育てられない,そう言われてだまっていられない人のうち,「成果で見返す」気概がある人を増やすことが,公教育の現場には必要なことです。

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「上から目線」を口にする人にとっての「やさしさ」が人を滅ぼす

 「上から目線だ」と相手を非難する人間が失うものは,正しい自己理解のための情報です。

 人間は,人の目に自分がどう映るかを知ることで自己認識ができるようになるという面がある。

 本音の言葉をぶつけられないと,自己認識ができない人が多いのはわかりやすい話。

 しかし,そのチャンスが失われる時代になってきました。

 自己認識に必要な情報が入ってこない,「情報難民」になっているのは,「上から目線」という言葉を使う人たちです。

 今の社会では,相手のための「本音の言葉」を拒絶する「空気」が蔓延するようになってきました。
 
 自己認識を拒絶する人間が増えてきたことが,最大の原因かもしれません。

 自己認識を拒絶する人間にとっての「やさしさ」とは,本音を言わないこと,伝えられないことです。

 内田樹などが言うように,日本の「ニート」たちは,「正しい自己認識」ができないがゆえに,現状に対して不満を抱かずに生活している。

 もし,こういう人たちが「正しい自己認識」をするようになったら,政府は今よりもっと厳しい立場に追い込まれるだろう,という予測があります。

 本当の「やさしさ」とは何か。

 目先のことばかり気にする人にとってのやさしさは,不幸の先延ばしにすぎません

 もし教師だったら,「先生はとても厳しく,そしてやさしい人だ」というコメントを生徒からもらったことがあるかどうか。

 教師になろうとする人たちは,自分にとっての「やさしさ」とは何か,子どもにとっての「やさしさ」とは何かを考えてみるべきでしょう。

 同情していればすむ時代は終わったのです。

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「上から目線」を口にする人が,実は人を見下している

 「上から目線に気をつけようと思う」という言葉は,何ともやりきれない思いのするものですね。

 「自分は上位にいる」というのが前提になっているのが,哀しいところです。

榎本博明著「『上から目線』の構造」(日本経済新聞出版社)では,上司からの正当な指摘に対して「上から目線だ」と悪態をつく人間の心理構造を解明してくれています。

 dolceさんは昔から,本の内容に全く関係ない話なのに,タイトルだけを利用するためにブログで紹介する癖がありますが,ご自分がなぜ今のような状況になっているのか,そのような記事を書くのかが,この本を実際に読むと分かりますよ。

 コミュニケーション能力の欠如は,学校現場だけでなく,ビジネスの現場でも深刻のようです。

 相手の言い方が気に入らない,といって自分の落ち度は全く関係なく逆ぎれする人間,文句言うなら自分がやってみろ,という人間は昔からいましたが,こういうのを父性社会への嫌悪,母性に対する飢え,母性が強化されている社会の現実と結びつけて考える人は多いでしょう。

 学校現場で困った状況は,

 教師たちが指導しようとすると,生徒から

 「上から目線で偉そうに言うな」と反発されていやなので,指導できなくなっている。

 同じ図式で,

 校長が指導しようとすると,教員から

 「上から目線で偉そうに言うな」と反発されて疲れるので,指導できなくなっている。

 こういうことが起こっていることです。

 繰り返し引用して恐縮ですが,部活動に遅刻してきた生徒に

 「こんな早い時間には来られない」と逆ギレされた教師が,

 「じゃ何時なら来れるのだ」と聞き,時間を守っている生徒も一緒に話し合わせ,
 
 開始時間を遅らせる,そんな指導になってしまう場合もある。

 時間通りにきちんと出席できる部員は,無責任な部員とその部員に嫌われたくない
  
 教師によって,迷惑をこうむる例の一つです。

 企業でも,この教師のような「部下のご機嫌伺い」をするような上司が増えているようです。

 「上から目線」という言葉を発する側には,これを「言われた側が心に傷を負うだろうこと」を見越してやっている,という見方も鋭いもので,「自分は絶対に批判されない側にまわる」ための手段として使うのだ,ということです。

