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一貫して偏り続けていたdolceさんの教育観・学力観

 学力の話がいつの間にか部活指導の話になってしまっているdolceさんのブログですが,以前のコメントから,首尾一貫している教育観・学力観であることがよくわかりました。ぶれることのない内容です。

 学力の話題を別の方向へとすり替えざるを得ない事情もよくわかります。

 dolceさんの「教育観」は,非常に分かりやすいです。

 簡単に言えば,「特別活動の大切さ」を重視している,というだけのことで,学力の話題からは逸れざるを得ないのが実態のようです。

 小学校の教師や音楽の教師というのは,やはり「学力」とか「進学」という話になると,常に蚊帳の外にいるような気の毒なところがありますので,無理もないことなのですが,あまりにも学校や塾の実態についての考え方が一面的であることが,ご本人の言葉を読んで納得できました。 

 dolceさんは,どうやら,受験にかかわる教科の指導理念をまるで持っていないことも分かります。

 学力向上のための実践そのものをご存じない

 ましてや「総合的な学習の時間」のように「学び方を学ぶ」なんていう指導となるとお手上げでしょう。

******************

現状の入試はほとんどが点数主義で合格させていますから、効率よく合格に結びつくためには、対策も人間教育に時間をかけるのはムダということで、ひたすら点をとるための訓練と化しているわけです。

学校でも、実験をやっているよりドリルをたくさんやった方が点数が向上するので、実験が少なくなっています。
これでは理科が好きになるわけがないです。

だから、どこかの塾の講師のように「やらないからできないのだ」という単純な考えが出てくるのだと思います。
しかし、人間は機械ではないのですから、やる気が起きなかったらやらないのです。
無味乾燥に、ノルマのようにせっせと問題集やると言うのは、誇張して言えば奴隷のようなものだと思います。
むしろ、そのようなノルマに対して拒否反応を起こす方が人間として自然だと思います。

と言うことは、その無味乾燥に耐えて黙々と課題をこなす子どもが、入試を突破するのだとも言えます。
それは、別な角度から見れば「人間性を阻害する教育を行っている」とも言え、人間性を捨てることができる者が勝者となる構図を作っていると言えます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★

人間性を捨てた人間が国のリーダーシップをとることは、国民を不幸にすることになります。

と言うことで

>知識のおくぶかさ、勉強のおもしろさを生徒と共有したいと考え」、
>教科の豊かな学習体験を創造していくことを目指すとともに、「
>討議したり一緒に生活を作り出す体験」(演劇祭や夏合宿など)
>を取り入れていきます。

こういうことこそ、本来の教育であると言えます。

だから、私の現状に対する意見は、現状の教育体制への皮肉を含めたものであるとも言えます。

*************************

 前半部分で,すでに矛盾があることをお気づきでしょうか。

 自分が否定しているはずのことを,ご自身で肯定してしまっている。

 まず,ドリルの学習が効率的であるといっている。

 これは,最も低レベルの学力観で,学校現場では,こういう教師がいるために,ますます学力が低下するのです。

 基礎的・基本的な知識や技能は,「無味乾燥な活動」では身に付かないのです。

 「無味乾燥な活動」で子どもができた気分になったようなことは,すぐに忘れてしまうのですよ。

 これはすでに平成13年度,15年度の教育課程実施状況調査の段階でわかっていることなのです。

 だから,新学習指導要領では,基礎的・基本的な知識や技能を「習得させる」ことが大事だ,と言っているのです。

 習得させるためには,たとえば繰り返し学習することが大事だ,と言われますが,これを単純に「ドリルを繰り返すことだ」なんて言っているうちは,絶対に子どもの学力は向上しません。

 そんなことは,学習塾の講師ですら分かっています。

 だから,「分かる喜び」「気づく楽しさ」「解ける自信」をうまく引き出して,授業をするのです。

 授業実践に工夫がないところに,「点数を簡単にとらせる」ような結果はついてきません

 ★印の,「人間性を捨てることができる者が勝者となる」なんていうのは,敗者がもらす泣き言,負け惜しみに過ぎません。

 「無味乾燥なノルマに対して拒否反応を起こす方が人間として自然」なんだから,教材の提示の方法,配列,難易度の設定などに,十分に気を配った指導をするのですよ。

 私の中学校,高校,大学の同窓生は,dolceさん式に言えば,みんな「人間性を捨てることができた者」になってしまいます。

 dolceさん流の認識というのは,一般人から見れば落伍者のひがみ,あるいは部外者のねたみ,そういう風に受け止められるのです。

 最も典型的なのは,dolceさんが「教員の常識は世間の非常識」という言葉に対して,真っ向から否定的な意見を述べられた点にあります。だから非常識だと呼ばれるのが,分からない。

 どういう環境で生きてきたのか,見透かされてしまいます。

 それは,社会,世間からの正当な要望や声を,平気で抹殺していく「あの団体」に代表される態度なのです。

 「あの団体」がdolceさんご本人に見せた態度で,ご自身も気づかれたはずなのですが。

 最大の失言は,「教科の豊かな学習体験を創造していくことを目指す」なんていう言葉です。

 教師は,「教科の豊かな学習体験を子どもにさせる」のが仕事なのです。

 「創造していくことを目指す」のではなく,「実践する」のが仕事なのです。

 「目指している」と言えば許される時代ではないのです。

 「実践し,力をつけさせている」と言える教師が求められているのです。

 そして,それを実現させているのが,学校ではなく,「教育産業」である,という紛れもない「実態」があるのです。

 算数で言えば,学校の教科書と比べ,塾のテキストの内容の豊かさには呆然とするばかり(豊かすぎるという危惧もありますが)。

 そういう実態から目をそらし,あの団体のように,学校や教師をかばえばかばうほど,信頼を失っていくのです。

 こういう人は永遠に目を覚ますことはない,と多くの人は感じていらっしゃるかもしれませんが,目を覚ましてもらわない限り,公教育の質は向上しません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より