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学校内モンスターがいかに教師たちの足を引っ張ってきたか

 想像どおり,大事な指摘はスルーされてしまったようです。

 以下の指摘については,回答をいただけました。

*****************************

 現場感覚の乏しさを疑わせる数々の見解[※2]をお知りになりたい方は,どうぞdolceさんのブログをおたずねください。

 無知ぶりを披露してしまった決定的な箇所は,

>指導要録の記入については、決められた様式に従って記入しただけで、学力を意識して記入した覚えはありません。指導要録が、その人間を表す完全なものとも思っていません。

 というところです。だれも,生徒を表す完全なものをつくれ,とは言っていません。

指導要録というのは,決められた様式によって,「学力を意識して記入」しなければいけないことになっているものです。[※3]

******************************

[※2]思い込みでなく、具体的にお示しください。

 dolceさんはいつもそれを具体的にお示しくださっています。

 新しい記事でも,ペーパーテストといえば,記憶力テストのことだとしか想像できない。

 学力調査の問題を知らないし,適性検査問題も見たこともないだろう,といっているのは,そういうことです。

 学力テストの結果がよい学校が,記憶力テストばかりをやっているかというと,そうではない。

 そういう現場感覚がゼロだから,
 
 塾の人をこきおろすのも,現場の教師からすれば「誤解されるからやめてほしい」と思われてしまうのです。

 ついでに言えば,自作自演のコメントもどうにかしてもらいたい。

次に引用した部分にも具体的に示されています。

[※3]決められた様式に従って記述するということは、文部科学省の指針に従うということです。それは「文部科学省の言う学力」も含んでいるということです。

だから、私は文部科学省のポチになるなと言ったのです。

学力の意味について問題にしているのは、そんなことではないのです。
もともと文部科学省(文部省)はサービス機関として出発し、後、学習指導要領は法的拘束力を持ったものの、それを忠実に守ればよいというものではないのです。
幅や弾力性を持った指針であり、外枠を決めているだけで、中身については曖昧さを含んでいるのです。
曖昧さを含んでいるので、人によってマチマチな解釈や研究が存在するのです。

だから、ひとつの例として学力とは何か~点数ばかり追うなにおいて学力を育てる (岩波新書 新赤版 (978))
を取り上げたのです。

 まず,

>指導要録の記入については、決められた様式に従って記入しただけで、学力を意識して記入した覚えはありません。

 と言っていたのに,

>決められた様式に従って記述するということは、文部科学省の指針に従うということです。それは「文部科学省の言う学力」も含んでいる

 と書いてしまった,ということは,「学力を意識して記入している」ことの告白です。

 そして,次の箇所が現場感覚の乏しさを証明している部分です。

>学習指導要領は法的拘束力を持ったものの、それを忠実に守ればよいというものではないのです。
>幅や弾力性を持った指針であり、外枠を決めているだけで、中身については曖昧さを含んでいる

 弾力性があるからこそ,指導要録には,各教師の豊かな学力観に基づく記述が可能なのに,「学力を意識して記入した覚えはありません」などと告白してしまう。

 こういう教師がいるから,行政は「しばり」をきつくしていくのです。

 幅や弾力性があると,「何もしない」というのが選択肢に入ってくるおそれがある。

 中身が曖昧だと,「何もできない」人もいてOKになってしまう。

 だから,「忠実に守るべき」内容ばかりになってしまっているのが,新しい学習指導要領であり,そのような事態を招いたのが自分たちのような教師だということに「気づこうとする」気が全くない。

 小学校では完全実施になった,中学校では4月から完全実施になる学習指導要領の性質をご存じない。

 これが現場感覚の乏しさの具体的な例です。

 「基礎的・基本的な知識・技能」の定着すらあてにならない学校現場の批判に対して,「幅や弾力性を持った指針であり、外枠を決めているだけで、中身については曖昧さを含んでいるのです。曖昧さを含んでいるので、人によってマチマチな解釈や研究が存在する」などといってその批判に正対しないばかりか,逆に相手を批判してしまう

 こういう教師たちが真面目に努力している教師たちの首をしめているという実態に,なぜ気づけないのでしょうか。

 dolceさんが失職する3年前に出された中学校の「評価規準の作成,評価方法の工夫改善のための参考資料」をぜひお読みになってください。

 学校が何をしなければいけないかがよくわかります。

 「外枠を決めているだけで、中身については曖昧さを含んでいる」学習指導要領を具体的に実施していくために,各学校は涙ぐましい努力をして評価資料をつくっているのです。

 学校として「学力の全体像」に近いものを作成しているんですよ。
 
 そして,その実現状況が思うようにいかないで苦しんでいるのです。

 だれが,苦しみ,だれが平然としていられるか。

 学校の自己評価や外部評価も実施されると,だれが苦しみ,だれが平然としていられるか。

 苦しむべき人が苦しまないで,平然とすべきでない人はいつまでたっても平然としている,これが学校なのです。

 dolceさんのような教師が実際に現場にもいて,平然としているばかりでなく,逆に攻撃の側にまわるのです。

 学校現場は,こういう学校モンスターの面倒もみなければいけないのです。

 これがどれだけ心理的な負担になっているか,モンスター側としてはわかるすべもないでしょう。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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