 「上から目線」を口にするときは,相手が親切で言ってくれた,誤りを正してくれた,という解釈よりも,相手が自分より優位に立ってものを言っているという解釈に重きを置いているのです。絶対に感謝の気持ちなどわくわけもないし,とにかく「バカにするな」という気持ちが前面に出てしまう。

 ですからdolceさんが指導要録の書き方を知らなかったことを指摘しても,「自分は間違っていない」という態度をくずさないのです。

 「上から目線」という言葉を口にするタイプの人は,そもそも「上位・下位」,「優位・劣位」といった図式でものごとを見ようとするのです。

 学校が上位で,塾は下位,なんていうのは,こういう人にとっては「絶対に譲れない」図式でしょう。

 Aだけでなく,Bでも,それなりに,という発想がないのです。

 ちょっとでも,「自分に落ち度があったな」という意識があれば,すぐに「上から目線でむかつく」なんていう反応はしないはずです。

 指導要録の正しい書き方など,自らの誤りを認めないままでいるので,見下され不安が余計に強まり,親切な態度でも見下ろす態度に映ってしまう。

 人より優位に立ちたいという思いが強いのに,現実にはなかなか優位に立てない自信のない人物が,相手の上から目線を過度に気にする。(27頁)

 できている人というのは,そもそも「上から目線」をしないというより,そもそもそんな「目線」などは感じないですむのです。

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孤独と孤立に耐えられない校長

 学校の規模が公立高校のように大きくなると,校長の振るまい方はそう簡単ではなくなります。

 大企業の社長ほどではないにしろ,教員から校長までの距離は小中学校に比べると格段に遠くなるのでしょう。それだけ,校長がどのように教員を生かせるか,が勝負となります。

 私がこの目で見た都立高校の校長の一人は,講師を招いての講演会の途中,床に寝そべっている生徒を一人ずつ立たせていました。教員は大勢いましたが,何もしていませんでした。

 このような行為は,当時は「なかなかできないことだ」と好感を抱いていましたが,今は「やるべきではなかった」というのが正直なところです。

 「うちの教員は信用していない。頼りにならない。」というメッセージを生徒に伝えることになってしまっているからです。

 校長の仕事とは何か。

 校長が育てなければならないのはだれか。

 確かに,毎朝,校門に立って生徒の名前を呼び,声をかける,そういう校長はすばらしいと思われるでしょうが,これによって「朝の打ち合わせ」という簡単な会議には支障が生まれます。

 まさか,朝,「言うことを聞いてくれない主任たち」や「ものわかりの悪い副校長」と顔を合わせるのが嫌だから,校門に立つ,という人はいないでしょうが,この朝の時間というのは,組織にとっては非常に大事な時間なのです。

 学校内で孤立傾向が強い人が,校門に立っている,という明確なデータはないでしょうが,「大人から離れていたくなる心理」はご理解いただけるでしょうね。

 リーダーは多くの場合,孤独であって,孤立を免れない場面もあります。

 リーダーとしての優先順位をどこにおくかは,難しい問題かもしれませんが,孤独から避けたい,というのが自分の行動原理であってはいけません。

 ほとんどの教員たちが「生徒思い」と見られず,溝が深くなってしまっている学校にとっては,もしかしたら校長と生徒の接点が必要な場面があるかもしれません。

 ただ,校長と生徒は授業で接点をもつことはできませんが,朝礼や行事などでのスピーチで心をつかむことはできます。

 「つまらない話だけど,毎朝,挨拶してくれているから聞いてあげよう」という反応のされ方ではなく,「今日はどんなおもしろい話を聞かせてくれるか」という期待を持たせる校長であるべきでしょう。

 また,校長は,生徒の活動をほめるだけでなく,その生徒の活動を支える努力をしてきた教員を生徒の前でそれとなくほめることも求められます。

 校長は生徒だけではなく,先生方のこともよく見ていて,それぞれの良さを知っている,あるいは課題も理解している,そういう「トップ」らしさをアピールすることができる立場です。あくまでも,「人のいい年とった人」ではなく,「組織の代表者」としての顔を失ってはならないのです。

