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「学び合い」が学力低下の原因のひとつ

 どこかの本で,「学び合い」では子どもたちに力がつかないことが分かるまで,ずいぶんと時間がかかりました,という趣旨の「後悔の念」を読んだことがあります。

 「学び合い」が大切だと考えている教師が「これが学び合いです」とよんでいる場面が,本当は「学び合い」になっていないことに気づくことができないのは,小学校に特に多いですね。

 もっと厳しいことを言えば,「話し合い」をさせているつもりでも,「話し合い」にはなっていない場面をいくらでも見ることができます。

 日本人は,「~し合う」こと,「~し合う」という言葉が非常に好きですね。

 (「攻撃し合う」ことも,ネットでは人気があります。)

 「~し合う」という言葉の響きには,人と人が結びついている,そういう実感がこもっています。

 でも,こういう言葉が危ないのは,そうやって呼んでいるだけで,実際に「~し合う」状態になっていると勘違いしてしまうことです。

 「理解し合いましょう」「分かり合いましょう」・・・簡単に表現しますが,本当に理解し合えているかどうか,検証する場面はありません

 特に小学校では,この傾向が著しい。

 「学び合っているのだからそれでよい」

 という発想になってしまっていく。

 つまり,「学び合い」は学力をつける手段のはずなのに,それ自体が目的になってしまっている。

 大事なのは,あくまでも「一体感」,という,滅亡に向かう組織と同じ状態。

 「理解し合う」ような行動をとれば,「理解し合える」のだ,という根拠のない信仰をもっているのが日本人の特徴です。

 生徒に話し合わせた結果だから,生徒たちは納得しているだろう・・・・そんな単純なものではないことは,中学校や高校の教師ならよく分かる・・・いえ,社会人ならよく分かることでしょう。

 必ず妥協している人,意見が言えずに自分を殺した人,納得できないけど反論できない人は,どんな場所にもいるものです。

 単なる思いつきの言い合いが,「学び合う場面」とよばれていることに対して,大学の専門家はどのような評価を下しているのでしょうか。

 「学び合い」の活動で,本当に「学び合うことができたかどうか」の評価を小学校の教師はきちんとできるのでしょうか。

 中学校以降での「私語」「おしゃべり」は,こうした「学び合い」活動の大きな成果の一つかもしれません。

 小学校では,「おしゃべり」していれば高い評価を得られてきたのですから,当然のことかも。

 「学び合い」が成立するための条件を,まずはきちんと認識できる教師に育ってほしいものです。

 ただの「かけ声」にならないように,責任持って「品質保持」をしてほしいです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より