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学力クレーマーと学力向上クレーマーの違い

 社会人は,一般的に承認されている規則,ルールに従ってふるまうことが求められます。

 世の中というのは,たとえば

 1,2,3,4,5,6,(  )・・・・

 という数字の並びがあって,(  )に何が入るか,と問われたとき,多くの人が「7」と答えることで成立しているようなものです。

 2,4,6,8,10,(  )・・・・

 なら,「12」とか。

 こういうわかりやすさを共有できることが,社会で人間が生きていく根本にある,という考え方があります。

 しかし,中には,「(  )に何がくるかはわからないのが正解だ」と言い張って,

 最初の問題の答えは,1かもしれないし,11かもしれない,それは,1から6の数字の繰り返しの並び(学校現場では,6人のグループをつくるときなどで使います)であったり,下一桁が7,8,9,0の数字は使わない(これはどんなルールかよくわかりませんが)可能性があるからだ,と言うかもしれない。

 こういう人は,社会からは「変人」「奇人」と見られ,疎外される可能性があります。

 しかし,こういうのが,全く新しい発見をして,社会の進歩に貢献してくれる「研究者」の資質かもしれない(進歩であると同時に破滅をもたらすものもあるでしょうが)。

 「研究者」は,少数の人であることが,望ましいでしょうね。ものごとが先に進まなくなります。

 クレーマーという人間を仮に,「研究者」でもないのに,「多くの人たちの承認」が得られていることに背を向けて異議を申し立てる人,とすると,その迷惑さ加減がわかりますね。全体主義・軍国主義の中で,「戦争反対」を訴えるというのは,「例外」です。


 世の中には,すべてを言葉で表現することが難しいものがあります。

 というより,言葉ですべてが表現できる,相手にわからせることができる,と考えるのがおかしい。

 あることを知らない人が,知っている人たちから,自分が知らないものを自分が知らない言葉で説明されても,いつまでたっても「あること」が何か,「わかった」とよべる状態にはなかなかなりません。

 「象」とは何かは,やはりいくつかの種類の象を実際に見ることで,「わかった」と言える状態になる。

 こういう例でさえ,「蝶」と「蛾」の区別はなかなか「わかりにくい」のが正しいかもしれない。

 

 学校の教師も,これでよく失敗します。

 自分がわかっている言葉で,相手がわからないことを説明しようとしますが,その「自分がわかっている言葉」が相手もわかるとは限らないことを忘れてしまうからです。

 たとえば,歴史の授業ではこういう事態が頻繁に起こっています。

 「学力」については,学校教育法や学習指導要領などで具体的に示されているものが何をさすのか,これは教師は何となくわかっても,子どもの方ではなかなか「わかる」状態にならないのが普通でしょう。

 でも,教科書に出ている問題が解ける,解けない,そこに書かれている意味がわかる,わからない,楽器が演奏できる,演奏できない,という「違い」は,だれの目から見てもわかる。

 その「違い」の穴埋めを学校がすべきかどうかは,そもそも「違い」が生まれないはずのものについて「違い」が生じた場合は責任を追及されることがあるかもしれませんが,「違い」の程度が低ければ,「そこまで学校が責任を負うことはない」と考えられてしまうでしょう。だから,評価で「努力を要する」という判定を下すことが学校に許されているのです。

 「学校はこの違いを埋めてくれない」ことが子ども,親の側に承認された場合,あるいは,「学校が想定していないもっとたくさんのことができるようになること」をめざす場合は,塾や習い事の教室に通うようになるわけです。

 塾の側から,「学校ではこんなこともできるようにしてくれないのか」と言われることもあるでしょう。

 塾の側は,「あなたがこれをできるようにならないのはおかしい,もっと努力しなさい」と子どもに言う場合もあるでしょう。しかし,「努力する場」としての「塾」は,家庭や学校より適しているので,結局,通うことになる。

 塾の側は,「これができる,できない,という違いが,希望通りの進学を果たす上でどの程度,問題か,問題でないか,が学校よりもわかっていて,学校よりひとりひとりの要望に応えやすい」という利点もあるのが特徴でしょう。

 塾嫌いの人間が,「入試をなくせ」というのは当然の理屈です。

 そうでなければ,学校が責任を負わなければならなくなるから。

 「入試をなくせ」という主張を,塾と全く切り離したところで展開するのであれば,また別の話になります。

 そういうタイプの人の主張には,「入試をなくせ」ではなく,「入試で問うものをもっと増やせ」という話に変化する可能性も秘めています。
 
 しかし,塾をなくしたい,というのが話の前提である以上は,入試をなくせとか言えなくなってしまうでしょう。

 
 クレーマーと,そうでない人の違い。

 「学力の要素をすべてあげる」ことを第一と考える人。

 「学力の要素のうち,もっと学校でしっかりとつけさせることができるもの,つけさせるべきものとは何かを追究する」ことを第一と考える人。

 世の中に「完全」があると信じ込んでいる人。

 世の中に「完全」なものはない,と認識できる人。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より