 「出張でいつも学校にはいない人」

 「たまに庭いじりをしている人」

 という印象ではなく,

 「この学校のリーダー」

 「先生方の力を十二分に発揮させられる人」

 としての校長像は,なかなか定着しにくいものなのかもしれませんが。

 中には,教員が教育委員会の決定に対して「それはおかしいのではないか」

 と言ってきたときに,「私もそう思う」と答えてしまうような校長がいます。

 教員に自分の言うことを聞かせたいと思っている校長がはまってしまう落とし穴ですね。

 自分の個人的な思いつきをすぐに口に出してしまう人がいるのです。

 その一言の重みを全く気にすることなく。

 孤独と孤立に耐えられない人間は,異なる考えの相手ごとに,すぐに同意をしてしまう

 トップがこういうタイプの人間だと,組織はすぐに壊れてしまう

  三国志に登場する袁紹のような人間です。

 カウンセラーが校長になる,というのは,学校では最もブラックな冗談でしょう。

 カウンセラーを専門の相手にするカウンセラーがいれば別の話ですが。

 「あの団体」の教員にとっても,本当に怖いのは「孤独」なのでしょう。だから,常に団体行動を強要する。

 孤独から逃げたがる人は,トップには向いていないでしょう。

 勇気ある孤立,という態度を最も堂々ととっていたのは,講演会で寝そべっていた生徒だったのかもしれません。

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指導力不足の校長 ~職員会議の前の会議が勝負どころ~

 一昔前に教職についたばかりの人は,「職員会議のときだけ立派そうな人」を見たことがあると思います。

 「反対」「反対」で議事が進まないことが多く,結局,現行のような位置づけになったのは,「会議など早く終わらせたい」と思う教師にとっては大歓迎でした。

 もしかしたら,今も「伝統的な職員会議」を行っている学校・・・・というより,そこでだけはりきる教員がどこかにいるかもしれませんが,そういう教員がなぜ「仕事ができない人」なのか,簡単にまとめておきたいと思います。

 まず,学校には分掌なり学年なりの組織があり,いくら「鍋蓋式」とはいっても,一応,主任や主幹という立場の教員がいて,こういう人は職員会議の前に,管理職と一緒に学校運営のための会議をもっているのが普通です。

 ですから,職員会議の議題は実質上,ここで決まるわけで,基本的には先生方に伝わるときは,各分掌,学年からの提案をもとにほぼ9割方,決定しているものと言えます。

 もめそうな議案については,管理職はあらかじめ主任等に伝えておいて,一応の了承をとっておく,というのが会議を滞りなく進めるコツです。

 もし,反対の意見をもっている教員がいるとしたら,すでにその意見は分掌や学年でよく話し合われているはずで,その経緯は管理職には事前に伝えられるため,対応もすぐなされるはずなのです。

 都立高校で,「挙手で採決をすることができない」とされたのは,すでに各組織で了承済みのことを,分掌等では発言しなかった教員がいきなり反対を言い出して採決を迫る,という「無駄な時間」を防止し,スムーズに学校運営を進めるための約束事です。

 ですから,どうしても反対したいことがあれば,分掌や学年の意見としてとりまとめて,別案を検討してもらえるように働きかけることが,そもそも職員会議の前にやっておくべきことなのです。

 「仕事ができない人」というのは,小さい会議でダメだったことを大きな会議で実現しようとする。実現できるわけがありません。

 「立案」段階でつまづいている人なのです。

 テレビの報道では,学校のそういう「組織的な動き」のことにいっさいふれないので,いかにも教育委員会や校長が「強権的」にふるまっているかのような印象を残しますが,学校には「職員会議しかない」わけではないのです。

 たとえば,NHKの討論番組を想像していただければよいのですが,あそこでは各自,話せる時間がかなり限られてきますよね。発言したくても,ほとんどあてられない人がいる。一言,言えればいい方,ということになる。

