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犬山市は政治や学者のおもちゃになっているのですか?

 やまちゃんさんは,犬山市にお住まいの方でしょうか。
 
 コメントありがとうございました。

 ある日を境に,私のブログで犬山関係の記事へのアクセスが急増しました。

 何か理由があるのでしょうか?

 さて,適当に改行を入れて,ここでご紹介させていただきます。

**************************

 犬山が学テつくれば犬山成績いいのではなんておかしなこと。・・・・1

 ここまでわかるようにしておくというラインは市ごとに変わってはおかしい。・・・・2

 一番の問題は犬山の教育が犬山市民や保護者の声を反映させていないということ。・・・・3

 市民でもない校長 無名な左派教授が授業おかしくし 子供につく力もついていない。・・・・4

 いくら威張りはっても市外で通用しない教育では気の毒なんは子供保護者。・・・・5

 政治家が票集めのためにめちゃくちゃにしたいい例。・・・・6

 ある中学で子供が授業して教師がチョーク握らず教育実習教官のようでつく学力もつかない。・・・・7

 子供は自分の研究の道具でもモルモットでもないはず。・・・・8

 印税を市民に還元してはどうか。・・・・9

 どうせ呼ぶならもっと実績ある有名な教授にしないと。・・・・10

 他の悪口言ったり書いたりしているだけで市民に何もメリットなし。

****************************

1 犬山市に限らず,どこでも独自の学力調査を実施するのはかわまない,というのが私の見解です。

  なぜなら,その問題によって,「どのような学力を調査したいか」が手に取るように分かるからです。

  問題作成を市の教員にやってもらうのなら,なお賛成です。

  問題作成能力は,教員の指導力と密接な関係があります。

  いい問題がつくれる教員は,必ずいい授業をしています。

2 そうですね。だから,市の調査だけでなく,全国調査にも参加することで,効果が倍増するのです。

3 すべての人に納得のいく教育をするのは難しいですが,少なくとも文部科学省の学習指導要領にのっとった教育が実現できているのかどうかをチェックする機能はほしいですね。それができた上で,犬山市の教育の特徴を出すのがいい方策でしょう。基礎・基本を身に付けさせてほしい,という願いが実現されているかどうかのチェック機能は大事だと思われます。

4 そういう方に,自分たちが求めている力が身に付いているかどうかの検証をしてほしいのですが,そういう人が訴えている力は,測定不可能な力であることが多いのです。だから,検証は不可能なのですね。
 批判される材料がない立場ほど安全な場所はありません。

5 気になるのは,今,全国でランキングをつけていますが,そもそも1位の県ですら,点数が高くないことです。こういうことを言っている人はあまりいないでしょうけど。

6 橋下知事が批判されているのと逆の立場でも同じ意味で,批判の対象になり得る,ということですね。

7 実際に教育現場に足を運べば,教師の指導力は手に取るようにわかるはずです。

8 独自の教育実践を行うときには,事前によく説明しておくことが大事ですね。でも,実際には,人がやって成功した,なんて実践を真似して,結局,失敗する授業はよくあります。

 こういう教師には,果実をとってくるのでなく,土を持って帰ってほしい,というアドバイスを送りたいです。文科省にも,こういうことが言える人はいます。

9 小学校教師はひまなので,原稿執筆で小遣い稼ぎをしている人がいますね。こういう人には,「もっともっと自分の教室の子どもを教育して下さい」という声を集めてあげてほしいです。でも,勤務時間でさよならされるのは,公務員ですからやむをえませんね。サービス業の魅力が際立つ例です。

10 有名な教授というのが,なぜ有名なのか。そこが大事なところですね。教育関係の教授で,議論に耐えうる人が,いるのか。テレビの討論番組でも,かならずやり込められる立場にならざるを得ないのがこういう人たちです。

 学力の話をしているのに,心の問題などにすりかえていく,ひどいのになると「家庭の問題」だと言い出す。

 これから,経済の面でも坂道を転がり落ちるように悪化していくようなことになれば,真っ先に槍玉にあがるのは教育でしょう。

 相手が公務員だと,自分自身は安泰なので切実感がない。そこでいらいらするのが市民の立場ですね。

 先日のニュースでは,企業の中には,積極的に留学生をターゲットとした雇用に乗り出そうとしているようです。

 スーパーマーケットも海外進出の時代ですからね。

 日本の大学生が,「余り始めている」。

 日本の子どもの将来,危うしです。

 子どもに批判的な精神をしっかりもってもらうために,まず親や地域がしっかりとした根拠をもって今の学校教育の課題を批判する姿勢を見せるべきでしょう。

 「モンスター」などと呼ばれることを恐れずに。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より