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塾より質が悪い教育現場の改善に向けて

 先日,ある酪農農家を訪問したときに,「中学校でも農業の学習をするのですか」と驚かれた経験があります。

 中学校の社会科では,「先生の雑談に付き合い」,「知識の穴埋めプリントで終わった」という「悪感情」が残っていらっしゃるようでした。

 訪問した農家は全部で5件で,小麦や小豆,バラ,イチゴ,肉牛などの生産農家でした。ここで印象に残っているのは,「これからの農業は,個人が『職人的な』はたらきをするというのでは,ダメだ=コストの面で,外国産に太刀打ちできない」ということでした。

 これは,学校現場の教師にもあてはまります。

 学校現場の教師には,あまりにもひどすぎるという限界を下回らない限りは,その仕事を続けることができてしまう,という「メリット」があります。農家はそうはいかない。

 ただ,農家にもメリットはある。農地があれば,補助金がおりてしまう。補助金がおりると,もう生産しなくてもよい,といっている農家すらある・・・つまり,競争原理がはたらかないと,「何もしない」という選択肢が生まれてきてしまう,ということです。

 dolceさんは,塾の教育の目的を非常にせまいものに限定した上で,そんなことは本来はぐくむべき「学力」とは違う,と主張しています。

 しかし,ここが教育現場にとっては,最大の「弱点」というか,とりかえしのつかない「問題点」になる可能性があることをdolceさんは忘れている。

 つまり,dolceさんが批判している教育を,塾より低いレベルで展開している学校現場がある,ということです。

 社会科でいえば,穴埋めプリントで展開してしまう授業

 「生きる力」を身に付けさせる授業とは全く正反対の授業しかできない教師がいる。

 それは,「受験があるからだ」という。

 つまり,塾と同じで,かつ,成果の乏しい教育活動をして,不足分は塾の仕事にゆだねている。税金は無駄に使われ,さらに家計の支出を必要とする。

 この問題点を無視して,塾の教育に難癖をつけることはできないのです。

 dolceさんは,以下のように述べています。

スポーツなら、強いチームを作るための過程では、勝った負けたではなく、いかに戦ったかが大切なのである。

 図らずも,「強いチームを作る」ことの大切さを主張しています。

 「強いチーム」とは試合に勝つチームのことです。

 つまり,受験に勝ち残るためには,最終的には,最低でも「基本的な知識・技能」の習得が必要なのです。

 そういう力を身に付けるためには,思考力・判断力・表現力の育成を重視した授業をしていかなければならない。そういう授業を展開することによって,「基本的な知識・技能」が確かな学力として定着できる。

 それなのに,つまらない授業をして,基礎も身に付かない。つまり,結果として,「強いチームを作る」ことができないから,塾にたよることになっているのです。

 では,どういう教育が求められているのか。

 私がすべての教師が読むべきだ,と考えているのは,学習指導要領解説の総則編の第5節,「教育課程実施上の配慮事項」です。

 もう4年前に出された資料ですが,これを読まずに教育課程を編成すること,学習指導や生活指導,進路指導を展開することはできません。

 「そんなことはしていません」と批判を聞き流すことができないことが書いてあります。

 学校現場にとって必要なのは,目標とする教育を実現するために,学校にどのような人材を集めるか,ということもあります。

 「それは学校の教師のやることではない」から「学校ではやらない」のではなく,「学校でやるために,だれだれさんの協力が必要だ」と主張するのも教師の仕事なのです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より