 十数人くらいしか教員がいない小規模校などは別として,都立高校のような規模になると,そういうイメージになる。

 そこで,ある教員が持論をぶちまけて,その方向性を強く要望し,校長に採決を要求する,なんてことを討論番組でやられたらどうですか。

 まず,時間内に終わることができないのは当然として,「なんであなたばかりそんなに話すのだ」という目で見られることになる。

 「もっと前から言っておけ」ということです。

 もっと前から,主任と議論するなり,管理職に別案を提示するなり,仕事をしておけということです。

 なぜ「不規則発言」が「妨害行動」にあたるのか,会議というものの性格をお分かりの方なら,理解していただけるでしょうが,一般の方にはまだお分かりいただけないかもしれません。

 工場で,製品を製造し,これから出荷しよう,というときに,「私が売りたかったのはこんなものではないので,別の商品をつくりましょう」と言っているような従業員,というイメージではいかがでしょうか。

 学校で言えば,その従業員には,製品の企画から参加する権利があったのです。

 製造の段階でも,意見を言う権利があったのです。

 それを,出荷の段階になって,「こんな商品いやだ」と言う。

 裁判で負けた元都立高校の校長は,こういう教員がいてよい,というスタンスでした。

 会議でも寝ている人は多いでしょうから,積極的に参加しようとする教員を評価したい気持ちは分かりますが,やはり組織で仕事をすることを教えるのが管理職だとしたら,この校長は,生徒や親に気に入られる教員レベルで精一杯だったということで,管理職失格だったというのが私の解釈です。

 テレビでは,校長が生徒と一緒に活動している場面がよく映っていましたが,それは一般の教員でもできるのです。校長は,そういう態度を,一般の教員に対してしなければいけなかった。そして,校長独自の判断で,分掌などとは別の「提案機関」をつくってあげればよかったのです。

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ネガティブに考え,ポジティブにオリジナルをつくる仕事術

 藤田晋の語るサイバーエージェントの行動規範の一つに,「ネガティブに考え,ポジティブに生む」というのがあるそうです。

 新しい企画には「勢い」が大事です。しかし,ポジティブに考えながら「舞い上がっている状況」になっては,大きな失敗を生むかも知れない。

 ダメ出しは,「本当に顧客のためになっているのか」を考え抜いた上での判断だそうです。

 教師の場合も,指導案にしろ,テスト問題づくりにしろ,ポジティブに考えるのは禁物です。

 「これで,できるに違いない」という発想は,とにかく捨て去るべきです。

 「こういう法則がある。これでできるはずだ」などとは思わないことです。

 「この問題で,今の実力をおおむねはかることは可能だろうか」と常に問うべきです。

 「どうしてそんなに後ろ向きに考えるのか」と言われるほど,「ダメなケース」を想定することで,たいてい,指導案には「幅」と「奥行き」が生まれてきます。

 教師が「ポジティブに動き回れる広い空間」を手に入れることができるのです。

 教育実習では,その「幅」の広さと「奥行き」の深さを実感してもらうのがねらいです。

 授業づくりをとことんやった,という自覚を持てることが,教師になる以前の段階では非常に大事です。

 ここを通り過ぎないと,だれかが「いい方法」などと呼んだものにすぐ飛びつくような安易な教師になってしまう。

 教師が「劇的に変わる」きっかけは,「人の本から知った」ではなく,自らの体験に基づいて「分かった」と言える経験にこそあるのです。

 「マネすればいい」という発想は,捨てること。

 オリジナルなものをつくっていこうする=当然,失敗もあり得ますが=ポジティブさこそが,若い教師には求められています。

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内田樹と国旗・国歌

 国旗を前にして,本気で「戦っている」教師を子ども時代に目にしている人はどのくらいいるでしょうか。

 「処分が怖いから嫌々立って,歌っている」と思われる教師たちも気の毒ですが,普段の授業からは考えられないほどの熱心さで「国旗」を引きずり下ろそうとしていた教師たちを見たかつての子どもたちは,どういう思いをもっていたのでしょうか。

