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体面を気にする教師にだけはなるな

 この教師,本当に生徒のことを考えているのだろうか?

 と傍目には見える人が,心から生徒に尊敬されている。

 この教師は,本当に生徒思いだなあ,と見える教師が,生徒からはただバカにされている。

 世の中にはいろんな教師がいます。

 私たち教師にとって,一番やっかいな存在は,子どもではなく同じ教師たちです。

 「あの団体」の教師でも,集会に毎回参加しているような人や卒業式前に騒ぐ人は別として,他はふつうの教師に近い。

 そのふつうの教師でも,多くが囚われているのが「前例主義」であり,今やっていることの意義について何かしら理由をつけて存続させようとする,ここでちょっと飛躍して恐縮ですが,滅亡に向かってひた走る軍の首脳の発想がここにあります。

 論理的には分かっているはずのこと。

>アメリカでは、吹奏楽が正課として取り入れられているということを以前のブログで書きましたが、いつからそれを始めるかというと小学校高学年と聞きました。
>それは、この時期からそろそろ変声期になり声が出しにくくなる、それでその前までは歌(合唱)に力を入れているということだそうです。

 論理的な指導方法ですね。

 では,中学校で合唱に力を入れることは,どうなんでしょう。
 
 しかも,要求された声が出せない合唱をコンクールで競わせるというのは。

 この文を紹介した音楽関係者は,

>子どもは競争が好きです。だから、その競争心を利用して能力を高めるというやり方は教育的にもよい方法です。

 という「感性」の持ち主。塾の教育にも大賛成なのでしょうね。

>競争者間にハンディがありすぎると、競争意欲もなくなるし、強引に行っても得るものはない
>学級数も7~8と競争に適する数があった
>それなりの歌唱力のレベルにあった
>2クラスしかない学校で、コンクールをやっても意味はない

 歌唱力を競わせる,という発想に,何の疑問も抱いていない。

 音楽的感性というのは,人と競うことで高めることができる,と発想する,音楽教育者はいないでしょうね。

 結局,こういう人の感性は,「商業的音楽」=金にかえられる音楽を奏でる人のことが頭の中にあるのです。意図せずとも,そういう「結果」になっていることを自ら告白している。

 音楽を営利目的のものと考えるなら,どうやっても競争は避けれられないでしょうね。
 
 そういう感性の人が,学力を語るとどうなるか。

 学力が低い子どもに,「そんなんじゃいい会社に入れませんよ」「お父さんみたいになっちゃうよ」と脅しをかける人間がいます。同じような頭の構造です。

 お金になるものを身に付けさせようとするのが教師の立ち位置ではないことは,多くの人が納得できるでしょう。

 (ここが,就職を目前にした高校や高専,大学や専門学校となると,ちょっと違うと思いますが)

>中学校で実際に吹奏楽部を指導することになったのですが、コンクールに出なければ生徒たちがかわいそう

 こういう生徒観の教師ではなく,たとえば高齢者福祉施設などで演奏したり,地域の人を招いて演奏会を開くとか,そういう人を相手に聴かせ,心を和ませたりすることの方が,コンクールで賞をとるよりはるかに優れたことであるという教育の信念をもった教師は少数派であることは確かでしょうね。

 目先の「かわいそう」ではなく,「だれのための音楽か」を問える人こそ「感性」を育てる教師でしょう。

 私も,部活動なら目をつむります。

 「放課後の活動」ですからね。被害者もごく一部ですむ。

 そもそも,部活動の実践のことなど,だれも聞いていません。

 授業で何ができるかが問われているのに。

>「コンクールも出れない学校か」と言われたくない

 これこそが,音楽の良さではなく,学校の体面を気にする「感性」の持ち主の典型的な言葉です。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より