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学力向上に後ろ向きの人間をなくすための2012年

 同じような考え方を基礎としながらも,進む道が違ってしまう人がいるのはなぜか。

 それは自分なりの解釈を大切にしようとするかどうかの違いです。


 「正しさ」は自分にしかない,相手は完全に「間違っている」,しかしそういう考え方が受け入れられない,という経験をすると,人間は激しくゆがむものです。

 もともとゆがんでいた人が,そのゆがみを矯正できないところまで到達してしまう負のスパイラルに陥る例を私もたくさん見てきました。


 何かあると,相手は「正しくない」,という主張を全面に掲げる。


 過去には,権力者が言ったことが「正しいこと」であり,それをただ受け入れるのが人々の義務でした。

 現在は,「正しいこと」とは何かを追究し続けることが,私たちにとっての課題です。


 「正しいこと」は,みんなでつくりあげていく,そういう生き方が求められているのです。

 
 こんなご意見が寄せられました。ダメ教師を象徴するようなコメントの全文を紹介いたします。


***********************

「学力とは何か」という質問はないでしょう。
なぜなら、学力という言葉の意味づけがされていないのですから。

学力について質問するのなら「あなたは、学力をどう定義しますか」となるでしょう。

「学力テスト」と名付けたテストが、学力を測っていると思っている人たちがいますが、その人たちは何もわかっていないと言えます。

「学力」の意味が大切なのは、本当に価値ある人間の能力をどう捉えるかということに関わっているからだと思うのです。

よく「ひとりひとり」という言葉が出てきますが、現行の入学試験が本当に、人間の価値を審査しているのかという疑問に対して、ほとんど意味をなしていないからだと思われます。

本当に、ひとりひとりを活かすためには、形式的なテストで人を価値判断するのではなく、その人が持っている価値をうずもれさせることなく評価することを考えねばならないと思います。

************************

>「学力とは何か」という質問はないでしょう。
なぜなら、学力という言葉の意味づけがされていないのですから。

(回答)たった一つの言葉だけで,その人を「採用しない」決定的な要因になるほどの言葉があったのですね。

 「学力という言葉の意味づけはなされていませんから,その質問には答えられません」などと答えたら,そのあとの質問はもう必要ないでしょう。

 まず,この方にとっては,「正解」が決まっている「問い」しか「問い」にならないのですね。

 こういう人が学力を語ると,それは非常にせまいものになる可能性が高いでしょう。

 「学力とは何か」とは,みんなが追究している,教育にとっては大事な「問い」です。

 その「問い」に,あなたは現時点でどのような「見解」をもっているか,そういう趣旨で「問われる」ことはあります。私が実際に問われた問いだから,「あなたの指摘は間違っている」と指摘せざるを得ません。

 学力とは何か,の意味づけがなされていないので,学力をつける教育はできない,という教師がいたら,子どもや保護者はどう思うでしょう。
 
 「問い続けることのできる力」が,現在の「学力観」では重要視されています。

****

>学力について質問するのなら「あなたは、学力をどう定義しますか」となるでしょう。

(回答)もしこの質問をされたら,「私は学力を定義する立場にはありませんが,学校教育法には,生涯にわたり学習する基盤が培われるよう,基礎的な知識及び技能を習得させるとともに,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくみ,主体的に学習に取り組む態度を養うことに特に意を用いなければならないとありますから,教科ごとの基礎的な知識や理解,社会科であれば資料活用の技能,それらを活用して思考・判断し,表現する力,さらには社会的事象に対する関心・意欲・態度を基本的な学力の要素として認識したいと考えています」と答えるのがよいでしょう。

****

>「学力テスト」と名付けたテストが、学力を測っていると思っている人たちがいますが、その人たちは何もわかっていないと言えます。

(回答)そうではありません。まず,ペーパーテストで学力のすべてを測っていると考えている人は一人もいないでしょう。しかし,学習指導要領に示された内容に関する基礎的・基本的な知識や技能の習得状況は容易に測ることができます。資料を活用し,根拠をもって自分の考えを示す力もある程度は測定することができるでしょう。
 「何もわかっていない」と決めつけるのは,「何もわかっていない」と決めつけたいこの人の心のあり方の説明にすぎないのです。  

****

>「学力」の意味が大切なのは、本当に価値ある人間の能力をどう捉えるかということに関わっているからだと思うのです。

(回答)「本当に価値のある人間の能力を捉える」には,「学力」という面だけから人を見てはいけないわけですよね。なぜ「学力」が高いのに,裁判で有罪判決を受けるような結果になるのか。なぜ「正しい」はずの自分が有罪なのか。そういうことを考える能力は,「学力」の範囲を超えているでしょう。

****

>よく「ひとりひとり」という言葉が出てきますが、現行の入学試験が本当に、人間の価値を審査しているのかという疑問に対して、ほとんど意味をなしていないからだと思われます。

(回答)入学試験のうち,学力検査が「人間の価値」全般を審査することを目的としてないことは,だれの目にも明らかでしょう。主にひとりひとりの「基礎的・基本的な知識・技能の習得状況」を確かめるのが学力検査の目的です。

****

>本当に、ひとりひとりを活かすためには、形式的なテストで人を価値判断するのではなく、その人が持っている価値をうずもれさせることなく評価することを考えねばならないと思います。

(回答)そのために,小論文や作文,面接などが入学試験では取り入れられているのです。しかし,それでも「人の価値」はそう簡単には測定できません。「人を選抜する」には,どこかの時点で妥協しなければならないことはつらいことです。
 東京都では,服装や態度が悪い生徒の入試得点を低く操作していたことがありました。これを,決まりを無視した行動と,簡単に批判できないのは,もしかしたら正しい「価値判断」なのではないか,と考える人がいるのがわかっているからです。

****

 おそらくこの質問を寄せた方と,私との間には基本的な見解の相違はありません。

 しかし,「態度」が正反対になっています。

 「小学校卒業段階では,4年生くらいまでの学力は全児童に保証すべきだ」と意見に対して,

 特別な支援を必要とする児童を例に挙げて,こんな子どももいるんだから無理な話だ,

 とつきはなすような教師があなたの学校に一人でもいたら,どうですか。

 こういう0か1かという発想しかない単純な・・・それでも「コンピュータはその原理で動くのだ」と主張するのかもしれませんが・・・人ではなく,

 4年生くらいまでの学力の総体として,学習指導要領に示された内容をどう解釈するか

 という前向きの発言をする人でないと,教育は前進しないでしょう。

 「4年生くらいまでの学力」という言い方は,単純に,教科書に書かれていることが理解でき,活用できるようになっていること,くらいの意味であることは明らかです。

 「自動車の免許を取りたいと思って自動車学校に入学したら、その自動車学校では、入学者を必ず合格させると約束はしていないのと同じ」なんてことを言ってしまうと,「実技の面では合格させるまで学ばせるだろう。なぜ,税金を使っている学校で,それができないんだ」という反論を受けてしまうのは必然でしょうね。


****

 「態度」を変える力が,未来を生き抜くために非常に重要な「力」であることは間違いないでしょう。

 では,反論を,どうぞ。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より