 そこまで本気になれることには,やはり何かしらの「意味」を感じていたことでしょう。


 内田樹は「ためらいの倫理学」の「愛国心について」の中で,次のように述べています。

 国家と国民の関係は「ねじれ」ていて当たり前なのである。国歌や国旗に対しては「愛着と反感」を,「誇りと恥」を同時に感じてしまうというのが,近代国家の国民の自然な実感なのである。

 しかし,大部分の国民(生徒)にとっては,国旗を引きずり下ろそうとする教師に反感を覚え,「恥」と感じてしまうのが自然だったことでしょう。

 国家は,その名の下で,数々の偉業を達成したり,愚行をおかしたりしてきたのは確かです。

 一方では,偉業ばかりをことさらに強調した教育を行い,片方は,愚行ばかりを詳しく教える教育を行う。

 いずれにしても,教育は国家から逃げていく国民ではなく,国家を背負っていく国民を育てるのが使命でしょう。

 国家が誤ったことをしようとしたら,ストップをかける国民です。

 教師が誤ったことをしようとしたら,ストップをかける国民です。

 「偉業と愚行の歴史」。両者のバランスを保った「たのもしくもやりきれない」国家観をもった人にとっては,国を「背負っていく」「自分の責任としていく」という自覚を,象徴しての「国旗」「国歌」にこめていく必要があると考えています。

 内田樹は自殺した広島県の高校校長に「どっちつかず」という立場・国家観を守った人,という評価を下しています。

 しかし,組織を動かす人が「どっちつかず」の態度をとり続けた結果が,今の日本だと考えれば,感性としては「どっちつかず」でも,行動で責任を示すことが正しいのではないでしょうか。

 強く要求する側がいて,強く反対する側がいる。そっちの方が私としては将来の活力を感じます。

 相変わらず,頑強に反抗する教師にも,どこかしら,たのもしさを感じます。

 願わくば,その活力を,目の前の子どもの教育にもっていっていただければ・・・。

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思考スタイルの固定化を防ぐ

 思考スタイルは徐々に固定化していく,というのも固定観念かもしれませんが,人には「ものの捉え方,考え方」に異なった傾向がみられることは確かです。
 
 スターンバーグの『思考スタイル』(新曜社)では,たとえば

 一つのことに専念するタイプと,目標の階層をもって優先順位を決め,順番に行うタイプ,

 いくつかのことを同時にやろうとするタイプと思いついたことをするタイプ

 が紹介されています。(それぞれ,単独型・序列型・並列型・任意型と翻訳されています)

 また,比較的広範で抽象的な問題を扱うことを好むタイプと,細かい作業が必要な,
 
 具体的な問題を好むタイプ。(巨視型と微視型)

 一人で行うことを好むタイプと,他の人々と行うのが好きなタイプ。(独立型と協同型)

 何かの行動を起こそうとするときは,それに適したタイプの行動が求められます。

 では,それには適さないタイプの行動はするべきではないかというと,そうでもない。

 人間は,様々な活動を実体験することで,思考や行動のスタイルの優位性を自分なりにつかんでいくものです。

 ですから「こうすればうまくいく」とわかっていることに対して,「近道」としての方法をとることは,「うまくいく」上では非常に効率的なのかも知れませんが,その行動スタイルの優位性を「学んだ」ことにはならないおそれがある。

 そういう意味で,「試行錯誤」が大切であり,試行錯誤を重ねることで,人間は「柔軟性」を身に付けることができるのだと考えられます。

 学校の教師には,「立案型」「順守型」「評価型」では,どのタイプの人が多いでしょうか。

 公務員として,「順守型」というスタイルが求められているのはわかりますが,ただやらされることだけをやり,うまくいかなくて「~が悪い」という「評価」をしていても,何も始まりません。

 だから,学校全体,組織としては,現在,取り組んでいるはずの「教育課程編成」で,どのような「立案」ができるかが試されているわけですし,そこでは同時に今年度の「評価」の結果をふまえたものにしなければいけない。

 どの機能も重要なのですが,「順守型」の教師が,「順守型」の子どもをつくる,という図式は非常に一般的に見られる現象でしょう。

 それが学校教育の機能そのものだ,とせまく限定して仕事をしたい「順守型」の人もいるようですが,やはり創造力のある子どもを未来のためにつくりだしていくためには,どのような「立案」をし,実践していけるかが勝負でしょう。

 来年度の指導計画の立案,これこそが今,勝負のときです。

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記事を2件,削除いたしました

 こちらのブログで著書をとりあげた方から,記事の削除の申請をいただきました。

 メールのチェックをしておらず,気づくのが遅れて申し訳ございません。

 お知らせの内容を検討いたしまして,記事の文言にてご迷惑をおかけいたしましたことをお詫び申し上げますとともに,記事は削除させていただきました。

 当ブログの内容につきましての課題がございましたら,ぜひコメント欄にてお知らせ下さい。

 学校教育の信頼が少しでも回復できますよう,「当たり前のことが当たり前のようにできる」ことの意味を語っていこうと考えております。

 
 

「仕事術」によって創造力が奪われる

 こうすれば仕事はうまくいく,というアドバイスのもとで,「だれでもできる」のは,ルーティンワークです。

 教員の事務処理や学級指導ならまだしも,授業にまでこれを取り入れようとする人間が,小学校には多い。

 「多忙感をなくしたい」

 という意欲ばかりが強くて,「充実した仕事がしたい」「クリエイティブな子どもを育てたい」という気持ちに乏しいと,どうしても「楽をしよう」という低い意識の人間になってしまう。

 藤田晋の「成長論」(日経BP社),「規則やルーティンは発想の敵と考える」では,次のようなことが述べられています。

 日々のルーティンワークも創造的な発想の妨げになることを覚えておきましょう。人間には,目の前にルーティンの仕事があると,その対処を優先する性質があると言います。その都度,「こなした」という充実感や安心感が得られ,仕事をした気になるからです。

 小学校の授業を参観していると,「仕事をした気になっている」教師が目につきます。

 次々にやってくる教科の指導を「こなす」発想の教師には,なかなか「子どもに力をつけさせる」という発想をする余裕はないようです。

 だから,ただ話し合わせてそれをまとめて終わり,という授業が,特に研究授業などで多く見かけられます。

 以前に,特に若い教師は,とにかくいろいろ試行錯誤してみて,そこから得られる自分なりの仕事のやり方を見つけていくことが大事だと書きましたが,何年たってもあっぷあっぷの人には,外から仕事はまわってきませんから,安心してあっぷあっぷしていてくれればよいのです。

 それが,いつの間には目の前の子どものことではなく,「外のこと」の方が忙しくなって,あっぷあっぷし始める教師がいます(実は私もそうでした。でも命令でしたからやむを得ず。それで,行政の世界に入る決心をしたのです)。そういう人は,どれだけ収入が下がろうとも,現場の教師をやめて「ママ」になるか物書きになることをお勧めしたいです。

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「馴れ合い文化」だけが育つ「学び合い」指導

 教育実習生にグループで一つの指導案を作成させた後,私が必ず聞く質問は,

 「みんなでまとめた考えは分かりました。それで,あなたの考えは?

 「馴れ合い文化」に染まった教育実習生が必ず答えるのは,

 「みんなと同じです

 「では,もともとのあなたの考えは?

 「・・・・

 「学び合い」「話し合い」活動の最大の落とし穴は,「自分自身の考えが消し去られること」「徹底して聞き手に回ることが可能なこと」にあるのです。

 最後には,みんなの意見としてまとめなければいけない(一つの指導案にする,というのが,いじわるな設定なのですが)という「信念」は,「馴れ合い文化」に染まった大学生がより強く刷り込まれているものです。

 「馴れ合い」は,単なる「同調」であって,「協調」ではありません。

 「同調性文化」と呼んでもいいでしょう。

 日本人が「協調性」と呼んでいる人間の資質なり能力の実態は,実は「同調性」である場合が多い。

 「ある団体」による「行動」は,常に「一斉・同一行動」を強要します。

 これは,個人の「協調性」に基づく行動ではないのです。

 こういう文化に育った子どもは,「学び合い」「話し合い」活動の中で,どんどん個人としての能力を奪われていきます。

 そもそも同質の集団での「学び合い」の効果が薄いのは,簡単に想像するだけでわかるでしょう。

 「学び合い」とは,もっと異質な集団間でのやりとりを想定すべきなのです。

 しかし,「あの団体」の教師たちは,同調できる子どもがたくさん育った方が,都合がよいのです。

 日本は,文化的にそもそも均質性が高く,「協調性が大事だ」なんて言わなくても,そもそも「協調性豊かな人々」なのです。それを悪い性質の方へと導いているのが,「馴れ合い文化」です。

 はじめの話に戻ります。

 「みんなで決定した指導案はこれだけど,あなたは本当にこれで納得しているの?これがやりたいの?

 と聞きます。

 そこで初めて,「自分なりの言葉」が出てくる教育実習生は,まだ見込みがあります。

 結局,「だれか」が主張したことに「同調」して,そもそも自分の考えなどなかったレベルだったから,決まってほっとしている・・・・そういうレベルの実習生は,私から集中砲火を浴びます。

 「一つの指導案を作れ」という指示だけで,「単純に従うだけの学生」か,「自分の考えを簡単に捨て去らない学生」かが判断できる。

 実習生の側には,「自分の考えをしっかり出さないといけない(時には指導教官と意見が食い違っても)」という自覚を持たせることができます。

 しかし,「単純に従う」実習生のことを,私は気の毒だとは思います。

 小中学校のときに「同調性」を散々たたきこまれた大学生なら。

 「違いを認める」というレベルではなく,「違っているからこそいいのだ」と言えるレベルへ。

 そういう段階に進まないと,日本はそのうち「玉砕」します。

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一貫して偏り続けていたdolceさんの教育観・学力観

 学力の話がいつの間にか部活指導の話になってしまっているdolceさんのブログですが,以前のコメントから,首尾一貫している教育観・学力観であることがよくわかりました。ぶれることのない内容です。

 学力の話題を別の方向へとすり替えざるを得ない事情もよくわかります。

 dolceさんの「教育観」は,非常に分かりやすいです。

 簡単に言えば,「特別活動の大切さ」を重視している,というだけのことで,学力の話題からは逸れざるを得ないのが実態のようです。

 小学校の教師や音楽の教師というのは,やはり「学力」とか「進学」という話になると,常に蚊帳の外にいるような気の毒なところがありますので,無理もないことなのですが,あまりにも学校や塾の実態についての考え方が一面的であることが,ご本人の言葉を読んで納得できました。 

 dolceさんは,どうやら,受験にかかわる教科の指導理念をまるで持っていないことも分かります。

 学力向上のための実践そのものをご存じない

 ましてや「総合的な学習の時間」のように「学び方を学ぶ」なんていう指導となるとお手上げでしょう。

******************

現状の入試はほとんどが点数主義で合格させていますから、効率よく合格に結びつくためには、対策も人間教育に時間をかけるのはムダということで、ひたすら点をとるための訓練と化しているわけです。

学校でも、実験をやっているよりドリルをたくさんやった方が点数が向上するので、実験が少なくなっています。
これでは理科が好きになるわけがないです。

だから、どこかの塾の講師のように「やらないからできないのだ」という単純な考えが出てくるのだと思います。
しかし、人間は機械ではないのですから、やる気が起きなかったらやらないのです。
無味乾燥に、ノルマのようにせっせと問題集やると言うのは、誇張して言えば奴隷のようなものだと思います。
むしろ、そのようなノルマに対して拒否反応を起こす方が人間として自然だと思います。

と言うことは、その無味乾燥に耐えて黙々と課題をこなす子どもが、入試を突破するのだとも言えます。
それは、別な角度から見れば「人間性を阻害する教育を行っている」とも言え、人間性を捨てることができる者が勝者となる構図を作っていると言えます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★

人間性を捨てた人間が国のリーダーシップをとることは、国民を不幸にすることになります。

と言うことで

>知識のおくぶかさ、勉強のおもしろさを生徒と共有したいと考え」、
>教科の豊かな学習体験を創造していくことを目指すとともに、「
>討議したり一緒に生活を作り出す体験」(演劇祭や夏合宿など)
>を取り入れていきます。

こういうことこそ、本来の教育であると言えます。

だから、私の現状に対する意見は、現状の教育体制への皮肉を含めたものであるとも言えます。

*************************

 前半部分で,すでに矛盾があることをお気づきでしょうか。

 自分が否定しているはずのことを,ご自身で肯定してしまっている。

 まず,ドリルの学習が効率的であるといっている。

 これは,最も低レベルの学力観で,学校現場では,こういう教師がいるために,ますます学力が低下するのです。

 基礎的・基本的な知識や技能は,「無味乾燥な活動」では身に付かないのです。

 「無味乾燥な活動」で子どもができた気分になったようなことは,すぐに忘れてしまうのですよ。

 これはすでに平成13年度,15年度の教育課程実施状況調査の段階でわかっていることなのです。

 だから,新学習指導要領では,基礎的・基本的な知識や技能を「習得させる」ことが大事だ,と言っているのです。

 習得させるためには,たとえば繰り返し学習することが大事だ,と言われますが,これを単純に「ドリルを繰り返すことだ」なんて言っているうちは,絶対に子どもの学力は向上しません。

 そんなことは,学習塾の講師ですら分かっています。

 だから,「分かる喜び」「気づく楽しさ」「解ける自信」をうまく引き出して,授業をするのです。

 授業実践に工夫がないところに,「点数を簡単にとらせる」ような結果はついてきません

 ★印の,「人間性を捨てることができる者が勝者となる」なんていうのは,敗者がもらす泣き言,負け惜しみに過ぎません。

 「無味乾燥なノルマに対して拒否反応を起こす方が人間として自然」なんだから,教材の提示の方法,配列,難易度の設定などに,十分に気を配った指導をするのですよ。

 私の中学校,高校,大学の同窓生は,dolceさん式に言えば,みんな「人間性を捨てることができた者」になってしまいます。

 dolceさん流の認識というのは,一般人から見れば落伍者のひがみ,あるいは部外者のねたみ,そういう風に受け止められるのです。

 最も典型的なのは,dolceさんが「教員の常識は世間の非常識」という言葉に対して,真っ向から否定的な意見を述べられた点にあります。だから非常識だと呼ばれるのが,分からない。

 どういう環境で生きてきたのか,見透かされてしまいます。

 それは,社会,世間からの正当な要望や声を,平気で抹殺していく「あの団体」に代表される態度なのです。

 「あの団体」がdolceさんご本人に見せた態度で,ご自身も気づかれたはずなのですが。

 最大の失言は,「教科の豊かな学習体験を創造していくことを目指す」なんていう言葉です。

 教師は,「教科の豊かな学習体験を子どもにさせる」のが仕事なのです。

 「創造していくことを目指す」のではなく,「実践する」のが仕事なのです。

 「目指している」と言えば許される時代ではないのです。

 「実践し,力をつけさせている」と言える教師が求められているのです。

 そして,それを実現させているのが,学校ではなく,「教育産業」である,という紛れもない「実態」があるのです。

 算数で言えば,学校の教科書と比べ,塾のテキストの内容の豊かさには呆然とするばかり(豊かすぎるという危惧もありますが)。

 そういう実態から目をそらし,あの団体のように,学校や教師をかばえばかばうほど,信頼を失っていくのです。

 こういう人は永遠に目を覚ますことはない,と多くの人は感じていらっしゃるかもしれませんが,目を覚ましてもらわない限り,公教育の質は向上しません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より